鬼は外、福は内。
この家に奈々とふたりだけの頃は全くやらなかったのに、居候が、それも幼子が増えてからは毎年恒例のように開催される事となった節分の豆まき。
雷、イコール鬼、という単純な理屈から、鬼のお面を被るのはランボ。そこにリボーンが、日頃の恨みは構図として逆になるはずなのだが、豆鉄砲に変形させたレオンを使って福豆を連射するものだから、イーピンに「ブロッコリーのお化け」と言われるのも仕方ないくらいにランボは全身を腫れ上がらせて、大泣きして大変だった。
頭も顔も、身体の節々も痣と瘤だらけ。さすがにかわいそうになって綱吉が止めに入ったのだけれど、冗談が通じないリボーンは綱吉にまで豆鉄砲を食らわせる始末。痛い、痛いと連呼して逃げ回り、フゥ太はこれが日本の行事なのだと本気で信じてしまいやしないかと不安が残った。
ビアンキはビアンキで、特製毒豆大福をみんなに披露してくれて、夜も良い時間だというのに救急車に出動を願う事態に。何をやるにしても大騒ぎを引き起こさずにいられない沢田家は最近ではご近所でも話題の中心で、ひそひそと主婦達が話し込んでいる側を通り掛かるのは、正直恥ずかしくてならなかった。
「あー、もう」
酷い目に遭った、と豆をぶつけられた箇所を撫でさすりながら綱吉はやっとの事で自室に戻り、ベッドにどっさりと腰を落とした。
ランボはまだ泣きじゃくっていて、リボーンは憂さ晴らしが出来たからかすっきりした顔で何処かへ行ってしまった。ビアンキも後を追ったから、ふたり一緒にどこかで暖まっているのだろう。フゥ太やイーピンは奈々と一緒にランボをあやしていて、バジルは最初から用事があって不在。
冷静沈着な彼がいたなら、少しは騒動も早く収束したかもしれない。が、もしかしたら日本の行事に精通していない彼が混じっていたら、もっと酷い事になっていたかもしれない。どちらにせよ、なるようにしかならなかったわけで、綱吉はベッドの柔らかなクッションに身体を沈め、仰向けに寝転がった。
天井からは淡い光が舞い降り、室内を優しく照らしている。掃除も滅多にされない事で物が散らかり放題の部屋だけれど、これが自分らしさを主張しているようで、綱吉は他の何処よりも此処が安心出来た。
オレンジ色のパーカーのフードが、首の下で塊になって存在を主張している。それが少しだけ硬くて、枕の代わりに綱吉の後頭部を支えていた。その感触が面白くて彼は首を左右に揺すりながら、少し前の出来事を脳裏で辿った。
大人数で過ごす節分は、この広い家に母子しか存在しなかった頃に比べれば格段に賑やかで、騒々しく、収拾がつかないくらいの喧噪に溢れていた。家中の廊下に豆が散らばり、踏み潰された欠片が足の裏を刺す。明日の朝の掃除が大変だと肩を竦めたくなるが、実際鬼退治に投げている時はそんな後のことなんて一切考えなかった。
ただ無心に、それこそ童心に返って大いに笑った。
楽しかった、子供相手ではあるけれど本気になりかけた。豆をぶつけるのも、ぶつけられて逃げまどうのも、母とふたりだけだったら出来なかった事。
「よっ、と」
両脇に手を置いて身体を起こす。綱吉は丸まったフードを後ろに手を回して伸ばしながら首を振り、丁度真向かいの窓を見上げた。
カーテンが開かれ、透明な硝子には夜の空が切り抜かれている。冬の空は空気が冷えて澄んでいるから、星明かりが強い気がする。勿論空気が汚れた都市部の住宅地から見上げる空に、天体図に記される星の数は期待出来ないけれど、小学校で教わったカシオペア座が目に見えるだけでも十分嬉しくなれるから不思議だ。
更に、その星の間にぽっかりと浮かぶ月が。
「今日は、赤いな」
自分の鼻筋を撫でながら綱吉は呟く。星明かりを掻き消すように空に漂う月は、明るく丸い。仲秋の名月とはまた違った色合いで、墨を流したような闇に浮かぶ月は神々しく、また凛として煌々と輝いていた。
綱吉は腰を浮かせ、ベッドサイドに立ち上がった。フードを弄る手を外そうとして、ふと指に触れた小さな丸いものに眉根を寄せる。
布地を手繰り、見えない背中を探る。フードを形成する三角の頂点を右手で摘んで真下へと引っ張り、左手を内部に差し込んで毛羽立っている布の表面をゆっくりとなぞっていった。柔らかな感触が指先を擽り、何かをしているわけでもないのに笑いがこみあげてくる。
表情を緩ませた綱吉は、フードの底に残っていた大豆をひとつ見つけ出した。乾いた表皮に包まれた、けれど指で潰すには硬すぎる、節分用の豆。自分の年齢よりひとつだけ多く食べれば、その年は息災で過ごせるとも言われている、あの。
「リボーンだな」
あの黒目がちな赤ん坊のしたり顔を思い出し、綱吉は悔しさからか表情を途端険しくさせた。引き抜いた腕を目の前に持ってきて、豆を掌に転がす。レオン製の鉄砲から発射される福豆はかなり痛かった。それを何発も後頭部に受けたのだから、ひとつくらいはこうやってフードの中に残っていても別段おかしくはない。
だが忘れかけていた痛みが蘇ってくるのは予想外で、残っていた手で逆立った髪に覆われた頭部をそっと撫でた。ランボほど酷くはないが、小さな瘤が幾つも出来ているように思うのは、きっと錯覚じゃない。
渋い顔のまま綱吉は、ひとつだけ手元に残った豆を睨んだ。食べても良いのだが、部屋に戻る前に既に年齢プラス一の数だけ豆は食している。ひとつくらいオーバーしても問題はないだろう、と日本の伝統にケチをつけるつもりはないが、思うものの、決心がつかない。
「うーん」
低く唸り、綱吉は指で豆を摘んで光に透かした。そんな事をしたって内部が覗けるわけでもなし、天井光がただ眩しいだけで、視界を白く染められて彼は咄嗟に目を閉じた。
顎を引き、姿勢を正す。膝の裏がベッドの角にぶつかって、よろめいた彼の視界には窓の向こう側に浮かぶ赤色に濁った丸い月。
ああ、そうだ。豆まきは散々やったけれど、折角だからこれも外へ撒こう。月を見て何気なく綱吉はそう考え、窓へゆっくり歩み寄った。
施錠してある窓の固定を外し、銀色のフレームに指を置く。しかし数センチの隙間が作られた瞬間に流れ込んできた冷風に、綱吉は咄嗟に顔を背けて肩を窄めた。
寒い。
普通に考えても、今日は二月の初頭なのだ。季節で言えばまだまだ真冬、しかも壁時計は夜の十時台を指し示していて、日が暮れてからもかなり経過している。昼間の陽気も何処へやら、晴れ渡った空は地表の温もりを遠慮無く奪い去り、明日の朝は今日に比べて格段に冷え込むだろうと綱吉に教えてくれた。
鳥肌が立ち、綱吉は自分の考えの浅薄さを今更後悔した。が、一度やると決めた事は何があってもやり通す信念の持ち主である彼、後には引けないと下っ腹に力を込めて仁王立ちし、えいっと勢いよく窓を開いた。
端に寄せていたカーテンが流れ込んだ風を受け、内側に大きく膨らんでそしてへこんだ。ゆらゆらと揺れる布地が女性のスカートを思わせて、綱吉はかみ合わせの悪い奥歯を必死に噛み締める。頬を撫でる冷気はどれほど妥協しても、優しいという表現に当てはまりそうにない。突き刺すような冷たさを彼に与え、それこそ氷の美女の冷笑で綱吉をあざ笑った。
今すぐ窓を閉めて布団を頭からすっぽりと被ってしまいたい、そんな誘惑に駆られるものの、数十秒待てば風は遠ざかり、室内と室外の温度がほぼ一定となる。それで身体が温まるわけではないが、少なくとも最初に感じた寒さは僅かながら遠ざかった。
綱吉は手で上腕を交互にさすり、屋内にいながら白い息を吐いてそっと表情を和らげた。
手の中の豆が踊る。首を縮めながら思い描いたのは、豆を投げられて尻尾を巻いて逃げていく鬼の姿だった。
「鬼はそと、か」
閉ざした指と指の間の溝に豆を転がし、掌に戻して握る。笑って彼は右肩をあげて肘を引いた。山本のような本格的なものではないものの、それなりに見栄えのするフォームで豆を投げるべく、構えを作る。
くしゅっ、というくしゃみが聞こえた。
「え」
自分のくしゃみではない。そして室内には自分しかいない。いったいどこから、という疑問から、振り下ろす動作に入っていた豆がすっぽ抜けた。それこそ予想していない方向へ。
いや、一応は窓の外へ飛んでいったのだ。ただ、本来何も無い筈の場所で何かにぶつかって跳ね返り、屋根の上を乾いた音を残して転がり落ちていくのは、全く想定していなかった。超直感を持つ綱吉ですら予測不可能だったのだから、きっと天地が逆さまになったってこの現象を正しく言い当てられた人間が現れないに違いない。
「…………」
軽い怒りのオーラが見える。目の錯覚だろうか、これは。
そもそも、だから、どうしてこの人は、こうも人の家の屋根が好きなのか。違うか、人の部屋の窓を玄関代わりに使おうとするのか。
わざわざ入りにくい場所から入りたがるなんて、偏屈以外のなにものでもない。と、本人に面と向かって言えたならどれだけ楽だろう。
「……あのぉ……」
貴方はいったい、そこで何をしているのでしょうか。
掠れた声で呟いて、綱吉は胸の前で空っぽになった両手の指を絡ませ、額というよりは右の眉に近い部分を抑えている人物を見つめた。闇を背負い、赤い月を頭上に掲げ、黒と白のモノトーンカラーの人物が悠然と、そして若干不機嫌そうに表情を引きつらせて立っている。
敢えて名前を挙げる必要は無い気もするが、彼の名前は雲雀恭弥。綱吉の通う中学に君臨する絶対的な支配者にして、風紀委員長。そうしてどういう因果か、大空のリングを所持する綱吉の守護者のひとり、雲のリングの保持者でもある。
気まぐれ、孤高、そんな表現がぴったり重なり合う唯我独尊の人物。
「ヒバリさん……?」
「なるほど」
怖々と窓に近づき、冷たいアルミサッシに手を置く。肩から上を外に出せば、吹き抜けた突風に綱吉は瞬時に身を竦めさせた。
屋根瓦の上では雲雀が、滑り落ちないように靴底でしっかりと瓦の継ぎ目に靴底を沿わせ、踏みしめている。羽織っているだけの学生服の袖がゆらゆらと揺れて、闇に同化しそうでそうでない神秘的な姿をさらしていた。
そんな薄着で寒くはないのだろうか、心配になって綱吉はパーカーの襟元を手繰り寄せながら雲雀を見返す。彼は眉間に浅く皺を浮かべ、なにやら神妙な表情で綱吉を見つめていた。福豆がぶつかったらしい右目の上は、まだ彼の掌に隠されたままだ。
そんなに痛かっただろうか。ひょっとして角膜を直撃したのではなかろうか。鷹揚に頷いてそれっきり何も言わない雲雀に段々と不安が募り、綱吉はおろおろと視線を泳がせながら窓枠を強く握る。そこへ、冷えた彼の声が落ちてきた。
「僕が鬼、ね」
「え……」
一瞬雲雀が何故そんな事を言ったのかが分からず、綱吉は目を丸くして素早い瞬きを何度も繰り返した。
が、右目を隠していた彼の腕がゆっくりと下ろされていくのを見送り、豆を投げる前に自分が言い放った台詞を思い出した綱吉は「あっ」と短く声をあげた。
そう、言ったではないか。豆を投げる時に、お決まりのあの台詞を。
鬼は外、と。
そうして豆がぶつかったのは雲雀。ぶつけたのは綱吉。
綱吉にそんなつもりが無かったとしても、鬼呼ばわりされた挙げ句豆までぶつけられた雲雀は機嫌が悪くなって当たり前だ。雲雀が今日のこの時間、この場所にいる事を綱吉が知らなかったとしても、だ。
先に一声掛けてくれていたなら、投げなかったのに。しどろもどろに言い訳を述べて上目遣いに雲雀を見やると、彼は呆れた様子で長い前髪を細い指で梳きあげているところだった。
「大体、ヒバリさん。いつからいたんですか?」
沢田家の玄関は此処ではない。きちんと地上から呼び鈴を鳴らしてくれたなら、歓迎するのに。何度言っても聞き入れてくれない相手に何十回目か分からない苦情を申し立てて、綱吉は力無く肩を落とした。
聞こえてきたくしゃみ、月の明かりに照らされて際だつ雲雀の白い肌。
「さあ……?」
曖昧な返事で綱吉の問いへの答えを濁し、雲雀は前髪から抜き取った腕を前方へ差し出した。揃えた指を向けられ、綱吉は窓枠に置いた手に体重を預けて身体を前方に傾がせる。
伸ばした首の先、綱吉の頬に触れた指は冷えきっていて、心が震えた。
「呼んでくれたら良かったのに」
家の中でも、携帯電話はポケットの中に入れて持ち歩いている。以前一度だけ、ズボンに入れたままトイレに入って便座に落とすだなんて間抜けな事もやったけれど、失敗はそれっきりだ。いつ呼び出されてもいいように、彼の番号だけは特別扱いをしてある。それなのにあのメロディが鳴り響いた事は、今まで一度もない。
正直、寂しい。鳴らすのはいつだって、綱吉だ。
「楽しそうにしていたし」
「……そんなに前からいたんですか?」
「月が明るかったからね」
説明にならないことばを告げ、彼は綱吉の頬を遠慮がちに撫でながら視線を持ち上げて空を振り返った。
雲の隙間から覗くのは、闇の中にぽっかり空いた白い穴。昼の太陽とは違い、眩しすぎない淡い光で地表を優しく包む、白銀の月。
綱吉達が豆まきをしていた頃から彼が本当にこの場所にいたのだとしたら、軽く一時間は外にいた事になる。せめて学生服に袖を通していたならば、多少は寒さもしのげただろうに。
あのくしゃみも、納得がいく。
「ヒバリさん」
目は大丈夫ですか、と自分でも手を伸ばし雲雀に触れた。明るい場所から暗い場所へ出ようとする綱吉に、雲雀は僅かに身体を捩って逃げようとした。が、許さない綱吉がしつこく追い回し、最後は腰から上の殆どを窓から外へ乗り出した。当然バランスが崩れ、床に立って支えていた右足が僅かに浮き上がる。そのまま振り子のように後ろへ膝が伸びていって、危うく窓から転落しそうになったのを、外側から雲雀が慌てて支えてくれた。
脇の下へ手を差し入れられ、抱えられる。雲雀が一歩前に出たお陰で開きっぱなしだった距離がぐっと狭まり、月明かりよりも綱吉の部屋の照明が強く雲雀を照らした。
青白い肌に、白い息。指の一本一本が氷のように冷え切っていて、暖めてあげたくて綱吉は彼の腕が脇から抜かれる寸前に肘を閉じて彼の手首を閉じこめた。当然雲雀の表情は険しくなり、外すようにと力を込めて押し上げられる。けれど従えない、と綱吉は黙ったまま首を横へ振った。
「ヒバリさん」
近くにいる彼を見上げ、綱吉はその名を音に刻む。赤い月に吸い込まれた吐息に、彼らはそっと目を閉じた。
「部屋、あがっていきませんか」
生ぬるい唇を舌でなぞり、綱吉が囁く。両腕の自由が利かない雲雀は右の眉を持ち上げて、至近距離の綱吉に影を落としながら豆をぶつけられたのと同じ場所に唇を走らせた。
「鬼は外、だろう?」
まだ根に持っているらしい彼の声に、綱吉は肩を揺らして笑った。舐められた眉毛からサッと体温が逃げていく。顎を逸らすと落ちてきた温もりが気持ちよくて、次の言葉を繋ぐタイミングを逃した綱吉はなんだったかな、と月に視線を飛ばした。
聞きかじった内容でしかないけれど、確か、どこかの地方では節分の時、こう言うらしい。
普通は、鬼はそと、福はうち。
でも。
「ヒバリさん、知ってます?」
思い出して悪戯っぽく笑い、綱吉は彼の額に自分の額を押し当てた。数センチ先の黒い瞳を正面から見つめ、映し出される自分の姿が恥ずかしくて彼はまた目を閉じる。
「なに」
「福は内」
鼻に息が掛かる距離で囁かれた声に身体が震えた。背筋が粟立ち、緊張を帯びた手で雲雀の肩を捕まえる。薄目を開けると彼は綱吉の次のことばを待っていて、仕方がないな、と背伸びをして自分から彼の額に口づけた。
僅かに驚いた表情を作った彼に、失礼なと笑いかけ、耳朶に息吹きかけながらそっと告げたことばは。
「おにも、うち」
2007/2/3 脱稿