凍解

 ゆるり、と意識が持ち上がる。
 瞼の裏に感じた光の眩さに、闇に慣れきった瞳を焼かれそうになりながら肩を揺らし、未だ半分眠りに落ちている意識を呼び起こす。だが目覚めを拒んでいる肉体が激しい痛みを操って意識を襲い、再び闇に沈みそうになるのを寸でで堪えた。
「う……」
 薄い唇から零れた低い呻き声を自分の耳に聞き、強引に瞼を持ち上げて瞳を光に曝け出す。一瞬にして真っ白い輝きが脳裏を埋め尽くし、即座に閉ざした瞼の暗さに安堵した。
 まだ早かっただろうか、そんな風に思いながらも呼吸を整え、徐々に覚醒しつつある意識の断片を拾い集め形を揃える。幾度目か息を吐き出した末、今度はゆっくりと閉ざした瞼を持ち上げると、朝とは違う陽射しの眩しさが顔の直ぐ横に落ちていた。
 見知った天井が其処に在る。開け放たれたままの板戸越しに、土間に設けられた窓から光が差し込んでいた。この角度でこの眩しさから計算するに、あれは西日。ならば今の時刻は朝とは正反対の夕方前、という事になる。
 雲雀は体を起こそうとして全身に力を込め、そして指先足先から迫り上がってきた痛みが本物であると思い知った。
「うっ」
 不覚にも低く小さく呻き声を上げてしまい、己に舌打ちした彼は歪んだ表情のまま、今自分が置かれている状況を思い出そうと務めた。まずは、何故こんな半端な時間に自分が寝所で布団に包まっているのか、と言うこと。そして自由が利かない身体と、この激痛の理由。
 彼はふっと息を吐く。薄い氷を浮かべた呼気が中空に解けていき、どうにか掛け布団から引き抜いた右肩と腕を顔の前に伸ばして裏返す。覚えのある限り、最後に見た自分の腕は真っ黒に焼け焦げて表皮は硬質化していたはずだ。
 しかし現実には、雲雀の目に映し出される彼の肌は綺麗な薄紅色をしていて、血色も良く、まるで生まれたての赤ん坊のような瑞々しさがあった。爪のひとつひとつにも艶があり、火傷や打ち身などの傷は全く見受けられない。
「……」
 雲雀はもうひとつ溜息をつき、たった十秒ほど持ち上げるだけで疲れてしまった右肩を下ろす。負った傷のうち、表層部は治癒されきっているようだが、内側にまで潜り込んだ傷や消耗した体力は完全に戻ってきたわけではない。
 僅かに喉を仰け反らせ、硬い枕を頚部にあわせる。楽な姿勢を取ると呼吸もし易くなり、より自分の状況が理解できるようになった。意識を巡らせて身体のあちこちを調べる。どうやら腕だけでなく、全身の殆どの皮膚は再生を完了させているようだった。
 誰かのお陰で。
「まったく」
 即座に脳裏に浮かんで消えた顔に肩を竦め、無茶をさせてしまったと詫びると同時に、無茶をした彼を心の中で責めた。放っておいても数日すれば新しい皮膚が出来上がるから、と何度も言ったのにまるで聞き入れなかった綱吉が、注意深く気配を探れば雲雀の足元に丸くなって転がっていた。
 自分の曲げた右肘を枕にして、寄せた膝が胸につきそうなところまできている。長衣の下の襦袢から脛より下が露出していて、爪先は寒いのか雲雀に被せられている布団の裾に潜り込んでいた。
 警戒心の欠片もない。疲れ切って寝入っている顔は無邪気で、実年齢よりもずっと幼い印象を見る側へ与えた。
「やれやれ」
 天井に向き直り、雲雀が溜息を零す。目覚めた直後よりは若干でしかないが、全身を苛む痛みも薄れて来ており、しっかりと意識が魂に根付いている。数時間前の記憶も鮮やかに蘇り、改めて右手を握り開きして感覚を確かめる。
 深く息を吸って止め、上半身を起こした。何も身にまとっていない肌が西日を浴びて、仄かな暖かさがそこに宿る。彼は跳ね返され折れ曲がった掛け布団を退かし、端を捻って綱吉の肩へと掛けてやる。人肌の温もりを残す綿入れに触れ、小難しい顔をして寝入っていた綱吉の表情が、ほんの少しではあるけれど緩んだ気がした。
 獄寺が綱吉を襲撃した夜が明けて、十数時間が経過していた。
 あの後獄寺は自分の失血具合も忘れて興奮しすぎた所為で卒倒し、同じく相応の傷を負った雲雀も誰かに姿を見られる前に部屋へ引っ込んだ。倒れた獄寺を綱吉ひとりが運ぶのは難しく、そこだけリボーンが手を貸してくれたのには礼を言わねばなるまい。
 最初から最後まで傍観者だった彼だが、最悪の結末だけは回避させた綱吉の労力は素直に褒めていた。もし綱吉が雲雀を止められずに居たら、彼が仲裁に入るつもりでいたのは間違いない。雲雀は何があっても綱吉だけは守りぬく決意だが、リボーンが守ろうとするものは、綱吉を含め、この沢田家にあるもの全てだからだ。
 だから雲雀はしっかりと釘を打たれた。加減はしっかりつけて冷静に判断できるようになれ、と。そうでなくともお前は限度を知らないのだから、とも。
 雲雀は右肘に左手を添え、関節の具合も確かめる。曲げ、伸ばし、捻り、もう一度伸ばして肩の高さまで持ち上げ、振り下ろす。問題は感じられないが、節々がまだ痛むのだけはどうにもならなくて、彼は眉根を寄せながら小さく首を横へ振った。
 垂れ落ちる前髪が少し短くなっている。綱吉も流石に皮膚を再生するのに手一杯で、髪の毛までは気が回らなかったのだろう。こちらも放っておけばそのうち伸びてくるので問題ないが、本音はあまり目を露出させたくはなかった。
 雲雀は短くなった前髪を指でつまみ、軽く引っ張る。思った通り、以前のように完全に隠すのには若干長さが足りていない。暫くは色々と自重せねばならないと、幾度目か知れないため息が漏れる。片方の膝を曲げて引き寄せると、綱吉に被せた分も一緒に引きずられ、彼が鼻から息を吐く音が聞こえた。
 まだ眼を覚ます様子が無い、よほど疲れているようだ。
「……」
 有難う、と素直にいえたならよかったのに。綱吉へ布団をかけ直してやりつつ心の中でだけ呟いて、雲雀は枕元に畳んで置かれていた新しい着物を広げた。座したまま羽織り、紐を一重に巻きつける。きちんと着るには立ち上がらねばならないが、それにはまず眠ったままの綱吉を退かさなければならなくて、折角気持ちよさそうに眠っている彼を起こすのは忍びない。だから今はこれで良いと、全身を襲う虚脱感に首を揺らしながら雲雀は綱吉の髪をそっと撫でた。
 彼は夜明けの後一度雲雀への治癒を施すと、食事もそこそこにリボーンと一緒に神域の結界内に入り霊水を汲んで戻ってきた。清められた榊にその霊水を浸し、毒に当てられた人々を祓って回る為だ。最初に奈々へ、次いで症状が重かったハル、村の人々。 
 人数は多くなかったものの、全員を診る為に村の端から端までを歩き回ったに等しい。普段から体力に乏しい彼の事、屋敷へ通じる石段を登りきった頃には足も棒になっていたはずだ。
 ただ彼は自分よりも周囲の人々を優先させる傾向があるから、村人を助ける術が分かったとあれば居ても立ってもいられなかったのだろう。清められた霊水の力を借りて体内に蓄積していた毒素を取り払い、癒す。床に就いていた間に低下した体力の回復は各人の生命力次第だが、蟲毒の影響は完全に拭い取られたに違いない。
 残る問題は獄寺だが、彼もまた、池に引かれていた霊水と綱吉の霊気によって浄化された。
 鬼と人間との違いは、外見上では角の有無くらいしかないが、魂の構造が根本的に異なっている。鬼は人のそれよりもずっと強大で濃い魂を内包しており、ただ其処に居るだけで周囲に悪影響を及ぼしかねない為、通常はそれが外へ漏れないように自制を働かせている。
 鬼はどちらかと言えば精霊や神といった分類に近く、肉体を持った精霊とも呼ぶ者も居る。彼らは自然界には好影響を及ぼすが、獣や人には濃すぎる魂の気配が悪いほうへ作用し、生命が本来持つ野生を呼び覚ましてしまう可能性も秘めている。
 そうならない為にも、鬼たちは人との接触を極力拒むし、もし接してしまった場合も、相手の人生を狂わせない為に己の魂に枷を設ける。鬼の子供はまだ自分の意思で行うのも難しいようだが、獄寺も御多分に洩れず、鬼の里を出て行く際に里の大人から枷を嵌められていたはずだった。
 だがそれすら感覚が鋭い綱吉には充分毒で、自分を守るために綱吉は内に向くべき防御壁を外へ向けなければならなかった。彼の体調が優れなかったのはこの所為で、今回綱吉が獄寺に施したのは、鬼と人が交じり合い不自然に歪んでしまっていた魂を、どちらかと言えば人の側へ流れを整えることだった。
 獄寺が半魔である自分を捨てて人間の側に落ちるか、人間である部分を捨てるかは、綱吉が決めることではない。だが人里で暮らす以上は、人の気配に寄せておく必要があるのもまた事実。
 今回の一件で彼の魂は補正された。今後彼が綱吉に、そうと知らず何らかの悪影響を及ぼすこともなければ、神木の精霊であるランボに嫌われることもなくなるだろう。あの子は強い魂に敏感なだけで、雲雀も最初は随分と嫌われたものだ――雲雀はランボが見えないが。
「ん……」
 淡い橙色の光が優しく部屋を照らしている。まだ行燈の火は必要のない時間帯で、けれど微かに元気になったらしい奈々が夕食の支度をしているのか、美味しそうな匂いがどこからともなく流れてきていた。
 今日は数日ぶりに彼女の手料理が楽しめる。楽しみだ、と顔を上げた雲雀は布団の端を握りしめている綱吉の髪を飽くことなく梳きながら、やや血色が悪くなっている彼を心配する。
 無理をさせた事、やはり目が覚めたなら本人に直接詫びよう。刺激を与えぬようにゆっくりと頬を撫でると、擽ったかったのか産毛を震わせた彼は首を亀のように窄めさせた。
 ふと、柔らかな綱吉の髪の間に何かが紛れ込んでいるのを見つけ、指で器用に掘り出す。親指と人差し指とで抓んで顔の前に持って行くと、それは他でもない、昨晩の一件で雲雀の命を守った硬質化した皮膚の欠片だった。
 黒ずみ、高熱を浴びたからだろう、表面が泡だった状態で固まっている。少し力を加えると簡単に砕け散り、灰色の粉となって雲雀の腿へと降り注がれた。ぱりん、と乾いた音が微かに耳の中に残って、巧く言い表せない感情に雲雀は唇を噛んだ。
 己の左胸を押さえ、改まった気持ちで眠る綱吉の横顔を見下ろす。自分の負担は綱吉への負担にも繋がる、分かっていた筈なのに一瞬でも忘れ、暴走した自分の行動を激しく悔いた。雲雀は何度も、綱吉に向かって、綱吉の体調不良は自分にも返ってくるのだから無理をするなと言い聞かせていたというのに。
 身勝手極まりない。
 自己嫌悪に陥りながら、それでも指は綱吉に吸い付いたまま離れない。今更手放せるわけがない、この子を。どうしようもなく、本当に、溺れている。
「起きたか」
「……ああ」
 唐突にどこからともなく声が聞こえて、返事をすれば目の前に煙と共に黄色い頭巾の赤ん坊が姿を現す。布団の上に降り立ったというのに彼自身に重みが無いのか、柔らかな綿が入った厚みの在る布地が沈むようなことはない。。
 相変わらず、謎な存在。彼はちょっと首を傾けて雲雀から視線を外し、横を見た。すやすやと気持ちよさそうに寝入っている子供に肩を竦め、黒目がちな目をほんの少し細める。
「起こさないでよね」
「お前じゃあるまいし」
 どちらかと言えば突拍子ない行動を唐突に起こすところがあるリボーンのこと、先に牽制すると今度は肩を震わせて皮肉られれてしまった。過去の前例には枚挙に暇がない為、雲雀は反論はせずにただ機嫌悪く顔を背けるに留める。
 向いた先、西日はゆっくりと影を長くして一日で最後の輝きを放とうとしていた。
「あんまり馬鹿なことはするな」
 背中越しに聞こえた声に、雲雀は返事をしない。黙って陽光に漆黒の瞳を細めながら見入るのみだ。
「それでなくても、年々お前の中の力はでかくなりつつある」
「…………」
「ツナにだって、限界はあるんだぞ」
「……承知している」
「内側から食い破られたくはないだろう」
 あの時ああしていれば、こうしていれば。それを語り合うのは無駄な行為でしかない。あの時あの場所にリボーンがいたならば、もっと違う今があったかもしれないが、それを求めたところで虚しいだけだ。現に今自分も綱吉もちゃんと生きている、それでいいではないかと雲雀は思うが、だからと言ってこのまま何もかも正面向き合わないままで大人になっていくのも、不可能に近い。
 いずれ転換期が来る。
 綱吉が蛤蜊家十代目を継ぐと覚悟を決めた分、雲雀も覚悟を決めなければならない。彼が成長し、立派な大人になったその時に、果たして自分はまだ健在でいられるかどうか、このままでは分からないのだから。
 いや、それ以前に。
「そうでなくとも、お前はツナのことになると我を忘れるからな」
 どこか呆れ気味に吐き出されたことばに、一瞬だけだったが思考が遠くへ飛んでいた雲雀は我に返った。無意識に掻き抱いていた着物のあわせ、左胸の上に置かれた手に視線を落とし、慌てて外した。
「ところで」
 強引に話題を変え、雲雀は綱吉の髪に手を置いた。量の多い髪の間に埋もれた指が擽られる。
「あいつは?」
「獄寺なら、流石は半分だけとはいえ腐っても鬼、って奴だな。完治ってところまではいかないが、治りはかなり速い」
 雲雀によって死の恐怖に晒された男ではあるが、元々図太く打たれ強い性格をしていたのだろう。昼過ぎに眼を覚ました彼は、まだ折れた骨が完全に繋がったわけではないのに、元気に歩き回るところまで回復していた。
 今はまだ足元がふらついている奈々を手伝い、夕食の準備中だとか。
「変なものは入ってないだろうね」
「本人に聞け」
「村の様子は」
「落ち着いてるな」
 綱吉が動き回ったお陰で、平癒しきるには時間がかかるだろうが、村人を苦しめていた毒気は完全に祓われた。本当のことを教えるわけにはいかないので根が正直な綱吉は弁解に苦労したようであるが、獄寺を疑ってかかっていた人物も家族が治ると知ると、安堵の息を漏らしたらしい。
 村から戻って直ぐに綱吉は中断していた雲雀の治療に専念し、途中で力尽きて眠ってしまって、この状態がある。愛おしげな視線を向けつつ綱吉を撫でる雲雀に再び肩を竦め、リボーンは黄色の頭巾をぽんと叩いた。
「ツナにも程ほどでやめておくように言っておけよ。お前だって獄寺と一緒で、治りは他の連中よりずっと早いんだ」
「それは本人に言って」
「しかし、面倒臭ぇな。お前を治せるのがツナだけだってのも」
「僕の所為じゃない」
 ぶっきらぼうに言い返すと、やれやれと首を振りリボーンは煙となって姿を消した。ぽん、という軽い炸裂音をその場に残し、一秒後には気配も残さず完全にいなくなってしまう。神出鬼没、彼の行動を束縛することは誰にも出来やしない。
 いったい何をしに来たのかと居なくなった相手に嘆息し、再度釘を刺しに来たのだと思い至る。雲雀は肌蹴ている胸元に手を添え、肉厚な胸板の下に潜むはずの心臓を捜して掌を押し当てた。
「……ん……?」
 それまで静かに眠っていた綱吉が、鼻から声を漏らしてもぞりと動く。握り締めた布団を引っ張って自分の側に寄せながら、眉間に寄せた皺を深くさせて唇を浅く噛んでいた。こめかみが痙攣気味に数回引き攣り、雲雀が掌で其処を撫でてやる。するとホッとした息を前歯の隙間から漏らして彼は強張らせた肩から力を取り去り、枕にしていた肘を伸ばして頭を床へ落とした。
 掛け布団を貰っていても、寝転がっているのは固い板敷きの床。さほど高低差があったわけではないが、ごんっ、と小気味の良い音が雲雀の耳にも聞こえた。
「うぅ……」
 それでも即座に眼を覚まさないところからして、よっぽど眠りが深いのだろう。けれど徐々に覚醒しつつある彼はぶつけた額を板に押し付けたまま、曲げた膝を寄せて先に腰を立てた。ろくろ首を思わせる動きでのっそり起き上がる。
 前髪に隠れ気味の額が赤い。まだ半分眠っている顔は実にだらしなく、涎の跡が顎にまで伸びていた。
「はえ……ひふぁりしゃん……?」
 おまけに呂律も回っていない。とろんとした目で見上げられ、雲雀はどう返事をしたものかと悩みつつも、みっともない涎だけは指先で拭い取ってやる。綱吉は寝起きで爆発した髪の毛にも構おうとせず、触れてきた体温が嬉しいのか目を閉じて、猫の如く喉を鳴らし擦り寄ってきた。
 だからそのまま、構わずに撫で回して布団に引き寄せてやると、彼は抵抗せずにすんなり雲雀の膝に収まる。綱吉が動く度に、彼の着物の襞やそこかしこから黒い欠片が落ちていった。
「あー……俺、寝ちゃったのか」
 雲雀の負担にならないように体の位置をずらしつつ、上半身を預け凭れかかった綱吉が呟く。大分意識もはっきりとしてきているようで、先ほどまでのだらしなさは薄れていた。
「かれこれ三日くらいかな」
「……どうりでお腹が減ってる」
 冗談で言ったのに通じていない。大真面目に頷き返され、雲雀は絶句しつつそうと知られぬようにため息を零した。
「ヒバリさん?」
「なに」
「まだ残ってる」
 見下ろすと、胸のすぐ前に頭を置いた綱吉がじっと大きな目を彼に向けていて、細く頼りない腕が伸び雲雀の左頬へ触れた。ちりっとした痛みを一瞬だけ感じ取り、雲雀は咄嗟に首を逸らして綱吉の指から逃れる。そこは、確か獄寺の呪符によってつけられた傷ではなかったか。
 どうしても劫火に焼かれた全身の火傷に目が行って、そういう細かな切り傷などには意識が向かなかったらしい。痛かっただろうかと、不用意に触れたことを後悔している綱吉へ、大丈夫だと首を振り、自分でも既に瘡蓋になって塞がり始めている傷を撫でた。
 さっきは急に触られたので痛みが走ったが、慎重に指先を押し付ければそれ程酷い傷ではないのが分かる。数日もすれば痕も残らずに新しい皮膚が再生されるだろう。
「放っておいていい」
「でも」
「空腹だと言っていただろう」
 大丈夫、ともう一度口に出すが綱吉はなお渋り、懇願する目を潤ませる。だが雲雀の指摘を受け、顎を掴まれると、拗ねたのか視線を外した。それを無理やり、雲雀が自分の側へと向けさせる。
 顎を支えている指先に、僅かだが力が篭められた。獄寺の一発芸なんかよりもずっと熱い炎を瞳の奥に宿らせて、雲雀がそっと綱吉の耳元へ唇を寄せる。柔らかな舌で耳朶を擽ってやると、綱吉の首が思い切り窄められた。
「食べていい?」
「それは、……だめ。見えるところはそこ以外全部治したつもりだけど、内側はまだ再生できてないんだから。そりゃ、本当は」
「少しなら平気だろう」
「だから、そういう声出さないでくださいってば!」
 背を抱く腕にも力を込め、離れようとした綱吉を抱き寄せる。顔を寄せて上向かせ、唇が触れ合う寸前の距離で囁けば、綱吉は精一杯の意地を見せて雲雀を突っ張り返した。
 茹蛸に等しく顔全部を真っ赤にさせ、綱吉は急いで着物の裾を合わせて後ろへ下がる。空っぽになってしまった自分の腕の中をつまらなさそうに見下ろし、雲雀はちらりと綱吉を見てから明るさが薄れつつある西の空へ視線を向けた。
 淡い光を浴び、雲雀の黒髪が一層際立って綱吉の目に映る。彼はまだ若干焦げた部分を残す髪をゆっくりと掬い上げ後ろへ流し、その手で口元を覆い隠して欠伸を噛み殺した。悔しいが、そんな日常当たり前の仕草さえ彼がやれば物の見事に周囲の風景から切り離され、ひとつの造形美として成立するから不思議だ。
 自分の平凡な見た目と貧小さと比較して、綱吉は泣けそうだった。
 どうしてこんなに綺麗な人が、自分の傍に居てくれるのだろう。それは決して大っぴらに人には言えない事情があって、綱吉と雲雀は、数日と離れたまま生きていけないのだから、仕方ないことでもあるのだけれど。
 幼い頃、雨の中、道に迷ってしまった自分を必死になって探し出してくれた彼を思い出す。あの時初めて、この人は綱吉を名前で呼んだ。
「綱吉」
 その名前を、不意に呼ばれた。
 弾かれたように顔を上げ、綱吉は雲雀を見る。彼はいつの間にか部屋の外から内側へ視線を戻していて、緩やかな動作で左腕を伸ばし、綱吉を誘った。広げられた指先に糸でも結ばれていて、その先が綱吉の肩にでも絡み付いているようだ。視線が重なると、逃げようと言う気はもう何処にも残っていなかった。
「おいで」
 指を順に曲げて雲雀が招く。綱吉は体を前に倒して床に両手を置くと、右膝と右手を同時に前に出して今しがた広げたばかりの距離を自ら詰めていった。
 体の線に沿った着物が、綱吉の歳の割に丸みを残す柔らかな輪郭を、落ち行く光の中に浮かび上がらせている。対する雲雀は大雑把に羽織っただけの着流し姿で、胸元も広げ均整よく鍛えられた身体を惜しげもなく晒していた。
 綱吉の右手が雲雀の肩に掛かる。背筋を逸らして顔を上げた彼は、そのまま赤い舌を覗かせて彼の傷口を舐めた。唾液が肌を伝い落ちていくのを先回りしてそれも舐め、自分から雲雀の唇を求めて動く。
 耳元で呼吸する音が聞こえる。ふたり分の呼気、最初はずれていたものが次第に調子を揃え重なっていくのが分かって、同時に胸が高鳴るのも分かる。首筋が緊張して産毛が逆立ち、ちりちりと空気を弾いている。膝を真っ直ぐに立てて首を伸ばしているので、どうしても胸の辺りが沈み、勝手に腰を突き出している体勢になってしまっているが、それすらも気にならない。するりと伸びてきた雲雀の左手が、艶のある長衣の上から綱吉の輪郭をなぞっていった。
 柔らかな臀部の肉を布ごとやんわりと揉まれる。
「っあ、……ん」
 裾から手を入れられ、直接太股に雲雀の指が触れた。その冷たさに声が漏れ、反射的に膝を閉じようとしたところで上の口を塞がれる。濡れた舌が綱吉の唇を悪戯になぞって蠢き、吐いた息をぶつけてやると雲雀は笑って更に上へと手を動かした。
 綱吉の心が緊張に震える。怖いと毎回思うのに、一度熱を与えられると身体が勝手に反応を示すようになってから、どれくらい経ったのだろう。雲雀の傷もまだ癒え切っていないし、自分だって疲れが抜け切っていない。雲雀に負担をかけるような真似はしたくないと思っているくせに、どんどん熱を帯びる体は思いと裏腹に彼を欲しがって止まらない。
 するりと綱吉の太股を撫でた雲雀の手が、そのまま布地を手繰って後ろへ回る。いっぱいに広げられた掌が遠慮なく臀部を撫で回し、手首に引っかかって捲れ上がった裾からは赤みを帯び始めている肌が露になった。
「や、待っ……」
「待たない」
 まだ心の準備が出来ていない。割れ目に沿うように指を動かされ、ひくりと喉を鳴らした綱吉が懇願するが、雲雀は綱吉の仰け反った顎に歯を立てて笑うだけだ。そのまま彼は綱吉の背中を抱きかかえて胸を突き出させ、窪んだ鎖骨の間へと顔を埋めた。
 宥めるように背中を撫でる手は優しいが、もう片方の腕は容赦なく綱吉の熱を的確に煽っていく。薄い皮膚に牙を立てられ、強く吸い付かれ喉が引き攣った。雲雀の肩に置いた手を突っ張るが、力の入らない指先は彼の衿を滑るだけで背中へと落ちていった。距離がぐんと狭まり、上半身が沈みそうになって咄嗟に雲雀の頭を掻き抱く。
 素足の裏側を風が撫でていく。開けっ放しの戸口から潜り込む空気は、少しずつ夜の気配を匂わせて冷たさを増しつつあった。
「ヒバ、リさ……」
 なにか、忘れている気がする。身を竦ませながら彼へ擦り寄り、綱吉は必死に呼吸を整えながら彼の黒髪を引っ張った。不機嫌に眉を寄せた彼が背を伸ばして口付けて来たので、避けもせずに受け止めながらも、綱吉は頭の片隅に大事なことを置き去りにしているような気がして、どうにも落ち着かなかった。
 さっき雲雀は、綱吉が三日も眠っていたといったが、それは幾らなんでも嘘だろう。日暮れ時、窓から流れる風には微かに魚を焼く匂いが混じっている。
 そう、多分もうじき夕食。そしてあの時彼は、出来上がったら呼びに行くとかなんとか、言っていた。
 体のあちこちを包帯で覆われながら、利発に動き回っていた白髪のあの半魔の青年は。
「じゅうだいめー! ご夕食の準備が整いましたよー!」
 嗚呼、矢張り。
 裏庭と土間とを仕切る板戸を開け放ち、お気楽な声が響き渡る。瞬間綱吉を抱き締めていた雲雀の体がびくりと反応し、そのまま動きを停止してしまった。綱吉としては臀部を鷲掴みにされたまま硬直するのはやめて欲しかったのだが、かといってあのまま動き続けられるのも正直困る。自分自身も雲雀に体重を預けたまま、どうしようかと視線を宙に泳がせた。
 早々に返事をすれば良かったのだろう。だが咄嗟に頭に何も浮かんでこず、動揺した心臓が食い破られそうなくらいに早鐘を打ち鳴らすのみ。そうこうしているうちに、返事がないのをいぶかしんだ獄寺が土間へ脚を踏み入れたのか、乾いた土を打つ音がする。
 それがどういう結果を生み出すかも忘れて、綱吉は息を殺し雲雀にしがみついた。彼は相変わらず綱吉の内腿に手を添えたまま、空いた手で綱吉の首根を引き寄せる。足元の布団に沈めて隠そうとしているようであったが、これでは頭隠して尻隠さず、で。
 しかも悪いことに、雲雀の部屋の板戸は開けっ放しだ。ものの数秒で、奥へ進もうとしていた獄寺の姿がその空間に現れる。気づかずに通り過ぎてくれまいか、という願いは淡く儚く、砕け散り。
「なっ……」
 最初に絶句。
「って」
 半歩引いて身構え、目を丸くした獄寺が眼前で展開されている状況を出来るだけ正確に、憶測を交えつつ考える。
 衣服を肌蹴させている雲雀が、綱吉の首を押さえて恥部へ押し込めている図、に彼は理解した。
 同時にぷちん、と彼の頭の中で何かの螺子がはじけ飛ぶ。
「ヒバリ、てんめぇぇえぇー!」
「……邪魔しないでくれる?」
「十代目から今すぐ、速攻、即、離れやがれっ」
 激昂した獄寺が袖口に両手を交差させて呪札を抜き取り身構える。至って涼しい顔の雲雀が冷たく言い返し、火に油が注がれてもう日も暮れて薄暗くなっているのに、獄寺の周囲だけが妙に明るく照らされているように見えた。
「え、えと……」
 なんだろう、この状況。つい最近も見た気がする。
 冷や汗をだらだら背中に流した綱吉が、顔を雲雀の胸元に押し付けられたまま混乱気味の頭をどうにか整理しようと務める。頭の上では落ち着き払っているが不機嫌な雲雀と、興奮して支離滅裂になっている獄寺が激しく相手を罵り合っていて、もしこの場に綱吉が居なければ、まさしく一触即発の事態に陥っていただろう。
 いや、既に遅いかもしれない。
「ちょっと、ふたりとも、いい加減にしてよね!」
「君は少し黙ってて」
「十代目、今お救いします!」
 怒鳴り声をあげても効果がなかったどころか、益々険悪な空気がこの場に流れ始め、綱吉は脱力して雲雀の布団に突っ伏した。
 ひょっとしてこれから先、ずっとこの調子なのだろうか。頭上で展開される子供でもしないような口喧嘩に頭を痛め、聞きたくなくて綱吉は頭から布団を被って丸くなった。

2007/1/25 脱稿
2008/8/23 一部修正