懐炉

 日が暮れるのも、すっかり早くなった。
 放課後、授業が一通り終わった後も補習という格好で居残りを命じられた綱吉は、やっとのことで空白を埋め終わったプリントから視線を窓辺に動かし、空の暗さに肩を竦めた。
 少し前までならまだ西の空に太陽が頭だけであっても残っていたのに、今では完全に地平線に沈み込んでしまっている。赤焼けた雲が辛うじて昼間の名残を残しているものの、東から迫り来る藍色の闇に飲み込まれ、完全に消えてしまうのも時間の問題だろう。
 窓の下に広がるグラウンドでは、運動部が今日の練習を切り上げるべく、追い込みに入ったところだった。まだ誰かが居残っている教室から漏れる光が細く、乾いた大地を照らしている。掛け声が響き渡り、幾重にも重なって綱吉の耳に届く。
「帰ろう」
 椅子を引いて立ち上がると、綱吉はプリントを丸めて残りの筆記用具を鞄に放り込んだ。襷掛けにして鞄を持つと、ずっしりとした重みが左の肩に圧し掛かる。構わずに教室の電気を消して廊下に出ると、昼間の騒がしさから一変した、寒々しく物悲しい通路が広がる。部分的に照明が落とされており、明るいところと暗いところが斑になっていて不気味だ。早く帰ろう、気が急いてもう一度呟き、綱吉は鞄を抱き締めて階下へと急いだ。
 提出物を職員室へ持って行き、一礼をしてドアを閉める。人の気配が密集している場所だとホッとするものの、再び静まり返った廊下の人となった途端不安が胸に競り上がってきて綱吉は唾を飲んだ。運動部の練習は終わったのだろうか、威勢の良い声は聞こえなくてそれが尚更静かさに拍車をかけている。自然急ぎ足の綱吉は、だから不意に背後から肩を叩かれ、悲鳴をあげそうになった。
 ひっ、と喉を通り抜ける空気が引き攣る。鞄の肩紐を握り締めてその場で硬直した綱吉は、ぎりぎりと音が響きそうなくらいにゆっくり、不自然に振り返った。
 天井から落ちてくる鈍い光の下に、背の高い人物がひとり立っている。
「よっ、今帰りか?」
 明るい声。片手を持ち上げ、もう片手には色々と詰め込んでいるらしい膨らんだ鞄を持っている青年の姿に、綱吉は腰から力が抜けていく気がした。膝に手を置いて座り込むのだけは回避させ、しかし脱力の末の溜息は止まらない。
「なんだ、山本か」
「なんだとはなんだ」
 驚かせないでくれ、と心底参った声で呟いても、山本はちっとも聞いちゃいない。綱吉の口ぶりに腹立たしげに声を荒立てた後、何事も無かったかのように、思考を切り替えて再び「これから帰りか?」と聞いてくる。
 どこまでもマイペースで前向き。彼に見習うべきところもある、と気を取り直し綱吉は彼に頷き返した。練習も終わったのだろう、制服姿に戻っている彼もまた、綱吉と同じく帰る途中なのだという。部室から直接帰らなかったのは、用具室の鍵を返しに来たかららしい。
 一緒に帰ろうという申し出を断る理由もないので、そのままふたり、肩を並べあって校庭へ出る。
「真っ暗だな」
 校舎の明かりでグラウンドはまだ明るさが保たれているが、正門がある辺りからはすっかり闇色だ。間隔を置いて並ぶ電信柱に据え付けられた照明が、細々と地表を照らしている。空を仰げば灰色の雲が月を隠し、世界が海の底に沈んでいる感じがする。
 山本の呟きに同意を示し、綱吉もまた空を見た。吐く息が僅かに白く濁っている。もうそんな季節なのかと意識した途端、吹きぬけた風が冷たく彼の首筋を撫でた。
「ひゃっ」
 既に歩き出していた山本が、綱吉の短い悲鳴に何事かと振り返った。片手をポケットに突っ込んだ状態で見詰められて、間抜けな声を出してしまった自分が恥かしくなり、綱吉は慌てて駆け出した。後ろから山本の呼ぶ声がするが構わず振り切って、正門を抜けて暫くそのまま走り続ける。
 だが元から体力が無い綱吉のこと、簡単に息が上がってしまい、鍛えている山本に呆気なく追いつかれてしまった。
「どーしたよ、ツナ」
「いや、ちょっと……寒かったから、運動」
 走ったからだけではない顔の赤さを隠しながら、途切れ途切れに答える。山本は綱吉の腕を捕まえたままきょとんと目を瞬かせ、それから急に声を立てて笑い出す。会社帰りらしい人が何事かと怪訝な顔をして通り過ぎて行った。
 道端の自動販売機の照明だけが、妙に明るく浮き上がっている。一頻り笑い終えた彼は、いったい何がそんなに面白かったのか、目尻の涙を拭うと「そうだ」と呟いてやおらズボンのポケットをまさぐりだした。
「どこいったっけなー……っと、あった」
 ごそごそと左右のポケットを探った彼が取り出したもの。暗がりの中で見えづらかったそれは、女子に人気の高い、可愛らしいキャラクターの形状を模した何かだった。
「なにこれ」
 それが何故山本のポケットから出てくるのか。まさか彼は、本当はこういう可愛らしいものが好きなのだろうか。あまりにも山本の性格とはギャップがありすぎて、目を丸くした綱吉が差し出されたものを指で小突く。
 ほんのりと、暖かい。
「カイロ?」
 自分で聞いたくせに先に自分で回答を見つけ出した綱吉のことばに、山本はニッと白い歯を見せて笑った。
「女マネがくれたんだ」
 最近寒くなったし、肩を冷やさないようにと部活動が終わった後に渡されたのだと、彼はあっけらかんとした表情で真相を告白した。
 綱吉も知る野球部のマネージャーは、ショートカットの黒髪の、ちょっと勝気な女の子だ。さっぱりとした性格で、京子程ではないが男子から人気も高い。
 彼女が山本を好きだという話を、綱吉は以前から耳にしている。ただ山本本人は気付いていないようで、彼女のアタックは悉く無駄に終わっているのも知っている。彼女の思いが永遠に実らないだろう事、山本が好きな相手が誰なのかも、綱吉は知っている。山本が好きな相手も、山本のことが好きだ。
 綱吉は、山本が好きだ。そして山本も、また。
 だから彼が渡そうとしているものが彼を好きな女子生徒からの差し入れだと聞かされて、綱吉はとても複雑な気持ちになる。
「寒いなら使えよ」
 恐らく山本は、深く考えていない。単純に寒がっている綱吉を暖かくしてやりたいという心遣いからの申し出だろう。けれどこれを彼に渡した彼女の気持ちを考えると、綱吉は素直に受け取る気になれない。
 それに。
「いいよ、平気。もう、あったかいし」
 視線を泳がせ、山本の手を押し返す。その指先から冷たい空気に身体が冷えていく。心まで、凍えそうだ。
「え? でも、寒いんだろ」
 遠慮せずに使えよ、と押された手で抵抗を見せた山本の態度に、綱吉は段々と腹が立ってきた。彼は女子マネージャーの親切心を素直に受け取っただけで、今の行動も綱吉を思っての、彼なりの思いやりだろう。キャラクターものを使うのが恥かしいとか、そんな理由からではなく、言葉での説明が難しい感情から拒否を示している綱吉の気持ちに、全く気付かない。
 使えるわけがない。綱吉が好きな人を好きな女の子が、彼に使って貰う為に渡したものを、平気な顔をして綱吉が使えるものか。
「いらないってば!」
 声を荒立て、勢いに任せて綱吉は山本の手を叩いていた。乾いた音が闇空に響き渡る。呆然とした顔の山本が、一秒後、眉を吊り上げて迫ってきた。
「ツナ!」
「だって、それじゃあの子が!」
 可愛そうだ。反射的に言い返しかけた言葉が喉の手前で押し潰される。不意に目尻に浮いた涙に綱吉が一番驚いた。握り締めた拳が、山本を叩いた指先が、とてつもなく痛い。
 本当は声を大にして言いたい。山本は自分の事が好きなのだ、山本は自分のものだ。だから手を出さないで、彼を好きにならないで。言えたなら、一番良いだろうに、それが出来ないから、大っぴらに堂々と山本の横に並んで歩けない自分が悔しくて、悲しくて。それが出来る彼女が、羨ましくて。
「ツナ……」
 鼻を啜り上げた綱吉に何を感じ取ったのか、山本が身体を引いて困惑気味の声を出す。だがやがて彼は手にしていた小さなカイロを握り締めると、いきなり振り返って自動販売機横のゴミ箱に投げ捨てた。
「やまもっ」
「良いんだ」
 重ねて驚かされて綱吉は慌てて山本を呼ぶが、それより早く山本本人に遮られた。伸ばした指先が彼の上着を抓む。背中側を引っ張ると、数秒置いて、いつもの人懐っこい笑みが綱吉の上に落ちてきた。
「次からは受け取らない。ツナが悲しむくらいなら、ちゃんと断るよ」
「山本……」
 鼻の奥がツンとする。あの子には悪いけれど、矢張り彼は他の誰にも譲れない。
 山本の言葉が嬉しすぎて二の句が告げなくなっていた綱吉の視界が、不意に影を濃くして闇に埋もれた。斜め上から降ってきた山本の長く太い腕が背中に回される。抵抗する間も与えられず、彼の胸元に顔が沈み込んだ。
 ブレザーに染み込んだ山本の匂いがいっぱいに広がる。呼吸が苦しくて頭を振ると、背を丸めて首を窄めさせた彼の頬が綱吉の髪に触れた。
「やっぱ、カイロよりこっちのが断然あったかい」
 声を潜めて笑いながら呟かれる。耳朶に吹きかけられた呼気の熱さに背筋が震え、綱吉は瞬時に顔を赤く染めて身動ぎした。けれど逃げられないようにがっちりと腕で抱き締められ、自由が利かない。
 悔し紛れに膝を曲げて彼の脛を蹴り飛ばす。山本が低く笑う。抱き寄せる腕に力が込められる。逃がさない、と態度で示されて。
「ツナ、俺のこと、好き?」
 ずるいくらいに優しい声で問いかけられる。
 好き、とも嫌い、とも答えられなくて、綱吉はただ真っ赤な顔を俯かせて小さく頷いた。

2006/10/25 脱稿