素懐

 唐突に、目が覚めた。
 仰向けに寝かされていた身体は真っ直ぐに天井を向いている。見覚えの余り無い、知らない天井。時刻は夜か、部屋の照明も極端なまでに落とされていて、目が闇に慣れるのに少しばかり時間が必要だった。
 窓にはカーテンが引かれている。その隙間から月明かりが僅かに差し込んでいて、瞳を動かして追いかけると床に淡く線が描き出されていた。頭は固定されているのか、それとも動かせるだけの体力も回復していないのか、ピクリともしなかった。
 その代わりと言うべきなのか頭は妙に冴え冴えとしていて、寝起きだというのに珍しい、と自分を観察しながら思う。
 視線を再び慣れない天井へ戻し、暗がりの中で此処が何処なのかを考える。記憶が飛んでしまっているのか、何故自分がこんなところで眠っていたのかも思い出せなくて、自然と眉目に皺が寄った。
 顔の表情を歪めた所為で、頬に貼り付けられていたテープが引っ張られる。皮膚が攣る痛みが肉を貫き、耐え切れずに苦悶の息が唇から零れていった。
 足元近くで、不意に何かが動く。
「目ぇ、覚めたのか」
 この声ばかりは、忘れたくても一生忘れられない声、だ。ややしゃがれ気味の、成人男性のそれ。誰何のことばを紡ぐまでもなく、薄明かりの下に姿を現したのは、案の定嫌味ったらしくにやけた表情のシャマルだった。
 獄寺はベッドの上で身動ぎしつつ、改めて此処が何処であるかを考える。
 恐らくは、ランボが入院していると同じ病院の、別の一室。そう思い至ると同時に、鮮やかな金髪に銀の王冠を被った男の姿までもが蘇り、反射的に彼は身体を起こそうとして被せられている布団を跳ね飛ばした。
 腹に力を入れる。直後に襲い掛かった激痛。
「うっ……」
 情けなく呻き声をあげた獄寺は、背中を五センチも持ち上げることなく枕へと逆戻りを果たす。上からことの顛末を見守っていたシャマルが、呆れ気味に息を吐いて己の脂性な髪を掻き揚げた。
「なーにやってんだ、ハヤト」
 決して怪我をしている現状を忘れていたわけではない。腹部を切り裂いていたナイフ傷が、数日で塞がりきるほど生易しいものではないものくらい、過去に似たような怪我を負ってきた手前、理解はしていた。
 けれどそれでも追いつかない衝動が胸を貫き、再び背中に柔らかな布団の感触を受け止めたことで、自分が敗北した現実が否応なしに眼前に迫ってくるようだった。
「うっ……せぇ、よ……」
 切れ切れにどうにか悪態をついて返し、浅い呼吸を繰り返して乱れた心拍を元に戻す。眠っていたことで若干体力は回復した感じがするが、怪我が癒えきるまで当分掛かるだろうというのは、熱を帯びた身体の各部位からも伝わってきている。
 不甲斐ない。どうして自分はこうも肝心なところで役立たずなのか。
 まだ、たった数時間前でしかない出来事が、遠い過去のようでもあり、つい今さっきの出来事にも思える。最初から順番に巡る記憶が戦いの行程をなぞり、結末を露呈する寸前で消えてまた最初に逆戻る。あの時ああしていれば、こうしていれば、という後悔だけは後から後から噴出してきて、自分の力の足りなさを悔いても悔やみきれない。
 もうちょっとで勝てていたからこそ尚更悔しいのであり、自分の敗北によって大切なあの人を窮地に立たせてしまった現実が、重い。
「ハヤト、気持ちは分かるが今は、寝ろ」
 ベッドサイドに佇むシャマルが、少しばかり苦い声を出して告げる。腕を伸ばし、跳ね上げられていた掛け布団を直す仕草は幼い頃に風邪を引いて寝込んだ時、看病はしないくせに終始傍にいてくれた時と何も変わっていなかった。
 今、時刻はどれくらいなのだろう。
「うっせえ……」
 喋るたびに息が詰まり、胸が苦しくなる。命に関わるような場所への傷は極力避けたつもりだが、完全ではない。もっと自分を顧みずに戦い続けていたなら、傷の具合はこの程度では済まなかったというのも分かっている。
 だが奪い取れなかった指輪の輝きが今も瞼の裏に焼きついていて、あの時聞いた綱吉の声が遠くなっていく。
「ハヤト」
「じゅうだ……め……は?」
 もう喋るな、とそう諭すシャマルを押しのけ、ことばを繋ぐ。居るわけが無い人を探して泳がせた瞳の意味を察したのか、彼は息を呑んでから押し黙り、最後に「帰った」と短く現実を教えてくれた。
 当然だろう、彼はまだ修行の途中であり、夜は夜で守護者戦の観戦と応援に駆けつけてくれている。休む暇が無いというのはこの事であり、だからこそ彼には、自分の心配などしないでゆっくり休んで欲しかった。
 これで良い。顔が見たいというのはただの自分の我が儘だ。
「くっ、……そ」
 吐き捨てたのは、情けなさか、悔しさか。寂しさか。
 次は雨の守護者戦。あの男はきっと綱吉の期待に応え、勝利を手中にするだろう。奴はそういう男だ、自分とは違い決めるところはしっかりと決められる。
 だから綱吉は、彼の戦いを自分のときほど深く心配していないに違いない。それが却って獄寺の不甲斐なさを身に染みさせる理由にもなっていて、彼は奥歯を噛み締めて痛みを堪えながらこみ上げてくる涙を懸命に押し留めた。
 頑固だな、とシャマルが苦笑している。
「……んだよ」
 辛うじてどうにか首だけを傾けて彼を睨むと、怖い怖い、と本気で思っていない態度で肩を竦め、彼は後ろを向いた。猫背気味の背中をぼんやり見上げていると、どうやら彼は煙草に火をつけようとしているようで、怪我人の傍で煙草かよ、と心の中で舌打ちが漏れた。
 シャマルは慣れた仕草でジッポーをポケットに押し込み、白い煙を一本吐き出しながら振り返る。
「吸うか?」
「怪我人に、勧め、っな」
 喋っているうちにまた痛みが戻って来て、獄寺は声を詰まらせ目を閉じた。
 鼻腔を煙が擽っていく。笑われているみたいで腹が立って、悔しいやら哀しいやらでごっちゃになった感情が、獄寺の内側を無茶苦茶に掻き乱して駆け足で通り過ぎていった。息を吸い込むと鼻水が喉の奥まで落ちてきて、軽く咳き込むと腹筋に力が入ってまた痛みが襲ってくる。
 どうしようもない。いっそ気絶してしまえたらどれほど楽か。
「大変だな、若いってのも」
 感慨深く呟いたシャマルが、天井に向かって煙を吐く。堰き止められてそれ以上登れなくなった煙は、吐き出した当人を恨めしげに見下ろした後四方へ霧散して消えていった。獄寺はその様を涙目で睨み、そもそも彼が何の為に此処に居るのかを知りたくなった。
 からかいに来たのならさっさと帰って欲しい。慰めなら要らない。傷の手当……はこの男の場合、ありえない。
 だが、目が覚めた時、もし自分ひとりしか居なかったら、今の気持ちはもっとどん底に沈んでいて、二度と浮き上がれないくらいになっていたかもしれないとも、思う。
「俺……負けた、んだ、な」
 憎ったらしい金髪が目の前の空中で笑っていて、出来るものなら今すぐ切り裂いて爆破してやりたい。だが腕を伸ばしてもそれは虚しく宙を掻くだけだろうし、現実問題、肩に力が入らないので腕を持ち上げるのも難しい。
 勝てなかった。
 善戦した、良く頑張った、そう慰められたところで救いにはならない。知っているからこそ、シャマルは何も言わないのだろう。
 敗者は惨めに地面にへばりつき、生き残ってしまった自分は生き恥を晒してこの先の時間を過ごすことになる。
 何が右腕だ、この無様な姿はなんだ。骸たちとの戦いのときだってそうだ、結局は綱吉と雲雀に助けられ、自分は最後まで足を引っ張っただけだったではないか。綱吉を守って名誉の負傷だと息巻いてみせても、戦えるだけの体力も気力も回復しきれないままに向かった戦場では、役に立つ云々以前の問題だ。
 自分は弱い。どうしようもなく、とてつもなく、愚かで卑小な生き物だ。
「ハヤト」
 天井の一点をじっと見据え、声もなくただ涙を零す。
 何故あそこで負けてしまったのだろう、どうしてあそこで死んでも奪い取れなかったのだろう。あの人の前でこんな醜態を晒すくらいなら、いっそ二度と起き上がれなくなってしまった方が良かった。自分はもっと強いと思っていた、あんなチャラチャラした奴になんて負けないという驕りが、心の底に欠片でもありはしなかったか。
 俺は奴より強いのだと、傲慢に思ってはいなかったか。
「ハヤト」
「お、れ……なん、で……」
 死んででも勝ちたいと思った。あの人に命を捧げるのが、自分の生き方だと決めていた。あの人を勝たせるためだったら、泥水の中でだって平然と足掻いてみせるという自負があった。どんな汚い方法で、みっともなかったとしても、勝てなければ意味が無い。
 負けて、惨めにベッドで横になっている自分になりたかったわけじゃない。
「ハヤト」
 シャマルの低い声が響く。ドスの効いた、腹の底から搾り出した声だった。
 二秒遅れて彼が踵で床を捻った。病室の床を煙草の吸殻で汚し、脂臭い指で獄寺の額に触れる。広げられた大きな掌が、涙に濡れた彼の瞼を両目とも覆い隠した。
 視界が塞がれ、闇が近くなる。
「お、れ……かてな、かっ……」
 それでも獄寺の声は続く。途切れ途切れに、苦しそうに息を吐きながら、それでも喋らなければ今ここで呼吸困難で死んでしまいそうな空気を纏い、彼はボロボロの自分を蔑んで新しい涙でシャマルの手を濡らした。
 勝ちたかった。どうしても勝たなければならなかった。
 あの人に笑顔をあげたかった。あの人が、戦うのが本当は嫌いな、怖がりで気弱で、けれども心はとても強くて、尊敬に値する、あの人を笑顔にしてあげたかった。
 大丈夫、俺が守りますから。そう言いたかった。
 貴方は何も心配要りません、貴方が戦う必要なんてありません。そう告げたかった。
 叶わなかった。なにもかも、自分の力不足。余計な心配事を増やして、あの人を傷つけて、辛い思いをさせて、泣かせて、沢山心配させてしまった。謝っても、どれだけ謝罪しても足りない。あの人に顔向けできない。
 凄く苦しい。今ここで死んでしまいたい。情けない、格好悪い。自分が一番嫌いな自分に成り下がっている。負け犬、根性なし、大事なところで詰めが甘いただの馬鹿野郎。
「ハヤト、覚えてるか」
 何を、とまでは言わない。獄寺の顔が潰れないように、力を加えない手で涙を少しだけ拭ったシャマルの手が動く。外されはしない、変わらずに視界を覆ったまま彼は獄寺へ闇を見詰めるように言い聞かせる。
 獄寺は唇を大きく開閉させて喘ぐように息を吸い、吐き出した。涙が乾くことは無いが、ぐるぐるに雁字搦めになっていた思考がゆっくりと解けていき、思い返すのも嫌だった戦いの後の記憶も蘇ってくる。
 揉み合いになった終結間近、ガキの喧嘩に近い状態。
 生きるか死ぬかの瀬戸際。生を選べば敗北が、死を選べば勝利が目の前に転がり込んでくる。聞こえて来た綱吉の声。懸命に抗っても、抗いきれない絶対の響きが耳の奥に貼り付いて残っている。
 生きろ、と言われた。
 生きて帰って来い、と言われた。
 みんなで海にも行こう、一緒にまた笑って遊びに行こう。あの時間へ帰ろう、取り戻そう。そこには矢張り笑っている自分がいて、山本やクソ牛なんかも混じっていて、当たり前のようにあの人を取り囲んでいる。幸せに笑っているあの人を中心に集まった自分達が、これからも変わらずあの人を真ん中にして笑っている未来を、手に入れたかった。
 そのためにも、自分はどうしても勝たねばならなかった、のに。
「ばーか」
「いでっ」
 唇を噛み締めていると、完全に呆れ返ったシャマルが手の位置をそのままに指で獄寺の頬を弾いた。
 直接傷口には触れないように配慮はしてくれたようだが、痛みと言うものは皮膚や骨を通して周囲にも伝播していくもので、獄寺は悲鳴を上げた直後に頬骨全体が痺れるような激痛に見舞われ、声を必死に殺した。
 痛みと怒りで全身が小刻みに震える。傷が全快したら真っ先にこの男に復習してやる、と拳をそっと握って固い決意を心に秘めていると、もうひとつ重なった溜息に混じった声色に気持ちが一瞬で逸れていった。
「こっから先は、俺の単なる独り言だから、別に聞いてくれなくていいし、明日になったら忘れてくれて構わない」
 頬を弾いたばかりの指が、大事に獄寺の肌をさする。汗ばんだ肌に男の指は決して気持ちがいいものではなかったが、他人の体温が何故か胸を落ち着かせ、獄寺は長い時間をかけて肺の底に溜まっていた息を吐いた。
「俺は正直、お前が、無事とはいかなかったが、死ななかったことにホッとしている」
 目の前でガキの頃から知っている存在の魂が失われるのは矢張り忍びないし、これでも建前上は医者の肩書きを背負っている。死んだ人間を治療することは出来ないが、生きている人間であれば幾らでも延命の方法はある。無論、脳が死んでしまっているような場合は、どうしようもないのだけれど。
 だから率直に、こうやって話が出来るくらいには元気な状態で生き延びてくれたことに、感謝する、と。
 そうして、獄寺が勝負に負けても生き延びる道を選択するよう促し、導いてくれた沢田綱吉という男にも深く感謝している、と。
「なあ、ハヤト。強いって、どんなことだ?」
 独り言だと公言していたくせに、質問を繰り出して来た男は、ポケットから抜き出した二本目の煙草を指で回し、遠くへと視線を飛ばした。ベッドの上に縫い付けられたままの獄寺は痛みから苦悶の表情を浮かべた後、シャマル同様に此処ではない場所に意識を傾ける。
 真っ先に思い浮かんだのは、明るい茶色の髪を元気一杯に爆発させた、笑顔のあの人だった。
 獄寺にとっての強さ。それはあの人を守り抜き、あの人を傷つけようとする輩を打ち倒す力。あの人の笑顔を奪おうとする連中を駆逐し、その頬を涙で濡らさぬこと。命を賭しても守り通すこと。
 強いとは、誰にも負けないこと。どんな強敵であろうと屈せず、戦い抜くこと。命燃え尽きても、あの人に指一本触れさせないだけの気持ち。
 淡々と、短く返した獄寺にシャマルは長い時間かけて煙草に火を灯し、煙の味を舌に転がした後、笑った。
 人が真剣に答えたというのに、笑うとは何事か。不機嫌に眉根を寄せて睨んだ獄寺に、悪い悪いと謝る態度ではない謝罪を口にして、彼は指で抓んだ煙草から漂う煙に目を細めた。
「俺が思うにはな、ハヤト。強い奴ってのは、大体が生き延びる狡賢い頭を持ってる奴らのことさ」
 どれほどの猛者であっても、死ねばそこで時間は終わってしまう。記憶は途切れ、その先が生まれることは無い。どれほどに腕力に自信があっても、技量に優れていても、生き残るだけの知恵を身に着けていなければ戦場で無駄死にするだけだ。
 無鉄砲に敵陣に突進し、傷だらけの薄皮一枚残った勝利になど意味は無い。いかに迅速に、手際よく、被害を最小限に食い止めて終わらせるか。それこそが強さであり、力だ。他の追随を許さず、絶対無比として誇れる強さ。
「お前は言ったよな、見えていなかったのは自分の命だって」
 誰かの為、皆のため。ことばとして飾るにはこれほど綺麗で美しいものはないだろう。だが残された側はどうすればいい、生かされた立場の者は一生、死んでしまった人間を胸の中に残して苦しまなければならない。
 死ぬために戦うんじゃない、生きるために戦うのだ。時間に埋没してしまうのではなく、揃って明日のスタートラインを踏み越えるために。
「…………」
 綱吉が欲しがったのは、死によって齎されるような勝利ではない。
 また皆で笑いながら過ごせる、当たり前の日常。勝ち負けなんかじゃなく、誰一人として欠ける事なく生きて戻ってくること。
 これほどに価値ある願いは無く、これほど叶え甲斐のある夢はないだろう。
 あの時、あの人は何と言った。見苦しく地べたを這いずって戻ってきた敗者である自分に、有難うと涙ぐんでいた顔を思い出す。
「――……」
 獄寺はぼふっ、と後頭部を深く枕に押し付けて顔を横向けた。知らない白壁に阻まれた狭い視界が滲み、歪んでいる。
「まだお前は、見えないか」
「…………シャマル」
「なんだ?」
「俺……よわい、な……」
 勝負に負けたどころか、心まで負けそうになっていた。いつだってあの人に救われている。守りたいと思っている相手に助けられて、支えられて生きている。強くなったつもりで、新技を編み出し、少しは戦い慣れたとばかり思っていたけれど、全然そうじゃなかった。
 まだ弱い、自分は。
「いいんじゃねーの、弱くて」
「……っ」
 あっけらかんと言い放ったシャマルの能天気さに、ガクンと首が落ちて額が敷布団に埋もれた。露出していた切り傷に毛羽立った木綿が擦れて、悲鳴にもならない呻きが獄寺の口から溢れ出す。
 何をやっているんだ、と元凶の男は笑いながら、吐き出した煙で輪を作った。
「自分を強いと思ってる奴ほど、早死にするんだ。見てきた俺が保障してやる。自分は弱い、非力だ、そう思ってる奴ほど必死になって生きようとするからな。だから強くなる」
 どこかの誰かさんがそうだろう、と揶揄した彼の言葉に獄寺は目を閉じた。
「それに、弱い奴は努力を惜しまないだろう。強くなるため、生き残るための道を求めて我武者羅に足掻く術を知っている。弱い奴は体裁なんて考えない、格好良いとか悪いとか、そういうんじゃないんだ。生きるってのは、泥ん中掻き分けて何度も転びながら、その度に起き上がって前へ進むもんだ。違うか?」
 生き恥を晒しても、醜態を晒しても、生きていれば取り返しは効く。一度負けた相手にも、もっと強くなってから再度挑むのもありだろう。自分の弱さを知っている者は、自分の強さも知っている。
「それに、多少弱いほうが、伸び代が大きくていいと、俺は思うぜ?」
 最初から強さの限界を決めてしまうのではなく、何処までも強くなろうと貪欲になる。高いところから見下ろしたことがないから、上だけを求めて登っていける。
 振り返らず、ただ前へ、前へ。一転の曇りも無く彼方の頂を目指して、たとえそこに永遠に到達できないとしても。終わりを決めてしまわなければ、何処までも進んでいけるのだ、自分達は。
「俺、は……まだ、やれる……か?」
 痛む肩を叱咤しながら右腕を持ち上げる。顔の前に翳した掌は傷だらけのボロボロで、皮が捲れて巻かれた包帯の隙間から盛り上がった赤い肉が覗いている。血は乾いて瘡蓋になり、自己に眠る治癒力が肉体の修復を開始していた。
 傷はいつか治る。痕は消えないかもしれないけれど、それだって自分が精一杯生きてきた証。
 大人になった時、この傷は自分の勲章のひとつだと誇れる日が来るだろうか。
 ぎゅっと握り締めた指先は痛かったが、苦悶を押し殺し獄寺は奥歯を噛み締めた。
「つよ……く、なり……たい……」
 今より、もっと。
 昨日の自分より、明日の自分は強くなる。明日の自分より、明後日の自分はきっと強くなる。一年後、二年後、五年後、十年後――ずっと、ずっと自分は強くなる。
 あの人の隣で、右腕として、胸を張って背中を支えられるくらいに、強く。
「おいおい、なりたい、じゃないだろ」
 煙草を捨てたシャマルが、火を踏み消しながら肩を竦めた。獄寺の頭を、軽く丸めた指の背で叩き、彼の言葉をゆっくりと訂正した。
「強くなる、だろ」
 希望なんかじゃなくて、決意。
 願望ではなく、確固たる意思。
 髪を撫でる手は優しい。彼にはしてみれば恐ろしく似つかわしくない仕草に驚きを隠せないでいた獄寺だったが、ことばにしないでも彼が、自分や、綱吉たちの事を気にかけ、心配してくれているのだと思い出す。
 彼は大人で、獄寺の過去や綱吉たちの今に関わっている人物ではあるけれど、本来は直接ボンゴレには関係が無く、傍観者としかなり得ない。間に割って入る権利を持たないからこそ、外から冷静な目を向けられるし、また、戦いに直接的に関与できない立場としての歯痒さも感じているに違いない。
「……だな」
 ならば、彼の分も自分はもっと。
「強くなる」
「おう」
 決意表明を軽い調子で受け止め、シャマルは獄寺から手を外した。だぼだぼの白衣のポケットへ両手を突っ込み、明るくなり始めている窓の外へ視線を向けて欠伸を噛み殺す。
「んじゃ、俺は戻るわ。お前は此処で、もちっと休んでろ」
「ああ」
 休息を取るのも戦士としての務め。怪我を少しでも早く治し、万全の状態に近づけて、万が一のために備える。ダメージを負った肉体も、時間をかけて大事に癒せば以前よりもずっと強く、逞しくなって戻ってくる。ベッドの上で体勢を整えた獄寺は、シャマルの足音を聞きながらゆっくりと目を閉じた。
 深呼吸する。僅かに残る煙草の苦い臭いに苦笑してから、泣かせてしまったあの人が笑顔になるよう願い、彼は夢へと落ちていった。
 シャマルは廊下に出て、三本目の煙草に火をつける。灰皿近くのベンチに腰を落とし、疲れた顔を天井に向け、ガラでもなかったなと僅かに赤い頬を指で掻いた。
 喉を焼く煙は、どこまでも苦い。
「頼むぜ……俺の代わりに」
 皆まで言わず、彼は白い煙を吐き出した。

2007/1/10 脱稿