夙成

 陽射しは長閑で、優しい。冷たくもなく、熱くもない空気が丁度いい具合に温んでいて、ともすれば眠気を催しそうになる空間は、日常生活そのままの時間が流れていて非常に心地よかった。
 数時間後にはこの学内にいる殆どの人間が知りもせず、気づきもしないで終わっていくだろう、それでいて激しく凄惨なものとなる筈の戦いが幕を開けるというのに、校舎内は活気に満ち溢れていて、あれら一連の出来事が全て夢幻でないのかと疑いたくもなった。
 だが握り締めた拳の痛さが本物のように、綱吉の目の前に展開されている事態は紛うことなき真実。激動の一夜が明けた朝、ベッドの上で感じた静けさに不意に泣きそうになったのも、全てが嘘ではないと教えている。
 負けたくないし、負けられないし、絶対に負けない。風に揺られる度に折れそうになる心を懸命に繋ぎとめ、二の足で大地を踏締める強さは仲間が与えてくれた。彼らがくれた勇気に報いるためにも、自分が出来ることは全てやってのけよう。今は眠り続けているあの人の為、にも。
 硬く握った拳を胸元から脇へ下ろし、指から力を抜く。最後の一段を降り終えた綱吉はそこでひとつ息を吐き、丸めた指の背を太股に擦りつけながら閑散としている廊下を見詰めた。
 地上階に教室は無いので、生徒の数は疎ら。ぼんやりしているうちに自分の教室がある階を通り越してしまっていたらしく、手摺りに体重を預けながらしまったな、と苦笑を漏らす。
 ざわめきが漂う上の階と違って静寂が支配している空間は、周囲を埋める空気までもがひんやりとしている。戻ろうか、どうしようか、悩みながら階段の上を振り返った綱吉の背後で急に物音がした。
 反射的に身構えながら振り返る。向こう側も綱吉の気配に驚いたようで、開けた扉から手を放すタイミングを逸した状態で立ち止まっていた。見慣れた顔、無精ひげとボサボサ頭、よれよれの白衣。
 シャマル。
「何やってんだ、お前」
 この学校の保険医にして、裏世界では数多の病原体を駆使して暗躍する名うての殺し屋。そして獄寺の師。更に付け加えるなら無類の女好き。
 もうひとつ付け加えるなら……いや、やめておこう。
 彼は驚いた顔そのままに、思い出してドアノブから手を放して綱吉の前までやってくる。彼の方が圧倒的に背が高いのもあって、天井照明が逆光となり綱吉の顔に影が落ちた。
「いいのか、休んでなくて」
 昨日の今日だろう、と気遣う色合いを含んだ問いかけに、綱吉は曖昧に笑って肩を竦めた。
 リボーンが学校に行けと命じたから、彼は今此処に居る。制服に身を包み、こうやって学校で他の生徒に紛れていると、何の変哲もない平々凡々な日本人男子中学生に戻れた気がした。
 一瞬の錯覚かもしれないけれど、荒波立っていた心が、凪を取り戻していくのが分かる。この場所は、酷く自分を安心させる。
「そうか」
 ぽつりと零れ落ちたシャマルの声に、我に返った。きっと彼としては、今夜大事な決戦が控えている綱吉を休ませたい、という気持ちがあったに違いない。だが現状見る限りでは、綱吉に問題はなさそうだと彼もまた安堵している。
 伸ばされた手が、いつものように元気良く跳ね上がっている綱吉の頭に落ちた。
「わっ」
 その柔らかい、茶色の髪を押し潰したシャマルの手がぐしゃぐしゃと頭を撫でまわす。遠慮のない力加減で少し痛いが、この行為は綱吉も決して嫌いではない。
 ただ、ちょっと。
「シャマル、待って。手、手洗った?」
 彼が少し前まで訪れていた場所が、引っかかる。
「手?」
「だから、トイレ!」
 きょとんとして目を丸くした彼の手を頭に載せたまま、綱吉は勢い良く立てた人差し指を廊下の端、シャマルが出て来たドアに向けて怒鳴った。
 それは通常、生徒は使用しない教職員向けのトイレ。右が男性、左が女性。シャマルは当然右側のドアから出て来た。そして彼の手は、これでもかと言うくらいに、乾いている。
 ドアを開けた時にハンカチを握っていた記憶も、ない。
 つまりは、そういう事。
「あー? ああ、洗った、洗った。心配するな」
 だが綱吉の心配を他所に、シャマルは笑い声を立てながら目を細め、構わずに綱吉の頭をかき回し続けた。どう考えてもその台詞は、所用の後手を洗っていないと思われる。誤魔化すのが下手な彼の事、じろりと下から綱吉に睨まれ、彼は背中に薄く冷や汗を流した。
「シャマル?」
「……いいじゃねーか、手くらい。俺のは綺麗だぞ?」
 手が、なのか。それとももっと違うものが、といいたいのか。剣呑な目で更に睨みつけると、彼は視線を逸らして口笛まで吹き始めた。
 それでも彼の手は頭から離れていかなくて、いい加減重いぞ、と押し退けようと綱吉は腕を持ち上げる。だが強引に、手首に力を入れた彼に頭を押さえつけられてその痛みで指が止まった。ピクリと反応した爪の先だけが、彼の皮膚を軽く引っ掻く。
 片目を閉じて堪えていると、シャマルは何かに気づいた様子でじっと、綱吉の顔を見ていた。いや、正確には見ている先は綱吉の頭や額といった、中心部分より若干上にずれた位置のようだった。それを証拠に、彼は綱吉の正面を向いているのにふたりの視線は絡まない。上目遣いで見詰め続けるのにも疲れて、綱吉はなんだろう、と首を傾げた。
 と、急に頭が軽くなる。続けてぽん、と軽い調子で頭を掌で叩かれた。
「なに?」
 下を向いていた瞳を即座に持ち上げる。だがシャマルはふむ、とひとつ唸っただけでまた数回、同じ作業を繰り返した。空いているもう片手を持ち上げて顎に置き、親指で髭を撫でながら、なにやら真剣に考え込んでいる風情でもある。
 この間彼は一言も発しないので、読心術があるわけでない綱吉には、彼の行為の意図がさっぱりつかめない。だが逃げるわけにも行かず、手持ち無沙汰のままぼんやりと、視線をずらして綺麗な校舎内部を左から順番に眺めた。
 幻術によって壊れていないように見せかけられている、本当はボロボロになっているはずの校舎。自分達の大切な学び舎であり、思い出が沢山詰まった場所。出来るならもうこれ以上壊したくもないし、壊されたくもない。
 その為にも、もっと強く。
 無意識に握り締めた拳に意識が集中して、奥歯を噛んでいた綱吉の額を、不意にシャマルの指が撫でた。
 浮き上がった汗に張り付いた前髪を掬い取り、後ろへと流してゆく。あまりにも自然すぎて、それが却って綱吉には馴染みがなくて、瞬間的に跳ね上がった心臓をどうにか宥めながら改めて彼を見詰めた。
 真剣に考え込む目つきは鋭く、普段の彼とはまた違った印象を見る側に与えてくれる。
 いつもこんな顔をしていればいいのに、とも思う。女にだらしなく、服装もだらしなく、真面目に仕事をやっているかと思えばそうでもなく。でも時々、彼はとても男らしいし、頼もしい。
 ギャップがありすぎるんだよな、と髪の隙間からシャマルを眺める。彼はゆっくりと顎を撫でると、静かに手を綱吉の頭から外して腰へ置いた。
「シャマル?」
「お前さぁ」
 顎に置いていた指を曲げ、第二関節を唇へ押し当てて彼が呟く。しかしもったいぶっているのか何なのか、彼はそこで一旦言葉を切り、またしても黙り込んだ。
 怪訝気味に綱吉が眉根を寄せる。首を傾がせていると、またシャマルの手が伸びてきて、広げた指で頭を掴まれた。
「……あのさ、俺、そろそろ教室戻りたいんだけど」
 一体何がしたいのだろう。さっぱり分からなくて、そろそろ休憩時間の残り具合も気に掛かり、綱吉は渋い表情を作る。
 元から人通りも少ない区画なので、この光景を眺めた生徒も教師も存在しない。静まり返った廊下には、遠くから微かに物音が響いてくるだけで、後は自分達の呼吸音くらいしか聞こえない。もっと言えば互いの心音まで聞こえてきそうで、綱吉はシャマルの薄汚れた白衣から覗く背広の袖の、金色のカフスに瞳を細めた。
 そこへいきなり、頭を握りつぶしそうなくらいにぐしゃりと髪を毟られたものだから、痛くてつい綱吉は色気のない悲鳴を漏らした。もしかしたら本当に、何本か髪の毛が抜けたかもしれない。薄く涙を目尻に浮かべていると、ふむ、と頷いたシャマルが至って平静に胸の前で腕組みをしている。
「シャマル!」
「お前さ、やっぱ背、伸びたな」
「はぁ?」
 話が飛躍しすぎていて、ついていけない。
 後頭部から飛び出したような、素っ頓狂な声をあげてしまった綱吉を見下ろし、彼は腕組みを解かぬままうんうん、と嬉しそうに頷いている。対する綱吉は一瞬にして涙も乾き、笑うことも怒ることも出来ず、言い表すならばポカンとして、シャマルを見返すばかりだ。
「背?」
「ああ」
 ほら、とシャマルが拳を地面に水平になるよう広げ、綱吉の頭部天辺と自分の胸元少し上の位置を交互に行き来させる。だがもとよりシャマルの身長を基準にして自分の背丈を計った試しなどない綱吉のこと、そんな方法で計測されても、彼が言っているのが本当なのか分からない。
 顎を引き、唇を若干尖らせて綱吉は上目遣いに彼を見る。
「なんだ、その顔。お前、俺様の言葉を信じてないな」
 さっきトイレの後の手を洗ったと嘘を言ったのは、何処の誰だったのか。右足を半分前に出して力説した彼にそう反論すると、彼は握った拳を悔しそうに上下させて地団太を踏んだ。
 けれど実際、本当に身長が伸びているのなら、それは嬉しい。
 成長期に突入しているはずなのに、年齢が同じはずの山本や、獄寺に全く追いつけない背丈と、なかなか増えない体重。筋肉もそれなりに発達しているだろうに表に表れて来なくて、外見は昔の、ダメツナだった頃の貧弱さそのままだ。
 がっしりした体格の父親と比べるとどうしても見劣りする、明らかに母親の遺伝子を色濃く受け継いでしまった綱吉。それはそのまま彼のコンプレックスにもなっていて、生来の自信の無さへも直結していた。
「本当に、伸びてる?」
「だから、そう言ってるだろ」
 疑わしげな視線を投げつけると、腹立ちを隠しもしないでシャマルが怒鳴る。爪先で強く床を蹴りつけ、大き目の音が響いて廊下を突き抜けていった。
 思わず肩を竦めてやり過ごすと、しまったという顔を作ったシャマルが小さく「悪い」と呟いたのが聞こえた。
「なんだったら、計りに行くか?」
 保健室には身長の計測器もある。実際に数値に現してみないと信じられないのなら、というシャマルに、綱吉は視線を浮かせて虚空を見やり、暫く考え込む。
 昼休みの残り時間は後どれくらいだったか。時計を持ち歩かないのでこちらも正確には分からないが、感覚的にもうじき予鈴が鳴るだろうな、という想像はつく。実際、盗み見たシャマルの腕時計の文字盤は、それに程近い時刻を示していた。
 だから保健室まで出向いている余裕は、あまりない。このところ特訓に忙しすぎて勉強もすっかり疎かになっているし、出席日数も正直やばい。真面目に机に向かっておかないと、後々面倒なことになりそうで、綱吉は苦笑しながら首を振った。
「いいよ、なんか、そこまでして知りたいとも思わないし」
 でも、と見上げた先。
 シャマルが少しだけ眠そうな目を見開いて、片側に首を捻っている。
「シャマル、そのまま動かないで」
 なんだか彼だけが、自分の身長を知っているようでそれが少し悔しい。背が伸びたと彼が言うのだから、それはきっと間違いじゃないのだろうけれど、自分の事なのに自分では体感出来ないのは正直面白くなかった。
 だから確かめる術が欲しくて、綱吉はシャマルへと両腕を伸ばした。
「ツナ?」
 彼の肩に腕を絡め、首の後ろでひとつに結ぶ。左右の指を交互に絡めてしっかりと掴み、一歩前に出るとシャマルとの距離がぐんと狭まった。
 煙草の匂いがする。彼の体臭と混ざり合って、目を閉じていても近くに来たら彼だとすぐに分かるくらい、覚えてしまった匂いだ。
「動かない」
 今度は綱吉の行動の意図が読めなくて身動ぎした彼を間近で睨み、綱吉は踵を浮かせて爪先立ちになって背筋も真っ直ぐにし、思い切り背伸びをする。薄く目を閉じる前に様子を窺うと、何がしたいのかやっと理解したシャマルが喉を上下させて唾を飲むのが見えて、それがなんだかおかしくて綱吉は笑ってしまった。
 シャマルの手は綱吉を支えるか、抱きかかえるかで躊躇しているようで、指を握ったり開いたりしながら、目の前の少年の身体に触れる寸前のところを往復している。そうしているうちに綱吉は本格的に目を閉じて、若干右に頭をずらし、狼狽気味の相手の唇へそっと己の唇を重ね合わせた。
 舌の先を覗かせて擽ると、煙草の他に仄かなコーヒーの匂いもする。
 ぎゅっと首根に回した腕に力を込めてシャマルを引き寄せる。反射的に背中を抱きすくめられ、綱吉の胸がシャマルの胸板に密着した。上着のポケットに入れられている煙草らしき箱の凹凸が心臓に触れる。合わさりが深くなって、自然呼吸が乱れた。
「んむ……っ」
 綱吉の背中に回った腕が片方上にずれ、綱吉の項を指が擽った。髪へ下から手を差し入れられ、愛おしむように撫でながら頭全体を包まれる。息が苦しくて首を引っ込めたかったのに、その逃げ道を塞がれてしまい、綱吉は右の瞼だけを持ち上げて辛うじて鼻で息をする。
 ピントのボケた視界に、シャマルの閉じた瞼がある。長い睫が触れそうなくらいの近さにいる彼を咄嗟に意識して、綱吉の身体が一気に熱くなった。
 身動ぎするががっちり固定されていて、ままならない。最初に調子に乗った報いか、こういう手合いには慣れているシャマルは喉の奥だけで笑うと、差し伸べた舌で綱吉の上唇を下から舐めずり、前歯も使って軽く咬みついてきた。
「……っ」
 ここが学校の、しかも廊下のど真ん中で、いつ誰が来るかも分からない場所だというのに、好きにさせているとどんどんシャマルは行動を大胆にさせ、息継ぎの合間に薄く開いた綱吉の唇に舌を潜り込ませて咥内を無遠慮に弄り始めた。
 熱を持った柔らかな粘膜が歯の裏側をなぞり、喉の奥まで強く吸い付く。頭全部が引っ張られる感覚に目眩がして、綱吉は喘ぎながら懸命に首を振った。
 濡れそぼった唇が外れる。前歯で端を引っかかれ、ちくりとした痛みが何故か胸に走った。思わず咳き込んで激しく肩を揺らす。支えていたシャマルの腕が緩み、そのタイミングで綱吉は彼を突き放し背中を丸め込んで頭を庇った。
「っあー……」
 何度か勢い任せに咳をして、飛び出した唾を手の甲で拭いながらやっとこ顔を上げた綱吉の前では、シャマルがやり過ぎたかと頬を掻いていた。あちらの唇もまだ朧気に濡れたままで、天井光を浴びて僅かな艶めかしさを漂わせている。
 カッと頬に朱が走り、綱吉はもう一度自分の唇を痛いくらいに擦った。少しだけシャマルが傷ついた顔をするけれど、見なかったことにする。
「なんか悔しい!」
「……」
 急な癇癪を起こして叫んだ綱吉を、どう扱えばいいのか彼も困っている風だ。頭を引っ掻き回しながら背を伸ばした彼へは、まだ綱吉は背伸びをしなければ届かない。
「大体、いきなりなんでキスなんだ?」
 そもそもの発端は、綱吉から誘ってきたからだろうに。
 率直な疑問をぶつけると、綱吉はぐっと息を詰まらせて身体半分を後ろに引いた。
 シャマルは綱吉の背が伸びたのを、頭を撫でる行為から直結させて計った。だから綱吉は、その逆で、自分からシャマルに触れることでその距離感から、本当に自分の背が伸びたのかどうか、調べたかったのだ。
 言葉にするとなんて恥かしいのだろう。ボソボソと告げるうちに顔がどんどん赤くなって、最後は尻すぼみになった綱吉の説明に、一瞬目を丸くしたシャマルは「馬鹿か」とぼやいた。
 額から髪に指を差込み、後ろへと梳き流す。虚空へ流れた視線は数秒で綱吉へと戻り、彼は大仰に竦めた肩で溜息をついた。
「言っとくが、それじゃわかんねーと思うぞ」
 なぜなら、と立てた人差し指で俯いている綱吉の小鼻を弾く。上目遣いの彼へ向かって、シャマルは口角を持ち上げてニッと笑った。
「いっつも、キスする時は、俺が膝曲げて屈んでんだから」
「え、嘘」
「……流石にこんな恥かしいことは嘘言えねーだろ」
 シャマルの顔も、言われてみれば確かに少し赤い。彼が照れているのが伝わって、益々綱吉は赤くなって小さくなった。
 頭上から、軽い調子のチャイムが鳴り響く。午後の始業開始を伝える予鈴だ。綱吉は弾かれたように顔をあげ、これ幸いとバックステップでシャマルから距離を取った。踵が階段の角にぶつかり、倒れそうに鳴りつつ持ち上げた膝で一段だけ後ろ向きに登る。左手は手摺りへ。
「え、えと、じゃあ、そういう事で」
「……あ、あぁ」
「また夜に」
「ああ、頑張れよ」
 何がどう“そういう事”なのかさっぱり分からないが、うまく呂律が回らないどころか思考も殆ど回らなくて、咄嗟に浮かんだ言葉をそのまま音にした綱吉は腰が引けたまま階段を駆け上って行った。その背中を急きたてるように、余韻を残しながら予鈴の最後のベルが消えていく。
 シャマルはその背中を見送り、完全に見えなくなる寸前瞳を細め、そのまま目を閉じた。
「あんまり大きくなってくれるなよな」
 体格的にも、人間的にも。
 彼は器が大きすぎて、その懐の広さと暖かさに惹かれ集まってくる人間は大勢居る。今でさえそうなのだ、今後彼が成長を遂げた先、どんな展開が待っていることか。
 そうしていつか、自分の手が届かない高みにまで上って、今度は自分が、彼を見上げる番になるのだ。そのとき果たして自分は、自分の矮小さを恨まずに居られるだろうか。
「いつからこんなに贅沢な望みを持つようになったのかねぇ」
 胸ポケットから煙草を取り出し、先ほどの名残か少し潰れてしまっている箱の表面を撫で、呟く。
 贅沢な望み。そう、これはとても贅沢で、一生賭けてでも成し遂げたい願いだ。
 たとえ一番近くに居られなくても、彼を救うのが自分の役目でないとしても。傷ついた彼が帰ってきて、最初に微笑んでくれる相手が自分であれば、それだけで、きっと、自分は。
 戻ってきた静寂を打ち破り、本鈴のベルが鳴り響く。どこか荘厳で、そして薄っぺらくも思えるそれは、遠く彼方で聞いたドゥオモの鐘の音にも似ていた。

2006/12/27 脱稿