解錠

 正直、彼が何を考えているのかなんて、付き合いが十年を越えた今でもさっぱり分からない。
 元々腹の内を読ませないのが上手かったし、口も達者で話をはぐらかして誤魔化すのも得意。聞かれたくない内容には全く耳を貸さず、その代わり人の本音を見つけ出す術に長けていて、不公平感ばかりが募る。
 一歩どころか二歩も三歩も距離を置かれているな、と思いつつ、頬杖着いて溜息を零した先で、分厚い本を広げていた彼が「なんだ?」と顔を上げた。
「なんでもー」
 椅子に座ったまま両手両足を前方へ伸ばし、背中を丸めてぐったりと机に寄りかかる。頬が触れた天板は冷たくて気持ちよかったが、鼻先を掠めた書類の角は見たくなくて、綱吉は即座に目を閉じた。呆れた調子の吐息が聞こえ、続けて革靴が床板を踏締める振動が微かに伝わってくる。
 額の直ぐ近くの空気が揺れて、薄く瞼を持ち上げて瞳を動かすとそこには彼の腕があった。手を軽く広げて天板に押し付けている。肌を隠すシャツと黒の上着の袖が見える。
「なんでもない顔じゃないだろう」
 どうした、と重ねて問いかけてきた彼の口調が、若干ではあったものの人を心配する色が含まれていて、たったそれだけのことで嬉しくなる。我ながら、浅ましい。
 綱吉は肘を立てて上半身を起こすと、真正面にいる彼が持っていた本を下ろすのを待って、今度は背筋を大きく反り返らせた。右腕を曲げて左肘を掴み、伸びをして凝りを解す。背骨の何処かが小気味のいい音を響かせ、それが彼にも聞こえたのだろう、帽子の下に隠れがちな瞳が細められ、眉間に皺が寄った。
 帽子の上を緑色のカメレオンが行儀悪く行き来している。すっかり慣れている本人は気にしていないが、視界に入ってくる綱吉はそれがどうにも気になって、顔の前で手を数回振ると、反対の腕を伸ばし転がしていた万年筆を拾い上げた。
 手早く、素早く。きっともう何万回と書いただろう自分のサインを書類の最下部へ入れ、脇へと退かす。今日やるべき職務はこれが最後で、ひと段落ついたと背凭れに体を預ければ、しつこく後ろへ回り込んできた彼が横から人の顔を覗き込んだ。
 黒い瞳が鋭く細められて、どきりとする。
「ツナ」
「だから、なんでもないってば」
 過保護にも程があるぞ、と手で押し返す仕草をして綱吉は彼へ背を向けようと試みる。しかし食い下がる彼は背凭れを掴んで、椅子がそれ以上動かないように固定してしまった。
 ガクン、と体がぶれ、衝撃が頭にくる。反射的に睨みつけた先で、妙に真剣な表情をしている彼を見つけてしまい、怒鳴り返してやろうと思っていた綱吉は一瞬でこれを忘れた。
「……なに」
 それはこっちの台詞だと言いたげな視線を強く感じる。
 不機嫌なのは本当だが、理由は出来れば言いたくない。仕事も終わったし、今日の残り時間はのんびり出来るし、誰かが報告に飛び込んでこない限り執務室で綱吉は彼とふたりきり。それは念願叶ったりで喜ばしい事だというのに、今日に限って彼を見る視線が勝手に厳しくなってしまう。
「此処のところずっと、おかしいぞ」
「いいだろ、別に。放っておいてくれても」
 手の甲で彼の肩を押す。机を離れようと椅子から腰を浮かせた綱吉だったが、先を打って腕を伸ばした彼の指が胸元にだらしなく結ばれたネクタイを掴んだ。ぐっと斜め上に向かって引っ張られ、予定していたのとは別の方向へと腰が浮く。首が絞まるのを片目閉じて堪えていると、人が抵抗できないのを良い事に彼は簡単に、綱吉の唇を捕まえた。
 右側半分だけが重なり合った唇、残る部分をも食らおうと動く彼はまるで野獣のようだ。
「んぅ……っ」
 ネクタイから外れた手が綱吉の肩を掴み、指が肉に食い込むまで力をこめられる。逃がさない、と態度で表明された綱吉は、口付けの合間に浅い呼吸を繰り返し、彼の厚くは無いが間違っても綱吉よりは薄くない胸板を拳で叩いた。
 首から上だけを無理やり後ろに向かされているこの体勢は、かなり苦しい。せめて椅子だけでも自由にしてくれないか、と脛もついでに蹴り上げると、漸く顔を外した彼は赤い唇を舌で舐めながら同じく浅い息を吐いた。
 彼の胸元に置いたままだった綱吉の手が、服の下に隠れている人工物の凹凸を探り出して、動きが止まる。
「ツナ」
 切なそうに目を細めて名前を呼ぶのは、ずるいと思う。
 彼とはキスもしたし、もっと長いキスもしたし、それ以上に肉体を重ねあっての行為に及んだのも一度きりではない。闇の中に浮かぶ彼の白い肌に沢山キスをして、オーデコロンと混ざり合った彼の汗の匂いを嗅ぐのも好きだ。普段は殆ど表情に変化を生まない彼が、唯一本当の彼を曝け出していると感じられる一瞬が大好きで、目を開けたまま堪えていたら怒られたこともある。
 夜の、ベッドで寄り添う間だけは、艶のある感情の篭った瞳で見詰められて背筋が震え、彼の手に踊らされながら自分が自分でなくなっていくのを体感する。最初に誘ったのは自分で、古い話を持ち出せば最初にキスも綱吉からだった。
 年を経る毎に大人になっていく背中、気がつけば追いつかれ追い抜かれた身長。長い指、端正な顔立ちに余りある知識と教養。全てを持ち合わせ、大人への階段を確実に登っていく彼は、それと同時に自分から離れていってしまうのではないかという焦燥感を抱かせた。
 だから結びつきが欲しくて、手を出した。まだ子供だった彼の心を、自分にだけ向くように仕向けた。
 その頃にはもう綱吉は狡賢い大人の仲間入りを果たしていて、彼だって恐らく綱吉が及んだ行為の意図を察していたに違いない。ただ彼は逃げなかった、綱吉に自分の本音を告げないのと引き換えに。
 そのままズルズルと惰性のままに続けてきた関係は、今更ぷっつりと糸を千切るほど簡単ではなくて。
「俺がいやか」
「違う、そうじゃなくて」
 キスを嫌がられたのだと思ったのか、一層細められた瞳に見入りながらも綱吉は首を横へ振った。彼の胸元に添えたままの手が、シャツごと、彼の首から吊り下げられているものを握り締める。一緒に薄い皮膚も引っかかれ、顎を引いて下向いた彼は綱吉が何を気にしているのかを知り、眉目を顰めさせた。
 椅子を掴んでいた手は外され、綱吉の腕に重ねられる。
 彼は事に及ぶ時でも、あまり服を脱がない。脱ぐ時は自分で全てを剥ぎ取ってしまうので、彼が首から何を架けているのか綱吉は知らなかった。だが偶然、偶々、つい先日、酔った勢いで机の上で交わった時、肌蹴た彼の胸元に銀の鍵が垂れ下がっているのに気づいてしまった。
 城の鍵ではない。机などの引き出しの鍵とも違う。誰かの、家の、鍵。
 今も服の下に隠している。指でシャツ越しに形をなぞれば、ギザギザの溝が指先に食い込んだ。
「ツナ」
「他に……居るのか?」
 自分以外の誰か家の鍵。後生大事に肌身離さず持ち歩いているのだから、余程の相手なのだろう。今まで散々時間を共に過ごしてきたというのに、全く気づけなかったなんて、自分はなんて愚かなのか。
 自分で言ったことばに傷つき、綱吉は唇を噛み締める。このまま鍵を鎖から引き千切って投げ捨ててやりたい。二度と拾えないような、深い海の底へ沈めてしまいたかった。
 見苦しいと分かっている。哀しいくらいに知らない誰かに嫉妬している。鍵の部屋の持ち主を探し出して殺してしまいたいくらいに、心が暗い色の炎に煽られて焦がされる。
 だのに表面は平静を装いたがって、鍵を握る手から力が解けないだけで、表情は至って穏やかな、いつもの自分の仮面を被って彼と向き合っていた。彼の体温を忘れた唇は、思いとは裏腹の音を刻む。
「居るんだろ、他に。良いよもう、俺に構わなくて。俺のこと、もう、慰めてなんかくれなくてもいいから」
 指が攣りそうなくらいに硬い小さなものを握り締めているのに、本当は今にも泣き出したいのに、汚すぎる自分の心を知られるのが嫌で、偽りの仮面が張り付いて外れない。醜くて、惨めで、ちっぽけで、愚かしい自分が。
 なにより、彼を喪うかもしれないという恐怖が。
「ツナ」
 だのに彼の声は優しい。青白くなっている綱吉の手を包み、表層を撫で、屈めた膝で姿勢を低くして顔を寄せて頬に口付ける。頬から顎へ、鼻筋へ、こめかみへ、眉間へ、額へ、そしてまた唇へ。啄ばむような優しいキスを沢山降らせ、彼は時間をかけて綱吉の指を解いた。
 皺の寄ったシャツが揺れる。嫌々と首を振った綱吉の髪へもキスを落とし、姿勢を戻した彼は己の項に両手を持ち上げた。銀色の鎖を連ねたチェーンネックレスを外し、吊り下げられていたものを中空に晒す。
 鍵。銀色の、小さな、少し角張った、何処にでもありそうな。
「リボーン……」
「これが理由か?」
 潜められた低い声に身体が震える。怒っているのだと語る声色に心臓が竦みあがって、綱吉は痙攣したままの指を抱き締めた。
「ツナ」
 答えを求める声は厳しい。視線を逸らし執務机と睨めっこをしていた綱吉は、背中を丸め、両手を膝に置いた後やっとのことで頷いた。頭の上に、彼の盛大なため息が落ちてくる。
 どちらかと言えば呆れているという様子。綱吉は十四歳の子供に戻った気持ちで、リボーンの次の言葉を待った。関係は修復不可能だろうか、自分はきっと、捨てられるのだろうかと。
 しかしチャリ、と乾いた音を残し顔の位置まで下ろされたチェーンの先。よく見ろと彼に囁かれ、耳を擽る吐息に肌を粟立てながら、恐々見開いた瞳に映し出された銀色は、綱吉の記憶の片隅に引っかかり、痣を作った。
 見覚えのある形状、大きさ。何処にでも在ると感じたが、それは日本で暮らしていた頃の記憶。
「思い出したか」
「……うちの?」
 手を差し出すと、指の上に乗せられたそれ。馴染みのある形状、指で抓めば呆気ないほど簡単に蘇る日々。それは日本にあった、沢田家の玄関の鍵だ。今はもうないあの家を開ける為の。
 彼が大切に持っていたのは、自分と彼との縁を最初に結んだ場所の、鍵。
「な、なーんだ」
 勝手に勘違いして、誤解していた自分が途端に恥かしくなって、綱吉は照れ笑いの表情で焦りながら彼を見上げた。しかし当人もが、こんな物を未練がましく持ち歩いていたのだと知られてか、顔を赤くしながら他所を向いている。
 袖を引くと、渋々振り返った彼が唇を尖らせた。背凭れに腕を置き、腰を屈め、顔を近づけてくる。
 触れ合うだけのキスは、お互いに目を閉じて。
「俺は、惚れた奴以外にこんな事しない」
 答えの代わりだと告げられた言葉に、綱吉は嬉しそうに頷いた。

2006/12/21 脱稿