その人は、其処に立っていた。
冬の街、ちっぽけな交差点。特別目立ったものもなく、四方は住宅の壁やら塀やらで囲われて、端には申し訳程度に盛り上がった狭い歩道。通行人には役目を果たし切れずに無視されっ放しの信号が寂しそうに突っ立っている傍で、その人は佇んでいた。
誰かを待っているとか、何かを待っているとか、そんな雰囲気は全く感じられない。もしかしたら本当に待ち合わせの最中なのかもしれないが、それにしたってこんな目印になるようなモニュメントも見付からない灰色の街角で約束をする人間は居ないのではないか、と普通は思う。
その人は、ぼんやりとした様子で空を見上げていた。
傍らを車が走り抜けていく。住宅地でありながら、工業地区も近い区画だからだろうか、交通量は人のそれよりも若干だけれど多い。切り替えられた信号の色が、寂しさを募らせる冬の空に薄く輝いている。
俺はジャケットのポケットから煙草を取り出し、最後の一本を抜き取って唇に挟んだ。空っぽになった箱を握りつぶし、捨てる場所が無いかと視線をあの人から外して路上に彷徨わせる。だが自動販売機さえも無い道の事、ご丁寧にゴミ箱だけが置かれている環境ではないのを思いだし、小さく舌打ちをしてしまった。
仕方なく、箱を入れていたポケットへとねじ込んで、入れ替わりにライターを取り出す。
信号が変わった。俺の横で停車していた車が、アクセルをゆっくりと踏み込んだのが分かる。低い唸りを残し白いボンネットのそれは走り去り、少し遅れて自転車に乗った女性が前籠を重そうに揺らして過ぎていった。
俺は手近な壁に背中を預け、煙草に火をつける。左の膝に少しだけ角度を持たせ、踵を浮かせる。一瞬だけ点ったライターの火の赤さに目を細めてから、静かに息を吸う。喉の奥を擽る煙の味に、自然と眉根が寄った。
顔を斜め下に向けたまま、視線だけを持ち上げる。
あの人はまだ、其処にいた。
何をしているのだろう、という疑問はその小さな背中を見つけた瞬間からあった。けれど声を掛けて注意を自分に向けさせるのがあまりに無粋だと感じる程に、彼の背中は風景の中に溶け込んで一体化していた。綺麗だ、と思う程に。
俺はあの人に倣い、空を見上げる。
道路端に居並ぶ幾つもの電信柱、互いと互いを繋ぐ黒いケーブル。まっすぐに伸びているものもあれば、複雑な経路を辿って絡み合うものも多い。太いものと細いものが交錯し、白い雲が多い青空を無情に切り裂いている。
日差しは無い。青い空は確かに見えるのに、地表は影に覆われて少しだけ暗い。大きめの綿雲が、空の頂きで輝いているだろう太陽と地上を遮っている。目を細めて西へと転じると、幾重にも重なっているのだと分かる陰影をつけている雲が、非常に緩慢とした動きで流れていた。
西から、東へ。
右から左、へ。
青が少しずつ白に浸食されていく。頭上三メートルほどのところに走る黒いケーブルを境界線に、雲は範囲を広げてやがて空を埋め尽くそうとしているようだ。
限りなく傲慢で、身勝手な男を同時に思い出して、俺は再び舌打ちして肺の中にたまっていた空気を一気に吐き出した。
信号が青から、赤へ。だけれどあの人は変わらずに、其処に佇んでいる。
空をジッと見上げている。瞬きをするのも稀なくらいに、真剣に。いや、ひょっとすれば何も考えていないのかもしれない。現に俺は、あの人の斜め後ろから見つめる表情から何も読み取れない。
大きな瞳を見開いて、ジッと、静かにそこに立つ。
吸うのを忘れていた煙草の煙が鼻腔を擽る。灰色の灰が先端を覆い尽くし、残る白いフィルターを巻き込んで焦がしている。
俺は添えた人差し指を数ミリ持ち上げ、軽く煙草を叩いた。衝撃をダイレクトに受けた煙草から灰が僅かだけこぼれ落ち、足下に消えた。薄い唇に迷い込んだ煙草の苦さを辛いと思わなくなったのは、いつからだっただろう。もう思い出せもしない過去を一瞬だけ振り返り、首を反らす。
見上げた空の雲は、さっきよりもずっと大きく広がっていた。
と、その白と青の境界線辺りから、何かがこぼれ落ちてきた。
ゴミだろうか、と眉根を寄せて背中を壁から浮かす。両足の裏でしっかりとアスファルトの地面を踏みしめて、身体全部をまっすぐ伸ばして仰ぎ見た空から落ちてくる、幾つもの小さな欠片。
ひとつ、ふたつ、みっつ……十、百……数え切れない程に、沢山の。
たくさんの、粉雪。
俺は目を見張った。同時に開いていた唇から、支えを失った煙草が身体のラインをなぞるようにして地面へ落ちていく。一瞬遅れて瞳だけでそれを追いかけた俺は、更に数秒後にやっと身体が思考に追いついて膝を折った。
落とした煙草を拾おうと指を伸ばす。その爪先を掠め、白く淡いものが落ちて消えた。
雪。今年、おそらくはこの冬最初の、降雪。
少しへこんだ煙草を拾って立て、灰ごと先を押し潰す。右に、次いで左に捻られたそれはあっけなくひしゃげ、燻っていた熱を消した。吸い殻となったものを、取り出した携帯灰皿に放り込んで、俺は曲げた膝を伸ばし立ち上がる。
長く伸びた前髪の隙間を縫うように、雪が踊る。空は晴れているのに。不思議な気がして改めて見上げた空、俺の真上には溶けた氷で薄めた水色がどこまでも。
雪。イタリアの、ブーツの形をした半島ではさして珍しくも無い、雪。
けれどこの国では、何故だろう。見慣れた筈のものだというのに、風景の中にあの人がいるから、なのだろうか。
とても荘厳で、優雅で、不可思議で、それでいて、言い表しようのない奇妙で美しいものに映って見て取れる。
不意に、あの人が動いた。肩を揺らし、両手を持ち上げる。
身に纏った淡いパールホワイトのダッフルコートに新しい皺をいくつも刻み、空を抱くように掲げた両腕を、まるでアトラスのように差し出して。降り続ける雪を抱いて、抱きしめてあの人はそれまで寡黙を貫いた表情を途端輝かせた。
月より、星々より、太陽よりも遙かにまばゆい瞳で、空を抱きしめる。
「獄寺君、見て、雪だよ」
そうしてあの人が零した言葉に、俺は、目の前の出来事が現実なのか夢なのかの判別もつかなくなっていた。
惚けた表情のまま、くわえるもののない唇を、指がなぞる。吸い込んだ息の冷たさに胸から腹が一気に冷えて、紫を強めた唇の乾き具合を確かめて、薄い皮膚を辿った人差し指の強さに戸惑う。
だって、あの人は一秒の間の一瞬でさえ、振り返りもしなかった。俺はずっと、あの人を見ていて、けれどあの人は、一度だって俺を振り返って姿をその琥珀よりも美しく輝く瞳に映し出したりはしなかった。
俺が此処に居る事を、あの人は知らない。その筈だった、のに。
どうして。
ゆっくりと振り返ったあの人は、ただ驚くばかりで返事をしない俺をようやく視界に納め、少し不満顔を作った。空を抱いた腕を下ろし、片方はコートのポケットへ、もう片方は涼やかな空気に麻痺した鼻を軽く擦る。
俺は何も言えない。咄嗟に思い浮かんだ疑問は、どうして、ばかりで。
「じゅ……だい、め……?」
顔の下半分を手で覆い隠している俺に微笑んで、あの人は十数歩の距離をあっと言う間に詰めてしまった。息弾ませる紅潮した頬を冷やし、冷たい雪が降る。
「良かった。やっぱり、獄寺君だった」
灰色の街角に際だつ、白いコート。この人はどうして、自分が此処に居ると分かったのだろう。疑問が隠し気味の顔に出ていたらしい。小さくはにかんだ表情のまま、十代目は肩を竦めたその腕で、俺の手を小突いた。
正確に言い表すなら、俺の口元を覆っている手の甲を、だ。
「煙草、吸ってただろ?」
なんて事もないように。学内で煙草の匂いがしたからきっと君だろう、と振り返らずに言い当てた時の口ぶりで。
でも此処は限られた人間だけが出入りする学校ではない。誰が通り掛かるかも分からない、市井の人々が日常に使う道ばただ。
ただ煙草の匂いに特徴があるから、とかだなんていう理由は、成り立たない。俺が使っている煙草を愛用している人など、探せばこの地球上、数千、万という人間に行き当たるに違いない。
それでも、この人は、数億存在する地球上の人間の中で、只一人の俺を言い当てた。
雪が降る。深々と、粛々と。
交差点は変わらず、車が行き交う。人の通行もそれなりにある。だのに、俺達の周囲は、どこまでも果てしなく静かだった。
「吸ってました、けど……」
「だから、君だと思った」
臆面もなく笑うこの人の、どこまでも無邪気で純粋な瞳が、どうしようもなく愛おしくて。
道ばたで佇んでいた貴方。何の変哲も無い街角で、何かを探すように瞳を空へ投じていた貴方。何をするでもなく、誰かを待つでもなく、通行人の邪魔にならぬように交差点の端の端に立ち尽くしていた貴方。
そんな貴方を遠くから見守っていた、俺。
雪が降る。まるで貴方は、この一瞬を待っていたみたいで。
「十代目は、雪が降ると……分かっていたんですか」
口元を覆っていた手を下ろす。乾いた唇が刻む音を耳に通し、貴方は少し困った表情を作って、暫く間を置いてから首を振った。
横に。
少し迷っていたように見えたのは、きっと錯覚じゃない。
ボンゴレの長となるべき人に現れるという超直感が、この人に宿っているという事実は最早疑いようもない事実。だから、もしかしたら雪が降る瞬間を、貴方はあの場所で待っていたのかもしれない。
雪だとは知らぬまま、何かが起こるという感覚に、歩みを止めて見守っていたのかもしれない。
それは全て、俺の一方的で勝手な思いこみでしかない。でも、きっと間違いじゃない。
「俺はそんなに凄くないよ」
照れくさそうに鼻の頭を擦り、貴方は笑う。首を窄めて、巻いたマフラーの暖かな起毛に口元までを覆い隠して上目遣いに、俺を見上げる。
その元気が良すぎる薄茶色の髪に、粉雪が降りかかる。触れればすぐに溶けて消えてしまいそうな儚さのそれも、この人を閑かに輝かせるひとつの欠片にしか成り得ないのか。
揺らした指先で弾き、皮膚へ残ったすこしの水気を擦っていると、貴方は不思議そうな顔をして俺を見る。緩やかに首を右に傾がせて、差し伸べた掌に雪の欠片を受け止めて、そっと握りしめて。
寒い冬に、暖かな吐息を零す。
車が走り抜ける。人々は、慌ただしく道を行く。立ち止まって動かない俺たちには目も向けず、各々が持つ時間の中を、己のペースで進んでいる。
俺たちが、こうして俺たちの歩みで、この場所に佇んでいるのと同じように。
「寒いね」
貴方が呟く。
「そうですね」
俺が返す。
そしてどちらかともなく、笑みを零して声を立てて、笑う。
「十代目は、何かご予定でも?」
「ううん。獄寺君は?」
気まぐれに立ち寄った場所で、何かに呼び止められた気がして空を仰いだ。青と白のコントラストの目映さに目を奪われて、心も同時に浚われて動けなかった。
自分を呼ぶ声の行方も知らず、その場所にとどまって“何か”を待った。
「俺も、同じです」
何かに誘われて、その“何か”も分からぬまま街に出た。目的もなく、行き場所もなく、ただ白い息を吐いて冬の街を眺めて歩いてきた。
その先に貴方が居るなんて、考えもせず。
でも、もしかしたら。
本当は。
「十代目を探していたのかもしれません」
貴方を。
こんな寒い、晴れているのに曇っている冬の日は、暖かな心を持つ貴方が恋しくて。
無意識に求めていたのかもしれない、と。
「……あのさ」
困った風に視線を泳がせた貴方が、同じく困った調子のまま指で宙を掻いた。人差し指の腹を親指で擦って、その背は唇へと押し当てられる。下方を向いていた瞳が時たま俺を盗み見ているのが分かって、ひょっとして彼は照れているのだろうか、と思う。
日本の人は奥ゆかしいから、正面切ってのストレート過ぎる感情表現は逆効果だと、誰かが言っていた。失敗しただろうか、と心の中で冷や汗を流す。
「十代目?」
「……やっぱりいいや」
君はどうやっても、君だし。そう愚痴を零す貴方の独り言が聞こえて、俺は意味が理解出来ずに首を捻る。
どきりとしたのは、直後に貴方が伸ばした左手が、俺の右手を捕まえたからだ。
お互いに素手で、冷たい空気にすっかり体温を奪われて凍り付いた湖面を想起させられる。だが触れあった箇所から少しずつ熱が流れ込んで、悴んだ指先だけではなく心全てを、融かしていく。
貴方の熱が、俺を侵していく。
狂わされそうな程の熱が、俺を。
内側から、食い破る。
「――――!」
びくり、と過剰な迄の緊張が全身を貫き、振動が伝わったのだろう。驚いた様子で俺を見た貴方は、続けて繋がった手を視界に納め、瞬間ぱっと手を放してしまった。微かに残っていたぬくもりさえもが雪を散らす風に流され、淡い露と消える。
同時に胸を吹き荒んだすきま風に俺は慌ててしまい、脳みそが揺れて倒れそうな勢いで首を左右に振り回して、またしても貴方を驚かせてしまった。
息荒く肩を上下させた俺を、貴方は困った顔で眺めている。
「大丈夫?」
口元にやった中指を下唇の下辺に押し当て、貴方は微笑む。細められた瞳の柔らかさに安堵して、俺はひとつだけ首肯した。
息を吸う。胸を焼く冷たい空気に頭の中を流れる血液が冷やされる。動転していた心も平静さを取り戻し、二度目に吐いた息は最初のそれよりも少しばかり熱が宿っていた。
見下ろした先に立つ貴方が、「なに?」と口元を引き締める。
おずおず差し出した手で捕まえると、貴方はちょっと頬を強ばらせ、それから長い時間を掛けて鼻で吸った息を口から吐き出した。
まっすぐに伸びていた指に力が秘められ、そっと、握り替えされる。
微笑みが雪空に花を咲かせた。
「あったかい」
すっかり冷え切ってしまっていた身体の末端が、たったそれだけの事でじんわりとした温もりを放つ。「そうですね」
握りしめられた貴方より、握りしめる俺の方が冷気に触れる面積が広いのだけれど、過分に俺の方が体温を上昇させていたに違いない。爪の先まで集中した神経が貴方の悴んだ手を解すように動き、手首から肘を通し、肩を抜けて身体全部へと到達した熱が、貴方の心を少しでも揺るがしたら、それだけできっと俺は、生きていける。
吐き出した息の白さを笑って、貴方は半歩、俺の側へと寄りかかる。繋いだ手はそのままに、丸められた背中、項を空へと晒して貴方は俺に寄りかかる。
俺の背中が再び壁と一体化して、その向こう側を、地鳴りを残して車が通りすぎた。
「十代目」
「気のせいだと思ってたんだけど」
囁く声は微かに、小さく、遠く。
油断すれば聞き逃してしまうくらいの細さで、貴方は音を紡ぐ。
俺は息を呑み、唾を飲み込み、目の前の小さな存在に全神経を集約させた。
重ねられた皮膚から伝わる痛みが、胸を刺す。
「予感がした、から」
何かが起こる気がした。だから此処に立っていた。
何も起こらないだろうと期待もせず、けれど他の何処かに行く気にもなれなくて、“何か”が起こるのを待っていた。
今年初の雪を君と見られた奇跡を、嬉しいと思っている。
告げる貴方を、このときほど抱きしめたいと思った事はない。そして迷う事無く実践してしまった自分の、野生動物じみた貪欲さは、笑うしかない。
「十代目!」
俺は、貴方を。
貴方が。
「苦しいよ、獄寺君」
腕の中の貴方がそう言って身じろぎするけれど、俺は放さなかった。
放したくない。放せない。きっともう二度と。
気づいてしまった。
光が差す。二人して顔をつきあわせたまま、数秒の間が開いて、揃って空を見上げた。
上空を埋め尽くしていた白い雲が、いつの間にか東へと大きく移動を果たしていた。それまでずっと隠されていた太陽が顔を覗かせ、冬のこの季節にしては熱を帯びて輝いている。
地表を潤す太陽の光が、俺たちを優しく包み込んでいた。
コンマ数度の違いかもしれないが、肌に感じる気温も上昇している。ちらついていた雪はいつの間にか姿を消し、雲間から差し込む光だけが残された。
「やんじゃった……」
残念そうに呟き、貴方は俺の胸を一度だけ叩いた。気がついた俺は貴方の背中に回した片腕を解き、束縛を緩める。
いとも容易く俺の腕の中から逃げていく貴方。そう簡単にはいかないか、と悔しげに今日何度目かも分からない舌打ちをしていたら、目の前で貴方の白い手が揺れた。
はい、と差し出される何もない掌。面食らっている俺に向かって、再度差し出す動作を繰り返した貴方は、反応が鈍い俺に頬を膨らませ、持ち上げた右足で俺の臑をいきなり蹴り飛ばした。痛みは無いが、驚きは生まれる。
「え……?」
「いいよ、もう」
何を拗ねているのだろう。訳が分からなくて片手で顔を覆った俺は、指の隙間から覗く貴方の背中と、行き場所を失って腰の辺りを彷徨っている貴方の手首を同時に見つけて、眉間に皺を寄せて一瞬考えてから、視界を半分覆っていた腕を下ろした。
伸ばす。捕まえる。握りしめる。貴方が振り返る。
「俺んち、来ますか?」
貴方の家よりは近い。そう言い訳がましく付け加えると、俺が握った手を見下ろした貴方が、急に赤くなった。
「十代目?」
「こ……コーヒーだけなら!」
俯いたまま耳だけを俺の瞳に映させている貴方が、そう声を上擦らせて叫ぶ。この声に何かを感じ取った俺までもが、数秒後赤くなって動けなくなってしまった。
冬の空が笑っている。雪が過ぎた後のそれは、青。
2006/12/31 脱稿