piercing pain

 兎も角、話をしなければ始まらない。悶々とした時間を無為に過ごしていたところで、考えだってまとまるものもまとまらなくなってしまう。
 だから、話をして、謝ろう。あちらがどう思っているかは分からないけれど、気持ち悪い思いをさせてしまったのには違いないのだから。
 ただ彼は昼を過ぎるまで食堂の営業でてんてこ舞いであり、そんなタイミングで話しかけても邪険に扱われて余計に関係を悪化させかねない。いや、そもそも関係が悪くなっているかどうかも憶測でしかないのだけれど。
 まったくもって、昨晩の自分は何を考え、何を思って、あんな馬鹿げた行動に出たのだろう。
 月が綺麗で、夜空も明るくて、ひとり酒を機嫌よく楽しんでいた時に現れた彼。そのまま立ち去るかと思いきや、呼びかければ好奇心に負けたのか近づいてきた。
 ちょっとした出来心、悪戯心だったのだ。からかえば面白いように反応を大きく返して来て、喜怒哀楽激しくコロコロと入れ替わる表情が楽しくて、ついつい構ってしまった。そして構いすぎた。
 いくら抵抗できぬよう動きを封じていたとはいえ、彼ならば酔っ払いの腕など簡単に振り払えた筈。だから徐々に身体から力が抜けて行き、相反して体温が上昇して心拍数が増加していく様をつぶさに確かめているうちに、自分の中の貪欲な獣が眼を覚ましたのも事実だ。
 もしあそこで突き飛ばされていなければ――と考えると、ぞっとする。と同時に、テーブル、もしくは床に組み敷かれてあられもない姿を月明かりに晒している彼の姿さえも想像できて、だから余計にセイロンは参ってしまう。彼は己の額に掌を押し当てて、既に何十回と繰り返しているため息を吐き出した。
 経験が全く無い、といえば嘘になる。これしきのことで動揺するような精神力は持ち合わせていない、但しそれは相手が女性である場合の話だ。男の経験は――ない。そんな気があるとも思わない。
 思わない、のだけれど……
 ぐるぐると昨晩から同じ場所を駆け回っている思考を一旦切り、セイロンは重い足取りで食堂の入り口に立った。しかしドアを開けようとして前に出した手が、ノブに触れる寸前で躊躇を示す。細かな痙攣を起こした指が真鍮製のそれに触れるか否かの位置を往復するばかりで、閉まったままの扉に映る自分の影ばかりが揺れている。
 ここでも更に溜息。
 だから直接会って話をして、弁解をして、一発くらい殴られて、それで終わりにしようと決めたではないか、何をぐずぐずすることがある。幸いにも彼の性格は非常にさっぱりしていて、過ぎたことには拘らない主義だから、殴られて痛い思いをするのさえ我慢すればきっと大丈夫。
 そう思っているのに、分かっているのに。
 いざ彼を前にして自分がどこまで冷静でいられるか、自信が無い。
「我らしくない」
 威風堂々、自信に満ち溢れていた自分は何処へ行ってしまったのか。情けない、と愚痴を零して彼は伸ばしていた腕を引っ込めた。
 と、開けるのを諦めかけていた扉が彼の力に依存しないで勝手に内側から開かれた、それもいきなり。
「おぉ?」
 驚きに目が丸くなり、反射的に声が出る。同時に後ろへ飛びずさって距離を取っていて、ついつい戦闘体勢を取り身構えそうになったのだけは自分を制して止めた。
 開け放たれたドアに寄り添っていたのは、ピンク色の帽子を被った少女だった。快活そうな目に好奇心の光を宿し、お転婆という表現がぴったりと当てはまる。
「あれー、セイロン」
 セイロンがリシェルの存在を認識するより先に、彼女は遠くまでよく通る声で彼の名前を口に出した。気のせいか、店内で何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
「う、うむ……」
「どこいってたの? アロエリたちが捜してたわよ」
 朝の出来事を振り返り、首を傾がせながら彼女はポーチで佇んでいるセイロンの顔を不躾に見上げて問うた。そういえば仲間には誰一人として声をかけずに外に出たわけで、更に連絡ひとつも入れていなかった。心配させただろうか、一瞬の後悔が胸を過ぎる。
 リシェルは返事をせずに視線を遠くに浮かせたセイロンを不思議そうに見上げ、けれど機嫌を損ねた様子も無くドアを半分だけ閉じると営業中となっている札を裏返した。木製のそれがドアと擦れ合う音が微かに響く。試しに中を覗きこむと、客は残り二、三人といったところか。
「終いか?」
「そ。残念でした」
 いつもより店じまいの時間が早いなと感じたセイロンが率直に聞くと、最初の質問が無視されたことも気づかぬリシェルは彼を迎え入れるべくドアを最大まで開き、自分が先に中へ入って舌を出して笑った。
 彼女はセイロンが、昼食のために戻ってきたのだと早合点したのだろう。けれど彼は既に外で食事を、軽くではあるが済ませてきた。というよりは、町をぶらぶらしていたら偶然ミントに捕まり、彼女の家でお茶をご馳走になっただけなのだが。
 リシェルに続き、セイロンも店内へ足を踏み込ませる。踵が床板を擦って軽快な音を響かせ、たった半日不在にしていただけだというのに妙にこの場が懐かしく思えてならなかった。
「みんな心配してたんだから、ちゃんと謝っておきなさいよー」
 弟がいるからだろうか、年上であるセイロンに対しても人差し指を突きつけて説教臭く忠告してくる彼女に苦笑して、そうだな、と言い返す。
「すまなかった」
「分かれば宜しい」
 彼女もまた、あの少年に似て竹を割ったような清々しい性格をしている。彼らと触れ合うのは新鮮であり、心地よい。
 生まれた時から他人に傅かれる環境にあったから、こんな風に軽妙な口調で語りかけられることも、ふざけ半分の説教をされることもなかった。だから彼らと一緒に居るのは楽しいし、思いがけない反応にも巡り合える。毎日が驚きの連続で、だから彼らとの関係を悪化させるような真似はしたくなかった。
 益々昨晩の軽率さが恨めしい。
「どうも、ご馳走様」
 入り口付近で話し込んでいると、食事を終えた初老の男性が席を立って向かってきた。軽く一礼して目を細めた男性に、リシェルは慌てて道を譲る。会計を済ませるべく財布を取り出そうとしている仕草に彼女は更に慌てて、御代は幾らだったかな、と指折り数えて計算し始めた。
 邪魔をしては悪い。彼女の様子を眺めやり、セイロンは扇子の端で自分の肩を軽く叩き歩き出した。衝立の陰を抜けて、広い食堂へと出る。
 残る客はあとひとりで、それも食事は半分以上片付いている様子。後ろで客に対応しているリシェル以外に人の姿も無く、彼を心配していたという仲間は見当たらない。恐らくは各自部屋に戻るなり、どこかに出掛けるなりしたのだろう。忙しい時間帯と比較すると物悲しいばかりの食堂には、食事をゆったりと楽しむ客が動かす食器の音だけが小さく響いていた。
 セイロンはそれを掻き分け、足踏み鳴らし進んでいく。この様子ならば今話しかけても問題ないだろう、そう判断して彼は食堂の大外を回ってキッチンへ進路を取った。
 開け放たれた南側のテラスからは、太陽の光が燦々と降り注いでいる。鳥の声が何処からとも無く流れてきて、それ以外は概ね静かだ。郊外という立地条件から人々の生活音も遠く、時間がゆっくりと過ぎ去っていく感覚が残る。
 セイロンは腰を曲げ、ひょいっと軽い動作でキッチン内部を覗き見た。
「店主」
 ガタ。
 呼びかけるが返事がない。それどころか、居るはずなのに姿が見えない。
 セイロンの前方には台所と食堂を区切っているカウンターがあり、その右端に僅かな隙間があってそこから出入りできるようになっている。ただ今は普段無い木箱が乱雑に積み上げられ、元から狭い空間が更に手狭になってしまっていた。視界をも遮られ、セイロンは眉間に皺を寄せて唇をへの字に結んだ。
 先ほどの物音も気になる。店に入った時にもそういえば、盛大に物音が響いていなかったか。
「店主、おらんのか」
 再度呼びかけるが、返事は無い。リシェルは何も言っていなかったし、入り口抜けて直ぐのところで台所に立つ人影を見たから、此処に居るのは間違いない筈なのに。
 無視されているのか。そこまで会いたくないというのか、自分に。
 自業自得とはいえ、かなりショックだ。知れず口元を手で覆ったセイロンは浅く唇を噛み、扇子を握り締める。
 後にするか。しかし先に先にと引き伸ばしていたのではいつまで経っても解決しないし、決心だって鈍る。お互い腫れ物に触らないまま記憶が風化していくのを待つにしたって、暫くはよそよそしい態度を取らなければならないだろう。それだけは我慢ならない。
 ならばどうするか。決まっている、強行突破だ。
 セイロンは僅かばかり広げた扇子をパチリと閉じ、帯に挿し入れて休めていた足を一歩前へ出した。続いて反対の足を前へ、木箱が目の前に迫り行く手を阻むのにも躊躇しない。店に入る前の逡巡は何処へ行ったのか、自分でも笑ってしまいそうなくらいに勢いよくセイロンはライの居城であるキッチンになだれ込んだ。
「店主!」
「うわっ」
 勢い勇んだまま大声で彼を呼ぶ。返事は下から飛んできた、いや流石に足元からではないけれど。 
 そのまま前進しようとしていたセイロンは、声の発生源に驚いて急停止した。前方に傾いだ姿勢を正しながら俯くと、斜め前方に蹲っているライの姿があった。むき出しの膝を床に置いて、オーブンの蓋を全開にし、そこに右手を突っ込んでいる。鼻の頭とエプロンが少し黒ずんでいて、膝と一緒に床に沿えて体を支えている左手には筒部分が長い木綿の手袋が嵌められていた。こちらも、かなり黒く染まってしまっている。
「え。なに……?」
 けたたましく入って来たセイロンをライは呆然と見上げた。アメジスト色の瞳は丸く大きく開かれ、ぽかんと開いた口に緊張感は無い。人を締め出していた様子はそこに微塵もなくて、呆気に取られたのはセイロンも同じ。
 ふたりして唖然としたまま、数秒間見つめあう。ライの銀が混じった白の髪もオーブンの汚れで黒く斑に染まっていて、ひょっとすれば本当に、彼は先ほどのセイロンの呼びかけが聞こえなかったのかもしれなかった。
 ライは斜めになっていた体を戻し、冷えたオーブンから右腕を引っ張り出した。その手には金属製のスコップが握られていて、一緒にごっそりと真っ黒い煤が姿を現す。細かな粒子となったそれは光に晒されると同時に空気の微細な動きを捉え、ものの見事に黒い煙となって舞い上がった。
 反射的にセイロンは右手を持ち上げ、袖で口と鼻とを塞ぎ顔を逸らす。ライもまた同じような仕草を作り、ケホっ、と一度咳込んだ。
「ごめっ」
「……いや、構わぬ」
 何に対して謝られたのか、まず間違いなく煤埃を立ててしまったことだろう。
 視線を戻しライの足元に目を向けると、オーブンから掻き出した灰と煤を放り込んだ袋が見える。こうやって掃除をマメにすることで、火力が弱まるのを防いでいるらしい。彼の料理に対する真摯な姿勢が窺えて、セイロンはまだ目の前を舞っている埃を手で払いながら首を振った。
 瞳を細め、ライを見下ろす。けれど彼は視線が絡んだ瞬間パッと顔を逸らし、開いたオーブンの戸に山を成している煤を集めて袋へ移し変える作業を開始した。
「店主」
「なに」
 和みかけた空気が急速に冷えていくのが分かる。素っ気無い返事が全てを物語っていて、セイロンは持ち上げていた右手を力なく落とした。今やライは完全に彼に背を向けていて、取り付く島もない雰囲気を放っている。
 顔を逸らされる直前、セイロンは淡くではあったが確かに自然の微笑みを浮かべていた。ライは一瞬であったけれど顔を赤くして、直後に後ろを向いてしまった。
 その僅かな時間で何が彼の胸に去来したのか、手に取るように分かる。
 分かるからこそ、セイロンはライの反応に傷つくし、矢張り互いに触れぬままで居たほうが良いのではと思ってしまう。
 昨晩のあれは月が見せた幻なのだと思い込めば、今はまだ浅い傷を無理に抉り出す必要もない。瘡蓋はいずれ自然と剥がれ落ち、傷は消える。
 でもそれは、逃げていることに他ならない。
「少し話があるのだが」
「俺にはない」
「我にはある」
「じゃあ、後で」
 にべもない。
 即答で拒否を表明されてしまい、セイロンは次に続ける言葉を見失ってその場に立ち尽くした。ライはそんな彼に一切構うことなく、自分の仕事に没頭している。そうすることでセイロンが割り込んでくるのを防ごうとしているように。
 ザクザクと煤を掬う音だけが場を流れて行き、吹き上がる黒煙に再び咳き込んでセイロンは半歩下がった。が、ここで怯んでいては始まらない。意を決し深く息を吸い込んだ彼は、けれど間抜けな話、意気込み過ぎて吹き上がった灰までも盛大に気管に招き入れてしまった。
 当然の帰結だが、咳き込む。
 しかも吐きそうな勢いで。
「げほっ、かはっ!」
「セイロン、お前何やってんだよ」
 前のめりになって苦しむ彼へ、久方ぶりに振り返ったライが冷ややかな目線を送る。ただ正直なところライ自身も、自分の行動は意地悪すぎただろうかと思っていたところだ。
 失敗したな、と苦笑いを浮かべてスコップを下ろす。内壁にこびり付いている煤も、残りは最奥部のみになった。少しくらい彼に構ってやっても時間的に問題ないだろう、ライは肩を竦めると両手に嵌めた分厚い手袋を交互に引き抜いた。
 セイロンはまだ咳き込んでいる。声は徐々に小さくなっているが、前傾姿勢から膝をついて胸元と喉に手を当てている姿は見るからに痛々しく、辛そうだ。
 ライはエプロンに付着した煤を軽く払い落とし、脱いだ手袋を重ねて傍に積み上げていた木箱の上に置いた。丁度彼の身長ほどまで重ねられた箱には掃除の際に邪魔になる台所の備品が大量に、それでいて乱雑に詰め込まれていてバランスも非常に悪い。先の尖った火掻き棒の先端が蓋の隙間から覗いていて、気づいたライはそれを箱内部へと押し込んだ。
 その間もセイロンの咳は止まらない。そろそろ呼吸困難になるのでは、といい加減心配になってくる。
 が、彼よりも煤煙に近い場所にいたライが咳き込みもせずに平然としている辺りで、彼は何かがおかしいと気づくべきだった。
 ライは不安そうに眉根を寄せて、セイロンに一歩歩み寄る。続けてもう一歩、前へ。
 そうして手を伸ばせば届く距離にまで迫り、蹲っている彼の具合を確かめようと膝を折る。
「セイロン、だいじょ――っ」
 言葉が最後まで告げなかったのは、唐突に下から伸びてきた腕がライの手首を掴んだからだ。衝撃と驚きにライの膝が折れて腰から床に落ちる、追随するようにセイロンの身体が伸び上がり、覆い被さる格好で彼はライの腕を床へと縫いつけた。
 呆然とする他ないライは、自分の顔半分に影を落としている存在を目を丸くして見上げ、やがて忘れていた瞬きを繰り返した後強い調子で睨みつけた。
「この野郎、騙したな!」
「こうでもしなければ、御主は話を聞こうとせんだろう」
 放せ、と封じ込められた腕に力を込めて暴れるものの、上から体重をかけて圧し掛かられてはどうにもならない。体格差は如実に現れていて、ライは悔しそうに唇を噛んで腕の痛みを堪えた。
 身体を揺すれば肘が積み上げた木箱の底にぶつかる。床に薄く積もった埃が舞い上がり、目に入って涙が滲んだ。視界が霞み、判断が鈍る。
「セイロン!」
 膝で彼を蹴り上げる仕草を取るが、先回りした彼の左手が太股に押し当てられてこちらも完全に封じ込められた。今やライは体の左半分が床に崩れ、胸から上だけがどうにか起きている状態だった。
 ズボンの切れ目から露出している肌に直接指が這わされ、柔らかな肉を撫でられる。細い指が食い込む感触にライは咄嗟に息を止め、唾を飲んだ。肩を窄めて首を竦めると、鼻先にセイロンの呼気を感じた。
 近い、近すぎる。
「店主」
「やだ、放せ……」
 話なら聞く。だから、頼むから、離れて欲しい。
 否応なしに昨晩の出来事が体中を駆け巡り、自分が自分でなくなるのが怖くてライは目を閉じて顔を背けた。仕事の忙しさにかまけて忘れたつもりでいたのに、指先ひとつ触れられるだけで簡単に記憶を閉じ込めた箱は内側から蓋が開かれ、極彩色で騒がしく踊りだす。
 埃の所為で浮かんだ涙が一筋頬を伝い、ライは鼻を啜って唇を咬んだ。彼が細かく震えているのを重ねた肌を通して感じ取ったセイロンは、小さく息を呑んでからゆっくりと体を起こし、ライの願い通りに距離を作った。
 腕も足も解放し、彼は片膝立ちになってそこに肘を置く。力なく下向く指先が頼りなく揺れる。零れた涙を拭ってやりたかったが、伸ばしかけた腕は結局途中で止まった。
「すまぬ」
 俯いたライから顔を逸らし、床の木目をなぞってセイロンが呟く。ライは頬の汚れを吸い取って黒く濁った水を指で弾き飛ばし、その指で鼻の下を数回擦った。荒く息を吐いてから座り直し、膝を揃えて両足は左右後方へ投げ出した。
 彼の視線もまた、床の上を泳いでいる。跳ね上がった心臓は徐々にではあるが落ち着きを取り戻そうとしているし、目の前に走った月の景色ももう掻き消えて見えない。吐き出したのは安堵の息だと自分に言い聞かせ、ライは膝に載せた手をぎゅっと握り締めた。
 視界の端にセイロンの赤と黒の服が見える。
「すまなかった」
「いいよ、もう」
 重ねられた謝罪にぶっきらぼうな言葉を返し、ライは調理台の石積みの壁を睨んだ。
「謝られても、その、……困る」
 僅かに赤みを帯びた顔で、時折窺うように前方のセイロンを盗み見てはそわそわと膝の上の手を開いたり、閉じたり。ぽつりと呟いた後は首を折って自分の胸元を見詰め、白い髪からはみ出した耳を真っ赤に染め上げた。
「い、犬にでも舐められたと思うことにする、から」
「犬とは、酷いな」
「じゃあ、猫」
 未来の龍人族の長を捕まえて、犬猫扱いとは。里の者が知れば激昂しかねない表現ではあったが、軽い調子で言い返したセイロンに安心したようで、ライは首筋の赤みを薄めて恐る恐る顔を上げた。
 視線の高さを揃えていたセイロンと目が合う。咄嗟に後ろにさがってしまったものの、今度は顔を逸らさずに見詰め返すことが出来た。彼はあくまでも穏やかに、優しい柔らかな笑みを浮かべていて、ライを極力怖がらせないようにしているのだと想像がついた。
 彼は優しい。だから昨晩感じた獣じみた視線も手の動きもきっと何かの間違いで、彼は心の底から反省しているし、ライに許しを求めているのだと分かる。
「酒は控えろよ?」
「承知している」
「本当に?」
「誓って」
 胸の中に溜まっていた息を全部吐き出し、ライは強張っていた肩の力を抜いた。膝の前に手をつき、上半身を乗り出す形でセイロンとの距離を詰めて話しかければ、彼は至って真剣な顔で逐一深く頷いて返してきた。返事が几帳面すぎて面白くないが、元々根が真面目な彼だから仕方がない。彼らしい、とライはつい表情を崩して笑い出した。
 こうやって声を立てて笑うのも久しぶりの気がした。朝起きた後も散々だったし、仕事中は調理に追われてそれどころでなかった。胸がスッとする、気分が軽くなっていく。
 そんなライを見詰めるセイロンの表情もまた、僅かではあったが目尻を下げて若干嬉しげに緩められていた。立てていた膝の左右を入れ替え、踏みつけていた袖を引っ張り上げる。帯に挟んでいた扇子を抜こうとした指は、迷った末に元の位置に戻された。
「すまなかった。もう、あのようなことはしない」
 彼は低い艶のある声で告げ、頭を垂れる。赤い髪の隙間から伸びる乳白色の角がライの前を過ぎっていく。彼はその様をどことなく不思議な気持ちで見送った。
「いいよ。もう忘れるし。ってか、忘れたから」
 何度も謝られると、居心地が悪い。もとより過ぎたことにはくよくよしない性格のライだから、セイロンがいつまでも気にしているのを見るのも気分が晴れない。
 口で言うほど簡単に忘れられるような出来事ではないかもしれないが、気にしないようにすることなら、出来なくはないだろう。だからお前も、とはにかんだ笑みを浮かべてライはセイロンを見返した。
 それに考え方によっては、あの時彼と遭遇したのが自分でよかったのかもしれない。リシェルや、その他の女性陣が相手だったならもっと大変な騒ぎに発展していただろう。
 ライだってセイロンとこのまま他人行儀な付き合いになるのは嫌だ。ならば元の関係に戻るには、どうすれば良いか。矢張り、忘れるという方向しか道はない。分かった、とセイロンは頷いてライに顔を寄せ声を潜めた。
「すまぬな。あと、図々しいのは承知しているが、出来ればその、……今まで通りに」
「分かってる」
 変に意固地になって接触を拒否するのは、やめにする。御使いとしての立場に彼がある以上、そしてライがコーラルの親代わりである以上、顔を合わせず言葉を交わさずの生活は送れない。お互い余所余所しい態度を取っていれば仲間たちも不審がるし、敵の猛攻を防ぐのに差支えが出てくる。
 だからふたりとも、昨日のことは忘れる。なかったことにする。
 出来ないかもしれないけれど、表面上は少なくとも、そういう事にしてしまおう。無理やりに自分を納得させ、ライは丸めた拳でセイロンを殴る仕草を取った。
「ひとこと謝りたかったのだ。仕事の邪魔をして、すまなかった」
 ライの拳を避けるように背を仰け反らせたセイロンが、姿勢を戻しながら小さな声で呟いた。そしてそのまま立ち上がるべく膝に置いた手に力を込める。
 引き止めたのは、ライだった。反射的に彼の袖を咄嗟に掴み、引っ張る。中腰状態で動きを止めたセイロンが、黒色の袖から続くライの白い腕を順番に見つめていき、最後に顔を真正面から見据えて再び腰を沈めた。どうしたのかと視線で問いかけると、ライ自身も己の行動に戸惑っているようで、赤く染めた頬を左右に揺らして俯いた。
「あ、あの、さ」
 ひとつ聞いておきたいことが、そういえばあったのだ。
「お前ってさ、酒飲むとその、いつもあんなこと……誰かにするのか?」
 あんなこと。
 忘れる、と自ら公言しておきながらライは昨日の出来事を振り返って恥かしそうに視線を脇へ流していった。セイロンも問われている内容を思い浮かべ、僅かに頬に朱を走らせて瞳を浮かせる。天井を彷徨った視線に、指は口元を覆い隠してもごもごと音にならない声を噛み砕いた。
 しない。
 するわけがない。
 した事もなかった。
 あれが最初、そして最後。
 どう言えば良いのだろう、ありのままに説明するにしたって説得力がなさ過ぎる。
「セイロン」
「せぬよ」
 例えば、先ほど玄関で遭遇したリシェル、今はここに居ないけれどリビエルやアロエリにしたって、セイロンの目にはそういった対象者としては映らない。想像で置き換えたこともない。彼女らは戦友であり同胞であり、失い難き仲間だ。それ以外の何かにと望むつもりもなければ、求めるつもりもない。
 それはライだって同じだ、あの時のセイロンは欲望のはけ口として彼を欲したわけではない。
「じゃあ、なんで」
 俺だったんだ、とまでは言えずライは口篭もり、床に置いた手を握り締めた。けれど言いたいことは通じたのだろう、セイロンは複雑な表情を浮かべて答えに迷う。
 あの瞬間、自分の前に居たのがライではなく他の誰かだったとしても、自分は同じ行動を取っただろうか。考えるが、結論はいつだって同じ。答えは否だ。
 月の光を浴びて、闇の中から姿を現した銀髪が眩いばかりの神々しさを放っていた。からかえば面白いほど反応して、突っかかってくる。好奇心を擽られ、その内面を覗いてみたくなる。強いくせに脆い部分も持ち合わせていて、驚くほど純粋で純朴で、負けん気が強くて子供の癖に可愛そうなくらいに大人じみた行動と考え方をする。物事を割り切って捕らえているくせに、最後まで駄々を捏ねて諦めが悪い。
 危ういまでのそのアンバランスさ。
「セイロン?」
 静かに佇むセイロンは、穏やかな目でライを見詰めるばかり。彼が求めた答えを告げようとしない唇に、彼は怪訝気味に眉を持ち上げてセイロンへ近づいた。
 座ったまま、腰を浮かせて前傾姿勢を強くする。膝立ち気味の四つん這いに近い体勢を取った彼の揺れる髪に息を吹きかけ、セイロンは煤で黒ずんでいる彼の頬を指で擽った。
「店主だったから、であろうな」
 あの時自分がどんな風に彼を見ていたのかは、もう思い出せない。けれどなんとなく想像はつく。
 触れてみたかった、こんな風に。彼が自分に染められ、どんな色に変わるのかを知りたいと思った。
 己を切り捨ててでも戦う彼を守りたい。仲間の為に懸命に走り回り、見過ごせないからという単純明快な理由で誰も彼も守ろうとする彼を支えてやりたい。甘える事を知らない彼を抱きしめてやりたい。そして、自分の手を掴んだ彼が自分の手で変わっていく様を見たい。彼を、自分の手で変えてみたい。誰も知らない彼を引きずり出して屈服させたい。艶を含んだ潤んだ瞳に自分だけを映し出し、心までも奪い取ってしまいたい。
 凶悪な獣の感情がセイロンの中で息を吹き返す。けれど彼は自分の意志でそれを押し留め、ねじ伏せた。これは表に出てはならないものだ、特に自覚した以上、彼の前では決して。
 欲望は際限を知らない、だから今此処で壁を作り堰を設け、外に出ないように鎖で幾重にも封印してしまおう。二度としないと彼に誓ったのだから、その約束は守る。大丈夫、貫き通せる。
 ただ、いま少しだけ。
「ライだったからだ」
「え」
 囁きに彼は目を丸くし、人の顔を凝視して停止した。セイロンはそんなライの頬をゆっくりと撫でると、肘を引き戻して手を離した。
 体温が逃げていく、一緒になってライの心の中にあった何かも抜け落ちていく気がした。彼はセイロンの指が遠ざかっていくのを呆然と見送り、浮かせていた腰をストン、と落とした。目の前ではセイロンが膝を立てて起き上がり、煤埃を払って立ち去ろうとしている。
 赤い文様を隠していた煤が、床に沈んでいく。
「まっ――」
 会話の終了は一方的だった。セイロンは最早他に語ることは無いと態度で表明し、踵を返し裾を翻してライに背中を向けた。追い縋るようにライは右手を持ち上げて伸ばしたが、広げた指は虚しく宙を掻いただけ。
 待って、といいかけた言葉は途中で喉に引っかかり、体内へ逆走していった。全身の血液が同じく逆回転を開始して、床に投げ出した足の指が引き攣る。
 どういう意味かちゃんと教えて欲しい。言いたいことだけを言って出て行くだなんて、卑怯だ。
「セイロン」
 名前を呼び、更に追い縋る。けれど座ったままでは追いつけるものも追いつけない。ならばどうする、立ち上がればよいだけのこと。
 ライは咄嗟に右手を広げ床に押し付け、上半身を揺らして身体を捻った。だが場所が悪い、荷物だらけで狭すぎる。彼の肩は不安定に積み上げられた木箱の中腹にぶつかり、直後反対側へ揺らめいた。同じくぶつけられた木箱もぐらぐらとしながら、それでも懸命にバランスを保とうと働いた。
 だが、哀しいかな自らを支える能力がない木箱の群れは外から与えられた横向きの力に耐え切れず、バランスを失い崩壊を開始する。最初にライの頭に降って来たのは煤だらけの手袋で、それによって視界を塞がれた彼は起き上がろうとしていた身体をそのままに、両手を持ち上げて布を追い払おうと首を振った。
 床に放り出していた足に、木箱の蓋が掠める。ガンっ、という音が脇を突き抜け、直後ライは身の毛もよだつ悪寒を感じた。嫌な予感がする、とてつもなく嫌な。
 振り払った布の先、腰を捻って振り返った背後。彼のアメジスト色の瞳の中心を、黒く細い金属製の棒が真っ直ぐに貫いていった。焼けるような痛み、瞬間こみ上げる吐き気。全身が粟立ち、血液が沸騰する。痛い、なんてものじゃない。ただ、ただ熱い。
 箱の中身が次々と崩れていく、物音に驚いたセイロンは足を止め距離が開いていたライを急ぎ振り返った。最後の客の相手をしていたリシェルもまた、台所での騒音に眉根を寄せて何事かとカウンターへ駆け寄る。
 ふたりが聞いたものは。

「うあぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!」

 耳を裂くライの悲鳴だった。

2007/2/10 脱稿