清籟

 彼の髪を、一度だけ、じっくり眺めたことがある。

 夕暮れ、夕焼け、遠くからは烏の声。居残り当番を命じられた綱吉が、普通の人より何倍も時間をかけて用事を済ませて戻った教室。
 待ちくたびれたらしい彼は、窓際の席に座って机にうつ伏せになって眠っていた。
「獄寺君?」
 近づいても、声をかけても彼は反応をしない。白くて綺麗な髪には窓から差し込む淡いオレンジ色の光が染み込んで、不思議な色に染めあげていた。
 少しだけ右に顔を傾けて姿勢を楽にして、右腕は真っ直ぐに伸びて手首から先が机の端からはみ出ている。左腕は肘が内側に向かって緩く曲がり、ブレスレットを避けた手首に頬を預けている感じ。
 綱吉はなるべく音を立てないように忍び足で近づき、彼が座っている机の真横に立って、それから半歩下がって隣の机に浅く腰を落とした。膝が浮いてつま先だけが床に残り、踵が踏み潰され気味の上履きが頼りなく垂れ下がる。
 教室には他に誰の姿も無い。日暮れの時間ともなれば、雑談に花を咲かせて帰りが遅い女子なんかも、鞄を手に家路を急ぐ頃だ。綱吉はゆっくりと西の空に沈み行こうとしている太陽に瞳を細め、身体を捻って机に座る腰を深くした。床に這っていた両方のつま先が揃って完全に宙に浮かび、上履きが脱げ落ちそうになったのを、踵を沈めて寸前で防ぐ。
 両手は太股の上、右を下にして重ね合わせる。乾燥気味の肌を意味も無く擦りながら窓の外からその手前へ視線を戻し、寝入っている彼を見下ろす。獄寺はまだ目覚める様子が無い。
 疲れているのだろうか、すやすやと気持ち良さそうに、完全に寝入っている。椅子に腰掛けた状態で、上半身を投げ出している格好は経験上とても疲れる姿勢だ。後で腰を痛めても知らないぞ、と心の中で呟いた綱吉は彼を起こすべきかどうかで少しの間考え込んだ。
 太陽はゆっくりとだけれど確実に、地平線の下へ潜り込んでいる。あと一時間もすれば昼の名残も遠ざかり、夜闇が頭上を支配するだろう。そうなれば学内にいつまで居残っているのかと、横暴かつ気まぐれで知られる風紀委員長の雷も落ちかねない。
 とばっちりを受けるのは出来るなら避けたい。それには彼を今すぐ起こし、帰り支度も整っていること、さっさと教室を後にして自宅へ戻る道を急ぐべきだろう。それはよく分かっている。
 けれど気持ち良さそうに寝息を立てている彼を起こすのはどうも忍びなく、疲れているんだろうな、と思うだけにこのまま寝かせてやりたい親心、ならぬボス心を抱いてしまってどうも実行できそうにない。そもそも眠っている彼の姿はとても珍しいもので、こんな機会でもなければじっくりと眺めることは今後なさそうだ。
 堪能してやれ、だなんて舌を出して微かに肩を揺らして笑う。
 綱吉は頬杖をつき、立てた肘に左手を添えて背中を少し丸めた。首を前に突き出す姿勢をとって、彼との距離を少しだけ詰める。
 閉められた窓からでも聞こえていた鳥の声は次第に小さくなり、それに混じっていた部活動中の掛け声も数が減っていくのが分かる。誰もが家路を急ぎ、暖かな夕食に心躍らせる時間帯。綱吉は時間の中に取り残されたような教室で、オレンジ色の光を浴びながら不思議な気持ちで彼を見ていた。
 眼光鋭く、異国育ちの所為もあってどこかとっつきにくい面がある彼。出会った当初はただ怖いばかりで、近づいてこられるだけでも緊張した。少しずつ、時間をかけてお互いを分かり合い、彼を知るにつれて恐怖心を抱くことはもう無くなったけれど、それでもまだ綱吉は完全に彼を知り得ていない。
 慕ってくれるのは嬉しい。守られるのも、照れるけれど正直気持ちがいい。彼と過ごす時間は、楽しいことばかりではないけれど、決していやなものではない。
 銀色に近い髪色が、今はオレンジに染められている。
 不思議な色だ、と想いながら綱吉は頬杖を崩し、息を潜めながら彼の方へ右腕を伸ばした。
「ん……」
 指先が触れるか否か、非常に微妙な距離に到達した頃合いを見計らったかのように、彼が僅かに呻いて首を窄める。不穏な気配を感じ取ったからなのか、俯せなれど辛うじて綱吉の目にも見える眉間に薄く皺を寄せ、眠ったまま表情を険しくさせる。ただ薄く開かれた唇から漏れた吐息はそれっきりで、彼はまたすぐに元の安らかな寝顔に戻った。けれど綱吉は、一瞬で跳ね上がった心臓の鼓動を抑えるべく必死だった。
 伸ばしていた指先が攣りそうで、慌てて引っ込めて拳にして胸に押しつける。薄い胸板を内側から圧迫する振動にあわせて呼吸を数回繰り返し、綱吉は浮いた冷や汗をそっと拭ってひとつ大きな息を吐いて全身から力を抜いた。
 彼はそんな綱吉の一挙手一投足など知らぬ顔で、暢気に夢の世界を楽しんでいる。それが少し恨めしいと、他人の机の上で脚を組んだ綱吉は再び頬杖の体勢を作ってぶすっと彼を見下ろす。
 人が眠っている姿を見ていると、自分まで眠気が催してくるから不思議だ。勝手に沸いて出たあくびをかみ殺し、綱吉は数回何もない口の中を咀嚼して唾を飲み込み、顎にやっていた手の中指を持ち上げて目尻を掻いた。
 夕暮れの日差しは昼間のそれとは大きく違い、穏やかに押し寄せる大海の波を思わせた。決して焦りもせず、かといってゆっくり過ぎる事もなく、少しばかり人の気持ちを急かせながら色を変えていく。空にぽっかり浮かんだ雲が紅色のグラデーションを描き出し、そこにまだ青みを残す空が重なって一枚の絵画が窓枠に収まっている、そんな錯覚を抱く。
 夕暮れ時は好きだった。様々に表情を変え、一時として同じ表情を見せる事がない。それは人の心にも似ていて、時には鮮やかに、時には残酷なまでの微笑みを綱吉へと投げかけてくる。
 目尻を這わせた指をそのまま頬に置き、リズムを刻むようにとんとんと肌を軽く叩く。何か歌いたい気分でもあったが、咄嗟に思い浮かんだメロディーは昨日ランボたちと見た子供向けアニメのテーマソングで、あまりにもこの場に似つかわしくなくてつい笑みが零れた。
 それにそもそも、ここで声を立てれば彼が目を覚ましてしまう。
 歌うのも好きだ、ただお世辞にも上手だとは言えない。カラオケに行こう、と山本から幾度か誘われた事があるが、あれこれ理由をつけて参加した事は一度もない。音痴であるのは音楽の時間で既に周知の事実だから隠す必要性はもう何処にもないけれど、それでも人前でマイクを握るのはやはり気恥ずかしさが勝った。
 いつか、君の歌声も聞いてみたい。綱吉は頬杖を解くと右の膝を引き寄せ、踵を机の縁に載せた。ずり落ちないように立てた膝を両腕で抱き留め、半月板に顎を置く。足下を流れる影は教室に戻ってきた時よりも大分長くなり、色も薄まりつつあった。
 じき、日が暮れる。首から上だけを曲げて持ち上げた視線が捉えた壁時計は、下校を促すチャイムが鳴り響く時間までもう間がない事を教えてくれた。その現実に目を向けず、前方の男は相変わらず惰眠を貪っている。
「おーい」
 小声で呼びかける。無論そんな程度で起きるわけがないと知った上での行動だ。
「ごくでらくーん」
 置いて帰っちゃうよ、と折角待ってくれた相手に酷いことを言ってのけるが、返事は皆無。これではちっとも楽しくない。
 綱吉は若干拗ねた表情で頬を膨らませ、中空に伸ばした指で彼を弾き飛ばす仕草を作った。人差し指の爪を親指の腹に押しつけて輪を作り、力を込めて前方に突き出す。勢い良く飛び出した人差し指が小さく鈍い音を響かせるが、そんな空気の弾では彼を吹き飛ばすのも不可能。
 すやすやと寝入っている彼に、いい加減うんざりしてしまいそうだった。
「獄寺くーん」
 今度は少し大きめの声で名前を呼ぶ。頬杖の姿勢を取り戻し、垂れ下がっている足をぶらぶらと前後に揺らす。殆ど爪先部分しか中に残っていない上履きが、今にも落ちそうなところを行ったり来たりしていて、時折気まぐれに爪先を反り返して開いた空間を埋めながら綱吉は呆れ顔を作った。
 床に落ちる影、跳ね返る光。教室は薄暗くも仄明るく、この世とあの世の境界線に佇んでいる気分になる。
 逢魔が時というのだったか、こんな時間を。
 銀とオレンジと、そして闇とが混じり合った彼の髪が揺れている。リズム良く、一糸乱れぬ呼吸に合わせて毛先が彼の頸部を擽っている。
 このままでは埒があかない。綱吉はもうひとつ溜息を零し、気持ちを静めて机から降りた。ひゅっ、とすぼませた唇から短く息を吐き、両足を揃えて床に立つ。だが大分位置がずれてしまっていた上履きと足の裏が反り合わず、思い切り前方につんのめって危うく獄寺の凭れている机に横から衝突するところだった。
 ひっ、と喉が引きつって表情が強ばる。咄嗟に右足を外側へ大きく伸ばし、膝を曲げて身体を沈める事で転倒だけは回避したが、股関節に無理をさせてしまって太股に鈍い痛みを感じた。こむら返りではないが、眠っている間に脹ら脛が攣ったような痛みに綱吉は悶絶する。これで悲鳴をあげて倒れなかっただけ、いくらか成長したと是非褒めてもらいたいところだ。
 獄寺はといえば、当初と大差ない姿勢で瞼も閉じたまま。無邪気に眠っている姿は、動き回っている彼とは違いどこか子供っぽさがある。
「……」
 どうにか体勢を整えた綱吉は、彼が座る椅子の斜め横に立って夕日に照らされている彼を静かに見下ろした。固く閉ざされた瞼、そこにかかる睫毛は長い。
 髪の毛と同じ色なんだ、なんて、ジッと見つめる機会も少ないものだから、既に知り合って一年以上経つというのに今更気づかされた事実に驚き、綱吉はやや膝を曲げて腰を屈めた。太股に両手を置き、彼の斜め上に顔の位置を定める。
 銀色の髪、サラサラと水のように流れ落ちる。広めの額、いつもは髪の毛で隠れている生え際近く。耳よりも上、ちょうど眉毛の先端から直線上に当たるだろうか。
 そこだけ、他の皮膚と若干ではあるが色が違っていた。
「…………」
 綱吉はひっそりと息を飲み、目を細めて注意深くその箇所を観察する。白みの強い肌の中でそこだけがやや茶色を帯び、しかも隆起して周辺の皮膚を引きつらせていた。
 考えるまでもない、怪我をした痕だ。既に傷は塞がり、新しい皮膚が表面を覆い尽くして、残すは痕跡を掻き消す為の時間だけになった、そんな傷。普段は髪の毛に隠れ、誰からも――きっと本人ですら意識していないだろう、小さな傷痕。
 綱吉は眉根を寄せ表情を険しくし、それでいて眉尻を下げて一瞬だけだったが泣きそうな顔を作った。
 怪我の位置、傷の治り具合、思い当たる節は確かに綱吉の中にあった。街中で綱吉を庇い、綱吉を先に行かせる為に万全でない身体を無理言わせて敵と戦い、そして。
「……っ」
 綱吉はぐっと拳を作り、力を込めた。噛みしめた奥歯には悔しさが滲む。鮮やかに蘇る記憶は赤色に支配され、目を逸らしたくなる凄惨さが宿っていた。
 堪えた涙に喉を鳴らし、綱吉は右肩の力を抜いて爪が食い込んでいた拳を解いた。涼しさが汗に湿った掌に伝わり、小さく息を吐いて彼は肘を曲げて手首を持ち上げる。自分の手を黙って見下ろし、彼は未だ机に伏したままの獄寺を指の隙間から見下ろして首を振った。
 獄寺は、骸に身体を奪われていた時間を覚えていない。自覚がない、とでも言うべきだろうか。その時既に彼は意識を手放した後だったから、それも当然と言えば当然なのだろうが、綱吉にしてみればそれは限りなく救いだった。
 日頃から綱吉を十代目と崇め、その右腕になるのだと意気込んでいる彼の事。例えそれが本人の意志に関わりないところであったとしても、真実を知れば傷つく。彼が、彼の身体が、武器を持って綱吉の命を狙った――厳密に言えばこの時獄寺を動かしていた骸は、綱吉を殺すつもりはなかったようだが――という事実は、決して覆る事はないのだから。
 あの出来事は、痛ましい。出来れば思い出したくもないし、あんな世界が日常にならないよう祈らずにいられない。自分たちはどうして、普通の中学生として日々を過ごせないのだろう。
「獄寺君……」
 身体の傷は、いつか癒える。けれど心に出来た傷は、本人が忘れ去らない限りは消えてくれない。未だ夜中に悪夢にうなされて目を覚ます事もある綱吉は、それがよく分かる。
 今、彼が見ている夢が安らかなものであればいい。
 傷がいつか癒えて消えるように、自分の中にある残酷な、彼では無い者の笑みが消えてしまえばいい。
 夕闇が綱吉の掌に落ちる。濃い影が手首を覆い隠し、もうひとつ首を振った綱吉は卵を掴む程度に弱い力で拳を握り、それを裏に返して獄寺へと差し向けた。光を浴び、そして影を背負い、獄寺の髪にそっと、注意深く触れる。
 見た目は鋭い針の印象があったけれど、実際触れてみるととても柔らかく、綱吉の髪と何も変わらない。むしろ癖毛な綱吉の方が芯が硬いかもしれないと思う柔らかさだった。隙間に指を差し込むと、両側に逃げた髪がさらさらと零れていく。そのうちの数本が獄寺の頬を優しく撫でた。
「……ぅ……?」
 微かに呻き声を零し、獄寺の眉が上下に細かく動く。動く気配を感じ取った彼の覚醒は近く、綱吉は遠慮がちに彼の毛先を擽ってから手を放した。
 固く閉ざされていた瞼がゆっくりと持ち上がり、光を掴みきれない瞳が宙を泳いだ。一秒後また閉じられた瞼にきつく力を込めた彼は、その二秒後に口を開けて大きく息を吐き出しのっそりと頭を持ち上げた。
 気怠そうに首を横へ振り、机に添えた両手を握る。噛みしめた唇から漏れる息は疲れを感じさせる唸りに近く、綱吉は両腕を背中に回して半歩さがり、彼が完全に目を覚ましきるのを大人しく待った。
 枕にしていた腕に触れていた肌が一際赤くなっていて、色素の薄い彼の事、なんだかとてもアンバランスだった。とろんとした目はまだ半分閉じていて、かみ殺しきれなかった欠伸に背筋を伸ばして盛大に身体の各所の骨を鳴らした。いでっ、という呟きが聞こえて綱吉はつい吹き出す。
「おはよう、獄寺君」
「あー……おはようございますじゅうだいめ……」
 寝ぼけ眼を擦り、ここが教室だと思い出せずにいる獄寺が辿々しい舌使いで挨拶を返す。目尻を擦り、また欠伸。今の今まで眠っていたのだから当たり前の行動であるが、彼の寝起きに遭遇するのが初めての綱吉にしてみれば、そんな些細な行動ですら目新しさが募った。
 無防備な表情で眠気を払拭しようと試みる彼を待ち、綱吉は窓の外へ視線を向けた。
 かなり低い位置に来ている太陽が、鮮やかな緋色に空と雲を染め上げている。町並みは藍色から闇に沈もうとしていて、それが余計に空と地上の距離を感じさせた。遠く雲の上をゆく飛行機はちかちかと細い光を翼に宿している。
 一番星が輝くのも、もうじきだ。
 綱吉が遠くへ意識を飛ばしている間に、何度も目を擦った事でやっと眠気が消えたのだろう。獄寺がハッと息を呑んで椅子に座った姿勢で硬直した。気づいた綱吉が視線を落とした先で、見る間に顔色を青くさせる。
「獄寺君?」
「お……俺、あああああすみません十代目!」
「え、何が?」
 怪訝に思っている前で獄寺は唐突に、ひとりでショックを受けてうち拉がれて頭を下げた。それこそ額が盛大な音を立てて机と激突する勢いで、びくりと肩を震わせた綱吉は頬を引きつらせながら言葉を返す。
 机の両端に手を置き、獄寺は前のめりになった体勢で顔を上げた。ぶつけた額が見事に赤くなってしまっているし、瘤も出来ている。痛くはないのだろうかと心配していると、やはり痛かったのか彼の目尻に小さな涙が浮かんだ。
 いや、この涙はむしろ自分の不手際を悔いている涙かもしれない。
「俺、十代目をお待ちしていたのに、眠ってしまったみたいで」
「あ、ああ、そのことか」
 元々彼を待たせていたのは綱吉で、彼に詫びられる謂われはどこにもない。頬を掻いて苦笑した綱吉に、けれど彼は首を威勢良く振り回してまた机に頭を打ち付ける。
 そもそも綱吉が素早く言いつけられた用事を済ませていられたなら、獄寺も教室で待ちぼうけなくても良かったのだ。何もすることがなく、暇を持て余した彼が居眠りをしてしまったとしても、綱吉はそれを責められない。逆の立場だったなら、自分だって眠気を耐えきれるかどうか自信がないのだから。
 だからそんなに落ち込まないでくれと、と両手を添えてどうどう、と彼をどうにか宥める。寝起きだからちょっと頭のネジもずれてしまっているのだろうと勝手に決めつけて、綱吉は大げさに涙目で見上げてくる獄寺に笑いかけた。
「大丈夫だよ、下校時間まだだし」
 風紀委員の見回りは警戒しなければならないが、現時点まだ帰宅を促す声は綱吉たちに届かない。恐縮する時間があるなら、さっさと学校を出て帰ろう、とも告げて綱吉は光に透ける彼の髪にふと意識を奪われた。
 手を伸ばし、指で彼の頬を撫でている毛先を掬う。
「十代目?」
「ごめんね、ちょっと」
 不思議そうに小首を傾げた彼に謝って、指に銀糸を絡め痛まぬように気を配りつつ軽く引っ張る。獄寺の顔に被っていた髪を左に流し、細い瞳に小さく微笑んでから既に見つけるのも困難になってしまっているあの傷痕を指で辿った。
 本当に僅かでしかない感触の変化に、綱吉は気取られぬよう唇を浅く噛む。
「十代目、どうかしましたか?」
 直接触れているのに、彼はもう痛みも感じていない。どうやら傷は完全に塞がっているようだ。獄寺はきょとんとした目で綱吉を見上げ、避けるつもりはなかったのかもしれないが、首を揺らして綱吉の指を弾く。
「なんでもない。ゴミ、ついてると思ったんだけど、違ったみたい」
 腕を引きながら曖昧に笑い、適当に思いついた嘘を並べて綱吉は人差し指を控えめに揺らした。
 君の髪に触れてみたかったんだ、なんて言えるわけが無く、綱吉は急ぎ腕を後ろへ引っ込めて背筋を伸ばした。
「お前達、さっさと帰れよ」
「あ、はーい」
 そこへタイミングを見計らったかのように、廊下から見回りの委員が顔を覗かせてふたりを睨んだ。綱吉は背伸びをしつつ振り返って間延びした声で返し、そのまま教室中央の自席へ小走りに駆けていく。
 獄寺は何か言いたげに口を動かし、遠ざかっていく綱吉に向かって手も伸ばしたものの、指先は相手に届く事無く中空を掻いただけ。彼は自分の指が捕まえた空気をつまらなさそうに見下ろし、それから握りつぶして机の横にあるホックに引っかけていた鞄を外し、同時に立ち上がった。
 椅子の脚が床を擦る音が響く。動き出したふたりを見やり、リーゼント頭の風紀委員は次の教室へ向かって歩き出した。彼と入れ替わるように、荷物を手にした綱吉と獄寺が後ろのドアから廊下へと出る。
「帰ろう」
「はい」
 促せば獄寺は瞳を細めてしっかりと頷き、肩を並べてふたり、揃って歩き出す。
 いつまでも、こんな風に過ごせたらいい。幾つになっても、一緒に過ごせたら良い。そう願わずにいられない。
 けれど。

「獄寺君……」
 写りの悪いモニターの中、爆風吹き荒ぶ学校に佇む君を呆然と見上げるしかなかった。
 塞がったばかりの傷が開き、それ以上に酷い怪我を全身に負いながら、それでも懸命に戦う君を見ている事しかできなかった。
 強くなりたい。
 強く在りたい。
 誰かを傷つける事なく、誰とも傷つけ合う事がないくらいに、絶対的で揺るがない強さが欲しい。
「リボーン、俺、強くなれる?」
「馬鹿野郎、そんな事俺が知るか」
 修行の合間に問うた言葉に、黄色いおしゃぶりを持った赤ん坊は遠慮無く人の頭を叩いてそう言った。
「強くなるのは俺じゃねぇ、お前だ。そのお前が強くなれると信じないでどうする」
 こんな簡単な事も分からないのか、と叱られて、綱吉は目を丸くしながら考える。
 言われてみればそうだ。戦うのはリボーンではない、自分だ。自分が強くなる為に、まず自分の強さを信じてやらなくてどうする。この拳を、額に宿る炎を、身体に流れる血を、信じなくてどうする。
 ならば願おう、自分自身に。
 精一杯戦い、生き残った彼に報いる為にも。
 強くなろう、誰よりも、何よりも。
「もう一回だぞ」
「うん」
 距離を置いたリボーンが背中で手を結び、告げる。綱吉は握りしめた拳に想いを込めて、力強く頷いた。
 周囲を包む樹木が囀り、葉を擦れ合わせて心地よい音楽を奏でる。穏やかな風が綱吉を包み、清らかな水に洗われた気持ちになって、彼はそっと瞼を閉ざした。

 その先に待つのは、闇などではない。
 そう信じて。

2007/1/27 脱稿