丙夜

 夜、眠れなくてこっそり家を抜け出した。
 満天とは行かない、闇に点々とか細く光を放つ僅かな星。この数年ですっかり星空というものが遠くなったと、今は星座にもならない疎らな星明りを、沢田綱吉は道端の電灯越しの空に見上げた。
 頭上を行き交う電線の黒が闇に飲み込まれ、距離感が危うい。そういえば幼いころはあの白色電球に蛾や羽虫なんかが無数にたかっていたのに、今年の夏はそういう光景も見かけることは無かったと思い出す。
 決して見目麗しい光景でもないし、好んで見たいというものでもないが、昔は当たり前だったものが気づかないうちにどんどん姿を消し、思い出す頃には既に過去の産物と成り果てている。蛾も害虫の類だから駆逐されるのは人間が生活範囲を広げる上、仕方の無いことかもしれないけれど、彼らだって短く儚くあるものの、生きているのに。
 星明りだってそうだ。数万年、数億年かけて遥か彼方にあるこの地球へ届けられた光が、汚れた空気に邪魔されて地表にまで届かない。長い旅路を越えてきた淡い輝きは、自分は此処に居るよという意思表示にも思えるのに、人が自分勝手に汚した空に阻まれて見えないのは哀しすぎる。
 眠れない気晴らしに外に出て来たというのに、考え込んで余計に陰鬱な気持ちになってしまった。綱吉は自分に肩を竦めながら、左の足を前に繰り出した。
 踵を踏み潰したスニーカーが、歩く度にパコパコと軽く空気を押し出す音を響かせる。靴底も大分磨り減ってしまった、汚れも酷く元もとの色も分からなくなっているスニーカー。それでもなんだか愛着があって、捨てられずにこうやって突っ掛け代わりに爪先を押し込んでは、近場の散歩の時なんかに履いている。
 自分は捨てられないのだ、愛着があるもの、少しでも自分に関わったものが。だから整理整頓がとにかく下手で、不要だろうと人が見れば笑いそうなものまで、大事に箱に詰めて押入れに仕舞いこんでいる。握る部分が短くなりすぎて使えない鉛筆や、色が抜けて擦り切れてしまっている小学校の通学帽子、ぺしゃんこに潰れるまで使い続けたランドセルや、もう着られないサイズの洋服まで。奈々にどれだけ呆れられても、大切な思い出が詰まっているそれらを綱吉は簡単に切り捨てられない。
 馬鹿だな、と思う。でもきっと、この性格は永遠に変わらないのだろう。誰が、なんと言おうとも。
 人に関しても同じだ。元々人付き合いが不得手だったし、不器用で何をやっても駄目、というのもあって、友人関係はごく限られた範囲に留まっている。リボーンが来て、獄寺が来て、山本と友達になって、いろんな連中が家にまで押し寄せてくるようになってからは、周囲がすっかり賑やかに騒々しくなってしまっているけれど、基本的なところは昔とあまり変わっていない。
 新しく出来る友人は少ないし、自分から人の輪に飛び込んでいくのは今でも稀なこと。
 だからこそ余計に、今自分を取り囲んでいる関係を大事に継続していきたいと思う。喧嘩をしないでただ馴れ合うだけの関係じゃなくて、時には正面からぶつかり合えるような、言いたいことははっきりと言って、間違いを正しつつ相手を思いやれる関係を築きたい。
 何処かで犬の遠吠えが聞こえる。夜闇に包まれた住宅街はシンと静まり返り、不気味なほど人の気配が感じ取れなかった。
 無論完全に家々が寝静まっているわけではなく、窓に引かれたカーテンの隙間から部屋の明かりが漏れている家もある。外にまで音を響かせないよう配慮しているだけで、生きた人が壁一枚隔てた先にいる事実は変わりない。けれど綱吉の前に続く道には、どれだけ両側の街灯が薄ら明かりを投げかけていても、深い静寂に包まれて不気味さが漂っている。
 向こう側から地獄へ向かう死神の霊柩車が走ってきても、不思議に思わずすんなり納得してしまいそうな空気がある。冷たすぎず、温すぎない絶妙な風が綱吉の肌を撫でて行き、思わず背筋に鳥肌を立てて彼は体を震わせた。
 両腕でしっかりと胸を抱き、肌をさする。吐いた息の確かさに、自分が死神に撫でられたのでは無いと実感して安堵し、一秒置いてから馬鹿馬鹿しい、と首を横に振った。
 気がつけば家から結構な距離を歩いていた。昼は見慣れた景色も、色を変えたブラウン管越しのような感覚で彼の前に広がっていた。
 そろそろ戻ろう、抜け出したことがばれていたら怒られるだろうし、心配させてしまう。それに幾らズボンを履き替え上着に袖を通しているとはいえ、靴の中が裸足では下から寒さが登ってくるのを防げない。
 よし、帰ろう。そう決めて綱吉は足を止め、回れ右をしようと首を先に捻る。道の先が交差する大通りでは、角にできたばかりのコンビニエンスストアが二十四時間営業の為に煌々と灯りを放っていて、そこだけ異空間のようだった。もう深夜もいい時間帯なのに、ガラス張りの店内では、外へ顔を向ける格好で雑誌を読みふける人の姿もある。
 昔からあった工場が閉鎖され、その後に出来たコンビニエンスストアは駐車場も広い。隅の方は明かりも届かずに薄暗いので、不良たちの格好のたまり場にもなっている。
 結局気晴らしにもならなかったな、と夜更けの散歩を堪能した綱吉は今度こそ踵を返そうとして、自分が立っている側の交差点に設置された自動販売機の前に佇む人影に、びくりと反応した。
 距離は五メートルかそこらだろうか。人がいた気配どころか動く空気も感じていなかったものだから、ついつい不必要に構えを作ってしまった。しかも直後に販売機が缶を取り出し口に排出する音が盛大に響いたものだから、綱吉は余計に怯えて背筋を硬直させた。
 自動販売機の前に立っていた人物が、喉の奥から引き攣った声を上げた綱吉に漸く気づき、腰を屈めて手を伸ばしながらではあるが、彼に振り向いた。販売機の照明が眼鏡のレンズに反射して白く輝き、それが余計に綱吉の恐怖心を呼び込んだ。お互い悪いことは何もしていないのに綱吉は逃げ出したい気分にさせられて、反対に足は竦んでしまって動けない。
 白い帽子がぼんやりと薄明るい中に浮かんでいる。闇と同色の服を行儀良く着込んでいる人物は、その格好で歩き回っていると補導を受けるんじゃないかと妙なところで綱吉を心配させた。
 知っている顔。
「……」
 こんな時間に何をしているのか、と無言の目で責められる。それはそっちだって同じでは無いか、と思わず睨み返すと、彼は眼鏡のブリッジを神経質そうに弄りながら、販売機から取り出したものを唐突に綱吉目掛けて投げ放った。
 前触れも予告もなしに放たれたそれを、綱吉は「え、え?」と狼狽しつつどうにか胸で、落ちる寸前で受け止める。胸骨に上辺に缶の角がぶつかって重い痛みが襲って来て、ぐっと息を詰まらせて堪えている間にもう一度、ガコガコっと販売機は鈍い音を響かせた。
「なに、急に」
「当たったから」
 片目を閉じて痛みをやり過ごしつつ顔を上げると、ぶっきらぼうにそう言い返される。彼の長い人差し指が販売機の中央にあるルーレット形式のゲームを示していて、どうやらもう一本オマケというものに偶然か否か、当たったらしい。
 二本も要らないから、一本を居合わせた綱吉へ、という事なのだろう。
「……先に言ってよ」
 ぶつくさ文句を言いつつ、綱吉は姿勢を戻して手の中の缶を見つめた。あちらも同じものを握っている、ブラックコーヒーだ。
「俺、飲めない」
「……」
 背後の幹線道路を、規定速度を軽くオーバーした乗用車が走り抜けていく。一瞬だけ明るくなり、すぐさま消えうせた束の間の明かりに目を閉じた綱吉は、僅かに遅れてやってきた突風に身を竦ませて暖かな缶を握り締めた。
 感じていなかっただけで、身体は思ったより冷えていたらしい。指先にじんわりと伝わってくる温もりにホッと息が漏れた。
 これは、奢ってもらったという事になるのか。文句よりも先に礼を言うべきだったと考え直し、綱吉はコーヒーを飲むかどうかは兎も角一言謝ろうと振り向いて、其処に在った存在を見失った。何処に、慌てて首を振り回して闇に紛れてしまっただろう背中を捜すと、予想外に足元近くからプルトップを持ち上げる音が聞こえて来た。
「わっ」
 綱吉と自動販売機の間にある建物の壁に背中を寄り掛からせて、彼がしゃがみ込んでいた。
「……」
 綱吉の驚き具合をつまらなさそうに見上げ、彼は態度を変えずに缶コーヒーを口に運ぶ。道路に直接腰を落とすのは綱吉には若干抵抗があるのだけれど、彼は全く意に介する様子も無く平然としている。人を寄せ付けない、むしろ関わるなと全身のオーラが物語っていて、綱吉はどうしたものかと苦笑いを浮かべながら缶を握り直した。
 立ち去るタイミングを逸した、けれど話しかけてもきっと会話は続かない。仕方なしに渡された缶のプルトップを自分も持ち上げ、飲み慣れないブラックコーヒーで唇を濡らしてみた。
「にが……」
 瞬間、舌の上に広がった苦味に顔が歪む。よくこんなものが平然と飲めるな、と位置が低くなった為余計に闇と同化してしまっている存在に視線を落とす。しゅっ、と何かが爆ぜる音が耳を突いて、続けて一瞬の赤い炎に白い煙が一本、黒い背景に浮き上がった。
 少し遅れて、綱吉の鼻腔を擽った特徴ある匂い。
「吸うんだ」
 未成年者が喫煙するのを咎めるというよりは、純粋な驚きを忍ばせて綱吉が呟く。眼鏡の奥の瞳が無言のうちに綱吉を見返して、ゆるりと持ち上げられた彼の右手から、一本だけが頭を飛び出した煙草の箱が差し出された。
 流石にこれは、言われなくても何を示しているのか分かる。綱吉は首を横に振って肩を竦めた。
「俺は、煙草、吸わない」
 獄寺だったらこの申し出、受けただろうか。誇り高い彼の事、きっと拒絶するに違いない。
 煙草の匂いは獄寺のお陰でかなり慣れてしまったが、それとは若干違っている煙の匂い。銘柄が違うと案外変わるものなんだな、と胸の中でこっそりと感心しながら、綱吉は闇夜に登りきる前に消えてしまう煙の行方を追いかけた。
「もうひとりは?」
「犬は煙草の臭い、嫌がる」
 素っ気無く、淡々と。
 言われて見れば確かに、あの牙のアタッチメントを交換することで様々な獣の特徴を発揮する男は、嗅覚も敏感そうで煙草の臭いは苦手そうだ。彼の態度や仕草からして、獄寺ほどヘビースモーカーという印象も無い。恐らくはたまに、吸いたくなった時にこうやってひとり煙をふかせているのだろう。
 そうして体に移った臭いが薄れ、分からなくなり始めた頃に、ひっそりとねぐらへと帰るのか。
 通行人は現れなさそうだが、歩道の真ん中に立ち続けるのも気が引けて、綱吉は彼が座り込んでいる壁の隣へ移動する。背中をべったりと預け、座らずに立ったまま、苦いコーヒーに再度挑戦して渋い顔を作った。
 視線を感じる。お前こそどうしてこんなところに居るのかと問われている気がして、口で言えばいいのに、と思いながら綱吉は素足でジーンズの裾を擦りながら眠れなかったのだ、とだけ告げた。
「そう」
 相槌は予想通り素っ気無く、もしかしたら問いかけるような目線が期待していた答えとは違っていたのかと勘繰らされる。どちらにせよ会話は続かず、微妙な空気が両者の間を流れたまま、時間だけが黙々と通り過ぎていった。
 速度超過の車、轟音を響かせるバイク。大型トラックにタクシー、一度だけ救急車。目の前の道路を慌しく駆け抜けていく車の数は、少ないようで案外多い。勿論昼の交通量とは比較にもならないが、こんな時間でも起きて活動している人間は沢山いるのだな、とぼんやり考える。
 虫の声はしない、人の声もしない。斜向かいのコンビニエンスストアには人の出入りがあるけれど、綱吉達がいる歩道は皆無に等しくて、まるで大通りを隔ててこちらとあちらでは世界が違うようだ。
 光が左から右に流れ、綱吉の影が長くなったり短くなったりしながら壁や地面に落ちる。一瞬のスポットライト、直後訪れる闇。余韻を残すエンジン音が耳の奥でいつまでも反響して残り、やっと消えようとした頃にまた別のバイクが走り去っていく。
 彼らは何を求め、何を目指して走っているのだろう。闇の中に見えるものがあるからこそ走るのか、それとも何も見えないから探したくて走っているのか。
「聞いても?」
 一本目の煙草の残りが短くなった頃、不意に彼が口を開いた。
 話題を提供されるとは予測していなかった綱吉は想像以上に身構え、飲みこみかけていたコーヒーを危うく吐き出してしまうところだった。背中を丸め改めて咳き込みつつ、吐かずに無理矢理飲み下していると、舌の根元がひりひりして薄く涙が浮かんだ。
 見上げるレンズ越しの視線が横っ面に突き刺さって、そちらも痛い。
「ごめん、何?」
 けほ、と最後にもう一度咳き込んでから謝って、問う。指先を温めていた缶はかなり冷えていて、味も苦味が増している。中身はまだ半分近くあるのに全部飲みきれるだろうかと不安を抱いていると、ため息をついた彼が足元に煙草を押し付けた。
 最後の抵抗なのか、赤い炎が散る。無残に押し潰された吸殻を指で弾き、彼は立てた膝に肘を置いた。
「眠れないのは……怖いから」
「どうだろう。そうかもしれないし、違うような気もする」
 二度と見えることは無いと思っていた相手との再会、其処に蘇ったのは恐怖と、抱くべきではない同情。きっと彼は同情など欲しがらないし、この感情を知ったなら笑いながら拒絶して、人を見下し蔑みさえするだろう。
 そんな安っぽい感情は不要だと。
 彼らは知っているのか、彼が何処でどのようにして捕らえられているのかを。……いや、知っているのだろう。だから彼らはクロームを受け入れたし、家光の申し出に乗ったのだ。
 綱吉は今でも骸は怖いと思うし、彼との闘争を忘れることは出来無い。過去の現実が勝手に美化されてしまわない限り、綱吉の中ではどうしようもない恐怖の対象者として、六道骸の名前は魂に刻み付けられ続ける。
 しかし今の綱吉が彼の力を頼らねばならないのもまた事実であり、追っ手が掛かっているはずの彼らが生き延びるためにボンゴレを頼る必要があるのもまた、事実。
 今は手を結ぶことにより、互いに利益が発生している。一寸でも外から突かれれば呆気なく倒れてしまいかねない、危ういバランスの上で成り立っている関係。彼らにボンゴレの庇護が不要になった時こそ彼が牙を剥く瞬間であり、そうなる可能性が残っているのも、綱吉は知っている。
 覚悟を決める必要があるのだって。
 綱吉は姿勢を戻し、手元に目線を落とした。横では新しい煙が登っているから、二本目に火が灯されたらしい。三角に立てた右膝に重心を置きながら遠くを眺めている彼は、あまり綱吉に興味が無いのか次の句を紡がない。だから先ほどの回答で彼が納得したかどうかも分からなくて、綱吉は口から覗かせた舌で缶の縁に溜まっているコーヒーを舐めた。
 マフラーを外しているのか、爆音を響かせたバイクが一瞬で走り去る。黒い煙に目が染みて、綱吉は激しく咳込んだ。
「もし、」
 何故こうも聞きそびれてしまいそうなタイミングで声を発するのか。恨みがましく思いつつ呼吸を整え、綱吉は落としかけた缶を左手に持ち替えて耳を欹てる。彼は構いもせず、淡々と単語を並べていった。
「……将来、骸様が戻ってきたら」
「歓迎する。一応……あんな奴でも生きててくれるのは嬉しい」
 笑うと同時に肩が揺れて、指先にコーヒーが波立つのが伝わってくる。
 どれほどに悪人であろうとも、自分に関わった人間が死ぬのは心が痛む。目の前で誰かを失うのは嫌だし、見ていない場所で知り合いが死ぬのだって嫌だ。ましてや事が事だったから、という理屈を抜きしても、自分の為に武器を取って戦ってくれた相手ならば尚のこと。
 例え過去に己の命を狙った相手でも。
「もし、俺達が、……裏切れば」
「うーん、出来ればあんまり考えたくないんだけど」
 裏切る予定があるのか、と逆に聞き返せば彼は絶句し、暫く考えてから吸い始めたばかりの煙草を無駄にした。結局彼は綱吉の問いかけには答えず、眼鏡を人差し指で押し上げるに留まる。
 闇に慣れてきた目で仕草の一部始終を見守ってから、こちらはまだ慣れずに居るブラックコーヒーを喉へ流し込み、綱吉は両手で残り三分の一くらいになっている缶を抱き締めた。見上げた空に星は少ない。
「でも、もし、そうなったら、全力で止める」
 己らに全力で牙を剥くならば、全力でぶつかり返すのも、一時であっても仲間だった相手への礼儀。出来ればそんな未来が来ないでくれればいいと祈るが、先が見えないからこそ未来であり、どう転ぶかは人の心次第だろう。
 同じくらい綱吉は、もし自分が間違った道に進もうとしたならば、全力で止めて欲しいと思っている。瞼を閉ざし震える唇で告げると、彼は少しばかり驚いたようで、呼吸に波が現れていた。
「約束はしかねる」
 そう言ったっきり、彼はまた押し黙って新しい煙草を取り出す。綱吉は夕食が消化されてすきっ腹になっていたところに流れ込んだ濃いコーヒーに、そろそろ吐き気を催しそうになっている自分を労わって胸を撫でた。
 曖昧な時間、曖昧な空気。馴れ合いとも違い、微かな緊張感を漂わせながらもホッと息をつける、そんな間。山本や獄寺たちと居るのとは異なる、独特の感覚に落ち着きを感じている。
 それは彼も同じなのか、やや戸惑った風に視線を泳がせてから三本目の煙草に火をつけ、立ち上がった。
 肩が並ぶ、彼の方が視線が高い。
「もし、俺達に復讐者の追っ手が現れたら」
「全力で守る」
 即答。目を見張った彼に笑いかければ、間をおいてばつが悪そうに視線を逸らされてしまった。
 其処に迷いは無い。確かに、自分たちには敵対していた時期があるけれど、今は共通の敵を前にした仲間だ。だから守るし、一緒に戦う用意はある。これ以上、彼らの未来を奪わせはしない。
 伝わるだろうか、この想いは正しく、彼らに。
 眼鏡を押し上げ、彼は帽子の端に結び付けられた毛玉を揺らし、肩を落として息を吐く。
「なら、最後」
 そう呟いたくせにもったいぶっているのか、彼は直ぐに続きを言わなかった。もしかしたら彼も、問うこと自体を迷っているかもしれない素振りで、綱吉は首を傾げつつ次を待った。
 流れて行くライトの群れ。人々は寝静まっているというのに、騒々しい世界が瞬きの間に背後へと消えていく。綱吉はいつもは夢の中にいる時間なのに少しも眠くならない自分をおかしいと思ってから、手の中にあるものを思い出して思わず舌を出した。
「もし、俺達が」
 逃げ出したら?
 時間の限定はされなかった。今直ぐなのか、近い将来なのか、遠い未来か、それともただの気まぐれの問いかけか。様々に憶測は出来るけれどそのどれとも断言せず、彼はただ短くそう問いかけ、唇を閉ざした。指先から長さを残している煙草が落ちていき、闇に沈む。
 彼の肩口からは、吸っていた煙草の残り香が微かに漂う。やはり獄寺のそれとは違うな、とぼんやり頭の片隅で考えながら、綱吉は答えを探して闇空へ目を向けた。
 きっと、自分は、追いかけない。探すこともしないだろう。
 薄情だといわれるだろうか。けれど実際のところ、日本の法律で定められている義務教育年齢の中学生でしかない綱吉が、世界中何処へでも飛びまわれてしまう彼らを追いかけるのは不可能に等しい。ボンゴレの力を使えば可能かもしれないけれど、そこまでする必要があるのかと考えると躊躇してしまう。人を使ってまで……とは思わない。
 きっと自分が、彼らの為にこれ以上振り回されるのを拒んでいるのが原因だろう。彼らだけではない、周囲に振り回されっ放しで自分の意志を上手く言えず、流されるままに此処まできた感じがするだけに、ひとつくらいは我が儘を貫き通したいという思いは強い。
 せめて中学くらい、まともに卒業したい。育ててくれた母への孝行だって。
 だから自分はこの国の、この町を離れない。離れたくない。何処へも行きたくない。だから追いかけないし、探さない。でも、そう。
 思い浮かんだ光景は、当たり前のものとして綱吉の胸の中に落ちてきた。
「待ってる」
 怪訝に潜められた彼の目が綱吉を射る。綱吉は左右の親指で缶のプルトップを弄りながら、描き出した光景をどうにか彼に伝えたくて、少ない語彙から懸命にことばを引っ張り出し、不器用に繋げていった。
 追いかけない、探さない。でも、捨てない。簡単に諦められないし、切り捨てられない。
 だから待つ。仲間が全員座れるような大きなテーブルに、君達の椅子を用意して。
「俺、たち……?」
「うん」
 屈託無く笑い、綱吉は頷く。彼が何を戸惑っているのか直ぐに分からなくて、少し考え込み、ややして綱吉の言う仲間というのが、彼の中で指輪の守護者限定なのか否かという疑問に行き当たったのだと気づく。
 首を振ってもうひとつ笑い、綱吉は彼の胸元に指を向けた。心臓の辺り、指し示すだけのつもりが勢い余って乾いた制服の布地を爪が擦った。
「犬も、君も、そしてクロームも……勿論、骸も。今はみんな、俺の仲間、家族――ファミリー」
 マフィアになんかならない、ボスなんか継がない。そう言い張っていた頃が嘘のように、驚くくらいすんなりと舌の上を滑り落ちていったことば。
 そう、家族。だから待つ。君達が帰る家を用意して、いつまでも。
「かぞく……」
 言い慣れない単語を舌に転がして彼が繰り返した。綱吉が力いっぱい頷くと、照れたのか顔をパッと逸らして眼鏡を押し上げる仕草を。
「犬が聞いたら、笑い転げる」
「かもね」
 声を立てて笑って肩を揺らし、でも本気だから、と付け足す。
 きっと彼らは、綱吉の言葉を、冗談や、詭弁の類だと決めつけて、綱吉の本当の気持ちを誤魔化して受け止めようとする。先に釘を刺して、綱吉は手を下ろした。
 だから、緩やかに空を掻いて降りていく手首を瞬間的に捕まえられたのには、最初に彼を見つけた時以上に驚いて身体と思考が同時に停止した。
「え」
「あ……」
 彼も、どうしてそんな行動に出てしまったのか分からない、という顔をして綱吉を見下ろす。至近距離でぶつかった視線に光が影を作りながら流れて行った。吹き掛けられる吐息には特有の匂いが混じっていて、綱吉を緊張させる。
 僅かに泳いだ目線、壁を作っているレンズが一枚。じっと見詰め返してくる綱吉に臆したのか、彼はゆっくりと指先から力を抜いて綱吉を解放した。ことばに言い表しようが無い感情が入り乱れているのが伝わってきて、このまま彼を放してはいけないような気がした。
 離れていった他者の体温が恋しくなるのは、普段から触れ合いを求めたがる綱吉の悪い癖でもある。思わず引っ込めていた肘を伸ばして彼の首に回していた。中身の残る缶の所為で片腕しか自由が効かないのが辛いところだが、この際贅沢は言っていられない。
 無条件で抱き締めてくれる相手がいること、無償の愛を捧げてくれる相手がいるという事。家族というものの意味、どうすれば彼に伝わるだろうか。
 身じろぎして最初は逃げようとした彼だったけれど、綱吉の吐息を首筋に浴びてか、ややして背中を緊張させて戸惑い気味に綱吉の腰へと腕を回した。
 抱きしめられると、胸と胸の間が狭まって引き上げられる格好になり、綱吉は自然に背筋がのびる。
「こうすると、暖かいでしょ」
「……」
 綱吉の左肩に顎を置いた彼の、まだ強ばっている背中を軽く上から叩く。手首から先だけしか動かない自分の手にやきもきしながらも、触れる制服の布地の硬さを楽しんで綱吉は無邪気に笑った。
 彼は何も答えない。暗い奴だなあ、なんて心の中で思いながら、それでも触れあった場所から伝わる体温が嬉しくて、綱吉は表情を緩める。首筋に耳を寄せると、動脈を流れる血液の音も聞こえてくるようで、相手がちゃんと生きているのだと実感出来た。
「ボンゴレ」
「辛くなったり、寂しくなったら、いつでも帰っておいで」
 君たちの本当の戦いに自分は関与してあげられないだろうけれど、戦いに疲れて眠りが浅くなった夜には、暖かなスープとふかふかのベッドを用意して待っていてあげる。
 苦しくて、それでも涙を流せない朝には、君たちの代わりに泣いてあげよう。
 人肌が恋しくなった昼には、何も言わずに抱きしめてあげる。こんな風に。
「君たちが帰ってくる場所を、俺が守るよ」
 だって、家族だから。
「……そう」

 そんなもの必要ない、思ったのに言葉に出来なかった。本当は彼の気持ちが暖かくて、嬉しかったし、こうやって誰かに温もりを分けて貰う事自体過去にあまり経験が無くて、魂が震えた、というのだろうか。
 犬や骸とは、各地を転々とする間、夜眠る時に寒さから逃れる為身を寄せ合う事なら何度もあった。でも今は眠る前ではないし、他人と体温を分け与えなければ凍えてしまう冬でもない。生き延びる為の接触行為以外は気持ちが悪いだけと、ずっと思っていたのに。
 彼の体温は心地がよいし、服の上からでも伝わってくる彼の心音は聞いていてとても気持ちが落ち着く。
 不思議だった。人の腕に包まれるのが、こんなにも気持ちが鎮まるものだったなんて、知らなかった。
「ああ、そっか」
 不意に彼が呟き、顔を上げて肩口から背に回されていた腕も緩んだ。離れたがっているのが分かって拘束を解いてやると、踵を地面に置いた彼がジッと眼鏡越しに人の顔を見つめて、間を置いてからにっこりと微笑む。
 なんだろう、と読み取れない心を訝しんでいると、
「分かった、なんで眠れなかったのか」
 それは、最初の問いかけ。
「なに」
「ふふ」
 眉根を寄せて問いかけると、彼は悪戯っぽく笑いながら距離を作り、爪先で地面を蹴って小さく飛んだ。くるりと中空で身体を捻り、後ろ向きに着地する。
「そっか。やっぱり俺、片づけ下手だな」
 ひとりで納得して、しきりに頷いている彼。背中で手を結んで、汚れた空に浮かぶ淡い月を見上げて、肩を揺らし笑っている。
 怖かったからじゃない、眠るのが嫌だったからじゃない。
 落とし物を、忘れ物を思い出したから、だ。彼はそう言って大きな目を眩しく細め、過ぎていく光をやり過ごした。
 分からない、と首を捻っていると、分からなくても良い、と言われて。それはなんだか不公平な気がして気を悪くしていると、表情に出たのだろうか、彼は人の眉間に指を突きつけて、あろう事か吹き出した。
「俺ね、諦め悪いんだ」
「答えになっていない」
「答えたよ」
 眠れない理由が解決したから、今日はぐっすりと眠れそうだ。そう笑う彼が心底分からなくて、本当に彼があのボンゴレの十代目に相応しい人物なのかどうかも分からなくなりそうで、眼鏡を押し上げながら考える。
 彼が言う落とし物とは、何。
 彼が言う、忘れ物とは、なに。
「……俺、たち……?」
「さぁ?」
 眠れない夜、淡く輝く月に誘われて訪れた町。深い闇に覆われながら、それでも眠るのが怖くてかけずり回る数多の光。皆、この世に生きる人々は、誰しもが迷子だ。
 見つけて、と呼ぶ声はか細く、弱い。それでもいつか、誰かに届く。
 彼はすっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱へ投げ込んだ。乾いた音を響かせ、丙夜の空に溶けていく。
「うー、苦いっ」
「なら、飲まなければ良い」
「俺は諦めが悪いって言ったろ?」
 片づけが下手なのは、棄てられないから。棄てられないのは、愛着があるから。
 ……大切だから。
「待ってるよ」
 いつまでも、どこまでも。彼は風に浚われそうな笑みを残し、九十度身体の向きを変えて駆けだした。無意識に伸ばした腕が宙を掻き、彼の背中があった場所を乱す。指先に触れるのは冷たい夜気だけで、心は震えたままだ。
 待って、という声は届かないし、そもそも音にさえならなかった。だから当たり前ながら、彼には聞こえない筈だったのに。
 闇に紛れる直前、過ぎゆくテールライトの残り火が燻るアスファルトに、彼の爪先が舞い踊る。
「なに?」
 屈託無く笑う、その笑顔が。
 闇に生きてきた自分にはどうしても眩しすぎて、どうしてだろう、泣きたくなった。

 どうか、どうか。もう少し、此処にいて。そんな事、言える訳がないのに。
 君は黙って俺の手を握り、静かに、そして。
 とても優しく微笑んだ。

2007/1/15 脱稿