その日は冷え込みも激しく、それにも増して風が強い日だった。
カレンダーで言えば土曜日、週休二日制の学校は休み。追記するならば、冬の長期休暇も終わって慌しい日常が戻り始めてから最初の土曜日でもある。
空は一面の青空だけれど、とても寒い。テレビに出ている天気予報士は、放射冷却現象だと言っていたような気がする。沢田綱吉はそんな寒空の下を、息せき切らせながら走っていた。
授業は無いし、補修の予定も組まれていないのに制服姿。但し平日通学する時のようにネクタイを締めてはいない。ジャケットの下に着込んでいるのは淡いベージュのセーターで、顎に近い部分まですっぽり覆い隠すハイネックが、同じくベージュを基調としているジャケットから隠されもせずにはみ出している。
ジャケットの上には膝丈のコート。これは学校指定のものではなく、彼個人の所有物だ。流石にこの気温では、いくらセーターを着込んでいてもジャケット一枚だと寒すぎる。ただコートを着込んでいるとはいえ脚まで完全に覆ってはくれなくて、スラックス越しに感じる風は情け容赦なく冷たかった。
「なんでこんな日に限って、教科書忘れて来るんだろう……」
冬休み明けにはテストが待っている、それが月曜日。先生は昨年勉強した分の理解度を確かめるとか云々と偉そうな口上を言っていたが、綱吉たちにしてみれば、結局テストはテスト、あまり嬉しいものではない。だが高得点を取るように言いつける自称家庭教師は容赦が無くて、今日はそのテスト対策で朝からみっちりと勉強するように予定が組み込まれていた。
だが、当の綱吉が肝心の教科書を学校に置き忘れてきてしまった。気がついたのは昨日の夜学校から帰り、夕食も終えていざ勉強机に向かってから。流石にその時はもう夜遅いから、と別教科に変更してもらったのだけれど、土曜日の朝から制服に袖を通して走らされているのは、忘れた教科書を取りにいってくるようリボーンに脅された所為。綱吉は大分渋って粘ったのだが、死ぬ気弾ではなく実弾が込められた拳銃を眉間に押し当てられては、逆らい続けるのも難しかった。
強い風が綱吉の両脇を挟むようにして突き抜けていく。前方からの突風に煽られそうになり、前傾姿勢気味に堪えた彼は耳が千切れそうな空気の冷たさに目を閉じ、奥歯を噛んで悲鳴を飲み込んだ。跳ね上がった髪の毛が後ろへ流されていくのが分かる。露わになった額にぶつかって砕ける空気の塊を感じ、鳥肌がたつ。
あまりに外が寒いからだろう、通行人もかなり数が少ない。たまに見かけても、皆暖かそうな格好をして、その上で両手を前で交差させたり、コートの衿を立てたりして吹き荒れる風から身を守っている。
「寒いなー」
それしか感想が浮かんでこなくて、綱吉は呟くと恨めしげに晴れ渡る空を見上げた。後ろを走っていった車のエンジン音に押され、休めていた足を動かして再び学校へ急ぐ。早く用事を済ませ、暖かい家に戻ろう。そう、それがいい。
あまりの寒さに、リボーンにこっぴどく叱られるのを承知で帰ろうか、と複数回葛藤しながらもどうにか辿りついた中学校の正門は、閉まっているのではないかと危惧していた綱吉の気持ちを遠慮なく裏切り、開いていた。校舎を隔てて見えない体育館からは、遠く微かに威勢の良い掛け声が聞こえているので、剣道部辺りが練習しているのだろう。
「寒いのに、凄いな」
熱心に部活動に打ち込んでいる人たちを素直に感心しながら、綱吉は普段よりも開き方が狭い門を潜りぬけ、白塗りの校舎へと足を向けた。建物の内部に入ってしまうと壁のお陰で風も感じなくなり、空気は冷たいが幾分外よりは温かい気がした。
シンと静まり返っている廊下は、人の気配も希薄でなんだか物寂しい。不意にあの人は今日も学校にいるのだろうか、と、とある人物の後姿を思い出し、綱吉は慌てて首を振った。
だが動作の途中で勝手に足も止まり、想像を打ち消そうとしても再び思考回路に戻ってきた後ろ姿の持ち主は、きっと土曜日でも日曜日でも、学校に来て時間を意味も無く潰しているのだろう。たったひとりきり、寂しくは無いのだろうか。
「あの人に限って、そんな気持ちにはならないんだろうなー」
感心していいのやら、呆れるべきなのか。どっちつかずのまま溜息混じりに零した綱吉は、薄く瞼を閉じて半眼のまま廊下を眺める。
とはいえ、それであの黒髪の人が視界に飛び込んでくるわけがなく、改めて溜息をついて肩の力を抜いた綱吉は、早く教室の在る階へ向かおうと、地上階の廊下を足音響かせながら進んだ。
そしてふと、何気なく見やったグラウンド。体育館は使用中だが運動場で活動する部活は寒さに負けたのか、見当たらない。珍しいな、と首を傾げてより遠くを見ようとした綱吉の視界に、不意に黒い影が舞い込んできた。
いったい、この冷風吹き荒ぶ空の下、あの人はひとり、何をやっているのか。
「嘘」
反射的に唇がそう音を刻んでいて、数秒遅れで綱吉は口元を手で覆い隠す。窓ガラスを隔てたグラウンドには、今しがた彼が頭に思い浮かべたばかりの人物が佇んでいた。
黒く、少し長めの髪を風に好き勝手遊ばせて、流石に肌寒いからかいつもは肩から羽織っているだけの黒い詰襟の学生服に袖を通している。後姿だからそうだと決め付けられないが、裾部分が揺らいでいないので、前ボタンも全て留めているのではないだろうか。黒のスラックスに、黒の革靴。黒尽くしの彼の白い両手はズボンのポケットに押し込まれていて、肘が外側へ少しだけ折れ曲がっていた。
遠目なので小さくしか綱吉の目には映らない首筋から顎のラインにかけてだけが露出したままで、それがいかにも寒そうに見える。それでも彼は他の大勢がそうするような、猫背になって胸元を庇う姿勢は作らず、いつものように背筋をピンと伸ばして立っていた。
何をしているのだろう、あんな場所で。
もう一度考えてから綱吉は首を捻り、試しに窓の鍵を外して少しだけ開けてみた。
瞬間流れ込んできた風の冷たさに、構えが取れていなかったお陰でみっともない悲鳴をあげてしまう。咄嗟に首を竦めて両手で窓を閉じて外気を遮断し、あまりにも情けない自分を恥じつつ、誰かに見られなかっただろうかと挙動不審に周囲を窺ってしまった。
外は寒い、それは此処まで走って来たばかりの綱吉も重々承知している。だが彼はあの場所で、冷たい風に身体を晒しながら立ち尽くしている。時折吹く強風に煽られた黒髪の流れ方からして、彼は空を見上げているのだろう。
空、凛と冷えた冬の青空。
綱吉は額がガラスに張り付く距離まで迫って、瞳を思い切り上に向けて限られた範囲でしか見えない空を臨む。憎らしいくらいの快晴に、微かに混じる雲の行方はすこぶる速い。きっと上空は、地上よりもずっと風が吹き荒れているのだろう、流れて行く雲を追いかけて目を動かし、綱吉は少しの間グラウンドにいる人物から注意を逸らした。
「あ、れ……?」
なんだろう、何かが、空から落ちている気がする。
目線の高さに戻した視界の上の方から、ひらひらと花びらのようなものが舞い降りて来ていた。雪にしては小さく、儚く、数も少ない。もう一度見やった空は矢張り晴れていて、首を捻りながら綱吉はもっと近くで見られないだろうか、と今度こそ額を窓に押し付けた。
だがそれで距離が詰まるわけがなく、自分の息で白く濁ったガラスを前にどうしようか一瞬躊躇した綱吉は、顎に手をやって真剣に悩んだ後、えい、と気合を入れて鍵を外したままだった窓を開けた。
顔面を叩く風に後悔しかけたのを堪え、身を乗り出す。風の流れは本当に数秒にもならない出来事で、吐く息の白さに見惚れている間に、綱吉を包む空気の温度は屋内のそれと全く同じになった。
爪先立ちになり、窓枠に手を置いて外へ上半身を差し出す。頬を撫でる空気は変わらずに冷たいが、やや興奮気味に高潮した肌にはあまり影響が無かった。ただ窓枠に触れる掌は冷たくて、彼は視線を落とすと左右順番に手を持ち上げ、コートの袖を引っ張って金属に触れる肌の下敷きにした。
グラウンドの彼を探す。いた、まだ最初に見つけた場所に立っている。
やっぱり寒そうな格好で、何をするでもなく其処にただ、佇んでいる。風紀の文字が記された腕章が、固定が甘いのか落ち着き無く風に揺られていた。きっちりと詰襟姿になっている彼は何処と無く珍しくて、後姿だけではなく前からも眺めたいな、などとぼんやり考えているうちに、もうひとつふたつ、白い何かが綱吉の視界を過ぎった。
左手を浮かせ、腕を伸ばす。掴みきれない距離に落ちたそれは、地上に触れる寸前で彼の視界から急に消えた。
「あ……」
惜しい、と心の中で舌打ちして、綱吉はもっと遠くへ手を伸ばそうと更に爪先に力を込めて壁に下半身を寄りかからせた。上半身、それも伸ばした肩の辺りに重心が移り、ぐらぐらと不安定に脚が揺れるのを懸命に堪えてもっと遠くを目指す。
あと少しな、というところで優しい風が急に彼を包み、あれ、と思いながら綱吉は何かを感じて顔を上げた。
遠く、かなりの距離があるはずなのに。
彼、が。
――あ……
振り返って、目が、合った。
「うあぁ、わっ!」
驚き、思考が停止し、体が硬直し、直後ぎりぎりだったバランスが一気に崩れる。綱吉は今の自分の状況を考える暇もなく、前のめりに窓から一メートルほどの落差がある地面へと転落した。
伸ばしていた腕を曲げて咄嗟に頭を庇い、身体を捻って背中から落ちる。衝撃で息が詰まったが身体を丸めてやり過ごし、頬に冷たい土を感じて閉じた目をそろそろと持ち上げる。吸い込んだ息に砂が混じって、舌の上でじゃり、と嫌な音を立てた。
「いっ……」
頭を抱えていた手を外し、背中を伸ばす。だが地面にぶつけた骨が体の内部で軋みを上げ、神経を伝って全身に激痛を走らせてくれた。二度目の悶絶に綱吉は起こしかけた頭を再び地面に横たわらせ、もがいた指で乾いた土を引っ掻く。
鼻先を、白い花びらの欠片に似たものが舞い落ちていった。
「…………」
それからどれくらい経ったのか。恐らく一分も経過していまい。溜息が聞こえ、綱吉は苦痛を堪えていた瞼を必死に持ち上げた。真っ先に見えたのは、汚れのない革靴と、折り目正しくアイロンが当てられたスラックスの裾だった。
「君は、馬鹿?」
呆れ混じりに呟かれた声で、この脚の持ち主が誰かを知る。綱吉は顔をあげられなくて、地面に抱きついたまま恥かしくて消え入りたい気分に陥った。
脚が曲げられる。膝が目の前に着地して、それを隠すように白い手が差し出された。
「いつまで、そうしているつもり?」
此処までされて流石に気絶したフリを貫き通すことも出来ず、綱吉は恐る恐る目を開けて見上げると、案の定雲雀の涼やかな瞳が彼を見下ろしていて、おずおず差し出した手は瞬時に掴み取られる。一気に引き上げられて、肩が抜けそうになった。
砂埃が僅かに落ち、汚れたコートの裾を軽く叩かれる。遠慮なく握られた為、雲雀の握力に悲鳴を上げた右手が少し痛い。落ちた衝撃は段々遠ざかって背中の痛みも消えつつあるが、顔を上げた雲雀にぼんやりしたままでいるところを見られて、そっと頬を指の背で撫でられた。
心配させてしまっただろうか。急に申し訳なさが先に立ち、綱吉は赤い顔のまま俯いた。
「あの、あ……りがと、う……ございま、す」
振り払って首を振ったのに、まだ触れてくる雲雀の指は冷たい。彼はいったいどれくらい、この寒波の中を立っていたのだろう。思ったとおり衿のホックまでしっかり留めている彼は学生服を頑丈に着込んでいたものの、綱吉なんかより遥かに薄着で、寒そうだ。
指が土で薄汚れた頬を滑り、顎へと落ちる。そのまま上向かされ、綱吉は抵抗せずに従った。視線が近距離でぶつかり、気恥ずかしさに瞳が泳ぐ。宙を彷徨った目線が宛ても無く右へ左へと流れ、ひらひらと舞う白いものに気づいて彼は怪訝に眉根を寄せた。
それを見た雲雀も、不思議そうに口元を歪める。
「なに」
「あ、いえ……あれ、なんだろう、って」
雲雀が見上げていた空から落ちてくる、白い欠片。雪のようで、雪とは違う感覚に綱吉は閉ざした唇の隙間から熱っぽい息を吐いた。
指を顎から外し、雲雀もまた肩越しに綱吉が指し示す方角を振り向いた。
ちょうど彼が最初に立っていた場所の近くを、ひらひらと舞い降りていく幾つかの花びら。地表に触れる寸前でスッと解けて消えるそれに気づき、雲雀は寄りかかる綱吉の身体を片手で支えながら顔を顰め、目を細めた。
遠くばかりではなく、ふたりの近くにもそれは舞い落ちる。手を伸ばせば触れる直前に消えてなくなり、実態がつかめない。風は絶えず吹き続けていて、一際強い突風に足元が掬われそうになった綱吉は、咄嗟に目の前にいる人間の肩にしがみついた。
腰に回されている手にも力が入ったのが分かる。耳殻を襲った唸り声が過ぎ去るのを待ってから、綱吉は自分が、雲雀に体半分抱きかかえられている状態だというのに気づいてまた赤くなって慌てた。
「あ、え、その……ヒバリさ……」
放して、と言おうとして舌が回らない。ぐるぐる回る目と頭に熱暴走が起こりそうで、綱吉は雲雀の肩に置いていた手を彼の上腕へと動かした。
雲雀が空を見上げたまま、唇を数回動かす。無音を刻んだかのように思われた吐息は、綱吉の耳に「風花」ということばを伝えた。
「風花……?」
舌の上に転がした音にあわせ、綱吉は空へと視線を投じる。
澄み渡る青空に、樹木が騒がしく葉を揺らしながら風を浴びている。流れる雲の速さに眩暈を覚えながら見上げる、ちらつく雪の欠片は確かに風に踊る花のようだった。
「綺麗……」
もっと近くで見たくて、さっき窓から落ちたのも忘れて綱吉は背伸びをする。爪先立ちになればなるほど雲雀へ預ける体重も増す事さえ忘れていて、背中を叩かれて初めて、綱吉は雲雀の肩口に完全に胸を埋め込んで寄りかかった状態であるのを思い出した。
瞬間的に悲鳴を上げて、後ろへ飛びずさろうとしてしまう。だが腰から背中に回された彼の右腕が邪魔をして、上半身だけが大きく仰け反った体勢でまたバランスを崩した彼は結局、雲雀の胸に逆戻りする羽目に。
あまりにもみっともなく、恥かしくて、綱吉は顔を上げられずにそのまま雲雀の胸元に額を埋めた。
学習能力が無いね、と笑う声がする。小ばかにしている様子は無いが、雲雀が呆れているのは痛いくらいに伝わってきて、風花の儚さのように消えてしまいたかった。
ずっと外にいた雲雀の体は冷え切っていて、当然身にまとう制服も冷たい。頬を寄せた先、少しでも暖まれば良いのに、と握り締めた学生服に息を吹きかけていると、雲雀は身体を少しだけ揺らして綱吉の背中へもう片腕も回した。
「――――」
雲雀は特に何も言わない。綱吉もまた何も言わず、強く抱き締められたまま彼の身体に寄りかかる。
自分の熱が、冷え切ってしまっている雲雀に通じるといいのに。ただ自分からは背中に腕を回すのが気恥ずかしく、強く額を押し付けていると、首筋に雲雀の息を感じた。
小さく背中が震える。顔をあげて確認するまでもなく、雲雀もまた、綱吉に近い。
「まったく、君は」
肌に直接声が響く。くすぐったくて身を捩ると、逃げようとしていると思われたのか、なお強く抱き締められた。
「あ、あの、俺、みんなより、その、ちょっと……体温高いみたい、だから、なんていうか、えっと、あれ、何言ってるんだろ俺……」
言っているうちに自分でも分からなくなってきて、綱吉は目を回しながら手元にあった雲雀の学生服のボタンを指で弄った。並盛中では縁が遠い、学生服の第二ボタン、だ。
そのうち彼も卒業していくのだろうか。急にそんな事を思って寂しさが胸を締め付けた。
ぎゅっと抱き竦められる。だから反射的に指先で転がしていたものを握ってしまった。糸の切れる感触が皮膚を抜けていって、もしかしたら千切ってしまったのかもしれない。首よりも高い位置に雲雀の気配を感じ、瞳を持ち上げると彼の頬が髪を撫でていた。ボタンの事、気づいていないのだろうか。いぶかしむ視線のままでいると俯いた彼と目が合い、ついついまた下を向いてしまう。
ただ彼が気を悪くした様子は無く、綱吉はホッと胸を撫で下ろしながら握った拳をそっと開く。後で怒られるな、と心の中で舌を出してはにかむと、背中から肩、上腕を撫でた雲雀の手が綱吉の顎を捕まえた。
無理やりに上向かされて、また目を閉じて緊張した肩を竦めて小さくなっていると、さっき窓から落ちた時に作った鼻の頭の擦り傷の傍を彼の唇がなぞった。息も吹きかけられたので、もしかしたら其処に付着したままだった砂利か何かを吹き飛ばしてくれたのかもしれない。
ただそれがあまりにも唐突だったものだから、ひゃっ、という声が漏れて逃げの体勢を作ってしまう。背中に残っていた腕の拘束も緩んでいて、雲雀と綱吉の間に若干の距離が生まれた。雲雀はその次の動作に移ろうとしなくて、綱吉もそれ以上は逃げなくて、微妙に背を逸らしたまま綱吉は自分の扱いに困って彼の胸に手の甲を添えた。
自分を見下ろしている雲雀の、揺らぐことを知らない深い闇に吸い込まれそうだった。
「子供体温」
「うっ」
素っ気無く、けれど表情はどこか楽しげに言われた言葉が綱吉の頭の上で跳ねた。思わず首を窄めてしまった彼だったが、否定できないので恨めし気に上目遣いに雲雀を睨むだけ。視線を受けた彼は目を細めると、意地悪に口元を緩めてもう一度、息吹きかけたばかりの綱吉の鼻筋に今度こそ唇を落とした。
傷に触れるか触れないかの距離を、ゆっくりとなぞっていく。
「ひば、り……さ……」
「なら、暖めて」
触れられたところから熱が生まれて、綱吉の頭を余計に混乱させる。どうにか紡いだ彼の名前を言い終わる前に、開いた上唇の端に彼の吐息が落ちた。
見開いた綱吉の目に、漆黒がふたつ。本当に吸い込まれてしまいそうで、瞼を閉ざすと同時に違う熱が降りてきた。
風が吹き、風花が踊る。
握り締めた第二ボタンから、雲雀のいつもより少し速い心音が聞こえてくるようだった。
2007/1/5 脱稿