天気予報で木枯らし一号が吹いた、と聞いたのはいつだったか。すっかり秋の様相を色濃くした町並みを横目に眺め、綱吉は毛糸の手袋に包まれた自分の右手を居心地悪そうに丸めた。
朝、家を出る時に奈々に持たされたものだ。まだこんなものを使うのには時期が早いと断ったのに、日が暮れた後は一気に冷え込むからと熱心に諭され、結局持ってきてしまった。しかし今は、年長者の勘というものに感謝の意を表したい。
彼女の言葉通り、学校も終わり街へ新作のCDを買いに出たその帰り、太陽が地平線の下へと沈むと途端に周囲の空気は急激に温度を下げた。これなら上着の一枚も必要だったかもしれない、と思うほどの冷え込みに綱吉はブレザーの前を合わせるが、隙間風は絶えず彼の体温を奪い取っていく。
手袋だけでは足りない。上着、もしくはマフラーでもあれば。襟元から潜り込んでくる冷気さえどうにか出来れば、多少はこの寒さも凌げるだろうに。しかし繁華街もとっくに行過ぎていて、自宅へと続く道にはそういった気の利いたものを販売している店も無い。ぽつぽつと電信柱に灯る頼りない灯りに、不審者情報も確かあったよな、と綱吉は嫌な記憶を掘り返してしまって背中を粟立たせる。
「早く帰ろうっと」
しかしどれだけ急ぎ足でも、自宅へはまだ余裕で十分以上かかってしまう。駅から遠い道のりに辟易しながら、それでも進まなければ帰れないので彼は懸命に、寒さで感覚が遠退きつつある脚を交互に動かした。
頭上の街灯が、ランプの交換時期だろうか、チチチという音を立てて明滅を繰り返す。不意に音が途切れて足元が闇に沈み、通り過ぎる頃に背後で薄い明るさが戻った。綱吉は更に数歩進んでから振り返り、後ろについてくる人が誰もいないのを確認してからホッと息を吐く。
自分の足音が反響して大きく聞こえているだけで、実際狭い道に人影は無い。誰かに後をつけられている、だなんてドラマみたいな展開は一切なく、綱吉は胸の前で手袋の指を擦り合わせた。
「さむっ」
丁度タイミングを合わせたかのように風が吹く。身震いして両腕で身体を抱き締めるが、震えは止まらない。
矢張り寄り道は後日、週末の昼間にでもすればよかっただろうか。手にした袋を揺らし、綱吉は後悔する。だが全て今更だ。現在時刻を見ようにも腕時計の文字盤が暗さで読み取れず、溜息を零し彼は恨めしげに闇の中にぽっかりと浮かぶ雲の塊を睨んだ。
「あー、もうっ」
道端に転がっていた空き缶を気まぐれに蹴り飛ばす。中身も空っぽのそれはカン、と爪先から跳ね上がって空中に弧を描いた。そして勢いをつけたまま、進行方向の三叉路手前に落下する。もうひとつ甲高い音が響き渡った。
「わっ」
誰かの悲鳴と一緒になって。
「え……」
綱吉も、まさか人が通り掛るとは思っておらず驚きを隠せない。もしかしてぶつけてしまっただろうか、と慌てて駆け出すと、薄ぼんやりとした明るさしかない空間に二本の脚がすらりと伸びているのがまず見えた。近づくにつれて脚から腰、胸の辺りまでが見えるようになる。やがて完全に姿を現した声の主は、コンビニエンスストアの白いビニル袋を手に持っていた。
銀色の髪、咥え煙草。突然目の前に飛んできた空き缶に眉根を吊り上げて怒りを隠そうともせず、近づく足音に向かって遠慮なく睨みを利かせて。
目が合った瞬間、お互い固まった。相手の口からは、ポロリと火のついた煙草が落下する。
「じゅ、十代目!?」
「獄寺君!?」
ふたりして素っ頓狂な声を出してしまう。当たり前だ、こんな道端で偶然とはいえ顔を合わせるだなんて誰も想像しない。しかし実際にこうやって顔をつきつけあっており、呆然としたまま綱吉は彼を指差している手を急いで引っ込めた。
反射的に綱吉を睨んでしまった獄寺は、急に態度を軟化させてすみません、と何度も綱吉に謝る。その態度が、どこか哀愁漂う日本のサラリーマンを想起させた。
「いいよ、もう。それより、ぶつかったりしてない?」
「大丈夫っす。ちょっと吃驚しましたけど」
落とした煙草の火を靴で踏み消し、吸殻はきちんと拾い上げた獄寺が返す。綱吉が蹴った空き缶は、暗がりに紛れて姿が見えない。視線をアスファルトの海に漂わせていると、まだ制服姿の綱吉に、私服に着替えている獄寺が首を捻った。
「ひょっとして、これからお帰りですか?」
もしかしたら彼は、綱吉が居残り勉強をしての帰りだと勘違いしたかもしれない。しかし寄り道したとはいえ、今から自宅に帰るのには違いない。綱吉は面倒な言い訳を省略してそのまま頷いた。
「なら、送っていきますよ」
暗いですし、と獄寺はさっさと進路を変えて綱吉に先立って歩き出した。首に巻きつけられている白のマフラーの端が跳ね、彼の背中に落ちる。綱吉よりは多少暖かそうな格好をしている彼を羨ましく思いながら、綱吉は開いてしまった彼との距離を大股に詰めた。
脚の長さが根本的に違うから、歩く速度も大分違う。追い縋るような歩き方になっていて、綱吉は斜め後ろから獄寺を見上げた。もう少しゆっくり、と言おうとした口が冷たい空気を吸い込む。震え上がった喉仏が痙攣し、中途半端な位置で止まった酸素に肺が噎せた。
「けほっ、げはっ!」
勝手に足が止まり、身体が前のめりになる。倒れはしないが連続で出て止まらない咳に苦しくて、綱吉は喉を押さえて何度も息を吐いた。出て行く一方の酸素に身体が追いつかない。咳をする声を聞いた先を行く獄寺が、慌てて戻って来て綱吉の背中を抱きこんだ。
大丈夫ですか、と問う声もどこか遠くから響く感じがして、綱吉は涙目のままぜいぜいと浅い呼吸を繰り返す。そんな中で額に暖かさを感じて、道の真ん中で獄寺に抱きかかえられている自分にやっと気がついた。瞬間的に身体を起こして離れようとしたけれど、獄寺が掴んだままの上着が引っ張られて変に身体が斜めになってしまった。
気まずい空気が流れる。背中を撫でられたお陰で大分苦しさは軽減された。しかし有難う、とも、大丈夫、言えずに綱吉は視線を遠くへと飛ばしていると、ヘッドライトを眩しく輝かせた乗用車が低速で近づいてきていた。
端に詰めなければ撥ねられる。仕方なく綱吉は小さな咳をひとつして一歩獄寺の側へと近づいた。空気が濃くなり、頭上で彼が息を飲む気配が伝わってきた。
「十代目、ひょっとして寒いですか」
疑問符を伴わない獄寺の問いかけに、綱吉は視線だけを持ち上げた。薄暗い照明を頭上に受け、ぼんやりと彼の輪郭が浮かび上がる。綱吉は黙ったまま頷いて返し、車が巻き起こす小さなつむじ風に身を竦ませた。
と、ふわりと異なる微風が綱吉の首元を包み込んだ。一瞬遅れて柔らかな質感のものが露出していた彼の細い首に落ちてくる。
車が排気音を撒き散らして去っていき、周囲はまた一気に闇に落ちた。街灯が焦げる音を低く響かせ、どこかの家からはテレビの音が微かに響いてくる。ブロック塀に阻まれた道端に佇む綱吉は、自分の首に巻きつけられたものに触れて困惑の表情を浮かべた。
目の前の獄寺が笑っている。彼の首にあったマフラーは今、彼の体温を僅かに残したまま綱吉の頚部を暖めていた。
「獄寺君?」
「使ってください」
「でも、これじゃ」
君が寒いのではないか。
言いかけた綱吉が、手袋のまま首に添えられたそれを握り締める。見上げた先の彼は平気だと言い続けるものの、さっきまでよりも明らかに顔色は悪い。けれど外して返そうとしたら、肩に降りてきた彼の手が綱吉の動きを阻んだ。
どこまでも優しく、強情な彼。押し問答は一分近く続いたが最後まで獄寺は折れず、綱吉は諦めて彼の好意に甘えることにした。途端、頭上で小さなくしゃみが響く。
「ほら、やっぱり」
「いえ、全然平気ですから」
鼻の下に指を置いて啜り、目線を合わせずに獄寺が言い放つ。仕方が無いな、と肩を竦めた綱吉はふと、自分の手を見詰めた。暖かな毛糸の手袋がそこにはある。彼はその片方を抜き取った。指先に冷えた空気が降りてくる。
「これ、使って」
「いえ、良いです。本当に大丈夫なので」
「いいから嵌める!」
それでも尚辞退しようとする獄寺の腕を掴み、綱吉は強引に彼の左手を、自分が今の今まで嵌めていた手袋に詰め込んだ。ただ自分がやるのとは勝手が違って彼の中指と人差し指とが同じところに入ってしまい、掌の途中から動かなくなってしまったのを受け、観念した獄寺は苦笑しながら自分で嵌めなおした。
綱吉の右手にはもう片方の手袋が残ったまま。片手ずつの状態に、彼は首を捻る。まさか両手分ともに借りられるとは思っていないが、綱吉の意図が掴みきれなくて彼は銀色の髪を揺らしながら左手を何度か握り開きさせた。
と、完全に油断しきっていた彼の右手が握られる。いつの間にか右側に来ていた綱吉が、彼の右脇腹から左腕を差込んで彼の手を、掌が重なり合うように指を絡めてきたのだ。
「えっ」
唐突に掌を包み込んだ温もりと、それが何であるかを知った獄寺が顔を赤く染めて横を見る。僅かに下方、明るい茶色の髪に隠れた綱吉の瞳が、やや拗ねた風に明後日の方角に向けられていた。
「十代目?」
「だからっ」
呼びかけると、苛立ちを隠そうとしない彼がひとつ大声で叫び、肘を曲げて持ち上げた左手を自分の上着のポケットへと捻じ込ませた。握り締められたままの獄寺の右手もまた、狭い空間に押し込まれる。指の背に触れたカサカサした紙は、丸められたレシートか。
綱吉はまだ獄寺と顔をあわせようとしない。ふっくらと柔らかな頬が、薄明かりの下で優しい色に染まっている。
「これで、我慢して」
「……十分です」
ぶっきらぼうに言われた獄寺が、表情を和らげて微笑む。
「あたたかいです」
何より、綱吉の心遣いが嬉しくて。
獄寺はそっと、綱吉の手を握り返した。
2006/10/26 脱稿