聖夜(バジル編)

 世間はクリスマスで浮かれ気分真っ只中だけれど、正直このイベントを楽しんでいるのは、一緒に過ごす相手が居る人だけだと心底思う。ツリーの飾りを指で小突き、綱吉は肩を落としながら改めて深々と溜息を吐いた。
 十二月二十五日、日本。世間で言うクリスマスの大祭に自宅から一歩も外に出ないという現実が、彼の心に寒々とした風を送り込んでくる。俗に言う、留守番、という奴だ。
 リボーンはビアンキに連れ出されているから、きっと何処かでデートを楽しんでいるのだろう。
 フゥ太、イーピン、そしてランボのお子様三人集は、奈々に連れられてデパートへプレゼントを選びに。ついでに夕飯も外で済ませてくるとかで、綱吉も一応誘われたのだけれど、どうせ子供の面倒を押し付けられるのは目に見えているので丁寧にお断りした。
 そんなこんなで、お留守番。もっとも、家に居残っているのは綱吉ひとりではないのだが。
 獄寺や山本、ハルと京子に了平といったメンバーを交えてのパーティーは、昨日のうちに終わっている。場所は沢田家で、どんちゃん騒ぎの名残を残すリビングは十数時間前とは比べ物にならないくらい、静けさに包まれていた。
 壁には飾りつけがまだ外されることなく残っているけれど、それが却って、過ぎ去った時間を思い起こさせて人の心を寂しくさせる。見た目も派手に装飾が施されたツリーも、たった一日経っただけでまるで居場所を間違えてしまっているようで、肩身が狭そうに部屋の角に鎮座していた。
 綱吉は床に置いたゴミ袋を抱えると、口を横に広げて縦に結んだ。上から両手を伸ばして押し潰すと、中に残っていた空気が結び目の隙間から一気に噴き出してくる。生温い風を頬に浴びた綱吉は、僅かに表情を緩めて揺れる前髪を笑いながら、半分ほどの大きさに凹んだ袋を右手に持って部屋を出た。
「みんな、騒ぐだけ騒いで片付けないで帰るんだもんなー」
 愚痴を零したところで、誰かに聞こえるわけでもなく。少しだけ頬を膨らませて不満を吐き出した綱吉は台所横の勝手口から裏手に回り、水色のポリバケツの中に運んで来たゴミ袋を押し込んだ。
 ゴミの分別作業だって馬鹿にならない手間がかかる。次は壁に飾られた紙類を外して、ついでに自分の部屋にある余分なプリントも一緒に捨ててしまおう。腰に手を当て、ひと段落着いた自分の次の行動を思い描きながら綱吉は頭上高い空を仰ぎ見た。
 水で薄めた青色絵の具を塗りたくったような空に、白い筋状の雲が幾つも重なり合っている。その隙間を縫うように飛行機が小さく西へ飛び去るのを眺めていると、唐突に吹きぬけた冷風が思い切り綱吉の肌を突き刺した。
 寒い、というよりは痛い。暖房の利いた室内で作業をしていたので、薄着のまま外に出てきていた自分を今更思い出し、綱吉は両腕を交差させて身体をさすると、慌ててサンダルを掻き鳴らして家の中へと舞戻った。
 ドアを閉めると外気が遮断され、竦みあがった心臓がホッとしたのが分かる。まだ鳥肌立っている身体の各部をゆっくりと撫でさすり、肺の奥に溜まっていた息を吐いてスリッパに履き替えた。そして新しいゴミ袋を取り出そうと、細々した日用品が仕舞われている筈の棚を開けようとしたところで、玄関先から来訪者を告げる呼び鈴が聞こえて来た。
 腰を屈めて手を伸ばした姿勢のまま、綱吉は首を傾げ視線だけを持ち上げる。
「誰だろう?」
 奈々たちが帰って来るのにはまだ早いし、誰かが遊びに来るという予定も聞いていない。反応を渋っていると少しの間をおいてもう一度呼び鈴が鳴ったので、綱吉は仕方なく身体を起こし、踵を返した。
 廊下に出ると少し空気が冷えている。再び肌を擦ってセーターの下で摩擦熱を起こしながら玄関の覗き窓に視線を合わせると、門柱の向こう側で段ボールを抱えた作業着姿の男性が立っている。見覚えのあるマークが記された帽子を目深に被っていて、向こうは綱吉がドアのすぐ向こうにいるも知らず、三度目の呼び鈴を鳴らした。
 間近から電子音が響き、小さく肩を竦めた綱吉は「はーい」と返事をしながら一度玄関から台所へと戻った。そして教えられている隠し場所から印鑑を取り出すと、右手に握り締めて再び玄関へと。奈々のサンダルを爪先に引っ掛けて鍵を開けて外に出ると、先ほど浴びたばかりの冷たい風が轟々と耳元で騒ぎ立てた。
「沢田綱吉さんへ、お届けものです」
 印鑑の蓋を外しながら表に出ると、門越しに会釈した配達員の男性が短く告げた。指で指し示された部分にスタンプを押し、荷物を渡される。片手で抱えられるほどの大きさの段ボール箱で、厚みは五センチほど。
 綱吉への用事が済んだ配達員は帽子の鍔を取ってもうひとつ頭を下げると、くるりと方向を変えて少し離れた場所に停めていたトラックへと戻っていった。直ぐに発車する様子が無いのは、この付近で他に配達先があるからだろう。
 遠ざかる背中を暫く見送り、腕の中へ残された荷物を確かめる。厳重に透明のビニルテープで角を固定されているそれは、見た目あまり綺麗ではない。送り状以外に見たことのないシールもいくつか貼られていて、しかも宛先として書かれている文字は日本語ではなかった。
 送り主の名前も、即座には読み取れない。
 冬空の下で薄着のままでいるのは辛く、綱吉は足をばたつかせてから急ぎ家に飛び込んだ。印鑑を片付けにその足で台所へ向かい、一度邪魔になるのでテーブルの上に箱を置く。引き出しを開けて元あった場所に印鑑をしまっていると、直ぐ近くで物音がした。
 引き出しを押し戻すついでに顔をあげ、曲げていた腰も伸ばす。台所の入り口に吊るされた暖簾を右手で押しのけながら、綱吉と目が合ったバジルがにこりと微笑んだ。
「誰か来たようだったのですが」
 風呂場の掃除中だった彼には、玄関の呼び鈴も届かなかったらしい。捲り上げていた袖を戻しつつ入って来た彼は、綱吉から視線をテーブルへと流して其処に置かれているものに目を留めた。
「うん、宅配便」
「あ、良かった。間に合ったんだ」
 隙間が無いくらいに引き出しを棚へ押し込んだ綱吉の斜め後ろで、バジルが呟く。え、となって振り返った綱吉の前で彼は両手で箱を持ち上げると、確かめるように送り状に書かれている文字を素早く読み上げた。綱吉には耳慣れない発音、彼の母語か。
 表情は見る限りとても嬉しそうであり、事情が分からないので、いったいなんだろうと綱吉は首を傾げるほか無い。
「バジル君?」
「良かった。クリスマスに間に合わないかと思ってました」
 過ぎてから届いたら、格好悪いだけですから。独り言のように呟いた彼は、苦笑いを浮かべて綱吉を振り返る。そうは言われてもこちらは箱の中身が何であるのか分からないし、バジルが綱吉宛でわざわざ荷物を送ってくる意味も不明。
 ひたすら頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を捻っていると、やっと気づいたバジルがしまった、と言わんばかりに目を見開いて口元を片手で覆った。
「あ、すみません。どうぞ、沢田殿へのプレゼントです」
 文字通りにっこりと微笑んで、彼は腕に抱いたものを綱吉へ差し出した。
「俺に?」
「はい。あれこれ迷ったのですが、良い物が思いつかなくて」
 受け取りつつ問うと、真っ直ぐな瞳で頷かれる。どうやら彼はわざわざイタリアへこれを注文したらしく、届くのに時間がかかってしまってクリスマスに間に合わないのでは、とやきもきしていたらしい。先ほどの安堵の表情を思い出して、なるほどな、と納得しながら、綱吉は彼がそこまで気遣ってくれていたことを嬉しく思った。
 昨日も皆でプレゼント交換をしたが、自分の為にと選んでくれたものならば、どんなガラクタだって綱吉は嬉しい。開けてよいか、と逸る気持ちを抑えながら問うと、勿論、とバジルは大きな瞳を細めて頷いた。
 彼が譲った場所へ歩み出て、テーブルに箱を置いて綱吉は早速中身を確かめるべく開封作業に取り掛かる。だが見た目以上にがっちりと梱包されていて、素手ではなかなかことが進まない。痺れを切らして鋏を取りに自室まで駆け上り、同じ速度で階段を駆け下りてきてバジルに笑われてしまった。
 走ったから、だけが理由ではない赤い顔を隠し、広げた鋏の歯を押し当てて表面のビニルテープを切り裂く。乾いたテープは鋏の角をちょっと当てるだけで簡単に二分され、指を添えると傷口はどんどんと広がった。
 ゴミを屑箱へ押し込み、最後の砦を開封して蓋を開ける。中身は洋物の新聞紙に包まれていて、期待に胸膨らませていた綱吉は気勢を削がれ、がっくりと項垂れた。
「そんなに大したものじゃ、ないんですよ」
 照れ笑いを浮かべつつ、綱吉がとても喜んでいるのだけは伝わってきているバジルはそう言い訳しながら、足元に散った段ボール屑を拾ってゴミ箱へ落とした。綱吉は箱から新聞紙に包まれた、角形で硬いものを取り出し視線の高さまで掲げ持つ。中が透けて見えるわけではないが、手に馴染みの在る形と重さに、一瞬嫌な予感が胸を過ぎった。
 側面に凹凸があり、新聞紙の中身は二種類あると想像される。台所にいるままでもなんだし、と空っぽになった段ボール箱も一緒に抱え、綱吉は台所の隣にあるリビングへと移動した。
 暖房が効いたままの部屋はぽかぽかとしていて、緩やかに眠気を誘う。コタツの脇へ箱を置き、膝を折って分厚いキルトの布団に足を被せると、このまま何もかも投げ出して寛いでしまいたくなった。
「お茶でも入れましょうか」
「いいよ、気を遣わなくても」
 返事をしながら、ぺりぺり、とインクが互いに張り付いてしまっている新聞紙を、ゆっくりと剥がしていく。日本語の新聞だと灰色の紙ばかりなのに、薄いオレンジ色をした紙も混じっていて、写真も多い。読めはしないが眺めている分には楽しくて、破かないように注意深く綱吉は指を動かす。
 一度断られたものの、独自の判断で冷蔵庫から昨日の残りのジュースを取り出し、コップふたつに注いで戻ってきたバジルが、まだ包装を剥がすのに夢中になっている綱吉を笑って、邪魔にならないような位置へコップを置いた。そして綱吉に向かい合う位置に腰を下ろす。
 爪先を突っ込んでコタツにスイッチが入っていないと知り、彼は腕を伸ばしてボタンを押した。暖かな空気を膝に感じ、綱吉もまた正座を崩して足を伸ばす。
「これ、何?」
「ですから、そんなに期待されると逆に困ってしまいます」
 本当に些細なもので、気に入ってもらえるかどうかとても不安なのだと告げるバジルに、作業の手を休めて綱吉は首を振った。
「でも、俺のために選んでくれたんだろ? 嬉しいよ、凄く」
 俺も何か用意しておくべきだったな、そう後悔を口に出す綱吉に、バジルはやや困った風にえくぼを作った。伸ばした指でコップを片方引き寄せ、緊張した面持ちで綱吉の手元を見守っている。
 そうこうしているうちに、苦心の末にやっと新聞紙の中身が姿を現した。薄い白色の天井光に照らし出されたものは、綱吉が最初に感じた通り、本。しかもタイトルからして異国の文字、イタリア語だろうか。
「……絵本?」
「はい」
 表紙には可愛らしい、丸みを帯びたスノーマン。試しに捲ってみると、温かみを感じさせる絵柄の中に少しばかりの横文字が並んでいた。当然だが、読めない。
 顔を伏せたまま、視線だけを持ち上げてバジルを見やる。彼は困った風に無理に作った笑顔を張り付かせていて、失敗だっただろうか、と悔いている様子だ。
「えっと、その……クリスマスらしいものを、選んだのですが」
 胸の前に持ったグラスを指で巧みに弄りながら、視線を浮かせたバジルがしどろもどろに選んだ理由を教えてくれた。綱吉は構わずもう一枚捲り、文字ではなく絵で話の内容を理解しようかどうか迷った。
 子供向きの絵本なので、書かれている文字が読めずともどうにか話の大筋は想像出来そうだった。だが、もしバジルが、今後イタリアで生活することになるかもしれない綱吉を思って、イタリア語にとっつきやすいように、とこれを選んだのだとしたら。
「宜しければ、音読しますが……どうしましょう」
 遠慮がちに尋ねてきた彼へ、綱吉は少しだけ迷って首を横に振った。
 折角彼が、綱吉の為に真剣に悩んだ末選んでくれたものだ。出来るなら自分の力で読めるようになりたい、そう思う。
「有難う。イタリア語、ちょっとは頑張るよ」
 目標があれば、そこに向かって進んでいける。当面はこの絵本を読むこと、なんてリボーンに言ったら怒られそうだけれど。
「あと、こっちは?」
 上機嫌でいる綱吉を見て胸撫で下ろしたバジルから再び視線を外し、絵本を閉じてそれを持ち上げる。薄い絵本の下に隠れていたのは、先ほどのものとは打って変わって、大判の写真集だった。
 表紙は夜のビル群を背景にした、巨大なクリスマスツリー。煌びやかな電飾に彩られ、その足元に映る人の姿がまるで玩具のようだ。日本ではないだろう、海外のどこか。思わず息を呑んで見入ってしまった綱吉は、バジルがコップを置く音で我に返った。
 確かめるように顔をあげ、真正面から彼を見据える。
「多分、アメリカのニューヨークじゃないでしょうか」
 声に出して問いかけたのではないのに、考えを呆気なく読み取られ綱吉は顔を赤くした。
 バジルの手が控えめに伸びてきて、本の角を指で押し上げてページを捲る。次に出て来たのも、夜に浮かぶクリスマスツリー。背景は海外の城で、庭園もクリスマスカラーに染め上げられ、見た目にも楽しい装飾が各所に施されていた。次のページは、今度は昼の街中。古めかしいレンガ造りの建物の壁を飾るクリスマスモニュメントの一群は、それだけでどこかの博物館に迷い込んだ気分になる。
 どうやらこの写真集は、世界中のクリスマスの光景を集めたもののようだ。しかもそのひとつひとつが、綱吉の目にした事がない艶やかで、輝きが満ち溢れた世界。
 日本の写真も一枚だけだがあった。だがニューヨークの本格的なものと並べられると、少し見劣りするのは否めない。また派手な飾りつけばかりではなく、伝統的なクリスマスを映しているものもあり、教会のマリア像を照らす蝋燭の炎灯りもまた、言い表しようの無い感動を綱吉へと与えてくれる。
 三十ページそこそこの写真集をあっという間に捲り終えた綱吉は、裏表紙を閉じると即座に裏返し、また表紙から眺め始める。言葉は少なかったが、冷たかったジュースがひとくちも飲まぬまま温んでしまうまで飽きもせず、何度も指を辿りながら今日の日、何処かで繰り広げられている写真の中の光景を頭に想像する。
 バジルは黙って、興奮に頬を赤くする綱吉を眺めていた。嬉しそうにニコニコと目を細め、時々思い出したように息をついてジュースを口にし、時計を見上げて夕食の支度までの猶予を数え、曲げていた膝をゆっくりと伸ばす。
 コタツの下で綱吉の膝とぶつかった。それで我を取り戻した綱吉が瞬間的に顔をあげ、バジルの存在を思い出して、同時に夢中になっていた自分にも気がつく。
「あ、ごめ……」
「いえ、こちらこそ。気に入っていただけたようで、嬉しいです」
 選んだ甲斐がありました、と短く告げたバジルが微笑む。
 矢張り自分も、彼に何か用意しておくべきだった。彼からは貰ってばかりの気がして、綱吉は少しばかり落ち込んでしまう。
 落とした目線の先には、仲よさそうに腕を組み合うカップルの後姿。ふたりが見上げる先には金色の輝きを散りばめたツリー。なんてことはない街角の光景だけれど、今自分達は幸せだという雰囲気が伝わってきて、綱吉の心を慰める。
 いつか、こんな綺麗な世界を、自分の目で見て回れたら。
「世界って、広いんだね」
 自分と、自分の家族と、友達と、その家族や友人や。ごく限られた生活圏に閉じこもり、閉鎖的な空間で暮らしている今の自分を思う。それが決して悪いとは言わないけれど、日々同じ時間に眼を覚まし、学校へ行き、家に帰って眠るという同じ行動の繰り返しが時にとても退屈に感じられてしまう。
 そうやって退屈を感じられるくらいの温さが、きっと平和で幸せな日常なのだと知っているけれど、たまには思い切り羽根を伸ばして非日常を楽しめたなら。
 戦いに明け暮れるばかりの世界から、抜け出せたなら。
 声にならない囁きを唇に刻み、綱吉は俯いて己の胸元へ視線を向けた。愚痴を言っても現実は変わらないし、過去は覆らない。分かっているし、納得しているし、これが自分の選んだ道なのだから後悔をするつもりもない。
 でも、もし、クリスマスの奇跡を願うとしたら。
 自分は、戻りたいのだろうか。あの頃に。あの日々に。
 写真集の上に取り残された手に、温もりが降りてくる。肌に肌が触れた瞬間の静電気にハッとして、綱吉は呼吸を止めて即座に顔を上げた。
 あまりの反応の速さに驚いたバジルだったが、一瞬間をおいて気持ちを切り替えたかと思うと、ただ黙って静かに首を横へ振った。重ねた手にだけ僅かな力を込めて、上からそっと握り締める。
 触れ合った箇所、乾燥気味の皮膚の感触が優しい。
 彼は綱吉の表情の変化に、何を感じ、悟ったのだろう。あまり多くを語らないバジルの、そんな無言の心遣いが嬉しくて、綱吉は立てた首が楽になる角度を作り出し、厳しかった口元を薄らと緩めた。
 コタツの中でお互いの足をぶつけ合う。最初は綱吉から彼の太股を蹴り飛ばし、やり返してきたバジルが爪先を押し上げる。そうしてどちらからとも無く噴き出して、丸めた背中、天板の中心部で小突き合わせた額が楽しい。
「いつか、この写真にある場所へ、お連れします」
 戯れが途切れた瞬間。ふっと息を吐いた彼が、唐突に真剣な表情と声でそう言った。
 瞬きを数回連続で放った綱吉が、驚きを隠しもせずバジルを見返す。彼は小首を傾げながら、自分の言ったことばに照れているようだった。
「え?」
「あ、勿論沢田殿が嫌だとおっしゃるのでしたら、無理強いはしませんが」
 彼が真剣だと伝わってきたからこそ、咄嗟にどう対応していいのか分からなくて間の抜けた声しか出なかった綱吉。それをどう誤解したのか、バジルは瞬時に手を放して顔の前でぶんぶんと左右に振り回した。
 顔が赤い。耳の先まで。
「え……と?」
「ですから、その……沢田殿がよければ、なんですけど」
 答えを求めて彷徨う視線の先で、バジルが萎縮しながら手を膝に下ろして俯いてしまった。薄茶色の髪に見え隠れする彼の瞳が宙を泳ぎ、赤く染まった顔を眺めているうちに、自分もまた気恥ずかしさがこみ上げてきて綱吉は困惑した。
 あれ? と思う。何故か心臓の拍動が少しだけ速まっているのが分かる。浮かせた視線、しどろもどろになりながら掴み取った言葉は、他に選びようがなくて。
「えーっと、あの、なんていうか……その。俺と?」
 自分を指さしながら問い返した綱吉に、バジルは遠慮がちに小さく頷いて返す。
 願うなら、世界中を、見て回りたい。旅をしてみたい。
 自分の知らない国、自分を知らない人々。此処じゃないどこか、自分を縛らない時間、囚われることのない夢。
 誰かと一緒に。
 君と一緒に?
 薄く瞼を閉ざし、考える。幸せそうに腕を組んでいる写真のカップルではないけれど、自分達の背中が薄らと見えた気がした。悪くない、きっと楽しい。君となら、何処へでもいける気がする。
 でも。
 でも。
「凄く、嬉しい」
 手を下ろす。同時に零れる、心の底から呟いた声。
「でも、俺はそんなに優しくされても、君に何も返せない」
 嘘はつきたくない。自分は彼から沢山のものを貰っているのに、なにひとつ返せていない。それが悔しいし、哀しいし、情けなく思うし、自分の力や財力の無さを恨みたくなる。
 振り向いた方角、部屋の片隅。灯りを消され、眠るようにして片付けられるのを待っているクリスマスツリーが、綱吉に一番お似合いなのだ。
 ちっぽけで、惨めで、その日が終われば一年間誰からも思い出してもらえずに、押入れの暗がりで眠っているだけの、そんなツリーが。
 今はまだ、自分には、世界は大きすぎて。
 自分でも認める卑小さに、涙が出そうになった。写真集の上に置いた手が知らず拳を作って震えている。バジルがそんな彼の横顔をじっと見詰め、気づかれぬまま首を横に振り、もう一度綱吉の手へと己の手を重ね合わせた。
 今度は両手で、しっかりと隙間無いくらいに握り締める。
「見返りが欲しくて、言っているんじゃないんです」
 包まれた綱吉の右手は持ち上げられ、そのままバジルの額に押し当てられた。祈る仕草に似ている、瞼を閉じて切々と告げる彼の声は、教会の告解にも似ていた。
「拙者が沢田殿の為にしたいと、勝手に思っているだけです。何かが欲しいとか、返してもらいたいとか、思っているわけではないです」
「バジル君……」
「それでも沢田殿が納得出来ないとおっしゃるのでしたら、ひとつだけ、我が儘を聞いてくださいますか」
 両手を下ろした彼が視線を持ち上げ、正面から綱吉を射抜く瞳で問う。反射的に頷き返した綱吉の前で、彼は照れ臭そうに微笑んだ。
「笑ってください」
 そんな風に今にも泣き出しそうな、哀しい顔はしないで。
 いつも、いつでも、楽しそうに、嬉しそうに、笑っていてください。
 掌を通して、バジルの思いが伝わってくる。真剣に、真摯に願っている彼の気持ちが、凍えそうになっていた綱吉の心臓に熱を送る。脈動は速まったまま、落ち着き無く視線を左右に揺らした綱吉は、けれど彼の手を振り払うことも出来ずにただ顔を赤くして顔を伏せた。
「え、えっと……」
 笑えばいいのだろうか。けれど意識して笑うのなんて、難しい。いつもどんな風に自分は笑っていただろう、懸命に思い出して、考えて、綱吉は深く吸った息を吐き出した。
「こう……?」
 必死に作った笑顔は、どうにもぎこちない引き攣ったものだったけれど、バジルは目尻を下げて笑い返してくれた。それで緊張が解けた綱吉の表情に、自然の笑みが浮かび上がる。
 ああ、そうか。思い出した。
 笑うって、どういう事か。
 人が幸せを感じたとき、人は勝手に笑顔になる。だから、今自分は、とてもとても、幸せだと感じているのだろう。
「いろんなところに、行こう」
「はい」
「一緒に。連れて行って」
「はい」
 手と手を結んで、たとえ子供の口約束だといわれようと、この思いは違えない。
 笑っていよう、ふたりで。
 いつまでも。どこまでも。

2006/12/19 脱稿