stay together

 長年やっている宿に急に客、もとい居候が増えたから、だろうか。ひとりで過ごすには広すぎて寂しい空間が今では人の気配が絶えず、振り向けばそこに誰かがいるような状況は嬉しいようで、少し慣れない。
 食堂の経営も以前と比べれば格段に波に乗っていて、人との接触が増えたのが好機になったらしくレシピも次々に思い浮かんで内容が充実していく。反面、コーラルを狙う連中も日増しに勢力を拡大し、切っ先を鋭くして挑んできている。
 背水の陣なのはお互い様だし、同情を誘うような真似をされてもコーラルは渡せないし、渡さない。その決意は揺るがない。
 けれど正面切って敵と向き合い、やりあうのは体力だけではなく精神力も大幅に消耗させられる。誰だって好んで剣を構えて相手を傷つけたいだなんて思っていない。あちら側にもあちら側の正義があるのだと分かるからこそ、なお自分たちは自分たちの道を譲れないのだ。
 賑わいを見せる宿は、気づけばひとりで落ち着ける場所ではなくなった。血生臭い会話が増え、余裕が無くなっていく仲間を見るのは辛い。味方だと信じた相手に裏切られたり、敵が戦う理由を知ったりするにつれて、本当に正しいものが分からなくなって気持ちが乱れてしまう。
 どうすればいいかなんて、分かるわけが無い。世の中の道理には、絶対と呼べるものはなにひとつとして存在しない。ただ自分たちが考え、自分たちが最善だと信じる道を、これが最良なのだと信じて進むほかないのだ。
 それでも、時として立ち止まって後ろを振り返ってしまうことがある。食堂の忙しさにかまけて自分を顧みる機会が減って、気づけば精神が擦り切れてボロボロになってしまっていたのではないだろうか。片付けの途中で居眠りだなんて、自分らしくない。
 けれど不意に襲ってきた睡魔に立ち眩みが生じ、その場で崩れ落ちるのだけは回避して台所の壁に右肩をぶつけてそのまま寄り掛かる。膝に力が入らなくてずるずると皮膚を摩擦で壁に引きずられながらしゃがみ込み、重い頭部を支えきれない首がガクリと傾いて髪越しに壁を感じた。闇はすぐに帳を下ろし、視界を塞ぐ。後はもう、何も分からなかった。

 夢を見ていたのだと思う。
 日々の仕事の疲れと戦いの重圧、コーラルを守らなければならないという義務感に仲間を支えられるのは自分だけだという責任感、そして選び取る道に迷っているのに答えを即座に見つけなければならないという焦燥感。
 ひとりで背負いきれるものではないことくらい、理解していたつもりだ。
 けれど誰かに任せて逃げるわけにもいかない、なにより自分が自分で、最後まで貫き通すと決めたことを覆したくはない。意固地になっていると言われたらその通りでしかないけれど、だったら他にどうすれば良いのか誰も教えてくれない。
 そこに残るのは孤独感だ。誰からも理解されず、与えられず、支えられず、ひとりきりで闇の中に立ち尽くす自分を夢に見る。嘗て父親に置いていかれた頃の、ひとりぼっちで広すぎる宿に取り残された頃の記憶を。
 ――置いていかないで。
 ――ひとりにしないで。
 ――ひとりはいや。
 ――ひとりぼっちはいや。
 ――おいていかないで。
 ――名前を呼んで、抱き締めて。
 暗闇のベッドで頭まで毛布を被り、夜に怯えながら過ごした日々。誰も居ないのだから、自分で自分の世話をしなければ飢え死にするだけ。生まれて初めてひとりで作った飯はとても人が食べるものではない味をしていたけれど、それでも涙と一緒に我慢して全部食べた。
 文句を言う相手はいない、聞いてくれる相手もいない。だからそういった感情も全部自分の中に飲み込んで、消化されるのを待った。目の前にいない身勝手な父親を罵ったところで、虚しいだけ。何もかもアイツの所為だと地団太を踏んでも、声は届かないし返ってこない。
 だからひとりで生きることにした。
 こんな未来は予想していなかった。
 だから、未だに慣れない自分がいる。賑やかな食卓も、騒がしい食堂も、振り返れば誰かの笑顔がある家も。
 望んでいたものの筈なのに、いざ手に入った途端戸惑いが芽生えて消えてくれない。環境の変化の凄まじさに、心が追いつかない。
 ――ひとりにしないで。
 もうひとりじゃないのに。
 ――おいていかないで。
 置いていくものか、と決めているのに。
 ――強く抱きしめて。
 手を伸ばせばそこに居るのに。
「ライ?」
 ――名前を呼んで。
 声がする。
「ライ、おい、大丈夫か?」
「う……」
 変な姿勢で床に座り込んでいたからだろうか、体の節々が痛みを発してライは小さく呻いた。薄く瞼を開けた瞬間飛び込んできた光の眩さに頭がガンガンと痛み、状況把握が上手く出来ない。
 声の主はそんなライを心配そうに見下ろし、しばし考えて遠慮がちに広げた掌を彼の額に押し当てた。もう片方の手も同じように自分の額に当てて、互いの熱の違いを確かめる。
「熱は無いみたいだな」
「ん……ああ、ごめん」
 ひとまず安堵の息を漏らして呟かれた声に頷き、ライはまだ開ききらない目はそのままにして両手で床を強く押し返した。
 腰を浮かせ、変な方向に曲がって重なっている足を伸ばす。前方に投げ出すように姿勢を変える時に、ライの意図を察した相手は黙って場所を譲ってくれた。衣擦れの音が聞こえ、間をおかずに足音が二歩分耳に響く。
 ライは額に感じた他人の指の感触を思い出しながら、顎を持ち上げて上を向いた。目を閉じたままなので視界は闇に包まれているけれど、感じ取る気配は人間ひとり分だ。意識を失ってからどれくらいの時間が経過したのだろう、考えるだけでも眩暈がぶり返しそうで、ライは首の後ろに手をやって緩く頭を振った。
 吐き気が胃から登ってくるが、息を呑んで堪えてそろりと瞼を持ち上げる。最初に視界を焼いた熱はもう薄れていて、それは自分の前にいる人物が外からの光を壁になって遮ってくれていたからだった。
 こげ茶色の髪が肩から胸の辺りに下りていて、毛先が頼りなく揺れている。逆光の中で多少見えづらい中でもはっきりと捉えられる額の斜め十字傷には覚えがあって、ライはもう一度首を振ってから熱っぽい息を吐いた。
「アルバ」
「吃驚したよ」
 名前を呼ぶと、続きを邪魔するように彼は険しかった表情を綻ばせてそう言った。膝を軽く曲げてまだ床の上に腰を落としているライの顔を覗き込み、大粒の瞳を細める。そしていきなり手を伸ばしてライの頬を擽るものだから、怪訝気味にライは肩を揺らしてアルバの指先から逃げた。
「なんだよ」
「顔色、悪いな」
「……そんな事」
 ない、と即座に否定しきれずに言葉を濁し、ライは尚も触れようとするアルバの手を反射的に叩き落した。乾いた小気味のいい音が台所に響き渡り、驚いた顔をしてアルバは薄く赤くなった手の甲を裏返し、胸に押し付け己の心臓に重ね合わせた。腰も引き気味になり、自然ふたりの間に距離が出来上がる。
「ごめん」
 だが先にライが謝るものだから、口を開こうとしたアルバは呆気に取られ目を丸くした。右手で左手首を握ったまま、ぽかんとしている彼にライは不機嫌に眉を寄せる。
 寝起きで機嫌が悪かったのもあるし、こういうところを見られたのもなんだか情けない。かといって八つ当たりをしてしまったのを突っぱねたままでいるのだって充分情けないと思うから謝ったのに、変な顔をされる筋合いは無いと思う。
 ライが唇を尖らせて険のある表情を作っていると、数秒の間があって、アルバは肩を揺らして小さく笑った。
「いや、おいらも、ごめん」
 この場合はお互い様だよな、と腕を下ろしながら彼は言って膝の角度を強くした。遠ざかっていた視線が近づき、ほぼ真正面から見詰められる。
「でも、本当に大丈夫なのか?」
 顰められたアルバの表情は、心底ライを心配しているのだと伝わってくるものだった。彼が動く度に大雑把に切られた前髪が彼の傷を見せたり隠したりと落ち着きなく動き、ライはそちらに気を取られながらも手元へ視線を伏した。
 床に這わせた指で木目をなぞる。大丈夫なのか、と聞かれても答えられない。自分だってまさか、こんな場所で倒れるとは思っていなかったのだから。
「うん、ごめん。もう平気」
 アルバにしてみれば、立ち寄った台所で倒れているライを見つけて肝が冷えたことだろう。そのことを先ず謝るべきだったと心の中で舌を出し、彼は立ち上がろうと腰に力を込め、全身の端々まで響いた痛みに悲鳴を寸前で飲み込んだ。
 しかししっかりと苦悶は表情には表れていて、目を瞬かせたアルバが一瞬後に堪えきれずに噴き出す。
「ぐ……」
「あはは、ごめん、でもさ……あははは」
 人の不幸を笑わないで欲しい。思わずジト目で睨みつけると、彼はそれでも笑いやまずに腹を抱えてその場でのた打ち回る。それで益々ライも機嫌を悪くして、思わず握った右の拳。
 アルバの肩にぶつける、その直前。
「ひとりにしないで、か」
 不意に声のトーンを低くした彼がぽつりと呟く。
 ――ひとりにしないで。
「!」
 振り上げていた拳が中空で止まり、自分が想像以上に動揺している現実にライは打ちのめされて顔を青くした。気づいたアルバが慌てて首を振り、ごめんと何度も繰り返してライの腕を掴み強引に下ろさせた。
 青白くなっている彼の頬を軽く叩き、遠くへ飛びそうになっている彼の意識を自分へと向けさせる。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」
 様子を窺うために近づいた時、魘されているライの声が聞こえてしまったのだろう。彼に悪気が無かったと分かるからこそ、ライはこの場から今すぐ消えてしまいたくて体を丸め縮めこませた。両手で頭を庇い、膝を曲げて胸に押し付ける。
 その他者を拒絶する態度に、しかしアルバは肩を竦めるだけに留め、その白い髪をくしゃりとかき回した。
「ごめんな」
 声はどこまでも深く、優しい。涙が出そうになるくらいに。
「俺、他に……なにか」
「ん? ああ、言ってたみたいだけど、ちゃんと聞こえたのはそれだけ」
 だから安心していいよ、と本人も救いにならないよな、と分かる台詞を並べ立ててアルバはライから身を遠ざけた。
 寝言を聞かれるのは自分だって恥かしいし、ましてや魘されている時のことばなど。表には明かさずに秘め続けていた心の内側を、無防備に誰かへさらけ出してしまうだなんて。
 ただ、今のライの状態を考えると、このまま彼をひとり放っておくことも出来ない。アルバは自分の所在の不確かさに視線を泳がせてから、結局はライを見下ろす姿勢に戻って肩を竦めた。
「……おいらも、なんとなくだけど、分かるよ」
 揶揄や嘲笑を一切含まない真剣な声を出せば、自分でも驚くくらいに低く掠れた声になってしまってアルバはやや自嘲気味に唇を歪めさせた。フードにうずもれ気味の首を僅かに持ち上げたライは、様子を窺うように目線を持ち上げてアルバを見詰め、口元にやっていた手を外した彼が少し照れ臭そうにライを見返す。
「ほら、おいら、孤児だったから」
 言わなかったっけ、と目線で問いかけられ、ライは一瞬考え込む。確かに聞いた覚えがあるような気がする、アルバは聖王国の辺境出身で、両親は物心つく前から行方知れず。孤児院に預けられ、そこで育った、と。
 その孤児院自体も運営が立ち行かなくなってしまい、残った仲間たちと肩を寄せ合って育ったことも。
「ひとりが寂しいのは、よく分かるよ」
 孤児院に預けられたばかりの頃は、自分以外のこの世の全てが敵のように見えた。同情と憐憫の視線に、親無しと蔑まれる日々。身を寄せた孤児院で仲間意識が漸く芽生え始めた頃に、支配権力の身勝手さから再び住む場所を失い、途方に暮れた。
 それでも自分と同じく、行き先を持たない子供が集まり、庇護してくれる大人が現れ、ここまで成長出来た。剣術を教わり、権力者の為ではなく自分のような境遇にある、理不尽に支配され搾取される人々を守りたいと思えるようになった。
 全ては、仲間がいてくれたからこそ。
 それでも親がいない寂しさは、今でも消えない。自分の両親は、特に母親は、もうあの人ひとりしか思いつかないけれど、それでも。
 アルバの指がそっと、ライの前髪をすくい上げた。隠れていたアメジストの瞳が露わになり、うっすらと涙を浮かべた彼に遠慮がちに微笑みかける。
「でも、ライはもう、ひとりじゃないだろ?」
 おいらみたいに、家族を見つけたじゃないか。そう言葉を繋いだ彼が、ほら、と首を回して台所と廊下とを結んでいる戸口を示した。
 ライは床に座ったまま、やはり首だけを動かしてアルバが見やった方向に目を向ける。そしてふたり分の視線を感じて咄嗟に廊下に隠れてしまった存在の、特徴的な尻尾を見いだして目を見張った。
 アルバが倒れているライに気づいたくらいだ、もっとライに近い立場にある存在が彼の不調を気取らないわけがない。幼子は金色の髪を揺らし、顔の半分を壁に隠してそっとこちらの様子を窺っている。まるで幼少時、柱の影から大人達の会話を盗み聞きしていた自分を見ているようで、アルバは遠い過去へ思いを馳せて苦笑した。
「コーラル」
 僅かに驚きを含んだ声でライが、大切な自分の子供の名前を呼んだ。もちろんふたりには血のつながりなんていうものは無い、偶然の出会いが結んだ関係だ。だがそれは、誰にだって言えるのではないか。
 最初は誰もが他人で、それが何かの縁で知り合い、関わりを持ち、関係を深め、そしてひとつの家族を成していく。出会いのひとつひとつが必然であり、そして偶然の集合体。何がどうなって未来が作られていくのかなんて、誰にも分からない。
 一歩先は闇、されど光。
 どちらに転ぶかなんていうのも、本人の心構えひとつだ。
 コーラルは壁に両手を添えながら、不安そうにふたりを見つめている。戸惑いが浮かぶ瞳は泳ぎがちで、仕方がないな、と腰に手を当てたアルバがおいで、と幼子を手招きした。が、長い金髪を揺らしたコーラルは今更人見知りしているわけでもあるまいに、サッと壁の向こう側へ身体を隠してしまう。
 けれど完全に立ち去ったわけではなくて、数秒経つとまたこちらの様子を窺って大きな瞳を片方だけ日の光に晒すのだ。
 本当に過去の自分を見ている気がして、アルバはやれやれと首を振った。
「ライ」
 呼んであげなよ、と囁いた彼がライの肘を小突く。言われてやっと我に返った彼は、数秒間アルバを見上げたまま停止し、それからゆっくりと首を曲げて斜め横にいるまだ生まれてから数ヶ月と経っていない子供を見つめた。
 思えば、この子もひとりきりだったのだ。親を知らず、生まれた場所を知らず。この世に生を受ける前から命を狙われ、抗う為に戦う他道を選べなかった哀れな子供。
 けれど、本当にそうだろうか。
「おいで」
 気怠さを残す腕にむち打って、ライは幼子に向かって両手を広げた。招き入れる仕草をすると、最初は遠慮がちだったコーラルもおずおずと身体を台所の敷地に移動させ、完全に廊下から姿を現したところでライに向かって一目散に駆け寄ってくる。
「うわっ」
 最後は床を蹴ってジャンプしたコーラルを、ライは身体全部で受け止めた。衝撃を吸収しきれずに後頭部が硬い壁にぶつかって瞬間的に目の前に星が散ったが、飛び出しそうになった悲鳴は寸前で飲み込み、大切な幼子の小さな体をしっかりと抱き締め返す。
 コーラルは胸に折りたたんだブラケットを抱えていた。推測でしかないが、床で倒れているライを自力では起こせなかった為に、代わりに上に掛けるものを探して持ってきたのだろう。
 その努力は無駄に終わってしまったけれど、コーラルが必死に考えて自分が出来る事を成そうとした気持ちは、冷え切っていたライの心に小さな炎を宿し、暖めるには十分だった。
「心配かけて悪かったな」
 頭を撫でながら胸にしがみつくコーラルにライが言葉を紡ぐ。すると金髪の尻尾を揺らし、コーラルはぐしゃぐしゃになってしまったブラケットを間に挟んだまま更にぎゅっ、とライに抱きついた。
 それはまるで、自分を置いていかないで、と態度で示しているような。
 ああ、そうか。ライは懸命に自分の存在を主張し、貼り付いてくる子供の体温を感じながら、胸の中に落ちてきたものに妙な納得を抱いた。
 アルバも言っていたではないか、自分はもう、ひとりではないのだと。
 一緒に居て欲しい、一緒に居たい存在が、手を伸ばしたところにこんなにも沢山。
 傍にいてくれている。
「ごめんな。あと、ありがとう」
 額をぎゅうぎゅうと人の胸に押し付けてくるコーラルの顔をあげさせ、照れ臭さを隠しつつ囁く。コーラルは涙目を数回瞬きさせた後、ライと同じように薄く頬を紅色に染めて嬉しそうに頷いた。
 足音が聞こえ、弾かれてライは視線を遠くへ向ける。親子の触れ合いの邪魔にならないように黙って出て行こうとしていたアルバを慌てて引き止め、肩の力を抜いてライは彼にも「有難う」と告げた。彼は少し驚いた様子で振り返り、それからゆっくりと微笑みを浮かべる。
「お礼を言われることなんて、何もしてないよ」
「けど」
「だって、友達だろ?」
 だから堅苦しいのは無しな、とはにかむ少年が逆光を浴びて眩しくて、ライはそうだな、と頷き返しながら目を閉じた。
 闇の中、泣いていた子供が笑った気がした。

2007/2/1 脱稿