銀河鉄道

 ガタゴトと身体全体で感じる振動は実に心地よく、分厚いガラス窓一枚を隔てて背中から浴びる陽光は暖かい。
 締め切られた車内には適度に暖房が入り、この季節は自動ではなく乗客がボタンを押して手動で開閉されるドアのお陰で、利用者の少ない車両はぽかぽかだった。
 乗り込んだ時は寒かったけれど、時間が経つにつれて悴んでいた指先にも血液が戻り、僅かな痒みを訴えてから静かになる。首にしっかりと巻きつけていたマフラーを解いたところまでは確かな意識が存在していたけれど、間隔の長い駅と駅の合間を流れる景色を楽しんでいる間に、いつしか眠ってしまっていたらしい。気がついたのは、斜向かいに座っている学校帰りらしい二人連れがくすくすと笑っている声が聞こえてきたからだ。
 明らかに彼女達は座席ふたり分のスペースを占領して眠っていた綱吉を笑っていて、綱吉が起き上がると同時にその声は止む。だがまだ寝ぼけ眼の彼が、ぼんやりとした表情で周囲を窺っているのを見て、堪えきれない笑いが再度漏れた。
 綱吉はというと、夢うつつの世界から覚醒を果たしはしたものの、其処が寝慣れた自分のベッドではない現実に些か戸惑っていた。見知らぬ空間にいきなり飛ばされた感覚で、きょろきょろと不躾に視線をあちこちへと投げ放つ。無論その間も電車は動き続け、定期的な振動が彼の全身を緩く包み込んでいた。
 彼はやっと、唇の左端から顎を汚している自身の涎に気づき、手の甲で拭い取る。それから枕にしていた所為で微かな痺れを残す左腕を使って体を起こし、臙脂色のシート上に腰を据えてようやく、自分が電車の中で眠ってしまったのだという現実に思い至った。
 聞こえて来た忍び笑いが益々恥ずかしくて顔を真っ赤にさせた綱吉は、すっかり何処かへと消えた眠気の代わりに大きく目を見開き、しかし視線は膝と其処に添えた両手へと落としたまま。解けたマフラーが拳の下で横になっていて、簡易膝掛け状態になっていた。
 消え去ったはずの眠気だったが直ぐにまた沸き起こり、綱吉は欠伸を大きく零してから目尻を擦ってどうにかやり過ごす。車内には自分以外にあの女子高生がふたりと、病院帰りなのだろうか、杖を傍らにした女性。こちらもこっくりこっくり、と気持ちよさそうに舟を漕いでいる。
 優しく穏やかな日差しは明るく車内を照らし、それが途切れるのは背の高い樹木が密集している地帯を通り抜けるときくらい。稀に短いトンネルを潜り、どんどん電車は先へと進んでいく。景色は住宅ばかりが居並ぶ空間から、眠っている間にすっかり変貌を遂げていた。
 何処までも続く田畑、その隙間を埋めるように平屋建ての住居。舗装されていない細い道、のんびりと進むトラック。こんもりとした緑に覆われている小高い山、手前に聳えるのは真っ赤な鳥居。反対側を向けば樹木の隙間から海が見える。線路の真下は崖なのだろうか、地面が遠くてよく見えない。左に視線を転じればごつごつした岩が海岸線に突出していて、あそこに行くのは一苦労だろうなという想像が自然と働く。海面は陽光を浴びて眩しく輝き、水平線の彼方には大型貨物船だろうか、薄い船影が非常にゆっくり漂っている。
 あまりにも綱吉の住む並盛町とは景色が違っていて、息を呑み、小学生のように膝から座席に乗りあがって窓に両手をついていると、また女子高生の笑い声が聞こえてきて綱吉は赤い額を窓に押し当てる。窓を開けたい気持ちに駆られたが外は十二月の風が唸っているだろうからやめて、冷たいのか暖かいのか分からないガラスの鋭い感触を肌で味わいながら、高速で過ぎ行く世界の変化を存分意楽しんだ。
 太陽は水平線の、若干高い位置に浮かんでいる。いったい自分はどれくらいの時間、眠ってしまっていたのだろう。ふと気になって左袖を捲り上げてみるが、其処には歳の割に細い腕しかなくて、彼はがっくりと肩を落とすと窓に両手を添えたまま車内を改めて見回した。
 しかしこんな場所に時計が用意されているはずもなく、時間を聞こうにも車内にいる人間は限られている。気持ちよく眠っている人を起こすのは忍びなく、また自分を散々笑っていた女性に声を掛けるには勇気が要る。恥の上塗りを晒すよりは、車掌が回ってくるか、次の駅に着いたところで下車して確かめるほうが自分自身の精神的健康は維持出来そうである。
 窓から手を離し、背凭れに膝ではなく本来の用途として正しく背中を預け直した綱吉は、ふっくらとした座席の心地よさに数秒目を閉じ、短い間隔で瞬きを繰り返した。
 眠気は完全に遠退き、耳には振動音だけが断続的に流れ込んでくる。騒々しいけれど静かだと感じながら、向かい側の大きな窓から樹林に遮られた視界に瞳を細めた。
 狭い空間を縫うように走るので、直線は殆ど無い。右に左に、緩く強く、曲がりくねるレールの上を列車は走り続ける。たった二両しかない車内に乗客の数は疎ら。綱吉が乗り込んだ時にはもっとお客はいたけれど、知らぬうちに閑散としてしまっていて、果たしてこれで採算が取れるのかどうか他人事ながら心配になる。
 こげ茶色のダッフルコート、右のポケットに指を入れ、中を探り切符の有無を確認する。薄く小さな紙切れの存在に安堵し、綱吉は肩から上の力を抜いて後頭部を窓枠へと預けた。角にぶつけた衝撃は片方の目を閉じてやり過ごし、見上げた天井の照明は外から差し込む光に負けてどこか弱々しい。
 昨年末だから、丁度一年ほど前に購入したばかりのコート。先日押入れから引っ張り出して来て身にまとってみたところ、本当に僅かな違いでしかなかったが袖が短く、また少し窮屈になっていた。丈も買ったばかりの頃は膝に少し余っていたのに、今はそれもなくなってむしろ短いのではないかと危惧してしまう程。
 サイズを確かめる為にその場にいた奈々は、こういった細かな変化に逐一大袈裟すぎる反応を示して、最後に小さく、嬉しそうでありどこか寂しげな笑顔を浮かべたのだ。
『そっかー、ツッ君も、おっきくなったわよねー』
 しみじみと、という表現がぴったり当てはまる彼女の声に気恥ずかしいような、成長期なんだから当たり前だという両方の感想を抱いた綱吉もまた、「そうかな?」と曖昧に言葉を濁すことしか出来なかった。
 自分自身のことなのに自分では意識もしていなくて、奈々もまた、毎日綱吉と顔を合わせているのに直ぐには気づかない微細な変化。一年前の自分とは確かに違ってしまっている、一年後の今の自分が嫌いなわけではないが、素直に変化を認めて受け入れるには、少々綱吉には時間がなさ過ぎた。
 考えてみれば気忙しく、変化もまた激しい一年間だった。目まぐるしく日々状況は転々とし、良くもなれば悪くもなり、落ち着ける時間は稀で平々凡々とした日常は遠い彼方へと旅立ってしまった。もうあの頃には戻れないと感じながら、あの頃が一番自分は幸せだったのだと懐かしむ思いが強すぎて、目の前に倒れている難題を起こす作業を放棄してしまいたくなる。
 全てを背負うのはあまりにも重過ぎて、辛すぎて、涙を零さずにはいられない。
 人の生き死にを左右するのが自分の決断なのだと告げられて、平常心を保っていられる人間なんてそう多くない。目の前で弱くなっていく命の灯火のその重さを振り返ると、堪える涙より先に握り締めた拳が千切れて唇からは血が滲む。
 断続的な影が顔に落ちてくる。不意に天井から流れてきたアナウンスは間もなく駅へ到着する旨を乗客へと告げた。目の前の老女がハッとした素振りで顔を上げ、先ほどの綱吉のように慌てた風情で周囲を窺ってやがて胸を撫でながらそっと息をひとつ吐き出す。恐らく降りるべき駅を通り過ぎていないか不安だったのだろう。
 綱吉は顔を上げ、斜め向かいにある路線図に目を細めた。辛うじて読み取れる駅名は馴染みのない、初めて耳にするものばかりだ。今車内放送が告げた駅名は、終着駅からふたつかみっつ手前のもの。西に傾いている太陽が水平線の彼方へ沈む頃には、この列車も折り返しているだろうか。
 そこに目指す何かがあるわけではない。
 其処へいきたいわけでもない。
 ただ、飛び乗らずにはいられなかった、少し古めかしいけれど懐かしさを抱かせた車体。最短駅までの乗車券だけを購入して、いけるところまで行こうと決めただけの一人旅。ここが何県の何と言う町なのかも知らず、無論駅から出る事無く終着駅に着けばそのまま街へ帰る電車に乗らねばならない。
 自分の在るべき場所を、綱吉はちゃんと理解している。ただ、それでも。
 電車の速度が落ちた、ゆっくりとブレーキが掛けられ体が斜めに傾く。目の前をコンクリートで固められたホームが流れていって、やがて完全に電車は止まった。
 ばいばい、という声が聞こえてきて視線を転じると、雑談に花を咲かせていた女生徒のひとりが立ち上がってホームに下りようとしている最中だった。彼女の目の前で音を立てながら外と内を遮っていたものが開かれ、冷たい突風が車内に駆け込んでくる。思わずコートの襟元を捕まえて身を竦ませた綱吉は、同じように体を震わせた老女と目が合って、どちらからともなく微笑みを交し合った。
 たったひとりだけの乗客を降ろし、電車は再び走り出す。残された女生徒は鞄から本を取り出して膝に広げた。老女は再び夢の世界へと落ち、綱吉も背凭れと窓枠に体を委ねながら過ぎていく光景をぼんやりと眺める。
 この電車は何処まで行くのだろう。何処へ行くのだろう。
 自分は何処へ連れて行かれるのだろう。何処まで、行けるのだろう。
 ひとりきり、窓の外を眺める。海は相変わらず眩しく輝き、白い砂浜は優しい波に撫でられて、岩に砕けた潮は無数の泡を散らして水面へと還る。夏に訪れた景色は淡く薄くなり、今綱吉の前に広がる冬の景色とはまるで重ならない。無数にぶれた視界を堪えて瞼を閉ざせば、浮かんでくるのは君の姿。
 どうして、隣に君がいないのだろう。後悔が胸を覆い尽くし、呼吸が出来ないくらいに苦しい。
 首を回し、喉を仰け反らせて無防備に急所を曝け出す。傍目には眠りの中で座ったまま寝返りを打った動作に映るかもしれない。しかし喉仏を潰されれば無事ではすまないと教え込まれている綱吉にとって、その仕草は己の命を相手に差し出す行為に他ならない。
 口腔内の唾を飲み込むにはその体勢は辛すぎて、数秒とせず綱吉は姿勢を戻す。瞬間視界は半分闇に落ち、天井明かりが急に強まる。トンネルに突入したのだと気づいた頃には小さく耳鳴りが彼を襲い、数秒遅れで視界は光に包まれた。
 ほんの短い、闇の底。落ちるのは簡単だが、抜け出すのは数万倍の労苦が伴う。目を見張り呼吸を止めてしまった綱吉は、意識しないままに零れ落ちた涙の意味も分からず、丸めた拳を右の瞼へと押し当てた。
 人の気配が濃くなって、左の瞼だけを持ち上げて世界を見上げる。いつの間にか本を畳んだ制服姿の女性が斜め前に立っていて、無言のままポケットから取り出したハンカチを綱吉へと差し出した。
「え……」
 当惑を隠せない綱吉に、長い黒髪をひとつに束ねた彼女は淡いピンクの唇を緩め、微笑む。
 誰かに似ているような気がした。けれどそれが誰なのか分からないまま、綱吉はもう一度差し向けられたハンカチへ視線を向け、下ろした右手で受け取る。アイロンが丁寧に当てられたそれは、昼の太陽と石鹸の匂いがした。
「ありがとう、御座い……ます」
 やや頼りない口調で礼を告げ、照れた顔を隠し俯いて目頭にハンカチを押し当てる。湿り気は僅かだったものの、自分が泣いているのだと意識した瞬間、反対の目からも涙が溢れ出して急に止まらなくなった。
 彼女は何も言わずに空いた手で己の腕をさすると、綱吉からひとり分距離を置いた座席にのんびりと腰を落とした。そして何事も無かったかのように栞を挟んでいたページから本を読み始める。
 少しの間、何に対して泣いているのかも分からない綱吉の零す嗚咽が電車の走行音に重なりあう。ともすれば掻き消えてしまいそうな小さな声を、彼女は飽きもせず、文句のひとつも零さずに左の肩で受け止めて、右へと流して行った。
 握り締められたハンカチは濡れ、色を変えて皺を沢山残した。何度も鼻を啜り上げ、喉に詰まった息を必死になって吐き出して両肩を揺らし、綱吉は今此処では無い遠くへと意識を飛ばす。
 黙って出てきてしまった。今頃自分が居ないのに気づいた皆は、行方を捜し求めて大騒ぎかもしれない。
 後悔は先に立たない。昔から伝わる慣用句が脳裏を走る。
「……次の次、終点だけど」
 ふっと、囁くように彼女が言った。
 涙が漸く枯れようとしていた綱吉は、最後に鼻をひとつすすって顔を上げる。赤くなった目と頬とを彼女に向けると、黒髪を肩から胸元へ垂らした彼女もまた顔を上げ、綱吉に悪戯っぽい笑みを向けた。
「終点ね、駅員さんいるから。引き返すなら次の駅で降りて電車待つといいよ。でも切符は、新しく買ってね」
 ウィンクしながら告げた彼女の台詞を即座に理解できず、綱吉は目を丸くしたまま彼女を凝視する。すると彼女は口元に丸めた手をやって、くすくすと笑い出した。
「日が暮れる前に、早く帰りなさいね」
 電車に揺られているばかりだった老女もまた、目を覚ます。咄嗟に顔を逸らしてしまった綱吉は、膝でぎゅっと小さな花の刺繍が入ったハンカチを握り直した。
 電車が駅に流れ込む。女性ふたりは揃って立ち上がり、一歩遅れて綱吉もホームへと降りた。
 マフラーを首に巻き、外の世界の寒さに身震いする。コートのポケットに忍ばせた指先が切符の角を擦り、まだ握ったままだったハンカチの存在を思い出して綱吉は先ほどの彼女を探した。
「あの、ハンカチ!」
 既に彼女はホームから、誰もいない改札を潜り抜けようとしている。慌てて声を上げると、後ろで電車がゆっくりと発進していった。
 おさげ髪を揺らし、彼女は人好きのする笑みで振り返る。
「いいわ、あげる。鼻水、ついてるかもしれないしね」
 ケラケラと笑って、その言葉が冗談だから安心して良いと綱吉に知らせながら、彼女は軽やかな足取りで小さな駅舎を出て行った。外には乗用車が一台停まっており、彼女が手を振ると内側からドアが開かれて女生徒に雰囲気の似た中年女性が姿を現す。
 ふたりはなにやら一言、二言話をし、制服姿の彼女は車に招かれて、程無くエンジン音を低く響かせ車は走り去った。直前、窓からこちらを見た彼女と目が合って、手を振られた気がしたが錯覚だったかどうかさえ、綱吉には分からない。
 誰かに似ていると感じたのも、幻だったのか。立ち尽くす綱吉は風に晒されながら、既に朧げになりつつある彼女の姿を今一度振り返る。
 真っ先に浮かんだ顔は、何故だろう、母の笑顔だった。
 似ても似つかない容姿をしているのに、似ていると最も強く感じたのは、奈々。思えば虐められっこで孤独だった幼少期から、彼女だけは何も言わず、時に綱吉を笑わせながら、ずっと着かず離れずの距離を保って傍に居てくれた。
 そして、今は。
「…………」
 止まっていた涙が蘇りそうになり、ハンカチを瞼に押し当てて堪える。飲み込んだ息の苦しさに耐えた綱吉は視線を緩やかに巡らせ、自分以外誰も居ない田舎の景色に、胸に閊えていたものを静かに吐き出した。
 屋根の在る駅舎へと歩み寄り、書き込まれている方が稀な時刻表を見上げる。隣には古めかしい時計が吊るされていて、止まっていやしないかと不安になったが、ちゃんと正しい時間を刻んでいるようでホッとする。
 背中に浴びる夕焼けは色を増し、僅かに赤みを残す綱吉の頬を一層引き立てた。
 電話は端の方に申し訳なさそうに、自動販売機と並んで設置されていた。重い受話器を持ち上げ、ポケットから抜き取った百円硬貨を差し込む。一瞬だけダイヤルの上を彷徨った指は、読み上げる必要すらないくらいに身体が覚えてしまっている番号を拾っていった。
 数回のコールの末、不機嫌そうな声が聞こえてくる。
『もしもし?』
 公衆電話から誰だろう、そういぶかしんでいるのが伝わる声。きっと自分が行方知れずと聞き、不安と心配で電話に出るどころではなかったのかもしれない。
「……ぁ」
 それが分かっていながらも、自分が起こした騒動だから第一声に迷ってしまって、先に謝るべきか無事を伝えるべきかで逡巡する。けれど僅かに漏らしたその吐息だけで、向こうは電話口の相手が綱吉であると察したらしい。突然声が大きく強くなり、今何処にいる、何をしている、と矢継ぎ早に問い詰められてしまった。
 相手が違っていたらどうするつもりだったのだろう。つい笑いがこみ上げて、綱吉は声を立ててしまった。電話からは笑い事では無いと怒り、拗ねる声が続き、重ねて今の所在地を問われた。あと、誰か一緒にいるのか、と。
 綱吉は両手で受話器を握ると、相手には見えていないのに肩から上全部を使って首を振った。
「ううん、俺だけ。ごめんね、心配かけた」
 周囲はがやがやとしている。誰からだ、と問う声が混じって聞こえてくる。その声にも覚えがあって、綱吉は懐かしい気持ちに駆られた。昨日も一緒に過ごした相手だというのに、たった数時間前まで隣にいた人なのに。
 この数時間が、とてもとても長い時間だったように感じられる。
 綱吉の比較的元気な声に、彼は安堵したようだ。ひとつ、深く息を吐く声が届けられ、本当に心配をかけてしまったのだと実感する。
「ごめんね」
 もう一度謝れば、向こうはまた拗ねた声を出す。散々文句を言われるのを覚悟していたのに、聞こえてくるのは「無事でよかった」だの「今から迎えに行く」だの、そんな綱吉を気遣う言葉ばかり。
 不覚にもまた泣き出しそうになって、綱吉は解いた左手の指の背で目尻を交互に拭った。息を呑む気配が伝わったのか、受話器から人の心配してばかりする声が流れてくる。
 優しい、優しい、君の声が。
 こんなにも自分の空っぽの胸を暖かく埋めてくれるだなんて知らなかった。
 電話口では泣いているのまで敏感に気取った彼が、今何処だ、直ぐ迎えに行くと騒ぎ立てている。綱吉は出来るだけ平気な様子を装って無理に笑い、電車も暫く来ないし、タクシーを飛ばすにしても遠すぎるとだけ返す。初めて目にする駅名を告げると、向こうも咄嗟に場所が分からなかったらしく押し黙った。
 時刻表を見る。真っ白い中に黒文字で疎らに記された数字。時計を読めば終点に着いただろう電車が折り返してくるのか、戻りの電車は約三十分後だ。
 視線を落とす。駅舎越しに見える光景は、真っ赤に燃える空と光を浴びる海の鮮やかなコントラスト。振り返れば柔らかな風が吹く大地。
 自分が生きて、自分の足で立っているのだと実感する。受話器を握る手に自然と力が篭る。
 優しさが嬉しい。優しさが暖かい。見知らぬ人から親切にされて、大好きな君が沢山自分を心配してくれている。
 大丈夫、きっとこの世界は自分をまだまだ愛してくれている。
 変わって行ける、何処までだって行ける。地平線に太陽が沈んでも、明日の朝にはきっと清々しい気持ちで立ち上がれる。
 名前を呼ばれた。綱吉は頷きながら微笑み、立ち位置をずらして海を眺めた。
「海が見えるよ。凄く綺麗」
 君にも見せたいな、そう呟くと相手は一瞬黙り込んだ。
「え? 無理だよ、今からなんて。電車無くなっちゃう」
 聞こえて来た台詞に素っ頓狂な声で返した綱吉が、電話の残り時間を気にして硬貨を追加する。その間も陽射しは緩み、太陽は水平線へ近づく。漣を響かせながら風が綱吉を包み込んだ。
 足元から頭上へと抜けていく大気、巻き上げられた木の葉が優雅に舞い、飛び去る。瞳だけで動きを追いかけ、綱吉は体を反転させると背中を電話が乗る台へ押し付けた。体重を預け、凭れ掛かる。
「分かってる、帰るから。……うん、じゃあ、いつか、一緒に来よう」
 放っておくと本気で迎えに来そうな勢いの相手をどうにか宥め、完全に乾いてしまった涙の痕を指で擦り、綱吉はもう一度頷く。
 君に見せたい景色が出来た、それが嬉しい。
 君と訪れたい場所が出来た、それが楽しい。
 この次は、ふたりで電車に乗ろう。ちょっとだけレトロな電車に揺られて、ゆっくり、ゆっくり、景色の変化を楽しみながら、ふたりだけで、過ごそう。
 ふたりならきっと幸せが倍になる。悲しみは半分になる。居心地の良い振動に揺られながら、お互い肩を預けあって居眠りをするのも悪くない。
 奈々に似た笑顔のあの人にも、もう一度会いたい。ハンカチを返して今日のお礼も言いたい。
 この世界に生きる沢山の、本当に沢山の人に、大好きだと告げたい。
 なによりも、君に。
 君に。
 不意に黙り込んだ綱吉を心配する声が続く。綱吉は緩みっぱなしの涙腺を叱咤しながら、受話器を両手で抱き締めた。耳に強く押し付け、声を近づける。こうしていると彼がとても近い場所に感じられて、冬の冷たい風にも耐えられる。
 電車はまだ来ない。電話は、もうじき切れてしまう。
「会いたい……よ」
 直後、プッという音を短く立てて切れた通話。胸が張り裂けそうな思いは、届いたのだろうか。分からない。
 綱吉は受話器を電話へと戻し、腕を伸ばせば手首が覗いてしまうコートの前を握って合わせた。差し込む隙間風に背中を向け、ホームに据え付けられたベンチに腰掛ける。
 夕日が沈む、今日が終わる。そして明日がやってきて、自分は今日から旅立つ。
 もう二度と、逃げ出すような真似はしない。
 凍える風が綱吉の肌を容赦なく弄る。掬われた前髪の行方を追いかけて見上げた先、気の早い一番星の瞬きが彼に柔らかな笑みを与えた。
 君の声が、聞こえた気がした。

2006/12/11 脱稿