暖衣

 冷たい潮風が頬を撫でて後ろへと流れて行く。以前この匂いをワカメの匂いだ、と言って笑われた記憶が不意に蘇ってきて、自分に苦笑しながら綱吉はオレンジ色のダウンジャケットの襟を立てた。
 それで風が全て防げるわけではないのだが、フードのボアが首周りを包み込み、少しは暖かい。柔らかな毛足が肌を擽って、今度こそ本当に笑いながら持ち上げた踵で柔らかな砂を叩いた。
「ったく」
 その横を面倒くさそうにしながら、シャマルが行過ぎる。ダークグレーのロングコートは踝近くまでをすっぽりと覆い隠しており、歩くたびに靴の裏に付着して跳ね上がる粒子の細かい砂が、そのコートの裾を汚すのを彼はしきりに気にしていた。
 だったら綱吉につきあって砂地を行かず、距離を置いてアスファルトで舗装されている道路まであがればいいのに、と思う。けれど敢えてことばにしようとせず、綱吉はひょいっと軽い動きで自分の身体を前方へ運んだ。
 冬の海から流れてくる風は、冷たい。繰り返し押し寄せる漣の音は地の底から迫ってくる何かを連想させるが、それも決して背筋が震えるような気味悪いものではなく、むしろ魂に肉薄する密度の濃いものを感じさせてくれた。吹き荒ぶ風に髪を煽られ、綱吉は肩を竦めながらジャケットのポケットへと両手を突っ込む。いつの間にか追い越していったシャマルの寒そうに丸められた背中が、右斜め前にあった。
 彼もまた、厚みのあるコートのポケットに手首から先を押し込んでいる。首に巻きつけたこげ茶色のマフラーの先端が小刻みに揺れていて、少し可愛そうなことをしてしまっただろうかと、今日この時間、この場所を訪れる提案をした綱吉は少しだけ後悔した。
 冬生まれの彼だからといって、この季節でも気温が二十度を超すような日もあるイタリアの南部に育った彼が、寒さに強いとは限らないのだ。
 昨日、放課後の暇潰し、保健室で過ごした後の、帰る直前。明日暇だったら何処か行かないかという誘いに、綱吉は咄嗟に海に行きたいと答えた。
 案の定そんな返答は予想していなかったシャマルは、変な顔をして「この季節に、海かよ」と言った。だからついつい、綱吉はムキになって絶対に海に行く、と言い張ってしまったのだ。
 後から冷静に考えてみれば、候補地は他にいくらでもあった。観たいと思ったまま公開終了が迫りつつある映画もあるし、遊園地では新しいアトラクションが解禁になったばかりだそうで、そちらにも興味があったのに。
 しかも昨日の別れ際の口論が尾を引いているのか、シャマルは無口でかつ無愛想。彼の機嫌が悪いまま、ふたりはそれでもバスに乗って並盛町から大分離れた場所にある、夏場は海水浴客で賑わっているだろう海岸までやってきた。
 とはいえ、今は真冬。こんな気温の低い時期に好んで海に入りたがる人などいるはずもなく、東西に長い海岸線は寂れて物悲しい雰囲気に包まれていた。海に面した幹線道路も交通量は少なく、民宿の軒下は閑散として、色褪せた張り紙が身包み剥がされそうになりながらガラス戸にしがみついていた。
 綱吉が右足を大きく前方へと蹴りだす。爪先を掠めた砂が塊となって散り、濡れた波打ち際へ沈んだ。シャマルとの距離は徐々に広がるが、彼はちっとも綱吉を振り返って確かめようとしない。丸めた背中が哀愁を帯びていて、つまらないの、と唇を尖らせた綱吉は靴の先端に落ちた砂を振り払い、その場で完全に足を止めた。
 多分バス停ひとつ分くらいは余裕で歩いてきたと思う。振り返った先にはふたり分、子供と大人の足跡が延々と続いている。それらはやがて海から押し寄せる白い波に飲まれて消えていくのだろう、実際既に波に洗われて凹凸が殆ど分からなくなっている部分もあった。
 シャマルは水しぶきを浴びるのも嫌がったから、綱吉の右側を、波の痕を避ける格好で歩を進めていた。此処に至るまで会話らしい会話も殆どなく、黙々と歩くだけの時間に果たしてどれくらいの意味があったのだろう。綱吉は小さくなりつつある彼の背中を眺め、白く濁った息を吐き出した。
 振り返れ、立ち止まれ。じっと背中を睨みながら念じるけれど、叶うはずもない。声に出していないのだから届くわけがないのは分かっている。だけど気づいて欲しくて、綱吉は泣きそうなまで表情を歪めて唇を噛みしめた。
 繰り返される波の音が、頭の中で幾重にも重なり合って反響している。ザザザ、という地響きのような呻きが脳内を埋め尽くし、それ以外の音がこの世には存在しない錯覚に陥りかけて、綱吉は首を振った。シャマルはそのまま歩き続けている、この距離感が今の自分たちの関係を象徴しているようで、見ていたくなくて目を閉じた。
 波の音が益々近くなる。足元に届くか否かという波が少しずつうねりを持って陸に圧し掛かって、足首を掴み、綱吉を海中へ引きずり込もうとする。そんな幻が脳裏に過ぎって、彼は反射的に飛び上がって波打ち際から逃げた。もしかしたら小さく悲鳴もあげていたかもしれない。
 実際にはそんなわけなくて、綱吉の左側では変化の乏しい波が戻り、押し寄せてはまた引いていくばかり。波の音だって、耳元で大きく響いたのは空耳であり、ただ一瞬の旋風が足元を揺らして通り過ぎていっただけ。身を竦ませて肩を縮めこませていた綱吉は、緊張で凍りついた身体を意識して胸の前に両手を掲げ、自分を慰める吐息を零しながら指先を交互に揉んだ。
 骨の髄まで冷え切ってしまっている指は悴み、血の気を失ってなかなか上手に曲がらない。息を吹きかけて少しずつ解してやりながら、綱吉はふと、手元から視線を持ち上げて前方遠くを見た。
 いない。
「え」
 瞬きをし、見間違いだろうかと改めて前を凝視する。だが遠くでは岩山に張り付いた緑がこんもりと茂るばかりで、灰色と茶色に埋め尽くされた砂浜には綱吉の影以外人の姿は何処にもなかった。
 防波堤の上を路線バスが走り抜けていく。唸るエンジンは余韻を残して大気に融け、ふたり分だった足跡は繰り返し押し寄せる波が掻き消してしまう。
 冬の海辺に、綱吉がひとり。
「シャ……」
 いったい、あの背中は何処へ行ってしまったのだろう。反射的に名前を呼びそうになって、綱吉はけれど言えぬまま息を詰まらせ、唾と一緒に喉の奥へ押し込んだ。呼吸が浅く、短くなっていくのが分かる。動悸が強まり、落ち着かない脚が交互に地面を叩く。爪先が波に触れて水が跳ねた、そんな些細な音にさえ肩が震えた。
 左、は海。右は背高のコンクリートの防波堤、その向こうに幹線道路。海抜の高い位置に設けられているその道路へ行くには、防波堤の切れ目にある石段を登る以外に道は無い。その付近にも人の姿は見当たらなく、コンクリートの向こう側がどうなっているのかは、車の天井近くしか見えないこの位置からだとさっぱり分からない。
「シャマル」
 吐く息は白い。視界が一瞬だけ翳り、波に乗った風に巻き込まれて掻き消える。ぶわっと襟足を掬う風に身体が震え、綱吉は自分を両腕で抱き締めた。ダウンジャケットの柔らかさが指を伝うが、それは決して暖かくないのだ。
 カチリと奥歯が鳴り、こみあげてきた涙に綱吉は鼻を啜って堪える。見回す視界は三百六十度を数えたが、冬の海辺は綱吉にどこまでも冷たかった。
 自分が見失っただけなのか、それとも置いていかれてしまったのか。他に気を取られていたのが悪いのか、立ち止まっている自分に気づかずに歩み続けていたあの男が悪いのか。
 些細な口論が今にまで引きずっている自分が惨めで、何故もっと優しく言えなかったのだろうかと後悔が胸の中で嵐を呼ぶ。もっと他にあるだろう、と詰め寄った彼の態度が少し気に入らなくて、強気になってどうしても海がいいと言い張り、一方的に時間と場所を指定して逃げるように帰ってしまった昨日。
 それでも彼は今日の朝、約束をした場所に約束をした時間に立っていて、綱吉を見つけてここだ、と片手を挙げてくれた。会話は少なかったけれど、肩を並べてバスに揺られる時間は、嬉しかった。
 自分ばかりが空回りしている。振り回しているようで、実際は自分が彼の周囲をぐるぐると、それこそ御伽噺の虎のように走り回っているだけに過ぎない。滑稽だ。
「うー……」
 低く唸り声を搾り出したところで、どうにもならない。折角誘ってもらったのに、全部自分が台無しにしてしまった。海に行きたいだなんて、どうして最初に思ったのだろう。もっと他に行き先はあったのに、どうして。
 バスの中でも、同じ事を彼に聞かれた。
『イタリアが見えるかな、って』
 見えるはずがないのは重々承知の上で、そう返した。シャマルは呆れていたが、綱吉本人は割と本気だった。
 海の向こうには、イタリアがある。地球儀を半周させなければ見えないような位置にある国の、南の端にある島はこの季節でも日本の春並みに暖かいどころか、蒸し暑いという話を昨日、彼から聞いた。だから、だから。
 シャマルが生まれた島が見えたらいいな、と何気なく思った。本当に、ただそれだけの理由。
 昨日が彼の誕生日だって事だって、昨日初めて知った。お祝いを言おうにもタイミングが見付からなくて、結局言えなかった。昨日の今日だったから、プレゼントだって何も準備してきていない。
 これじゃあ彼に呆れられても、仕方が無い。
「あー、もう!」
「……なにやってんだ、お前」
 悔し紛れに地団太を踏み、両手を振り回して叫び声をあげる。殆ど真横から声が飛んで来たのはその瞬間で、綱吉は心臓が飛び出しそうなくらいに驚いた。きゃぁ、なんていう可愛い悲鳴まで口から突き出る。飛び上がって片足で着地して、バランスが崩れて右の膝が笑った。両手を広げて踏ん張ろうとするけれど、足場が砂で柔らかすぎて、結局数秒経たず綱吉はその場で尻餅をついてしまう。
 迷彩柄のカーゴパンツ越しに、海水を吸い込んだ砂の冷たさが伝わって来た。ひょっとしたら下着にまでしみこんできたかもしれない。泣きそうな顔をして斜め上を見やった綱吉の先では、シャマルが呆れ気味に片手を揺らして立っていた。
 器用に三本の指で二本の缶を持っている。片方はココア、片方はコーヒー。
「シャマル」
「立てるか?」
 空いている手を差し出され、綱吉は躊躇の末指を絡ませて掴む。ぎゅっと痛いくらいに握り返され、そのまま肩が抜けそうな勢いで引き上げられた。ズボンから砂がバラバラに落ちていく。けれど布地にしみこんで残った水分は布ごと肌に張り付いて、かなり冷たい、気持ち悪い。
 情けなすぎて涙が出そうだ。
 シャマルの手が綱吉のズボンを軽く叩き、残っている砂を落としていく。その間綱吉は終始俯いたままで、時折鼻を啜り上げる音を小さく零すのみ。やがて一通り作業を完了させたシャマルは姿勢を戻すと、下を向いている綱吉の両頬にいきなり二本の缶を別々に押し当てた。
 冷え切っていた肌に直接触れた缶は、シャマルが思っていた以上に綱吉には熱く感じられた。身構える猶予もなかった綱吉はここでもう一度悲鳴をあげ、後ろへと飛びずさった。そしてまた倒れそうになり、寸前でシャマルの腕に捕らえられて抱きすくめられる。背中に缶の底がぶつかって、額には分厚いコートのフェルト地が擦れた。
 首筋がシャマルの吐く息に撫でられる。背筋が粟立って、冷え切っていた綱吉の身体が一気に熱を持った。掴まれたままでいる手も痛い、指を絡めたまま体の間に挟まれているので、手首が変な方向に捻られてしまっている所為だ。
 両足で地面を踏み締める。もう平気だと綱吉は思うのに彼はなかなか放してくれず、背中に回された腕もそのままなので顔もあげられなかった。身を捩ると前髪ごと額がコートの毛羽立ちに擦られ、ちくちくとした痛みが敏感な肌を容赦なく刺す。
「シャっ……」
 放して、といおうとしたのにことばが出ない。想いとは裏腹に暖かさに飢えていた身体はより密に彼と接し合おうとして、無理な体勢から指に力を込めて彼の皮膚に爪を立てた。彼は若干痛そうな息を漏らし、やがてゆるりと首を持ち上げてから見上げた綱吉の瞼に小さくキスを落とした。
 目尻を舌で舐められる。泣いていたつもりはないのに涙が浮かんでいたらしく、しょっぱいな、と呟く彼の声に顔が赤くなった。
「悪かったな」
 何に対しての侘びなのだろう、彼はいきなりそう言って綱吉を放した。解放された指先から体温が逃げていって、追い縋ってコートの袖口を掴むと右の頬へ缶が触れた。今度はやや慎重に、綱吉が驚かないようにそっと熱をそこへ与えられる。だから綱吉は仕方なく、言いかけた言葉を飲み込むと両掌をそろえて上に向けて缶を受け取った。
 ココア。コーヒーの方は、探すと、さっき綱吉が倒れそうになった時咄嗟に手放していたらしく、プルトップ側を下にして砂地に頭を突っ込ませていた。
「あちゃー」
 参ったな、と愚痴を零してシャマルがそれを引き抜く。汚れは払えば飲めなくないだろうが、なんだか心理的にあまり飲みたい気持ちになれず、困った風に肩を竦ませる彼がおかしくて綱吉はつい笑ってしまった。
 両手で缶を抱き締める。悴んだ指から熱が流れ込んで、胸がスッと軽くなる。
 プルトップと缶の隙間に潜り込んだ細かな砂はどうしても払い落とせなくて、舌打ちしたシャマルが弱りきった表情で髪を掻きあげた。まだひとくちも飲んでいないのに捨てるのも勿体無い。が、砂混じりのコーヒーなど出来れば飲みたくは無い。どうしたものか、表情が彼の考えている内容を如実に証明していて、彼の心を読み取りながら綱吉は自分のココアの栓を開けた。
 小気味の良い音が波打ち際を駆け抜ける。
「ボンゴレ?」
「やだ」
 垂れ下がり気味の目で見られ、即座に綱吉は拒否の台詞を口にしてココアを飲み込んだ。喉を焼く寸前の熱が食道を勢い良く下っていく。空っぽに近い胃袋に満たされた液体は冷え切った綱吉の体を内側からも温め、一気に半分ほどを飲み干した彼はほう、と安堵の息を漏らした。
 表情は幸せそのもので、眺め下ろしているシャマルにしてみれば悔しい、というほかない。
「俺の金だぞ、畜生」
「貰ったんだから、俺のだもん」
 子供の喧嘩以下のやり取りをして、ふたりして顔を突き合わせて笑う。それから仕方が無いな、と綱吉は半分以下になったココアをひとくち口に含み、残りをシャマルへ差し出してやった。だが彼は、綱吉のその手を上から重ねて下ろさせた。
「?」
「こっち、貰うわ」
 首を捻った綱吉の鼻先で囁いて、彼はそのまま綱吉の前に濃い影を落とした。触れ合った唇から遠慮もせずに舌を割り込ませ、綱吉が反応しきれていないのをいいことに、歯列をも割って口付けを深める。
 人肌にまで温度を下げたココアが水溜りを作っている綱吉の舌に、伸びてきたシャマルのそれが触れた。ざらりとした感触が口の中に広がって、嫌がって避けようとした綱吉をしつこく追い回し、最終的に行き場を失った彼を難なく捕らえる。根元まで吸い上げ、口腔内に残っていた水分をこれでもかと奪い取る。
 顔全部が吸い込まれるのではないかという恐怖に綱吉は肩を強張らせ、硬く目を閉じシャマルの腕を掴んだ。自然と爪先立ちになっていて彼に寄り掛かりながら、握っているココアの缶を零してはならないという意識が働くものの、身体全部から力が抜けていってそれもままならない。
「んん、んーーーー! ……んぅっ」
 吐き出す息さえも吸われ、呼吸が苦しい。心臓の拍動が徐々に速まり、破れそうな勢いで血液が全身を駆け巡る。濡れた音が頭の中にいやらしく響き渡り、頭の中に残っていた冷静な部分がどんどんかき回されて乱れていく。
「ふっ……ん、はぁ、……っ」
 貪るように口腔を荒らされ、外れた唇から漏れる呼吸音は、まさしく息も絶え絶えといった様子。自然と浮かんだ涙がこぼれて頬を濡らし、顎を掴んでいたシャマルの指がそれをぬぐい取る。溢れた唾液が唇の周囲を汚し、薄められた茶色い液体もまた、シャマルの舌が無遠慮に舐め取っていった。
 最後にちゅ、と音を響かせる、触れあうだけのキスを。同時に綱吉の身体を支えていた腕も解かれ、肩を大きく上下させている綱吉は膝に手を置いて、辛うじて倒れそうになるのを堪えた。
「ごっそさん」
「シャマル!」
 のんびりと告げられた食後の言葉に、顔を赤くさせた綱吉が凄い勢いで顔を上げて怒鳴った。耳の先まで寒さからではない赤色に染めて。が、名前を呼んだもののその次が続かず、彼はぱくぱくと金魚の如く口を開閉させた。
 海から押し寄せた波が彼の踵を濡らす。風が下から綱吉をすくい上げ、濡れたままのズボンを擽って彼は幾度目か知れない悲鳴をあげた。飛び上がってぶつかった先は、壁のようにそびえ立つ男の胸。
「どこかで乾かさないと駄目かもな」
「どこかで、って……」
「なんならホテルでもいくか?」
「ばっ……!」
 この辺りなら安いモーテルもあるだろう、と事も無げに言い放った男に絶句し、綱吉は慌てて首を横へ振り回した。
 シャマルは勢いよく拒否を表明する綱吉を見下ろし、声を立てて楽しげに笑う。気を悪くしたり、ショックを受けたりした様子は無いから、最初から冗談のつもりで言ったのだろう。頭を振りすぎて目を回している綱吉の頭をぽんと軽く撫で、冬の海へ視線を流す。
「シャマル……?」
「イタリアなんて、そのうち好きなだけ連れていってやるよ」
 そこに綱吉の意志がどう絡むかは、まだ未知数だけれど。
 ゆっくりと綱吉の、潮風に煽られて癖がついてしまっている髪を梳いていく。涙の跡を指の背でなぞり、口元に残っていた汚れも拭い取って、柔らかな唇を軽く押し、彼は離れた。
 瞳を動かして見える範囲でだけシャマルの指を追いかけていた綱吉は、最終的にシャマルを黙って見上げ茶色い瞳を僅かに細める。彼はきっと、綱吉が冬の海を求めた理由に言及しているのだろう。少しだけ、綱吉の思いとは違った意味で解釈して。
「ううん、えっとね。あんまり巧く言えないんだけど」
 次第に冷たくなっていくココアを抱き、綱吉は言葉を選んでシャマルと同じ方向を向いた。細められた瞳に映る空は灰色で、重そうな雲が急ぎ足で頭上を通り過ぎていった。雨が降るのだろうか、もしかしたら雪か。
「俺は、えっと……」
 シャマルが育った場所、過ごした場所、自分が知らない彼を知っている場所が正直羨ましくて。
 彼は滅多に自分の事を語らない。その職業から情報を他者に与えるのは不利益を産む故だと、頭では理解出来ているつもりだ。けれど自分の生まれた日を明かし、育った島と日本との環境の違いを懐かしそうに言葉に乗せた彼を見て、我慢が出来なかった。
 もっと教えて欲しい。教えて貰えないのなら、知りたい。調べたい。彼を育てた国を見たい。
 イタリアに行きたいわけじゃない、シャマルがいた場所を見たいだけなのだ。
「でも、思ったんだ、俺、やっぱり」
 シャマルの過去を遠巻きに眺めても、その隣には自分がいない。当たり前だ、出会ってもないのだから。でもそれは寂しい、自分を知らない彼を知っても、ちっとも嬉しくない。
 だから。
「シャマルと一緒なら、地獄の底でも平気」
 それはちょっと話が飛躍しすぎで、例としても極端ではないか、と聞いていたシャマルの呆然とした顔が物語っている。自分でも言ったあと、言い過ぎたと恥ずかしくなって、綱吉は何も言い返してこない彼の腹へ握った拳を叩きつけた。
「てめ……っ」
「あははは」
 照れ隠しのパンチは思った以上に綺麗に決まって、瞬間息を詰まらせたシャマルが眉を持ち上げて怒鳴った。仕返しすべく捕まえようと追いかけてきたので綱吉は当然の如く逃げて、暫くふたり、海岸線で鬼ごっこ。
 シャマルが綱吉の腕へ手を伸ばし、身体を捻って綱吉が蹴りを繰り出し彼を払う。咄嗟に後ろへ避けたシャマルから綱吉がまた距離を作って、軽快な笑い声を響かせて砂を弾いて走る。足を止めたのは吹き飛ばされそうな突風が砂を巻き込んで正面からぶつかって来たからで、体温も一緒に浚われて綱吉は腕で顔を庇い呼吸を止めた。
 すかさず両腕を広げたシャマルが背後から綱吉の小さな身体を抱きしめて、彼から行動の自由を奪う。風が行き過ぎ、綱吉が顔を上げると真上からのぞき込んできたシャマルと逆向きに目が合って、額にキスが落ちてきた。
「腹減ったな」
「だね、走ったし」
 ふたり揃って乱れた呼吸を整えながら呟く。時計を確認していないが、昼時はもうとっくに過ぎていて、お互い空腹感も絶頂に近い。
 ただ見回す限り海岸線に店らしい店はなく、おそらくはバスを乗り継いで町の中心部まで戻らなければゆっくりと座って食事も難しい。戻るか、という控えめな問いかけを耳朶に受け、綱吉は二つ返事で頷いた。
 バス停は防波堤の石段を登ったすぐ先にあって、古びたベンチとゴミ箱が申し訳程度に並べられている。さび付いた時刻表の霞んだ数字を読み取って、顔を上げたシャマルは蛇行を繰り返し先が見えない道路へ眉根を寄せた。袖を捲り、腕時計の文字盤を素早く読み取ってから肌を刺す冷気に身を震わせる。
 横から現在時刻を覗き見た綱吉も、赤みを強めている指を揉みながら同じ方向を見た。痒いというか、痛い指先に繰り返し息を吹きかけるものの、止まない潮風は容赦なくふたりを打ち、毛先を巻き上げる。
 予定ではもうじき、あと五分少々だろうか、バスがくる筈。行きもそうだったが、乗客は少ないのだろう。それで路線の運営が成り立つのか甚だ不安になる利用者数だが、これが無くなってしまうと日々の生活も立ちゆかなくなる人だっている。世の中の仕組みは難しいと、濁った色の空と海の境界線を見やった綱吉は一際強い風に首を亀の如く窄めさせた。
 見ていたシャマルが、自分の首に巻き付いているマフラーを探る。だが一瞬考えて首を振った彼は、その代わりにと大きめの貝ボタンで塞がれていたコートの前を広げた。
「ほれ」
 比較的薄着に加え、転んだ時に少し濡れてしまった綱吉は見るからに寒そうで、マフラー程度では海風から身を守れない。だからシャマルが選んだのは。
「……なんか、不審者みたい」
「なんだとー」
「冗談だってば」
 コートの前身頃を左右に大きく広げ、下に着込んでいた紺のスーツを白日に晒したシャマルに向け、綱吉が恐ろしく冷淡な声で率直な感想を述べた。途端彼は眉尻を持ち上げて綱吉を睨み、抓んでいたコートも手放してしまう。
 スーツとコートの間にあった暖かな空気は一瞬で逃げてしまった。くしゃみをひとつ零したシャマルが拗ねた顔でそっぽを向くのを眺め、綱吉は肩を竦めて謝る。ごめん、と顔を見て告げてから一歩前に出て彼との距離を詰めた。
 くい、と捕まえた襟を引っ張ると、背中を曲げたシャマルが産毛を逆立てている綱吉の頬に触れるだけのキスを。更に綱吉が摺り足で近づき、胸に胸がぶつかる直前、綱吉はくるりと踵を軸にして身体を反転させた。
 背中をもたれかからせると、両側から柔らかな毛並みのコートが綱吉を包み込む。大きめのサイズだからなのか、それとも綱吉が小さいからなのか、流石にボタンをはめるのは難しかったが綱吉の身体はすっぽりと、シャマルのコートの内側に収まってしまった。
 背中越しに人の体温と心音を感じる。コートが外れないようにシャマルは両腕をしっかりと綱吉に巻き付け、結んだ。布一枚ではあるが極寒の風を遮るには十分で、綱吉は安堵の息を零した。首を傾けると、開いたスペースにシャマルの頭が落ちてくる。
「暖かい」
「高かったからな」
 値段の話じゃないのに。どこかずれて綱吉の言葉を解釈するシャマルがおかしくて、綱吉は肩を揺らして笑った。
 もうじきバスがくる。冬の海から冬の町へ、彼らを誘う。
 誰も居ない場所から、沢山の知らない人が溢れかえる場所へ。
「ね、シャマル」
 バス停に背を向けているから、綱吉には道路の様子が分からない。シャマルもそうだろう、彼らは海を見ている。
 コートの下から綱吉は手を差し出す。自分を抱きしめている男の腕にそっと触れ、握りしめた。
「なんだ?」
 バスがくる。地鳴りが靴の裏を通して伝わり、汽笛にも似たエンジン音がゆっくりとふたりへ迫りつつあった。
 これに乗れば町へ帰れる。暖かな場所で、暖かな食事も好きなだけ楽しめるだろう。
 だけど。
「…………」
 自分の我が儘で彼を振り回すのは気が引けて、綱吉は視線を泳がせて言葉を噛んだ。握りしめたシャマルの腕に力を込めて、念じた想いが通じれば良いな、と先程失敗したのも忘れて考える。
 バス停に佇むふたりを見つけ、バスの運転手はゆっくりと減速する。シャマルも気づいているだろうに、綱吉の様子を訝しんで彼は動かない。運転手もきっと同じ気持ちだろう、乗るのか乗らないのか判断がつかない彼らを注意深く観察している。
「次のにするか」
 背後でバスのエンジンが大きく唸り、掻き消されそうな声でシャマルが呟く。綱吉は目を見張り、指先に籠もった力と熱に顔を赤くして俯いた。
 バスが行き過ぎていく。接近しても振り返らなかった彼らを無視し、運転手は一旦停止もせずに予定のコースをなぞる為先を急いだ。排気ガスが潮風に流されて薄められ、消える。頬を撫でる風は相変わらず冷たい。
 けれどぽっと胸の中に灯った小さな炎は煌々と綱吉を照らした。
「シャマル」
「ん?」
「……あったかい」
 綱吉の手がシャマルの指に触れる。冷えた皮膚が僅かに泡立ち、どちらかともなく指を絡め合う。
「そうか」
 呟き赤い頬を寄せると、剃り残した髭が擦れたのか綱吉はけらけらと笑った。

2007/1/20 脱稿