硬膏

「痛っ」
 静まりかえった室内、紙をめくり、またはシャープペンシルを走らせる音ばかりが響き渡るだけだった空間に、不意に人の声が小さく走った。
 それまで黙々と手元のファイルを読み、時折握ったボールペンで修正や気になった部分の追記を行っていた雲雀恭弥は、微かに顔を顰めさせ、向き合っていた資料から視線だけを持ち上げた。細い狐目に黒い瞳がゆるりと動き、部屋のほぼ中央に設置された応接セットを射抜く。そこに座っている人物が、今発せいられた声の主だ。
 明るい茶色の髪、どう手入れしても跳ね返ってしまうという癖毛を盛大に爆発させている以外は、ネクタイもきちんと締めている模範的な制服姿。さっきまでは確か、数学の宿題を必死になって解いていた筈だ。一問として進んだ様子はなかったけれど。
 その彼が、横から見た限りでは顔を顰めて己の指をじっと、睨むように見つめている。唇を窄めて息を吹きかけているのは左手の中指か薬指で、どうしたのだろうと首を捻っていると、雲雀が眺めている前で彼の膝にあった教科書が音を立てて床に落ちていった。
「あ、あ」
 己の手と、広げていたページを閉じて独りでに落ちていく教科書。どちらを優先させるべきかで迷った末、教科書を選んだらしい彼が前傾姿勢で足下へ手を伸ばす。その際にまた左手が何かに触れたようで、小さくだが痛い、と呟かれるのが聞こえた。
 雲雀は今度こそはっきりと分かる程、顔を顰めさせる。
「綱吉」
「え、あ、はい。あ、すみませんなんでもないです!」
 沢田綱吉。彼はこの並盛中で最大権力者である風紀委員長の雲雀恭弥が、自分が立てた騒音で機嫌を悪くしてしまったのではないかと危惧して声を裏返した。左肘を遠くへ伸ばし、右手は曲げた膝の向こう側に落として、首は壊れた人形のように不自然なくらいに横に捻られて雲雀を向いている。なんとも珍妙なポーズをソファの上で展開させている彼の姿は、もれなく雲雀に溜息をもたらした。
 今は放課後、ここは応接室。泣く子も黙るという風紀委員長の居城と化しているその応接室で、我が物顔で宿題を広げている綱吉の神経の図太さには、当の雲雀も言葉を失い、呆れる程だ。何がどうしてこういう状況になっているのか、語るには甚大な時間が必要になる為省略するが、敢えて一言で片づけるとしたならば、そういう状況を許せる心境を雲雀が綱吉に抱いている、という、つまりはそういう事。
 綱吉は溜息を零した雲雀の顔色を窺って自分は青くなり、慌てて教科書を拾い上げて膝に広げる。だが左手は相変わらずソファの上に横たわったままで、雲雀の眉間に寄った皺の数も変わらないままだ。
「綱吉?」
「すみません、大人しくしてますから」
「そうじゃない」
 いそいそと肩を縮めて広げた教科書で顔を隠そうとする綱吉に、段々苛立ってきた雲雀が短く言葉を吐いた。不機嫌さが伝わってくる声色に彼はびくりと震え、怖々離れた場所に座っている雲雀を盗み見る。
 視線は当然ながら絡まない。目を合わせようとすると、先に察した綱吉が顔を背けてしまうからで、これでは埒があかないと雲雀は手にしたままだった資料を机に払い落とした。
 ばさばさと紙同士が擦れあう音が生まれて消える。教科書の適当なページに顔を伏せていた綱吉も、雲雀の不機嫌さの原因が、自分が音を産んだ事で雲雀の仕事を中断させてしまった事ではないと、いい加減気づく。だが果たして言って良い物かどうか逡巡している間に、痺れを切らした雲雀が立ち上がろうと椅子を引いた。
 咄嗟に弾かれて顔を上げ、なんでもない、と繰り返そうとした綱吉だったけれど。
 左手に走った微かな痛みにまた表情が歪み、雲雀の瞳もまた翳る。胸の前に引き寄せられた彼の左手は一見すれば何も変わった様子はないけれど、辛そうに唇を噛みしめている綱吉の表情と見下ろしている中指の第二関節辺りへの違和感に、雲雀は中腰の体勢のまま動きを止めた。訝しむ表情で慎重に綱吉を観察する。
 痛い、という声。ならば何処かを怪我したのだと推測は容易だ。怪我をした場所が左手中指だというのも、簡単に想像がつく。だが、では肝心の凶器となったものは。
 応接室には、綱吉を傷つける刃物なんてない。あるとすれば雲雀愛用のトンファーか、彼の机の引き出しにしまわれているカッターナイフくらいで、無論それらが凶悪な刃となって彼に見舞われたなんて事は一切無い。テーブルの上に広げられている文房具も、綱吉のシャープペンシルや消しゴムくらいで、危険さを伴うものは見あたらない。残るのは真っ白なままのノートと、教科書くらいか。
 雲雀は渋い顔のまま、無意識に手放したばかりの資料の角を手繰る。今日中に終わらせてしまわなければ明日以降に響く内容だけに、あまり綱吉にばかり構っていられないのだけれど、目の前で彼が辛そうな顔をしているのを放置するのは、嫌だ。
 それでなくとも、折角彼の側から訪ねてきてくれたというのに、相手をする暇もない自分の境遇が恨めしいと感じているのに。
「指」
「た、大したことないんです」
 本当、平気ですから。
 遠慮の塊がソファの上に鎮座している。益々雲雀の表情は険しさを増していって、指先で紙を弄る速度も少しずつ上がっていった。そして丸みを帯びた紙の背が限界を超えて跳ね返ったところで、雲雀は自分が意識せぬまま触れていたものを思い出す。
 紙。
 ああ、と妙な納得が胸の中に落ちてきて、同時に雲雀の身体はクッションの柔い椅子へ沈んだ。ぎし、と金属製の支柱が軋む音を耳にし、綱吉も何故か安堵の息を零す。それが若干気に食わなかったが、雲雀は構わずに机横にある棚の上から二番目の引き出しに指をかけた。
 乾いた木版の表面が擦れあう音が雲雀の耳にだけ届き、綱吉はというとやや居心地悪そうに身体を揺らしてソファに腰掛け直していた。ただ左手を気にする仕草は相変わらずで、左の頬に緊張が見受けられる。雲雀がじっとそこを注視しているのに気づいているのかいないのか、彼は左親指や薬指を交互に動かし、傷が出来ているだろう箇所に触れるか、触れないかの距離を幾度となく往復させていた。
 気にすると痛みが増すのだろう。集中力も途切れてしまっていて、宿題も再開させられずにいるようだ。もともと不得手の数学だったから、最初から集中力云々以前の問題であった気もするが。
 雲雀は静かに、出来るだけ音を立てないように引き出しを半分ほど棚から抜いた。顔の向きは中央にいる綱吉に据えたまま、暗く翳った瞳だけを右方面へ流した雲雀は、随分と古く曖昧な記憶を頼りに、確か此処にあったはずだと仕切り板で整理整頓が行き届いた棚に細い指を走らせた。
 万年筆、ボールペンと換え芯、印鑑と朱肉にカラーペン、カッターナイフや鋏といった文房具諸々が種類別に片づけられているその中で、一際異彩を放つものが彼の目にとまる。引き出しの奧の方で、長い間忘れ去られたまま放置されていたと分かる、銀色で煙草の箱程度の大きさをした缶ケースだ。
 彼は緩やかに指を曲げると、仕切り板に引っかかっているそれを傾け摘んで取り出した。中に入っているのは質量も軽いものらしく、揺らしても音はしない。空っぽかとも思われたが、雲雀の表情はこの中にしまわれているものを確信していて、彼は用済みとなった引き出しを抜いた時同様静かに戻し、背もたれに体重を預けた。
 腹の前に取り出したばかりの銀のケースを持って行き、蓋を弾き飛ばす。蝶番で固定された部分が派手に跳ね返って彼の指を噛んだが、気にする事なく雲雀は缶を揺らし、中身の数を確かめた。
 綱吉はまだソファ上で顔を顰めている。時折様子を窺うように雲雀を盗み見るくらいで、左手を気にする仕草には変化がない。
 雲雀が椅子を引き、今度こそ立ち上がる。コマが床に擦れて音が大きく響き、肩を大仰に揺らした綱吉がハッとなって顔を上げて雲雀を見た。それからばつが悪そうにして左手を右手で庇いつつ、目を逸らす。言いたい事があるならはっきりと言えばいいのに、と、彼が普段群れている連中と自分に対しての対応の違いに苛立ちながら、彼は机に置いた缶に指を入れ中身をひとつだけ抜き取った。
 拳を軽く握り、机を大回りして応接セットへと近づく。身動ぎした綱吉はどうしようかという困惑をそのまま表情に浮かべ周囲へ視線を巡らせた後、観念したのか肩を落として大人しくなった。雲雀がそのソファを挟んで後方に立つ。見上げる体勢になった綱吉が、弱り切った顔をして瞳を揺らした。
「ヒバリさん、あの」
「見せて」
 また綱吉の口からついて出ようとした「大丈夫」という言葉を制し、雲雀が腕を伸ばす。咄嗟に身体全部を使って守ろうと動いた綱吉の左手を強引に捕まえ、彼は嫌がる綱吉の意志を無視し自分の前に彼の指を広げさせた。
「いたっ」
 傷が痛いのか、それとも無理な姿勢から腕を捻られたからなのか。どっちつかずで、どちらとも該当する悲鳴をあげ綱吉は眉を持ち上げて唇を噛みしめた。
 眉間に皺が寄るのは雲雀も同じで、彼は綱吉が必死になって誤魔化し続けていた指先の傷を見つけると、あからさまに嫌そうな表情を作って本日何度目かの溜息を零した。
 綱吉の左手中指、第二関節から第一関節に向かっての側面が、物の見事にぱっくりと裂けてしまっていた。
 何をどうすればこんな傷が出来るのか、不機嫌に口元を歪めた雲雀を下から窺って綱吉は言葉を詰まらせる。これは痛いに決まっている、なにより傷口が大きい。挟むように少しだけ力を加えると、裂けた皮膚の間から赤い肉が覗いて見えて、血こそ殆ど出ていないものの雲雀の無体な確かめ方に綱吉は喉を引きつらせた。
 もとから痛いものを、更に痛めつけてどうするのか。つい無意識にやってしまった自分の行為に舌打ちし、すまない、と口にすれば今度は綱吉がきょとんとした様子で、意外そうに目を丸めて雲雀を見つめた。
「なに」
「いえ、なんでも」
 悪いと思ったから素直に謝罪したのに、驚かれてしまうだなんて。綱吉の額を思わず空いていた方の手で小突きながら、雲雀は丁度広げたその手に握っていたものを思い出す。一度綱吉の手を放して彼の自由にさせ、両手で机から持ってきたものの封を顔の前で破いた。
 ピリっという軽い音。
「指」
 出して、とすかさず腕ごと引っ込めようとした綱吉を牽制し、雲雀が短く言う。従わなければ先程の二の舞だと分かるので、綱吉も今度は大人しく、後方に佇む雲雀に届きやすいように座る向きを調整しながら左肩を持ち上げた。
 腰の位置をソファに対して平行ではなく、やや斜めに角度を持たせる。左肘が背もたれの上辺に沈み、一緒になって上半身もやや斜めに傾いた。雲雀は丸めたゴミをズボンのポケットへと押し込むと、それでも遠慮がちに延びている綱吉の指を眺める。
 雲雀が傷口近くに触れたからだろうか、さっきまでは無かった赤い血が僅かに切り裂かれた皮膚からにじみ出ていた。
「痛い?」
「大丈夫、です」
 まったく、この子はどこまで強情なのだろう。心の中で嘆息を繰り返し、雲雀は差し出されている彼の指ではなく手首から掌にかけてそっと包み込んだ。
 痛ければ素直にそう告げれば良い、それは何も悪いことではないのだから。
「ヒバリさん?」
 不意に押し黙った雲雀が気になって、綱吉は肩を揺らしながら背後を窺う。どこまでも困惑の色を隠さない彼が急に哀れにさえ思えてきて、彼が本心をはき出せないのは自分が悪いからだろうか、とさえ考えてしまった。
 自分たちの間には、まだ超えるべき壁と溝が無数に残されている。身体は近いのに、心は遠いままなのか。
「なんでもない」
 緩やかに首を振り、手にした絆創膏の糊面を覆う紙を剥がす。片方だけを先に外し、綱吉の指へそっと沿わせて傷口に硬膏が触れるように距離を測りながら皮膚に押しつけた。位置が定まってから、もう片方の薄紙も外し、傷口に巻き付ける。
 薄い黄色が白い綱吉の肌を覆い、ガーゼ部分にじんわりと赤いものが染みこんでいくのが見て取れた。
「きつい?」
 人の手当など滅多にするものではない。どうしても自分では分からない感覚というものはあって、固定がきつすぎただろうかと顔を顰めている綱吉の様子を確かめる。下から顔をのぞき込もうとして膝を折ると、前髪の隙間から覗く琥珀が僅かに揺らめいた。
 照れくさそうに、はにかんだ笑みを浮かべている。
「あ、なんか」
 言葉が即座に思い浮かばない、と彼は小首を傾げながらほんの少し朱色の混じった健康的な肌をほころばせた。怪訝にしている雲雀を前に、えっと、と口よどんで視線を左右に揺らめかせながら、巻き付けられた絆創膏ごと自分の指を引き寄せる。
 大事に胸に抱き込んで、痛いだろうに、傷口の上をそっと撫でてみせた。
「凄い、どうしよう」
 泳ぎ気味の視線が絶えず雲雀を中心に捕らえている。曲げた膝を戻した雲雀が、変に浮き足立っている綱吉を不可思議に観察しながら困惑を表情に出す。そんな彼を落ち着かない目線で何度も見上げ、彼は最後にぎゅっと左手を抱きしめて目を閉じた。
 まるでそれがとても大切な宝物のように、左手を頬に押し当てる。
「嬉しい」
 たったひとこと、それだけを薄い唇が告げる。
 雲雀は一瞬、虚をつかれた時の顔を作って目を見開いた。それから頭の中で、今呟かれたばかりの綱吉の言葉を幾度か繰り返し響かせる。
 嬉しい。凄く、嬉しい。絆創膏を巻かれた事くらいで、こんなにも彼が喜ぶだなんて、雲雀は考えてもいなかったし、想像もしなかった。
 おそらくは教科書の端で切ったであろう指、痛そうにしていたので絆創膏が引き出しにあったのを思い出して巻いてやった。たったそれだけの事、とても些細でどうでもいいような、日常の記憶に埋没して明日には忘れてしまうだろう、そんな行動。
 雲雀はゆっくりと持ち上げた手で顎から鼻筋にかけての一帯を覆い隠した。緩みたがる口元を懸命に押し止め、赤くなろうとする肌と高鳴る心臓を抑え込む。耳に痛い心音がやかましく、綱吉にまで聞こえてしまうのではないかという懸念を抱きたくなるくらいに、うるさい。
「……そう」
 たったひとこと、相槌を返すだけで精一杯の自分を意識して、雲雀は視線を浮かせる。流した方角、天井には窓から差し込む夕日がテーブルに反射して淡く輝いていた。
「はい」
 はっきりと返事をして、綱吉が頷いた。大事に自分の左手を撫で、愛おしげに細めた瞳でじっと中指の絆創膏を見つめている。やがて彼は肘を曲げ、柔らかな唇にその傷口を押し当てた。
 舐めるわけでもなく、牙を立てるわけでもなく。
 そう、それは戯れでしかない口づけ。
 だが。
「……!」
「ヒバリさん?」
 なんと罪作りな子なのだろう、この子は。
 本格的に赤くなり始めた顔を片手だけでは隠しきれず、雲雀は俯くとそのまま腰を屈めて綱吉の肩に額を押しつけた。不思議そうに顔を持ち上げ、振り返ろうとする彼の行動を制し、後ろから両腕を回して抱きしめる。
「綱吉」
「はい?」
「キスしたい」
「はいぃ!?」
 唐突の要求に、綱吉が素っ頓狂な声を上げた。
 話の前後に脈絡がなく、雲雀の何がどうなってそんな思考に至ったのかさっぱり分からない綱吉は、ぐるぐると目を回しながら珍しく直接的に求められた事に喜ぶべきか、混乱する。確かにいつだって彼は何をするにしても行動が唐突で、前触れがなかったけれど。
 こんな事、言われた試しがない。
「綱吉?」
「いやあの、ヒバリさんちょっと待って心の準備が」
「待たない」
 しどろもどろに言葉を繋ぐ綱吉を遮り、雲雀は顔を上げた。至って真剣な色を秘めた黒水晶が戸惑う綱吉の心の中心を射抜き、声を失わせる。
 そんな目で見つめられたら、抵抗なんて出来るわけがない。
「ヒバリさん」
「なに」
 拒否権は君にはないよ、と言葉尻に含ませた返事に、綱吉は左へと視線を流しながら口ごもる。そんな事を言うわけがないと、自分の気持ちもちょっとは酌み取って欲しい心の中でせっつき、額が擦れあうまでの近さにいる雲雀を、上目遣いに見返す。
 漆黒に映し出されている綱吉の顔は、本人がはっきりと自覚できるくらいに、赤い。
「えっと、だから」
 こんな事、普段は絶対口が裂けても言わないけど。
 でも、仕方がない。あんな事言われたら、言い返さずにいられない。
「俺も、ですね」
 握りしめた左手に、雲雀の手が降りてくる。重なり合った指先が、そっと絆創膏を撫でた。それだけで、綱吉の背筋には電流が走る。
 触れられる場所から、熱が生まれていく。鼓動が速まり、自分が自分でなくなる錯覚に綱吉は目眩を覚えた。
「なに?」
「だから、俺も」
 揺らぎそうになる心を留め、琥珀の瞳に力を込める。深呼吸ひとつ、そして口を開く。

 俺だって、貴方に。
 キス。
 したい、です。

2007/1/21 脱稿