under the influence of liquor

 最近は色々なことが立て続けに、しかも一度に次々と押し寄せて来て、頭の中が整理しきれないままにずるずる流されてしまっている気がする。
 星を見るだけのつもりが竜を拾い、その竜を狙う連中に襲われて、わけが分からないままに空き部屋だらけだった宿が満室に近い状態に。果たしてそのうち何人が、宿泊費を支払ってくれるだろう。もとより請求するつもりはないのだけれど、と自分の人の良さに辟易しながら、ライは眠い目を擦り薄暗い廊下を突き進んだ。
 夜中に、ふと目が覚めた。
 寝返りを打って瞼を閉じ、もう一度夢の中に落ちようと思って頑張ってみたけれど、こういう時に限ってなかなか上手く寝付けない。布団の中のコーラルが引っかかって思うように動けないのもあって、暫く悶々と羊の数を数えたりしてみたけれど、眠いのに頭が冴えてしまってどうも身体と心がちぐはぐになっている気がした。
 仰向けにベッドに寝転がり見上げた天井は、以前から眠る前に見詰めていたものと何も変わっていない。それなのにどうしてだかとても遠いものに成り果てている気がして、届かないと知りながら腕を真っ直ぐ伸ばして指で空気を掻き回していた。
 心を何処かに置き去りにしてきてしまった気がする。果たして自分は、本当に今の状況に納得しているのだろうか。
 コーラルを守るのは、この子の親代わりになると決めた瞬間から自分で自分に課した責務だ。実の父親のように途中で放り出したりせず、最後まで面倒を見ると決めたのはあてつけでもあり、一種の意地だった。あんな大人にはなりたくないから、という対抗意識は、けれどまだまだ子供の領域を抜け出せずにいる自分に重く圧し掛かる。
 かといって、ここで一抜けたとは言えない。自分を頼るしかないコーラル、他に行き場がないリビエルたちを見捨てて、自分だけが安穏とした日常に戻るのは難しい――――関わってしまったのだから。
 彼らが戦う理由を、コーラルを守ろうとする意味を、思いを知ってしまった以上、自分はこの輪から抜け出せない。長く辛い戦いになるのは予想できる、昼も夜も関係なく襲ってくる連中を前に警戒を続け、神経をすり減らさなければならないのは正直言えば体力的にも、精神的にもきつい。昼は店の営業をして稼がなければならないし、本当は以前から続けているそれだけでも、この細く小さな手で支えるのは厳しかったのに。
「俺って馬鹿だよな」
 コーラルを起こさないように慎重にベッドを抜け出し、シンと静まり返った廊下に出てみた。冷えた夜の空気は凛として肌を刺し、寝間着一枚だと少し寒い。しかも靴も履かずに素足のまま出てきてしまっていえ、戻ろうかと思って振り返った闇は妙に人の気持ちを急きたる。思わず、何かに追われるようにそこから逃げてきてしまった。
 掃除にも手を抜いていないので、廊下であっても素足で歩く分には問題ない。ペタリと足の裏を床板に押し付けて冷えた感触を確かめながら進み、行き着いたのは結局、自分が一番落ち着ける台所だった。
「水でも、飲んでくか」
 ライはぽつりと呟き、胸を撫でる。喉が渇いているわけではない、むしろ胸の中が乾いている。もやもやしたものが喉の奥で詰まっていて、吐き出すか、もしくは押し流してしまえるならそうしたかった。
 店はオープンデッキになっていて、どうせ泥棒も入ってこないと夜でも開けっ放しだ。今は不届き者がこの寝静まった時間を狙うとも限らないが、結界のお陰で今のところ、問題になるようなことは起きていない。無用心だと笑われるかもしれないが、売上金はライの部屋の金庫にしまってあるので、本当に盗むものといったら食材くらいしかないのだ。
 南側の壁が大きく開かれている食堂は、雲の少ない夜空に浮かぶ月明かりを浴び、ぼんやりとテーブルや椅子の輪郭を浮かび上がらせていた。短い影が床に落ち、動くものは何も無い、と思われた。しかしライがコップを取ろうとカウンターから身を乗り出した時、床に向いた彼の視界で黒い影がのんびりと手前を流れ、そして戻っていった。
「あれ」
 不審に思い、ライは更に身を乗り出す。掴もうとしたグラスに指先が触れ、底面が棚の表面と擦れあって小さな不協和音を響かせた。しまった、と舌打ちして咄嗟に身を低くし姿を隠そうとしたけれど、床に伸びた影に特徴在る角を見出し、ライは途中で動きを止めた。
 変に腰を屈めカウンターに寄り掛かった姿勢で、数回瞬きをした後、食堂を改めて眺める。あちら側も当然ながらライに気づいていて、ただ少ししまったな、と困惑気味に眉根を寄せているのが分かってライは首を左へと捻らせた。
「店主」
 呼びかけは向こうから。結局ライは曲げていた膝を伸ばし、水を飲むのも諦めてグラスから手を放してカウンターから食堂へ回り込んだ。冷たい床に足が張り付き、皮膚が引っ張られる感触は最初慣れなかったけれど、もう冷たさに感覚が麻痺したのか何も感じなかった。
 赤い着物に袖を通したセイロンが、一際月明かりが眩しいテーブルにひとり、外を向く格好で座っていた。いつも着崩さない羽織を少しだけ乱し、捲り上げた袖からは薄い光を浴びた白い肘が覗いている。また脚も、昼間は行儀良く揃えているのに、今は右を上にして椅子の上で組んでいた。つま先だけ内部に残った靴が、テーブルの下で頼りなく揺れている。
「セイロン、……?」
 こんな時間に、何をやっているのか。聞こうと距離を詰めたライだったが、ふと神経に障る匂いに気づいて呼吸を止めた。一緒に足も止まり、出掛かっていた身体が不自然に後ろへ下がる。
 セイロンのいるテーブルには、平素店では用がないものが並んでいた。親指と人差し指で作った輪ほどの直径しかない、底の浅い杯がひとつ。胴体が太く、首の部分が細くなった注ぎ口を持つ徳利が、ひとつ。
 店長が未成年だからか、この店にはあまり縁がない飲み物だ。だがシルターンでは一般的な飲み物のひとつとされている、そう、酒。コメを主成分にして発酵させたアルコール飲料。
「セイロン、それどこから」
「なぁに、ちょいと、な」
 ライ自身、用意した覚えがないので、セイロン本人がどこかから調達してきたのだろう。意味ありげに口端を持ち上げて笑い、彼は背凭れに左肘を置いて右手で杯を取った。数回に分けてちびちびと注がれていた液体を喉へ運び、舌の渇きを潤す。
 彼の向こうは、朧げな月の光。それはセイロンごと風景の輪郭を虚ろにさせて、墨絵か何かを眺めている気分になって、ライは居心地の悪さを感じた。彼がこんな時間に、こんな場所で、ひとりで酒を煽っているだなんて。
 御使いの代表代理としてコーラルを守り、何事にも冷静に対処しようと心がけている彼。普段から他人にも自分にも厳しく律している彼だから、こんな風に手酌で酒を煽る姿は出来れば見たくなかったとライは思う。
 酒に頼るのは心が弱い証拠だと、昼間から酔っ払って店に押しかけ、迷惑を考えずに騒ぎ立てた大人を何人も見てきているライは捉えている。彼らが日頃溜まっている鬱憤を、酒の力で一時的とは言え忘れたいのだというのは、理解できる。だが嫌なことから目を逸らし、逃げたところでどうなる、結局現実は前よりも酷くなって手元に戻ってくるだけではないか。
 そう主張したら生意気を言うガキだと酔っ払いに掴みかかられ、反対に力ずくで店外へ放り出した事だってある。自分が誇りを持って営んでいる店を馬鹿にされ、汚された気がして、それから暫くはずっと機嫌が悪くて周囲を心配させたりもした。当時の苦々しい気持ちが蘇って、ライは自分の腕をさすりながら何も語らないセイロンをじっと見詰めた。
 悔しいかな、そのセイロンはライが知っているどの酔っ払いとは違い、静かに、淡々と酒の味を楽しんでいるように映る。みっともなく酔って醜態を晒すなど、彼にはありえない。むしろ杯を手に椅子に深く腰掛け優雅に構えている彼の姿は、こんな月の夜に相応しい光景だとさえ思えてしまった。
「店主?」
 再び呼びかけられ、ライはハッと我に返った。気がつけばじろじろと不躾な視線を投げつけていたらしい。気を悪くした様子はなかったが、幾分不審げに顔を顰めさせているセイロンが視界に飛び込んできて、ライは動転しつつなんでもない、なんでもないと三度も繰り返した。
「なら良いが」
 明らかに言動がおかしいのに深く追求せず、セイロンはライから視線を外すと唇に押し当てた杯をゆったりと傾け、透明な液体を僅かな隙間へと流し込んでいく。喉仏が小さく上下して、うっとりと目を閉じている彼が心底酒を楽しんでいる様子が伝わってきた。
 酒だって、誰かが作ったもの。どうせ飲まれるなら、我を忘れて自暴自棄になるような飲み方ではなく、ゆっくりと味と香りを楽しんでくれる人に飲んでもらいたいに違いない。ライが、自分が作った料理で誰かが笑顔になってくれるのを嬉しいと感じているように。
 だからきっと、セイロンに飲まれる酒は幸せなんだろうな、とぼんやり考える。
 空になった杯をテーブルに戻した彼は、徳利の首を持ち上げ、左右へ軽く振った。中身の量を音で確認して、そっと零さぬように杯へ中身を注ぎいれる。滔々と透明な液体が月光を反射して溢れ、元々水を飲みに此処へ来たライの喉が自然と鳴った。静か過ぎる夜の食堂、そんな微細な音さえ事の外大きく響き渡り、聞きつけたセイロンは徳利を置いてライへ向き直る。
 ほんのりと赤みを帯びた頬を僅かに緩め、注ぎ口に垂れた雫を指で拭い取った。
「店主も飲むか?」
「からかうな」
 濡れた指先を舐めた彼の言葉に、即座に語気を強めて言い返したライは、休めていた歩みを取り戻してセイロンの傍に向かった。乱暴に椅子を引き、隣に並ぶ格好で腰掛ける。頑丈に作ってある椅子の背凭れが悲鳴を上げて、隣の男は肩を揺らして何がおかしいのか、声を立てて笑った。
 既に軽く酔っているのか、彼にしては珍しく腹を抱えて響く声で笑い、ひとくちで酒を煽って杯を置く。陶器と木のテーブルとがぶつかり合う小気味のいい音が一瞬だけその場に広がり、余韻を残してセイロンは笑い止んだ。
「なんだよ」
 そもそも、十五歳と公言しているライに酒を勧めるほうがおかしいはずだ。この年になるまで飲んではいけない、という決まり自体は定められていないものの、世間一般の常識としてライはまだ、飲酒が公の場で許される年齢と外見に達していない。そしてみっともない大人を見飽きていることもあり、絶対に飲める歳になっても酒だけは飲まない、と心に固く誓っていた。
 だから大真面目に断ったのに、それを笑われた。拗ねたくもなる。
「いや、すまん。そうだな、店主にはまだ早い」
 頬を膨らませたライに肩を揺らし、セイロンは新しく酒を注ぎ足す。飲む速度は上昇しており、大丈夫なのかと盗み見た彼の横顔はぼんやりとした月の光に照らされ、白さが強まっている中に僅かな朱が浮いていた。とはいえ手元の動きはしっかりとしていて、笑っていた時以外で身体が怪しく揺れたりもしていない。少しばかり上機嫌になっているだけ、なのだろう。
「どうせ」
「怒るな」
 ぶぅ、と膨らませた頬から息を吐き出すと、急に真剣な声が振ってきて胸がどきりと鳴った。落差がありすぎる、と様子を窺うと彼は杯を片手に頬杖をつき、穏やかな目線でライを静かに見詰めていた。下から覗き込むような格好になってしまい、ライは何をそんなに急ぐのか分からぬまま、パッと視線を逸らした。
 椅子の上で揃えた両手が、居心地悪そうに握り開きを繰り返す。指先がズボンの布地を滑り、浮かせた踵を冷たい夜気が撫でていった。寒さが登ってきて背筋が震える、鳥肌が立ったのはこれの所為だと自分に無理やり言い聞かせ、ライは首を振った。
「だいたい、なんでこんな時間にひとりで」
「だから、さ」
 最後まで言わせず、セイロンが先手を打って肯定する。だからライは途中でことばを止めてしまって、続きを言うべきか、話の流れに乗って一足飛びに先へ進めるべきかで迷った。浮き上がった指先が中空に漂う彼の戸惑いを察してか、セイロンは背凭れに体を預けなおし、椅子の前脚を少しだけ持ち上げた。
 椅子が軋む音と、互いの呼吸する音だけが流れて行く。
「え、と……」
 あてもなく食堂のあちこちに視線を飛ばし、結局は手元に戻ってきたライがことば少なに俯いた。視界の中央に己の両手がある、水仕事やなにやらで擦り切れ、皮膚もがさがさに乾いている小さな手だ。
 ライは、孤独を知っている。父親が病弱な妹を連れて出て行き、ひとり此処に残された。手助けをしてくれる人はいたが、その人にだって家族があるので四六時中一緒に居てくれるわけではない。寂しい、とは強情な性格もあって口に出したことはなかったけれど、毎晩見上げた暗闇の天井は不安を増長させ、自分がこの広い宿屋にひとりきりなのだと否応なしに意識させられた。
 布団を頭まですっぽりと被り、顔を枕に押し付けて、外で吹いた風が窓枠を揺らす小さな音でさえ大仰に反応し、震えた。ひとりぼっちの夜にはいつの間にか慣れてしまったけれど、今でも幼かった当時の、空っぽになった心を埋めるものが何も無かった時間は忘れられずにいる。
 少しずつ大きくなって、体を鍛えて料理の腕も磨いて、徐々にお客も増えてきて充実感は過去と比べるまでもないが、あの頃に空いた胸の隙間は、多分今でも完全に消えていない。
 誰かと食事をするのは好きだ、其処に並ぶ料理が自分の手作りだったり、自分の為に誰かが作ってくれたものだったりした場合は、もっと嬉しくて大好きだ。逆に人気がなくなり、静まり返った空気の中で自分の動かす食器が擦れ合うだけの音しか聞こえない空間は、嫌いだ。食堂が広いだけに音は反響して大きくなって耳に戻って来て、孤独感を悪戯に刺激する。どれだけ頑張って、美味しく、見た目良く作っても、ひとりぼっちの食事は具の薄いサンドイッチを皆で分け合って食べるのより、不味い。
 だからライは、人々が寝静まっている頃合を見計らい、ひとりで酒を飲んでいるセイロンの気持ちが分からない。どうせ飲むなら、みんなでわいわい雑談に花を咲かせながらの方が、何倍も楽しいだろうに。シンゲンも酒は飲むだろう、同じシルターン出身なのだから共通の話題だって多く賑やかに過ごせるに違いない。
 けれどセイロンは、ライのことばに一度頷いてから少し間をおき、首を横に振った。静かに、二度。
「それもまた、良いやもしれぬが」
 彼がテーブルに手を置いたことで微かな振動が発生し、凪いでいた杯の中の酒が僅かに揺らめいた。小さな泉に映し出されていた月の姿が一緒になって歪み、不可思議な小宇宙を作り出している。セイロンは瞳を細め、その妙な水面に見入っている。
 ライは首を横へ振った。自分がひとりになりたい時はどんな時だろう、漠然と考えながら、セイロンの指が杯を続けて小突き、揺らすのを眺める。
 哀しいことがあったとき、悔しいとき、やりきれない気持ちを抱えてしまった時。迷っている時、考えたいことがある時、あとは、そう。――何も考えたくないとき。
 彼もそうなのだろうか、いぶかしむ目を向けると、視線に気づいたセイロンがライを見詰め返す。朱銀の瞳に映る自分の姿に気づいて、ライは聞いていいものかどうか迷いつつ、結局自分の扱いに困って口を開いた。
 セイロンの指が杯を掬い上げる。
「じゃあ、なんで」
「今宵は、月が綺麗だったから、な」
 矢張り問いかけを最後まで言わさず、遮ってセイロンの声が低く響く。
「月……?」
 なんだって、そんなもの。目を丸くしたライは意味が分からないといった風情で、しかし促されるままにセイロンと一緒に夜の空に浮き上がる月を見上げた。白に近い銀色の光が煌々と地上を照らしている。昼のような明るさは無いが、眩しい太陽とは違って優しい母親を思わせる輝きだった。
 雲は少ない、ところどころで申し訳なさそうに浮かんでいるくらい。月明かりが強すぎるので星の輝きは若干控えめで、それが一層月の神々しさを引き立てていた。言われてみれば確かに、今日の月は一際美しく思える。
 けれどそれと酒と、何の繋がりがあるのか。
「月を肴に酒を飲む。月に喧騒は似合わぬよ」
 店主にはまだ早いかな、と最後に笑いながら付け足したセイロンに、またしても頬が膨れた。
「馬鹿にすんな」
「しておらぬさ」
 幼い仕草で拗ねるライの頭を、セイロンの手がゆっくりと撫でる。反射的に首を窄めてしまい、彼の指先はライの月明かりにも似た色の毛先を掠めるだけに留まった。
 こんな風に誰かに頭を撫でられることなんて、滅多になかったから、どんな反応をすれば良いのかも分からない。恐々と持ち上げた瞼の先では、静かに微笑むセイロンが月を背負って座っている。逆光になっているので表情の殆どが霞んでしまっていたけれど、穏やかに緩められた目元は何処までも優しかった。
「店主は少々、背伸びをしすぎておるからな。これくらいが丁度いい」
 頭から離れていった手が一度引き戻され、丸められた指の背で今度は頬を擽られる。もっとごつごつしているかと思っていたが、案外表面は滑らかな皮膚が皮膚と触れ合い、ほんの少しだけ外気よりも暖かな体温が通り過ぎていった。
 子ども扱いされた、と思うべきだろうか。それとも、歳相応に扱われたと思うほうが良いのだろうか。
 どちらにせよ、大人としては認めてもらえてないのには違いない。
「ひとりで飲んでて、旨いのか?」
 しつこく触れてくる手を押しのけ、今度こそきちんと最後まで問いかけを口に出す。セイロンは残りが少なくなっている徳利を傾けると、細めた目尻を下げて仕方が無いな、と肩を竦めた。煽った酒が口の端から僅かに零れ、手の甲で拭ってからそこにも唇を押し当てる。
 赤い舌の先がライの目にも触れ、わけもなく顔が熱くなった。
「飲む酒全てが旨いとは限らぬよ」
「じゃあ、なんで飲むんだよ」
 不味いのなら最初から飲まなければ済む話で、ひとりで飲んでいて不味いのなら皆と一緒に場を囲めばいい。わざわざひとり寂しく不味い酒を飲む大人の事情がライには分からず、そろそろ苛立ちが腹の中に燻り始めて口調がきつくなる。
 セイロンは空になった杯を惜しみながらテーブルへ戻した。徳利の首を指で弾く、陶器の音が闇を抜けていく。
「……そう、だな」
 ふっと迷いを見せた彼の瞳が、宙を漂い月を見た。眩しそうに細め、何かを探すようにテーブル上の手が動く。けれど足掻いた指先は何もつかめずに、力なく伏していった。
「セイロン?」
「店主がいずれ大人になれば、おのずと分かるやもしれんな」
 誰にも言えない感情があり、それをひとりで消化せねばならない時。鬱屈した思いをぶちまけるあてもなく、またそうすることも出来ず、体裁を整えて周囲に気を配り、自分の心を後回しにして疲れてしまったとき。
 考えなければならない事が多すぎて、却って何も考えられなくなってしまったとき。
 視線を重ねぬまま静かに呟いたセイロンに、ライは知らず拳を握り締めた。
「そんなの……」
 逃げの口上だ、ずるい。答えになっていない。
 自分がまだ子供なのだと、思い知らされる。力のない、ひとりでは何も出来ないのだと言われている気分になる。大人にはおとなの事情があって、子供には決して分かりやしないのだから、土足で立ち入るなと牽制されている気がする。
 子供、大人。そんなもの、関係ないのに。
 自分は彼らの助けになりたくて、助けられつつも彼らを助けているつもりでいたのに。
 助けてなどやれていなかった、分かってやれていなかった。こんな風に気を向けるのさえ、余計なお世話だったと言われた気がした。
 ライは哀しくなって、ズボンをきつく握り締める。布地に巻き込まれた産毛が痛んだが、それよりもずっと心の中が痛くて、無意識に涙を堪えて鼻を啜り上げていた。困った顔をしたセイロンが、どうしたものかとことばを選んでいる気配が伝わってくる、それさえも偽善ぶっているように思えてライは頭を振った。
「店主」
「そんなに子供でいて悪いかよ、酒が飲めないのがそんなに悪いことかよ!」
「そうは言っておらぬ」
「同じだ!」
 甲高い声が響き渡り、勢い良く立ち上がったライの背後で椅子が倒れた。ガタガタと一際大きな音を残し、投げ出された四本の足が月を向く。一瞬にして縮まった両者の距離に酒の匂いが交わる、不思議なことに果物の匂いが混じっているように思えた。
 なんだっけ、この果物の名前。頭の片隅でぼんやり考えながら、ライは呆然気味のセイロンを見下ろした。彼はまだ座っているので、必然と見下ろす姿勢になっている。握った拳の行き場を持て余し、ライは苛立たしげに一度強く床を蹴った。
「同じだよ、セイロン……大人になるって、誰にも何も言わずに、自分の中でなんでもかんでも解決しようとすることなのか?」
 叩きつけられた床の冷たさが痛い。何も言ってくれないセイロンの配慮が、心に痛い。
 帰る場所を失い、守るべきものを失い、流れ着いた先の希望。彼がコーラルをどれだけ大切に思い、守ろうとしているのも分かる。
 遠慮されているのだろうか。同じものを守ろうとして、生活を共にしているというのに、彼らはどこかで、この場所に根を下ろし生きてきて、これからも此処で生きていくだろう自分たちに遠慮している。心の内を語らないというのは、つまりそういう事。彼らだって、いつだか分からないけれど、戦いが終わって事の解決が見出せた後はこの宿を出ていくのだ。
 酒の力に縋るのは弱いからだ。どうして目に見える形で手を差し出されているのに、それを頼ろうとしない。自分の腕はそんなにも脆弱なんだろうか。
 こども、だから?
 じゃあどうすれば大人になれる、彼と同じ場所に立てる。酒が飲めればいいのか? そんな事で本当に大人になれるのか?
 彼の気持ちが、分かるようになるのか?
 怒りたいのに、哀しくて涙が出そうになる。ライは目尻を乱暴に擦ると、奥歯を噛んで吐き出しそうになったものを堪えた。手を伸ばし、セイロンが止める間を与えず彼の徳利を捕まえて口の上に傾ける。
 けれどこぼれたのは雫が一滴きり。乾いた唇の端を辛く濡らしただけ。
 拍子抜けだ、これでは威勢よく啖呵を切ったのに格好がつかない。冷静になって考えてみれば実に滑稽な独り相撲で、一瞬目を丸くしてからしまったと口を閉ざしたライは、土色の徳利を両手で抱くと、テーブルに戻すわけにも行かずその場で数回足踏みした。
 セイロンが声もなく、ただ肩を震わせて前屈みになって笑っている。膝に額を押し付けているものだから、ライの位置からは彼の赤毛からはみ出た角もよく見えた。
 いつも見上げるばかりだったから、なんとなく不思議な気持ちで見下ろす。そんなに笑わなくていいのに、と憤然とした思いもまた片隅にあって、殴り飛ばしてやりたいような、恥かしくて今すぐ逃げ出したいような、どっちつかずのまま宙に浮かんでいる。ただ顔だけが赤く、熱い。
「笑うな!」
 だんだん、と足で床を踏み鳴らせば鳴らすほど、セイロンは小刻みに体を揺らして笑うのをやめない。うつ伏せ気味だった身体を起こして背凭れに沈んだかと思うと、今度はテーブルに突っ伏して高らかに声を響かせる。
 酔っ払っているから気も大きくなっているようで、普段よりずっと楽しげに笑い転げている様はなかなか見ものでもあったりする。ただライには、それを面白いと眺める余裕が無かった。
「だから、笑うなってば!」
 いったい何の罰ゲームなのか、耳まで真っ赤にさせて怒鳴ったライが目尻に涙まで溜めて悔しさを懸命に堪えた。必死の様子が声をやっと伝わったのか、それでも時々身体を左右に揺らしながらセイロンが身を起こす。憤慨したまま徳利を彼へと押し付ければ、ははは、と赤い顔を擦ってセイロンは大人しく受け取った。
 ライも触れた注ぎ口に指を置き、表層を撫でる。残った湿り気を残念そうに拭い取り、恥じらいもせずに指で舐め取る様はどこか淫靡だ。
「飲むか?」
「……ないだろ」
 濡れた親指を唇に押し当てた彼の問いに、ぶっきらぼうに返す。視線が泳ぐのは気恥ずかしさからであって、それ以外に理由はない、そう必死に自分に言い聞かせたライの前方では、当のセイロンが涼しい顔をしてぽっかりと夜空に浮かぶ月を見上げなにやら考え込んでいた。
 空っぽの徳利と、杯。非常に残念なことに、ライの指摘通りセイロンが手持ちの酒はこれが最後だった。また補充しなければならないな、と頭の片隅で考えつつ、彼は口腔内で舌をもぞもぞと動かした。
 背中で手を結び、居心地悪そうにしているライの服の裾を掴んで軽く引っ張る。注意を自分に向けるよう促し、奥歯の表面を舌で舐めたセイロンは、微かに酒臭い息を吐いた。
 月を肴にしただけでは、こんなにも酔うことはなかっただろう。今夜は少し、自分でも調子に乗ってしまっている。笑いすぎたのが悪かったのか。
「ん。なに」
「店主には、そのまま飲むには少しこの酒は強すぎるだろうて」
「うん?」
 ぼそりと囁かれた声が聞き取りづらく、ライは顔を顰めながらセイロンの方へ身を屈めた。もう一度言って、そう告げようと唇を開く。鼻先を、癖の強い匂いが抜けていった。
 生温いものが、その次に。
 下から唇へ押し当てられた。
「……――――――!」
 目を見開いて、瞬かせて、呆気に取られ、ライは反応が遅れた。咄嗟に頭を引いて距離を取ろうとしたが、いつの間にかがっちりと首を後ろから掴まれていて退くことさえ出来なくなっていた。
 目の前に星が散る、状況を正しく理解しようとしている間に体の反応がまた一歩遅れ、間抜けに開いたままだった唇を割って柔らかい熱が中に潜り込んでくる。それは最初筒状に丸められていて、ライの舌先に触れたかと思うと同時に開かれて彼のそれを包み込んだ。
 生温いものを感じ取る。ざらりとした感触が舌の表面を撫で、続けてやはり人肌に温い液体が喉に押し込められた。零さぬための配慮か、口腔を塞ぐ要領で下から舌を押し上げられる。息が出来なくてライは硬く目を閉じ、他に掴むものがなくて目の前のセイロンの肩に爪を立てた。
 感触が気持ち悪い。咄嗟に噛み切ってしまいたい衝動に駆られ、唇を強引に閉じて前歯も塞ぐ。だが間に挟まれたものに歯が触れた直後、セイロンがうっという具合に息を詰まらせて、この時になってやっとライは、自分の口腔内部を犯しているものの正体を知った。
「んん……んーーー!」
 片目を辛うじて持ち上げて前を向く。濃い影が自分の前に落ちていて、ライは涙でうっすらと滲んだ視界に赤い髪を見た。くち、と濡れた音が口の中から耳に向かって抜けて行き、それだけで膝が笑う。何が起きているのか分からぬまま、ただ苦しくて息がしたくて舌先に力を入れると、絡んだそれが口の中を擽って僅かに拘束を緩めた。
 重なり合った唇に隙間が生まれる。吐くと同時に息を吸い、擦れた喉が音を立てた。
「ふぁ、あ……んっ」
 違う、こんなの自分の声じゃない。聞いた事もないような声が自分から漏れて、ライは全身の血が沸騰して逆流するのを感じた。吸い込んだ空気が肺に到達する前に、その僅かな隙間は瞬時に閉ざされてまた熱が彼の内部を遠慮なしに攻め立てる。
 なんだろう、これは。これは、いったい、何。
 苦い液体がしつこくライの口腔を濡らす。己の唾液にも混ざって最早本来の味から程遠くなったそれは、次第に量を増していって繋がった唇からも溢れ出す始末。喉が薄く濡れ、そこに風が触れて背筋が震えた。膝に力が入らなくて、ライは堪えきれずそれを飲み込んだ。
「んっ……」
 コクン、と小さな喉仏が上下に動く。それでも飲みきれなかったものがふたりの間を汚して、伸びたセイロンの指が皮膚の薄いライの肌を撫でた。
 心臓がおかしい、さっきから飛び出しそうなくらいに速い動きで鳴り響いている。耳鳴りまでするし、脚にちっとも力が入らなくて寒いわけじゃないのに身体が震えて止まらない。立っているのもやっとの状態でセイロンの服にしがみつき、座っている彼の膝に半月盤がぶつかった。唇を重ねたままライは何度も嚥下を繰り返し、その度にほんの少し出来上がる隙間からは聞くのも恥かしい声が溢れた。
 これは、なんだろう。自分は、何をしているのだろう。
「んぁ、あ、はっ……あ、ん」
 セイロンが離れていく。しどけなく濡れた彼の赤い瞳が、薄明かりの中で異様な輝きを放ってライを見据えていた。婀娜な艶をした唇からは透明な糸が垂れ、それがライの上唇へ続いている。彼が喉を鳴らした瞬間に雫を飛ばしてそれは切れ、ライは咄嗟に目を閉じて冷たさをやり過ごした。
 呼吸が乱れている。近すぎる場所に、セイロンが居る。
 彼はライの首を押さえていた手を下ろし、腰を捕まえて引き寄せる。勝手に右の膝が持ち上がって、ライは彼が座る椅子に上半身を乗り上げた。揺れる瞳が綺麗だと思っている間に瞼は伏せられ、唇が舐められたかと思うと、口角から垂れた唾液の筋を伝って彼の舌はライの肌へ下りていった。
 ぞくりと背筋の産毛が逆立つ。体感した事のない衝動が全身を貫いて、ライの魂が震えた。
「……っ」
 ちくり、と首の付け根に微かな痛みを感じる。身を振って逃げると、そこに顔を埋めていたセイロンがゆっくりと背筋を起こしてライを見た。
 血に飢えた獣を想起させる瞳の強さに、眩暈がする。彼の唇は何か言葉を発したようだったが、音になる前にそれはライの唇に吸い込まれて消えていった。背中と合わせ鏡的に胸に添えられた手が、柔らかく服の上からライを撫でる。
 なにをしているのだろう、自分たち、は。
「セ、……ロン」
 力の入らない指で彼に触れる。至近距離で見下ろした瞳に自分の顔が半分映し出されていて、そこにいる自分の顔もまた湯に融けた寒天のようにふにゃふにゃになっているのを自覚した。
「ん、はっ……ぁ、んん……まっ、や――」
 胸を探る手が服の上から小さな突起に触れる。瞬間腰が抜けるかという感覚が膝を揺らし、強く押し付けられた唇からは吸われた舌が静まった空間に淫靡な音を響かせる。カッと熱が腹にのぼって、ライは咄嗟に彼を突き飛ばした。
 抵抗を見せず、セイロンがライを手放す。勢いがつきすぎてライは尻餅をつき、床に転がっていた椅子の脚に背中をぶつけた。
「いっ……」
 いつもならなんてこともないのに、熱を持った体はいう事を聞いてくれない。背骨を穿った痛みに喉を引き攣らせ、ライは目を閉じてどうにか堪えた。一方のセイロンは、今ので酔いも冷めたのか赤というよりは青白い顔を月夜に浮かび上がらせ、己の口元を片手で覆い隠している。
「……てん、しゅ……?」
 赤い顔、濡れた唇、乱れる呼吸、静まらない動悸。快楽の波に飲み込まれる寸前で取り戻してしまった自我に、セイロン自身も呆然として床の上にいるライを見下ろすほかない。またライも、セイロンの表情に今しがたの行為を思い出し、さぁっと血の気が引いた顔を作って床にはいつくばったまま後退した。
 椅子をガタガタ響かせながら、セイロンとの距離を作る。一歩半の隙間がふたりの間に出来上がって、なんともいえない妙な空気が流れた後、唐突にライは身体を反転させて駆け出した。テーブルの角に何度も体をぶつけ、椅子を蹴り倒し、それでもわき目も振らずに足音を響かせて食堂を出て行く。
 残されたセイロンは茫然自失気味に事の行方を見守り、やがて音も聞こえなくなった頃、ずるりと椅子に背中を落として頭を垂れた。眉間に指を置く、脳天が痛い。
 いや、それより、なにより。
「我としたことが……」
 床の上に座り込んで己を見上げていたライの顔が瞼の裏から離れない。ショックを受けていたと伝わってくる顔色に、心が痛んだ。傷つけるつもりなんて最初からなかったのに、何処で箍が外れてしまったのか。
「一生の不覚」
 言ったところで、後悔したところで、もうどうしようもないのだけれど。
 酒は飲んでも飲まれるな。教訓めいたことばが頭の中を騒音奏でて駈けずり回り、彼を慰める月の光も、やがて夜の雲に隠された。
 ライはというと、騒音を撒き散らしながら自室へ駆け込み、勢い良く背中で扉を閉めた。流石に寝入っていたコーラルも音に眼を覚まし、眠そうな顔を戸口へ向ける。コーラルが見たのは、全力疾走後に肩で息をする養育者が、赤かったり青かったり変化も忙しい顔色で困惑気味に天井を眺めている姿だった。
 様子が変だというのは、即座に理解できる。だが、今は兎も角、眠い。
 一度は毛布を抱いて体を起こしたコーラルだけれど、ライがちっともその場から動かないのを見て関係ないや、とまた枕に頭を埋めた。目を閉じて数秒後、整った寝息が零れ始める。そこにライの乱れきった呼吸が重なり、ずるずると床に腰を沈めて彼は自分の、まだ濡れている唇を指でなぞった。
 いくら疎いとは言え、キスくらいは知っている。それがどういう時、どういう目的でなされるかというのも、夢見がちな乙女であるリシェルの話に付き合って多少は理解していたつもりだ。彼女のように、いつか白馬の王子様が~、なんて思わないが、それなりに可愛い女の子を好きになって、やがて経験するものなのだろうというくらいは、考えていた。
 それが、どうだ。
「ちっくしょーー、俺、初めてだったんだぞー!」
 リシェルの所為で、初めての経験と言うものは甘い味のするふわふわしたものだという印象を植え付けられていただけに、ショックは大きい。ちっとも甘くなんかなかった、唾液で薄められた酒の味だったなんて、最低すぎる。
 両手で頭を抱え込み、ライは嫌だ嫌だと首を何度も横へ振る。そんな事で時間が戻るわけがないのに、心底泣きたい気持ちになりながら、彼は頭の中にある“あんな大人にはならない”リストにセイロンの名前をでかでかと付け足した。

2007/1/19 脱稿