「あーあぁ」
大きく伸びをしながら零れた溜息に、綱吉は持ち上げた手の拳を解いて腕を両側へ倒した。丸めた指の背が床に敷いた絨毯の毛並みに触れ、サラサラとした感触に包まれる。膝の上では読みかけの雑誌が支えを失って、広げていたページから逆戻ろうとしていた。
カレンダーは、十二月二十四日。記念すべき年に一度の大イベントだというのに、綱吉のこの日の予定は真っ白。溜息が出るのも致し方在るまい。
獄寺はイタリアの実家に呼ばれたとかで、終業式があったその日に飛行機に飛び乗って海外へ。そのまま正月まで戻ってこない。山本は野球部で打ち上げを兼ねてパーティーがあるらしく、どうしても抜けられないのだとか。ハルも南国バカンスだとか言って張り切っていたし、京子に至っては予定を聞く勇気すらなかった。
「ちぇ」
唇を尖らせて拗ねてみせても、相手をしてくれる人が現れるわけがない。毎年のことじゃないか、と自分を慰めようと試みるが、その今年も一緒に過ごしてくれるはずの母親である奈々は、ご近所の主婦の集いに参加してしまって不在。騒がしい子供達も、その会には同年代の幼児も集まるらしく、一緒に連れ出されて行った。リボーンはビアンキに拉致……ではないが、ふたりっきりで過ごすのだ、という理由で行方知れず。
結果、沢田家には綱吉ひとりが残される事となった。夜遅くになれば奈々も戻ってくるだろうが、豪勢なディナーもひとりきりで食するにはあまりに寂しすぎる。一応プレゼントは貰ったが、素直に喜べる状況ではない。
「つまんないのー」
雑誌を閉じ、テーブルに置いて綱吉は立ち上がる。適度に温められた部屋の空気は心地よいが、長期間換気をしていないので若干濁っているように感じられる。彼はその足で窓へと向かい、銀色の金具を跳ね上げてガラス戸を横にスライドさせた。
途端吹き込んでくる、冷たい風。
「うわっ」
反射的に両手で身体を抱き締め、身震いする。ヒュゥゥと唸り声を上げて綱吉の両側を駆け抜けていった風は、適度に室内の濁った空気を掻き回して外へと逃げていった。カーテンの裾のはためきは一瞬で弱まり、反射的に目を閉じていた綱吉はソロソロと瞼を持ち上げ、乾燥気味の瞳に潤いを与えた。
吐く息が白く濁るかと思われたが、そうはならない。背筋を伸ばして窓の桟に手を置き、首から上だけを外へと突き出すと、雨でも降るのだろうか、濁り気味の分厚い雲が西から徐々に広がりつつあった。
陽射しはまだ薄く残っているものの、薄雲に霞み気味の太陽は夏の焦げ付く日差しを全く感じさせず、ぼんやりと浮かんでいるだけ。冬の空らしいといえばらしいが、折角のクリスマスなのに曇天模様なのはなんだか勿体無い気がして、外出する予定も無いのに綱吉はまたしても「ちぇ」と呟き、身体を引っ込めた。
この時視界の端を、見覚えのあるような、ないような、黒いものが掠めて行った気がしたが、意に留めず綱吉は全開にした窓を半分だけ閉じる。冷えてしまった肩を交互にさすり、この後どうしようかと壁際の時計を見上げ、今日が終わるまでの時間を数えた。
夜までまだ大分残っている。
「いっそ、サンタでも遊びに来ないかな」
退屈で死にそうで、思わず呟いたその言葉。我ながら何を言っているのだろう、と発言してから苦笑していたというのに。
「サンタでなくて悪かったね」
返事があるなんて、誰が予想できただろう。
「へ?」
乾いた笑みを浮かべた表情のまま、綱吉が硬直する。カチコチに固まった指の一本だけが反り返り、頬の筋肉は無意味に引き攣る。聞き慣れた感もある低いトーンの声、感情の起伏が乏しく常に怒っているように思えてしまって、目の前にすると不必要なくらいに緊張してしまう、人の。
声が。
部屋には自分しか居なかったはずだ、それは疑う余地もない。一瞬にしてパニックに陥った綱吉の頭に、ポスっ、と何かが落ちてくる。大きくて暖かなそれは、やや丸みを帯びた平面から五本に分かれた細いものが付属している。
考えるまでもない。手だ。
雲雀の。
「ひぇ……って、あのそのちょっと、なんでどうしてっていうかヒバリさん!?」
ちゃんと靴は脱いでから入りましたか? ではなく。
全く見当違いの方向へ飛びそうになった思考へ、冷静な自分が頭の中で突っ込みを入れる。勢いのままに首を捻って振り返れば、頭上に置かれていた手は即座に離れていった。凹んでいた髪の毛が元気いっぱいに跳ね上がり、僅かに上向けた視界には案の定、黒髪の青年が立っている。
もう冬休みに突入したというのに、いつもの白いシャツと学生服。靴は……履いたままだ。
「なに」
「なに、って……それは俺の台詞です」
平然と、むしろいけしゃあしゃあと腕組みをして問い返す雲雀に、綱吉は片手で額を押さえてがっくりと両肩を落とした。力が抜ける、彼を真正面から相手にするのはとても疲れてしまう。
大体人の家を訪問するに当たって、窓から入ってくるとはどういう良識だろう。彼の家には玄関がないのだろうか。
とはいえ、別にこの行為は今に始まったことではない。この際不法侵入は目を瞑るとして、だ。重要なのは、いったい彼は何の目的で綱吉の部屋を訪れたか、だ。
先ほど窓から顔を引っ込めた際、視界の端を過ぎった黒い影は他ならぬ彼だろう。敢えて見ない振りをしたのかもしれないと、己の無意識さに驚愕しつつ、綱吉は冷や汗を悟られぬように拭って心臓をゆっくりと宥める。深呼吸を数回繰り返しているうちに動揺も静まり、どうにか平常心で雲雀を見返すことが出来るようになった。
「それで、今日はいったい何の用ですか? あと、毎回言ってますけど、俺の部屋の窓を玄関代わりにするの、そろそろやめてください」
本棚の端に畳んで押し込んでいた紙を広げ、床に置く。雲雀はそこへ、何も言わずに脱いだ靴を置いた。彼が最初に立っていた絨毯には僅かだが外から運ばれた土が残っている。誰が掃除すると想っているのだと心の中で愚痴れば、聞こえたはず無いのに雲雀の手が伸びてきて、ぐしゃぐしゃと乱暴に髪の毛を掻き回して去っていく。
全く、神出鬼没な上に何を考えているのかさっぱりだ。
「別に。通り掛ったら君が見えたから」
用件は特にないらしい。ただ近くを通りがかり、窓から綱吉が顔を覗かせる姿が見えたからという、単純明快な、本当にそれだけの理由でこの人は、インターホンも鳴らさずに窓から侵入してきたというのか。
いかにも彼らしくてよろしいが、それに付き合わされる方はたまったものではない。人知れず溜息を零した綱吉は、多少でも、今日が特別な日だと知ってわざわざ訪ねて来てくれたのではと期待した自分を蔑んだ。
盗み見た雲雀の横顔は、冷えた空気に晒され続けていたからだろうか、若干血色が悪い気がした。その分肌の白さが目立ち、漆黒の髪の艶がより強く映る。指を通せば簡単に隙間から逃げていく腰の柔らかさは、その髪の持ち主の性格と真逆を行っていて、綱吉は彼の髪に触れるのは好きだった。
雲雀が通ったことでまた開きが大きくなっていた窓を、今度こそ完全に閉める。ただ鍵はかけなかった、気分的な問題で。振り返ると学生服を揺らした雲雀が綱吉を見下ろしていて、なんですか、と瞳で問いかければ仁王立ちしている彼はやや不機嫌に口元を歪めた。
「この家は、客が来ても茶のひとつも出さないの?」
「……はいはい」
ここまで自信過剰に尊大に振舞える人が嘗て綱吉の前にいただろうか。一瞬絶句し、こめかみ近辺が鈍く痛み出した綱吉は、重い溜息を吐き捨てて力ない足取りで彼の前に出た。そのまま素通りし、ドアを開ける。
窓を閉めて室内が密閉されたことで、押し開ける腕に力が必要だった。ぐっと踏み込んだ足も使って身体全体でドアを支え、廊下に踏み出す。シンと静まり返った空気は、否応が無しに今この家に自分と雲雀しかいない現実を綱吉に教えた。
半歩遅れてついてくる雲雀が、聞こえてこない生活音に眉根を寄せる。
「君だけ?」
「ですよ」
自分で言い返してから、しまった、と思うくらいに素っ気無い態度を見せてしまった。内心焦る綱吉だが、雲雀は気にする素振りもなく腕組みしたまま物珍しげに、明るさが最低限に保たれている廊下を見詰めている。
気を取り直し、飲み物を用意すべく階段を降り始めると、珍しく彼も廊下に出て段差へと足を下ろした。不揃いなリズムで足音が小さく重なり合い、その合間に互いの呼吸や心音が混ざる感じだ。変に緊張さえして、綱吉の踵は最後の一段を踏み外した。
「うあっ」
みっともない悲鳴をあげながら頭をぶつける覚悟をしていたら、衝撃は来なくて変わりに暖かなものが背中に押し当てられる。覚えのあるこれはなんだっけ、とぼんやりしたまま天井を眺めていれば影が落ちてきた。雲雀が真上から綱吉を覗き込んでいる。
背後に立つ彼が肩を抱えて支えてくれたのだと気づくのに、瞬きが合計で十回は必要だった。しかもどうして彼が此処にいるんだろう、なんて場違いなことも考えて混乱した。
「あ、りがとう……御座います」
声が上擦り、頬が引き攣る。礼を言うときの顔じゃないな、と思いつつどうにもならなくて、綱吉は腰から上を完全に預けてしまっている相手を見返して呟く。彼は何も言わず、ただ不機嫌そうに顔を顰めたまま、綱吉の肩を支えている手に力を込めて綱吉を床へ下ろした。
「器用だね」
「え?」
「最下段で転ぶなんて」
「…………」
ぐうの音も出ない、とはこの事か。自分だって今のは十分恥かしくて、穴があったら入りたい気分だったのに、追い討ちを掛けられてしまって綱吉は益々落ち込んだ。恨めしげに見上げると、とっくに興味の対象物を変更してしまっていた彼は階段の手摺りから覗く、沢田家一階の間取りをゆっくりと確かめているところだった。
考えてみれば、彼は度々綱吉の部屋を訪れるものの、一階へ降りるのは初めてではなかったか。
玄関の磨りガラスから外の明かりが流れ込み、照明を灯さなくても存外に廊下は明るい。足元を確かめてから歩き出そうとした綱吉は、台所にまで雲雀を連れ込むのはどうか、と悩んだ。別段見せて困るものは無いが、生活の要ともいえる場所を公に晒すのはやはり気恥ずかしさが先に立つ。
ひとつ息を吸って吐いた綱吉は、動きださない彼を不審気味に見下ろしている相手を台所ではなく、その手前にある部屋へ通すことにした。
狭くも広くもないリビングには、カーペットが敷かれていてその中央にはコタツ、端にテレビ。その横に大きめのツリーが飾られている部屋は、子供達の遊び場でもあってごちゃごちゃと散らかっている。それらを大雑把に退かし、部屋の電気をつけた綱吉はついでにコタツにもスイッチを入れた。
パッと明るくなった室内に目を細めた雲雀にどうぞと促せば、彼は黒の靴下で絨毯の短い毛足を踏んだ。物珍しげな視線は変えず、ぐるりと大きく部屋を見回す。
「暖房入れますか?」
「好きに」
「じゃあ、入れちゃいます」
照明のスイッチ近くに置いてあった空調のリモコンを手に問うた綱吉へ、彼は愛想の無い返事をして最後に天井付近に備えられたエアコンを見やった。丁度綱吉の親指がボタンを押したところで、低い音を微かに響かせたそれは、ゆっくりと動き出す。
リモコンをコタツに置き、綱吉はまだ立っている雲雀に座るよう手招く。数歩の距離を簡単に詰めた彼は、しかし何処と無く戸惑った瞳で綱吉の背中を追いかけた。視線を浴びる人物は扉一枚で繋がっている台所へと向かい、すぐにその姿は見えなくなる。
取り残された雲雀は、小さく息を吐いて動き続けている空調を見やった。そのまま視線を下ろしていくと、人工の葉を茂らせた樅の木が聳え立っている。入り口に近い場所からコタツを迂回してそちらへ近づくと、雲雀の身長に匹敵するくらいの大きさをしていた。無数に飛び出ている枝には、幾つもの色鮮やかなオーナメントが吊るされている。
中には折り紙で折ったものや、どう考えても七夕と勘違いしているだろうという短冊、そしてクリスマス以前に飾り付けるものではないだろうと思える手榴弾まがいのものまで。更に全体を鎖のように、今は光を宿さない電球が絡みつき、最も細くなっている先端部分には金色の鍍金がされた大きな星がひとつ。また根元はこげ茶色のレンガの鉢に埋もれ、周囲には沢山の玩具が山になっていた。
樅の木の飾りつけは、この家に厄介になっている子供達がやったのだろうか。オーナメントは総じて下の方に多く釣り下がっていて、天頂を飾る星の周辺は閑散としている。足元ばかりが重そうな玩具の木を小突いて枝を揺らしていると、背中に人の気配を感じた。
振り返れば、茶色い盆を手にした綱吉が小さく笑いながら雲雀を見ていた。
「いいでしょう、それ」
ツリー自体はかなり年季の入ったもののようで、オーナメントも大半はところどころ色落ちが目立つ。しかし真新しいものも混じっていて、それがこの家の歴史を現しているようでもあった。太くどっしりとした幹に支えられ、無数の飾りが華やいだ雰囲気を演出している。暗くして電球のスイッチを入れればまた違った印象を持ちそうだが、雲雀は興味が無い素振りで身体の向きを替え、コタツの前で膝をついた綱吉に向かい合うように居場所を定める。
正座しようかどうしようか躊躇して、彼は結局折った膝を外側に倒し、踵を内側に潜り込ませて胡坐を組んだ。膝に近い太股からコタツ布団を被らせると、隙間からオレンジ色の光が漏れて仄かに暖かい。
「お砂糖、無しでよかったですよね」
盆を先に置き、自分もコタツに足を潜り込ませて綱吉が言う。黙って頷き返すと、良かったと安堵の表情を浮かべた彼がどうぞ、と言いながら盆に載せて来た白い陶器のマグカップを差し出した。
白い湯気を無数に立てているそれを右に回転させながら受け取る。持ち手を左側にして指先に引っ掛け持ち上げて湯気を吸い込むと、鼻腔に薄くコーヒーの香りが張り付いた。そっと息を吹きかけて表面を冷まし、唇を縁に押し当てる。
ゆっくりと底を持ち上げて傾け、喉を上下させていると、目の前の綱吉が若干緊張気味に高潮させた頬をして、雲雀とほぼ同じ動きで唾を呑み込んでいた。天板に載せた手が拳を作っている。
「……なに?」
「いえ、インスタント、だから美味しくないかな、って」
静かにカップを置いて尋ねてみれば、彼は“インスタント”のところにアクセントを置いて早口に理由を説明してくれた。言われてみれば確かに味は微妙な感じがするが、彼なりに気を配ったつもりなのだろう。後味が残りそうな苦味が舌の上を転がっていて、雲雀はどう返事をしたものか、と悩みつつ首を横に振るだけで終わらせる。
両手で抱いたカップからは、思っていた以上に冷えていた指先にじんわりとした暖かさが伝わってきていた。綱吉もまた大事に両手でコップを支え、自分の分を口に運んでいる。あちらは白地にオレンジで大きく花柄が描かれているものだったが、残念ながら子供が描いたようなその花の種類までは分からなかった。
ほうっ、と暖まった息を吐き出し、綱吉が唇を親指の腹で拭う。だが付着した僅かな水分までも貪欲に求めた舌が彼の指先を絡めた瞬間だけは、咄嗟に雲雀は視線を逸らして手元へと落としてしまった。舐めた親指ごと綱吉がカップを下ろす。立ち上る湯気の数は確実に減りつつあるが、ふたりの身体はコタツと、暖房と、飲み物によって確実に体温を上昇させていた。
なによりも、この微妙に気まずいような心地よい沈黙が。
「なんで?」
「はい?」
「誰も居ない」
「ああ」
主語も述語も無い唐突の疑問をぶつけられて面食らった綱吉だったが、即座に補足された雲雀の言葉に微かな笑みを浮かべ、カップを揺らす。中身は雲雀のものよりも色が薄い。コーヒーに温めた牛乳でも足したのだろう。
「みんな出掛けてます。あと……二時間くらいは誰も帰ってこないんじゃないかな」
見上げた時計の文字盤を読んで綱吉が答える。その間一切雲雀を視界に収めようとしなかった彼だが、時間を告げたところだけ少し強調するように発音されていたのは、雲雀の聞き間違いだろうか。
「そう」
さして興味ない素振りで相槌を返し、雲雀はコーヒーを啜る。最初のひとくちよりは大分飲みやすさが増した温度だったが、一気に飲むにはまだ熱い。それにこれを飲み干してしまうと話題が終わってしまいそうで、雲雀はなかなかカップから唇を外せなかった。
コタツの下で胡坐を組んでいる右膝に、何かが触れる。いや、当たったというのが正しいか。
目の前で綱吉の顔が「しまった」という表情を作ったので、恐らくは足を伸ばしたところに雲雀の膝があって、ぶつけてしまったのだろう。カップを退かした雲雀の口元が薄く笑みを浮かべる。怒っていないと教えてやると、彼は恐縮しながらも照れたように肩を丸めた。
「すみません」
「いや」
「このコタツ、ちょっと狭いですね」
小声で謝罪する彼に気にしなくていいと重ねるものの、綱吉は照れ臭さをどうしても誤魔化したいらしく、頭へ片手をやって乾いた笑い声を無理やり掻き鳴らした。雲雀の形良い眉が僅かに持ち上がり、その微細な変化を感じ取った綱吉が瞬間、尻すぼみに笑うのをやめた。
さっきよりも重苦しい沈黙が場を支配する。
ズズ……と無音が辛い綱吉はわざと音を響かせてカフェオレを飲み込む。俯きながらもチラチラと雲雀を盗み見ていて、どうにか会話の糸口を掴もうとしているのが分かって、雲雀は横を向いて頬杖をつきながら、どうしたものかと内心溜息を零す。行き場の無い視線は、勝手にクリスマスツリーへと向けられた。
手を伸ばせば届くところに、積み重ねられた玩具の箱がある。まだラッピングが解かれていないそれらは、子供達への贈り物なのだろう。
「ヒバリさんは、今日は予定とか、何もないんですか?」
「なにが?」
「だって、クリスマ……」
言いかけて綱吉は目線を時計へとやった。外で物音がした気がしたのだけれど、奈々たちが戻ってくるまではまだ余裕があるから、恐らくは郵便か新聞か、その辺りだろうと決め込む。呼び鈴も鳴らない。
「別に、関係ないだろう」
「え?」
「興味ない」
そっぽを向いたまま吐き捨てられた雲雀の台詞を今一度頭の中で反芻させ、速い速度で瞬きを繰り返した綱吉は、甘い味を残す唾を飲み込んで、カップの縁に残る唇の痕を指で消した。
漫画かテレビか、何処か記憶の片隅で手に入れた知識が不意に蘇って綱吉の気を忙しなくさせる。
「えーっと、それは、つまり?」
「なに」
持ち上げたその手の伸ばした指先が、くるくると空中に輪を描く。そんな綱吉が浮かせた指先を眺めながら、雲雀もまた残り少ないコーヒーのカップを斜めに傾けた。
「ヒバリさんの家って、うちは仏教徒だからクリスマスなんかやらない、っていうタイプ?」
ぴきっ、と何処かで空間が裂ける音がした。実際には危うく落下寸前だった雲雀のカップが、コタツの天板にぶつかった音だったけれど。幸いにも完全に倒れる前に姿勢を持ち直し、中身が零れるには至らなかった。
綱吉もまた、己の発言が地雷を踏んでしまったかもしれないと一秒半後に気づき、氷点下の空気を全身に感じて凍りつく。カフェオレが力尽きる寸前の、最後の湯気を放った。
「え……ええっと?」
雲雀は何も答えない。しかも俯き加減で前髪に瞳が隠れてしまっているのが、余計に恐ろしい。
まさか図星だったのだろうか、冗談のつもりで言ったのに。
「ヒバリさん?」
「……ら?」
「え?」
「だったら、どうするの?」
矢張り失言だったらしい。何処と無く怒気を孕んだ表情で睨みつけられ、綱吉はゾクリと背筋が粟立つのを感じた。下ろした指先が今度は天板上を彷徨うと、最後はマグカップの底にぶつかって止まった。
雲雀は残っていたコーヒーを飲み干し、茶色の盆へと戻す。ご馳走様、と唇が呟くが音にはならず綱吉まで届かない。一度伏し、持ち上がった彼の黒い双眸は斜めに流れて樅の木へ。眺めた横顔からは薄れた怒りとやるせない感覚だけが残っている気がして、綱吉は自分の軽率さを恥じた。
どうするの、と言われても答えられない。緩みかけた涙腺が視界を濁らせる。堪えきれなくなりそうで、誤魔化しにカフェオレを煽った綱吉は、御代わりを持ってこようと膝をコタツから抜いたところで、はたと動きを止めた。
「あ、そっか」
とても良いことを思いついてしまった。沈みかけていた表情が一変し、明るくなった綱吉の声に雲雀が振り向く。胸の前で両手を叩き合わせた綱吉が、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、今からやりましょう、クリスマス・パーティー」
我ながら妙案だと喜んでいる綱吉の前で、雲雀の怪訝な表情は変わらない。しかし一度決め込んでしまったらそれこそ一直線な綱吉のこと、組み合わせた手を解くと、空になったカップを揃えて持ち、いそいそと台所へと姿を消す。
どう反応すれば良いのかも分からない雲雀は再びひとり残され、曲げた肘の先に付随する指が眉間を押さえた後、ゆっくりと下へ行って口元を覆い隠す。手首の骨に顎を預け、
「パーティー?」
いきなり何を言い出すかと思えば。いったいどういうつもりなのか、変に同情されたのなら癪に障る。だがあの嬉しそうな綱吉の顔を見てしまうと即座に文句も言えなくて、飲み込んだ言葉を腹の底に沈めて雲雀は胡坐を解いた。
腰をあげる。コタツを迂回して台所を覗き込もうとしたら、一歩早く綱吉が駆け足で戻ろうとしていたところだった。危うく正面衝突しそうになり、咄嗟に身を引いて避ける。
「ヒバリさん、蝋燭もあったから」
「あ……ああ」
だが気にする素振りも無い綱吉は、両手で大事に持った皿を示しながら円らな眼を平らに引き伸ばして笑った。純白の皿には生クリームが形良く盛られたひとりサイズのケーキが乗っている。中央に熟した色も鮮やかな苺がひとつ、その前には小さな板チョコが飾られている。白い線で書かれている文字は、読むまでも無い。
勢いに押され、雲雀が後退する。脇をすり抜けた綱吉はコタツにケーキを置くと、即座にまた台所へととんぼ返り。中を覗き込んで様子を窺えば、湯を沸かしながら二杯目の飲み物を準備しつつ、フォークをふたり分引き出しから取り出そうとしていた。
まさか、本気なのか。冷や汗が雲雀の背中を伝う。
「ヒバリさんは座って待っててください!」
そこへすかさず矢の様な鋭さで綱吉の声が飛んできて、半歩下がった雲雀は何か言い返そうとして、結局やめた。
大人しくコタツへと戻ると、程なくして綱吉がまたお盆を手に入ってくる。最初に比べれば乱暴とも思える手つきでカップを置き、載せていたものが無くなった盆は立ててコタツの脚に傾ける。不器用な手つきで小さなケーキに蝋燭を立てる姿は子供の表情で、雲雀もまぁ良いかと思い始めていた矢先、彼はいきなり百円ライターを雲雀に差し出した。
「綱吉?」
「俺、ライターつけられない……です」
上手くダイヤルを回せなくて火が起こらないか、火が出ても指先が熱さに耐えられず直ぐに消えてしまうのだそうだ。恥かしそうに俯いて説明する彼からライターを受け取り、ワザとらしく肩を落とした雲雀は、狭そうに三本並ぶ蝋燭へ奥から順に火を灯した。
綱吉がカーテンを閉め、ツリーの電飾のスイッチを押す。キラキラと輝きだした光は天井の光に紛れて薄い、と思っていた矢先その天井照明が突然消えた。
停電か、と驚いて雲雀が顔を上げる。ツリーの電球が眩く彼の顔を斑に照らす。ケーキの上では蝋燭の細い炎が揺れ、壁際から戻ってきた綱吉がしてやったり顔で雲雀の横に腰を下ろした。
「いいでしょ?」
肩と肩がぶつかり、狭いと自分で言ったコタツの一辺にふたり並んで、綱吉は雲雀の肩越しにツリーを見上げる。
電飾は発光ダイオードで、今年新調したばかりなのだという。鮮やかに無数の色に変化を遂げる様は見事としか言いようが無く、綱吉が自慢げに胸を張るのも理解できる。オーナメントが光に影に照らされて深みを増し、最上部に鎮座する金色の星は下から上ってくる光に淡く輪郭を浮かび上がらせていた。
「確かに」
身体を支えるべく腕を動かした綱吉の指先が、雲雀の太もも近くに降りてくる。咄嗟に膝を曲げて逃れようと反応したが、低い天板の内側に半月盤がぶつかってそれ以上動かない。気づいた綱吉がびくりと肩を震わせたが、彼は気が大きくなっているのか、そのまま雲雀の腿の上に手を添えた。あまり厚みがないスラックス越しに柔らかな肉の感触が伝わって、綱吉のみならず雲雀までもが息を呑む。
肩がぶつかる。視線を下げればそこには綱吉の顔が存外に近い場所にあって、周囲の暗さからか距離感が取り辛い。身体を揺らせば綱吉の左手も一緒に動くものだから、雲雀は気を遣いつつ己の右側に座る綱吉へ身体を寄せた。今度は彼の左肩が雲雀の胸部へと落ちてくる。鼻先を掠めた吐息の熱さに目を閉じた綱吉は、次に降りてきたもっと熱を持ったものにヒクリと喉を鳴らした。
上唇にだけ押し当てられた柔らかなものに、其処だけではいやだと首を振る。間近の気配が微かに笑って動き、首を反らせた綱吉に合わせてゆっくりと降りてくる。雲雀の右腕が綱吉の腰に絡められた。そのまま引き込まれ、伸び上がる動作で繋がりがより深くなる。
「んぅ……っ」
薄く開かれた隙間から差し出された舌が、意地悪をするように綱吉の下唇を撫でる。きつくかみ合わせている部分の凹みに差し入れられ、左から右へ流れたそれはそれでも綱吉が強固に拒むと知ると、大人しく引っ込むと思いきや今度は浅く噛みついてきた。
「っ、ぁ……んむっ……」
痛みに首を竦めて嫌々と逃げ回ろうとするのに、追いすがる唇に執拗に刺激を受け、最後には諦めた綱吉が僅かに潤んだ瞳を持ち上げて暗がりの中に雲雀の姿を探す。濃い影を落とす相手を隻眼で睨むと、彼は気づいて楽しげに双眸を揺らし、綱吉の腰にあてがった手をそのまま背中へと流した。
触れてくる掌の動きに、背面の神経が全てそこへ集約されて鳥肌が立つ。
「悪くない、な」
息継ぎさえ絶え絶えな合間に、囁かれた言葉の意味に当惑しながら、綱吉は懸命になって雲雀の上着を捕まえた。いっそ着られないくらいに皺になってしまえと握りしめると、雲雀は宥めすかすように背中を柔らかく撫でて来て綱吉の集中力を奪い去る。
伸ばした彼のしなやかな指が、綱吉の若草色のセーターを引っ張る。伸びてしまう、と思うより早く内側に滑り込んだ指先の冷たさに身体全体が収縮した。
「ヒバリさ、っん……」
艶を含んだ声で彼を呼ぶ。離れた短い距離に透明な橋が架かり、舐められた顎から胸元へ落ちる彼の髪が敏感になっている綱吉の肌を無邪気に擽った。
こたつの上では、チリリと焦げる臭いを微かに漂わせ、細い蝋燭にしがみつく炎が小さく揺れる。溶けた蝋を下へ下へと零しながら淡い熱を放っていたそれは、やがて音もなく静かに消えた。
2006/12/10 脱稿