以心電心

 風が透明な窓を外からノックしている。微かに揺れた窓枠の音に顔を上げた綱吉は、吹き抜けていく風に踊る枯葉を瞳の動きだけで右から左へと見送った。
 過去に同じ病院で世話になった時、奇遇なる不幸か、雲雀もまた同じく入院していたことがあった。その時に言われた、微かな物音でさえ目が覚めるという神経質さは形を潜めているらしく、綱吉の膝の先に据えられたベッドに眠る人は、眉間に皺は寄せているものの、目覚める気配がない。
 白く清潔な、少しだけ薬の臭いが染み付いたシーツの上に、やや血色の悪い腕がはみ出ている。赤黒く鬱血した箇所が生々しく残り、右肘には針が突き刺されそこから半透明のチューブが伸びている。一滴ずつ落ちていくビニルの中身はただの栄養剤だと分かっているけれど、点滴を受けなければならないまで彼が弱ってしまっている現実は、綱吉の心を息苦しくさせた。
 黒曜中に君臨した六道骸との闘争は、綱吉たちに軍配があがる格好で終了を迎えた。
 しかし後味の悪さばかりが残り、綱吉の拳は未だに微かな炎に燻ったまま、チリリとした痛みを彼に与えている。
 六道骸の残虐さは許しがたいものがあり、横暴なまでの力に蹂躙されるしかない自分の弱さと、大切な仲間ひとりも守れない情けなさが綱吉を強くした。勝ちたい、負けたくないと生まれて初めて強く願った経験は、この先決して無駄にはならないだろう。
 だが、果たして本当に、これでよかったのだろうか、とも、同時に思ってしまう。
 もっと早く自分が決断を下していたならば、山本や獄寺やビアンキ、それに並盛中の沢山の生徒を犠牲にしなくても済んだかもしれなかったのだ。自分がぐずぐずしていたばかりに、自分の身の可愛さを優先させたばかりに、結果大勢の人を傷つけてしまった。
 後悔は後から、後から押し寄せてきて、綱吉の背中を丸めて小さくさせる。抱えた膝に顔を埋め、綱吉はスリッパから抜き出した素足を椅子にあげた。両腕で抱き締めた細く脆弱な脚に大部分を隠された視界では、今回最も手酷いダメージを受けた人が眠っている。
 綱吉自身は大した怪我を負うこともなく、強いて言えば鍛えられてもいないのに無茶な戦い方をした余波の筋肉痛程度。気を失って次に目覚めた病院の天井は相変わらず憎らしいくらいに真っ白で、陰鬱な気持ちが真っ先に押し寄せて来て泣きたくなった。
 骸によって傷を増やされた獄寺たちも、意識を取り戻し順調に回復に向かっている。だがまだベッドから起き上がって自由に動き回るには至らず、毎日退屈だと愚痴を零しているとも聞く。山本は獄寺ほど重傷ではなくて、二日ほど経過を見てから先日無事に退院した。それからも毎日のように見舞いに来てくれて、気持ちはとても有難いのだが、度々獄寺と喧嘩を始めるので、一部の入院患者からはすっかり彼らは怖がられてしまった。
 思い出すと苦笑が漏れる。綱吉は抱いた膝の間で僅かに口元を緩め、しかし瞳は哀しげに伏したまま固く結んだ両手の指を見詰めていた。
 綱吉自身、明日で退院が決まっている。元々あまり大した怪我は無かったのに此処まで入院が長引いてしまったのは、様々な検査を受けさせられたからだ。その検査ひとつにどんな意味があるのかは分からないし、リボーンも、今後の特訓に必要なデータ集めだとしか教えてくれなかった。
 いや、実際は教えてやろうか、と言われたのだが、“特訓”という単語に綱吉の神経が激しく拒絶反応を起こしてくれて、敢えて聞かなかった、というのが正しい。どうにも彼の意図するままに自分が流されているような気がしてならず、故にこれはささやかな、綱吉なりの反抗でもあった。
 どうせ無駄な足掻きでしかないと、本心では分かっているのだけれど。
 退院できるのは、正直嬉しい。病院食は味気ないし、テレビも見られる時間が限られている。消灯時間は普段の生活と比較できないくらいに早いし、起床時間も早い。動き回る範囲も限られていて、ゲームだって出来ない。
 日常生活という、普段は全く気づかない有り難味をひしひしと感じながら過ごした数日間もまた、綱吉にとって無駄にならないだろう。やることが無さすぎて、ベッドに寝転がり、真っ白い天井を見上げながらぐるぐると考えた詮無きことも、また。
 連れて行かれた骸たちが、その後どうなってしまったのか。
 彼らの行動には賛同しかねるが、彼らの境遇はむしろ哀れんで良いものだとも思う。だが彼らは綱吉の抱く同情や憐憫を拒絶するだろう、そんな目で見て欲しいとは一切思わないはずだ。
 また会えるだろうか、でもそうなった場合自分は彼らに果たして笑いかけられるだろうか。思い出すだけで膝が震えてくる恐怖は、心根深くにまで傷を残し、心臓を圧迫する痛みを放つ。
 指の肌が白く濁るまで強く握り締め、綱吉はなおも顔を伏して顎を喉元近くまで押し付ける。ぐっと噛み締めた奥歯で漏れ出そうになる嗚咽を堪え、必死になって熱くなる目頭を宥める。
 今回は偶々、運よく誰一人失わずに済んだけれど、これから先もっとこんな出来事が増えるのかと考えると、恐怖で身体は竦み、心は凍る。カチカチと小さく不協和音を奏でる奥歯だけは、どうしても止められない。
 身の毛も弥立つとはこの事を言うのか。腹の奥底から迫り上がってきた感覚に、綱吉は全身の産毛が逆立ち、呼吸さえ出来なくなって目を見開く。
 瞬きを忘れた瞳が映し出すのは、忘れ難きあの光景。人を玩具だと言い放った男の、残忍なまでの笑み。
 出来るならば二度と合間見えたくない。しかし、自分が少なからず関わった人間は、たとえどれだけ極悪人であっても、生きていて欲しい。
 生きていれば話が出来る。話が出来れば、いつか思いは通じる。思いが通じれば、分かり合える。
 そう信じていなければ、心がもたない。堪えて吐き出した息の熱さに眩暈を覚え、綱吉は暫くの間なんとか瞼を閉ざすと、ゆっくりとした動作で固まってしまっていた指を丁寧に解いていった。血の巡りが悪くなっている指先の感覚を確かめようと、数回握り開く動作を繰り返してから、両足を床へと下ろし、窓を向く。
 白く濁った雲がいっぱいに空を埋め尽くしていて、風が強く吹いているのか、眼下の樹木は煽られて左右に撓っている。カタカタと小刻みに鳴る窓枠へと視線を流した彼は、爪先を緑のスリッパに引っ掛け、椅子から起き上がった。
 なるべく足音を立てぬよう、すり足気味にゆっくりと進み、室内中央より若干だが気温が低くなっている気がする窓辺へと歩み寄る。両手を持ち上げ窓ガラスに指を置けば、外気を直接浴びているそれは、綱吉の息を受けて薄く白く濁り、直ぐに掻き消した。
 病室の窓から見下ろす景色は、病院内部と似たり寄ったりで殺風景だ。長期入院患者へ配慮してか、建物の前方には小規模ながら庭園が設けられ、散策する人の姿が小さく動いている。顔を寄せると半透明な自分の姿越しに曇り空が間近に迫り、雨が近いのだろうかと予測させられた。そういえば今日はテレビを見ていないので、天気予報がどうなっているのかも分からない。気持ち沈み気味な表情のまま、綱吉は冷たいガラスに額を押し当てた。
 そこから体温が逃げていくのを感じる。一緒に嫌な気持ちも流れ出していかないだろうか、そんな事を考えて目を閉じ、綱吉は数秒間その姿勢のままじっとしていた。
 肌を通して直接風の気配を感じる。静寂に包まれた室内には自分の呼吸する音ばかりが耳に残り、綱吉はいつも以上に大きく意識している自分の拍動を数えながら、数回瞬きをした末に遠慮がちに目を開き、前方に傾けていた首を真っ直ぐに伸ばした。
 左足を引いて上半身を捻り背後を窺うが、ベッドで眠る人に動きは見られない。こんなにも近い場所で生きているものが動き回っているというのに、余程眠りが深いのか。
 彼の怪我は一番度合いが酷かった。
 綱吉達が黒曜ランドに到着するより前に単身乗り込んでいた彼は、どういう経緯からなのか骸により手酷い傷を負わされていた。綱吉が知る中で最強の名を関する彼が、そう簡単にやられるはずがない、という勝手な思い込みは呆気なく覆されたわけであるが、彼が唯一弱点としていた桜をまやかされたのであれば納得もいく。実際シャマルはその可能性を危惧して、獄寺に処方箋を持たせていたのであり、結果的にそれが綱吉の救いになりもした。
 しかし本を正せば、彼にそんな弱点が付与されたのだって、綱吉が彼と関わりをもった末のこと。花見の場所取り騒動は、思いがけないところで雲雀の危険を招いてしまった。だから男嫌いのシャマルも責任を感じて処方箋を用意したのであろうが、かといってそれくらいでは直接の原因の一端を担っている綱吉の気持ちは晴れない。
 全て結果論だとは分かっているが、もしサクラクラ病が無ければ、と思うとやりきれない。
 背凭れの無いパイプ椅子を引き寄せ、再び腰を下ろす。少しだけ枕元に近い場所に位置を定め、斜め上から見下ろす彼の顔は、パッと見とても綺麗だ。
 しなやかな黒髪、整った鼻筋。黙ってポーズを決めていればモデルで通りそうな風貌なのに、下手に刺激をすれば殺されかねない横暴さと凶悪さを内側に秘めている。今は閉ざされている瞼の奥に潜む瞳は漆黒の闇よりも尚深く、かと思えば寂寞とした奥深い森に眠る泉よりも澄んでいる。
 内と外の落差が大きい人、だと思う。誰よりも傲慢で、誰よりも尊大で、誰よりも強く、誰よりも自分に誇りと自信を持っている。綱吉がどれだけ全速力で追いかけても、一生追いつけない背中をしている人だ。どうすれば彼のような強さが手に入るのか、純粋に彼が羨ましくもある。
 ただ眠っているには少し呼吸が静か過ぎて、綱吉は僅かに抱いた不安から右肩をそろりと持ち上げると、一度引いた肘を前方へ持っていった。指を揃えて伸ばし、眠る彼の口元に、触れるか触れないかぎりぎりの高さで停止させる。
 皮膚に感じられる、微かな呼気。落ち着いていて、乱れは感じられない。リズムよく刻まれる彼の呼吸に安堵して胸を撫で下ろしていると、油断した中指が危うく彼の上唇に落ちるところだった。
 咄嗟に腕を引き、右手を左手で抱き締める。自分が呼吸を乱してどうする、と思わず苦笑しながら、綱吉はさっきまで彼を感じていた指を見上げた。腕を抱いたまま、掌だけを顔の高さに掲げる。掌に親指を、残る左手の四本の指は甲へ。緩く先端を曲げた右の手を口元に引き寄せて、綱吉は目を閉じた。
 彼の息を浴びた指先に、そっと口付ける。さして柔らかくもない感触に感慨は起こらないが、妙な気恥ずかしさを覚え、綱吉は目を開けると同時に自分の腕を振り払った。恐らく顔が赤く染まっているはず、誰もいないのに落ち着かなくて、綱吉は個室の端から端までを見回してしまった。
 看護師が検診に来るまで、まだ少し時間がある。その頃には綱吉も自分の病室に戻らねばならず、視線は最後ベッド脇のチェスト上にある時計に向いた。音のしないデジタルタイプの文字は、無機質に秒を表す間の点が明滅を繰り返しており、パッと数字が入れ替わっても、時間が経過しているのだという実感が薄い。斜めに向いていた首を真正面に戻すのに、一度天井を仰ぎ見る仕草を挟んで、綱吉は両膝に揃えておいた手を軽く握った。
 卵大の拳までもが赤く色付いている気がして、綱吉は自分の行動を思い返してからまたボッと頭から火を噴いた。バクバクと耳に五月蝿い心臓を懸命に宥め、深呼吸を複数回行ってどうにか首筋に浮いた汗を乾かす。若干の湿り気を帯びたパジャマが肌に絡みつき、綱吉は持ち上げた手で額の汗を拭ってそのまま髪の毛をかき回した。
 風の音が窓越しにも聞こえてくる。再び流した視線の先で、色の無い風が渦を巻く。心持ち上空を流れる雲の動きが速度を増しており、押し寄せてくるだろう嵐を想起させて綱吉の表情を翳らせる。
 もう一度改めて、眠る人の顔を見詰める。よくよく見れば細かな傷があちこちに残り、前髪に隠れ気味の額には他と比べると大きめの傷が、周囲に黒ずんだ痣と一緒になって刻み込まれていた。見るからに痛々しく、出来れば直視したくないのに其処ばかりに目が向いてしまって、綱吉は自分自身の相反する心に戸惑いながら、深く息を吐いた。
 彼は今でも一日の大半を眠って過ごしている。肋骨が複数本折れており、内臓にも一部影響あるのではと懸念されている。精密検査は先日終了しているものの、結果はまだ出ていない。出ていたとしても、恐らく綱吉には知らされないだろう。
 所詮綱吉は、彼とはただの同じ学校に所属している、先輩後輩の間柄でしかない。こうやって病室に見舞っても、他に誰かが訪れた形跡の見受けられない部屋はあまりに閑散とし過ぎていて、彼の家庭環境が気にならないわけではないが、しかしそこに深入りする権限を綱吉は持たない。
 一度だけ見かけた綺麗な着物姿の女性は母親だろうか。だがそれっきり姿を見ない彼女との接点を持ち得るはずも無く、悶々とした気持ちは眠ったままでいる人へ向けられる。
 とは言え彼が目覚めている時に訪れる勇気は自分には無くて、綱吉はこうやって彼が寝入っているタイミングを見計らい、こっそり潜り込んでは小一時間ばかり何をするでもなく様子を眺め、帰っていく。正直彼の事はまだ少し怖いし、自分の行為が彼の機嫌を損ねるかもしれないという危惧は、綱吉に次の一歩を踏み出すのを躊躇させるに十分な脅威だった。
 それでも、堪えきれず毎日この病室を訪れる理由。
 スゥ、と静かな寝息を立てる彼の横顔は落ち着いていて、普段の険しい表情はすっかり薄れている。あの黒水晶の瞳に睨まれると、それこそ蛙のように動けなくなって竦んでしまうものだから、目覚めている彼を正面から見上げる覚悟はとてもじゃないが無い。だから今のうちに、見られるだけ瞼の奥に焼き付けておこう、と決めた。
 膝を持ち上げて今度はスリッパごと踵を椅子に持ち上げる。三角に組んだ脚を抱いて頂点に顎を乗せ、吐き出す息はもし色が着いているとしたら灰色混じりの濁った水色、というところか。
 風は相変わらず強く吹きつけて窓を叩いている。時々背中をピクリと反応させたくなる大きさに、恐々彼の様子を窺うものの、指先が微かに痙攣するくらいで瞼が開かれる様子はまだ無い。緊張に強張って萎縮した心臓を太股との間に挟んだ手で撫で、安堵しながら首を僅かに傾ける。斜めになった視界に映し出されるのは、綺麗な壁と時計以外もののないチェスト。引き出しの中も必要最低限のものしか入っていないのを、綱吉は知っている。
 彼の周囲は、どうしてこんなにも生活臭がしないのだろう。まるで、そう、まるで。
 彼が本当は生きていないような――
 考えてしまった嫌な想像に、綱吉は背筋を震え上がらせた。そんなわけはない、と強く伸ばした首を振って、さっき呼吸しているのを確かめたではないかと自分を叱り飛ばす。非常に弱々しかったものの、呼吸をしていたのは間違いない。しかし急にまた不安になってきて、綱吉はそうっと眠る彼を窺い見た。
 白い手、打撲の痕が残る腕、そこから伸びる点滴のチューブ。シーツに包まれた胸元は、微かではあるがしっかりと上下運動を繰り返している。呼吸し、心臓がきちんと動いている証拠だ。
 彼は生きている、間違いなく綱吉の目の前に存在している。
 新ためて確認するまでもない筈の現実に深く安心感を抱き、綱吉は脱力した頬を膝に押し当てる。それなのに不意に泣きたくなって、息を殺して彼は唾を飲み込んだ。目頭を膝に押し当てて、薄い生地のパジャマを湿らせる。
 生きていてくれてよかった。死ななくて良かった。殺されたりしなくて良かった。生き抜いてくれていて良かった。
 沢山の感情が押し寄せてきて、そのどれもが上手く言葉に表現できず、綱吉は曖昧に微笑んだまま顔を上げて解いた片手で目尻を拭った。指先に零れた水滴をパジャマへと押し付け、再び膝を抱く。爪先を揺らすと不安定に背中が前後に傾ぐ、その際どいバランス感覚を楽しみながら、綱吉は首を逸らして真っ白い天井を見上げた。
 照明を直接見詰めてしまった為に、瞳の奥に黒い斑点が幾つも浮かび上がる。咄嗟に閉じた瞼に浮かぶ名残に息を止め、揺らしていた足を止めて身体を前向きに戻す。ぶつけた衝撃で少し痛んだ顎とかみ合わせてしまった奥歯に眉根を寄せてから、時計の文字盤を読んで残り時間を軽く計算した。
 反対に首を巡らせ、閉じているドアを見る。その先に人の気配はまだ無くて、左手の手首を握る右手には自然と力が篭った。
「ヒバリ、さん」
 起きないだろうか。
 起きないでいて欲しい。
 でも、目覚めて欲しい。
 眠ったままでいて。
 聞こえるかな。
 聞こえて欲しいな。
 でも、聞こえないで良いかも。
 届くかな。
 多分、届かないだろうな。
 でも、もしかしたら?
 そんなわけないよ。
 万が一って事もあるかもよ?
 ないって、絶対。
 怒られるかな。
 気味悪がられるだろうな。
 言っちゃおうかな。
 やめとこうよ、ほら。
 でも……さ。
 心の中でふたりの自分が向き合って会話をしている。片方が上へ、片方が下へ行きたがるので間に立たされる三番目の綱吉がおろおろしていて、決断を下せぬまま指をいじって俯いている。
 意気地なし。
 しょうがないよ、どうせダメツナだし。
 大丈夫、聞こえないって。寝てるんだから。
 でも、起きちゃったら?
 そんな都合の良いことないから大丈夫。言っちゃえ。
 ダメだよ、やっぱり。
 どうしてさ。
 だって、俺はダメツナだし。
 それは関係ないだろう?
 だって、俺、男だし。
 まぁ、うん、それは……そう。
 ヒバリさんも、男だし。
 まぁ……そうだな、当たり前だけど。
「ヒバリさん」
 膝の間から見詰める人、眠っている人。
 並盛中の王様、綱吉の憧れの人。
 誰よりも強く、誰よりも恐ろしく、誰にも屈しない、誰からも支配されない人。
 綱吉は、彼がよく屋上で昼寝をしているのを知っている。
 彼がよく飲むコーヒーの銘柄を知っている。
 彼の歩く速度を知っている。
 彼が見詰める先に自分がいないのは良く分かっている。
 それでも、自分は彼の背中を追いかけている。彼の姿を探している。
 隣に並ぼうなんて思っていない。でも、遠くから見詰めるくらいは、許して欲しい。
「ヒバリさん」
 抱き寄せた膝に向けて、名前を呼び続ける。聞こえないように、けれどもしかしたら聞こえるかもしれない声で。
「ヒバリさん」
 気持ちが溢れ出す。止まらない、とめられない。流れ始めた感情は堰を知らず、濁流となって思考を押し流す。
 自分は壊れてしまったのかもしれない、とさえ思った。それくらいに、彼の名前しか言葉にならない。
 この感情をどう表現すれば良い。攻め入った先で貴方の姿が無かった時の、心臓が潰れそうな衝撃をどう言葉にすればいい。貴方が無事だと知った時の喜びをどう表せば良い。
 自分は、どうしようもなく。
 壊れそうなくらいに、貴方を。
「ヒバリさん」
 貴方を。
「すき」
 囁いた声は風のように一瞬で流れて行く。音を紡いだ直後は素のままぼんやりとしていた綱吉だったけれど、一秒後にハッと息を呑んで口元に掌を押し当て、きょろきょろと挙動不審なまでに周囲を窺って誰もいないのをまたしても確認する。無論人の気配は皆無なのに先ほど以上に警戒心強くしながら冷や汗を拭って、徐々に赤く染まっていく顔を意識してまた体温が上昇した。
 言うつもりなど欠片も無かったのに、口が滑ったというのはこの事を指すのか。
 けれど認めてしまえば楽になる。言葉にして初めて気づく感情もある。やってしまった、という後悔と堪え切れなかったという気持ちが半々に入り混じり、綱吉は脊髄を登ってくる恥かしさに茹蛸になりながら両手で顔を覆い隠した。
 だから、直ぐに気づかなかった。
「それ、本当?」
 雲雀の目が、しっかりと天井を見上げて開かれていることに。
「へ?」
 唐突に聞こえてきたかのように、綱吉には受け止められた声。故に発した相手が誰であるのか即座に認識せぬまま、綱吉は間の抜けた声を出して目を見開いた。
「だから」
 頭の回転が悪い綱吉に若干の苛立ちを隠さない声が続く。両手を払いのけ、開いた隙間から覗いた景色には、首に角度を持たせ、枕に頭を委ねている雲雀の姿。
 闇よりも尚深く、湖面よりも尚穏やかな、そして太陽よりも鋭い光を放つ双眸が。
 綱吉を射抜く。
「え……?」
「今の、本当かって、聞いてるんだけど」
 聞こえてる? と問う口調は穏やかなようでもあり、怒りを含んでいるようにも聞こえて余計に綱吉を混乱させた。
 聞こえた? 聞かれた? ばれた? 知られた? 気づかれた? 
 嘘、本当に? どうして、なんで? わかんない。なんで?
 ばれちゃった。どうしよう、どうしよう。
 嫌われる? 嫌がられるよね? 気持ち悪いよね。冗談だと受け止めて。ねえ、笑い飛ばしちゃってくださいよ。
 なんで何も言わないの? 本気だと思ってる? 思われてる?
 どうしよう、逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げ……
「あ、え、ぅ、っとあ……」
 まともに回らない舌、言葉にならない音。腰が引ける身体、怯む背中、伸びきらない脚、地に着かない足、動かない頭、傾く。
 そういえば自分が、両足を椅子の上に持ち上げて座っていたのだという現実を、綱吉は今頃になって思い出した。
 ゆっくりと視界を白いものが流れて行く。重みの所為で先に流れて行く頭に、追いつかない両手が前方へ投げ出されて椅子ごと綱吉の身体は後方へと倒れていく。咄嗟に腕を伸ばした雲雀がその袖口を捕まえるが、勢いを多少なりとも持って重力に導かれている彼の身体を支えるには不十分な上、腹に力を入れようとして肋骨から痛みが発したらしく、雲雀の指はいとも容易く解けた。
 しまった、とどちらが先とも知らず思ったに違いない。枕から後頭部を浮かせた雲雀の前面で、綱吉は派手な音を掻き鳴らして椅子ごと床にひっくり返った。伸び上がった足の先から外れたスリッパが、楕円の軌道を描いて綱吉の顔に落ちる。しかも底面を下にして。
「ぶ」
 ぺち、と額を叩かれた。反射的に唇を尖らせて隙間から息を漏らして変な音を吐き出してしまい、綱吉はそのまま背中から頭にかけて襲っている鈍痛と、スリッパをまるでお札のように顔に載せている情況の恥かしさを同時に堪えなければならなかった。
 やや苦しげに息を漏らしながら身体を起こした雲雀が、右腕で胸部を庇う仕草を見せる。一方の綱吉も、いつまでも床に沈没しているわけにはいかず、スリッパを退かして床に手を着き、肘を突っぱねて上半身を起こした。
 転がった椅子と、脱げたもう片方のスリッパと、投げ出された自分の足しかまともに見られない。と、そこへ。
「病院では静かに願います!」
 バン! と、そちらこそ騒がしいのではないでしょうか、と言いたくなる剣幕で薄い紅色のナース服を身にまとった、少し太めの女性が扉を叩き開けて叫んで行った。本当に一言だけ、言いたいことだけを言い放ち、鼻息ひとつ荒く吐いて、開けた時同様壊れそうな勢いでドアを閉める。
 ぽかん、と見送る他どう反応すればいいものか。一瞬で駆け抜けていった暴風に唖然とさせられ、閉まったドアの騒音にビクリと身体全体で反応した綱吉は、だがこの闖入者のお陰で妙な冷静さを取り戻してしまった。
「お、……怒られちゃいましたね」
 ははは、と乾いた笑い声を立てて頭を撫でる。苦し紛れに誤魔化して今までのを無かったことにしたかったのに、細めた目で見詰めた雲雀はベッドの上で、ただ静かに綱吉を見ていた。
「で?」
 表情の読みにくい、何を考えているのか見当もつかない涼やかな表情。淡々とした物言いには凄みというか、迫力が感じられて元々小心者の綱吉を震え上がらせる。吸った息を吐く術を忘れ、片手を頭上にやったまま下ろすタイミングを逸した彼は、凍りついた笑みを浮かべたまま、長い時間をかけて肺から二酸化炭素を追い出した。
 右膝を曲げて、身体に寄せる。行き場をなくした反対の手が床を彷徨い、指先がスリッパの端に触れた。
 空気が重苦しく、押し潰されてしまいそうな気持ちになる。
「僕が聞いてるのは」
 答えを出さない限り、彼は永遠にこの話題を追及し続けるのだろうか。喉を大きく上下させて唾を飲み込んだ綱吉を前にして、雲雀は胸元を押さえていた腕を下ろす。
「本当か、嘘かってこと」
 雲雀に引っ張られた左手の袖が掌半分を覆っていて、彼の力でパジャマ全体が左側に寄せられてしまったのだと知る。彼に無理をさせてしまったかという懸念が真っ先に頭に浮かんで、二秒後彼は前準備もなく立ち上がった。
 半歩で詰まる距離を一瞬で埋め、ベッドサイドに両手をつく。僅かに片眉を持ち上げた雲雀の襟元から覗く包帯に、綱吉は痛々しい顔をして膝を崩した。
 人の話を全く聞いている気配がない綱吉を苛立ったのか、雲雀の手が伸ばされる。だが触れる寸前で躊躇したのは、綱吉が今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。中空で留まった指先が、僅かな逡巡の末に彼の左目尻へと降りて行く。
「ヒバリさん、痛いです……か?」
「痛くないよ」
 確かにさっきは内臓を抉られるような痛みを感じたが、今は姿勢も安定しているので問題ない。しかし言い方があまりにぶっきらぼう過ぎたのか、信じようとしない綱吉は雲雀の指先が勝手気ままに顔を弄るのも構わず、不審の目を向けた。
 僅かに尖っている唇を、雲雀の指が小突く。深い意図はないものの、瞳を揃えて下向けた綱吉の顔が赤くなるので、雲雀は薄い笑みを浮かべて手を離した。動きを、綱吉の薄茶色い瞳が追いかけていく。
「それで」
 恐らくは無意識なのだろう。綱吉に触れた指が持ち上がり、彼の顎を軽く引っ掻く。そのまま動き止んだそれは、非常に緩慢な動きで曲げていた背を伸ばし、窪みの形に添って伸び上がっていく。
 爪の先が、下唇に触れる。
「――――!」
 ぼっ、と綱吉の頭が本日二度目の噴火を果たした。
「聞いてる?」
「うえぇぇ……」
 返事が出来ない。耳の先まで赤くなった綱吉に肩を竦め、雲雀は上半身全体を屈めてベッド脇に沈んでいる綱吉に顔を近づける。僅かに痛みを訴えている肋骨は、この際無視を決め込んだ。
 ひっ、と喉を上擦らせる綱吉の声が耳に届く。雲雀は元から細い目をより一層細め、唇の隙間から白い牙を覗かせた。
「さっきの、嘘?」
 吐息が鼻にかかり、硬直した綱吉は瞬きも忘れて雲雀の綺麗な顔に見入る。
 どうやっても見逃してくれそうに無い雰囲気に指先が痙攣して、今頃になって膝が震えてきた。
「ヒバリさん……あの、いつ、から……?」
「元々うつらうつらしているだけ、だったんだけど」
 夢と現実の境目辺りを漂い、意識が薄い膜に覆われていただけ。完全な眠りでなければ、完全に目覚めてもない中途半端な状況で、時折乱れた水面から顔を覗かせてはまた沈む繰り返し。
 綱吉が部屋を訪れた時にも意識は浮上したが、彼が何かをするでもなく、ただ座って時間を過ごすだけだと知っていたから、そのまま再び意識を沈めて薄明かりの闇へと落ちた。とはいえ、あれだけ何度も名前を呼ばれたら流石に覚醒も早められるというもの。
 切なそうで、苦しそうで、哀しそうで、痛々しい声が、幾度と無く自分を呼んでいる。
 目覚めないわけが、ない。
「君の声が、五月蝿くてね」
「う……」
 そんなに大きな声で呼んだつもりはないけれど、枕元だったので案外響いたのかもしれない。それでなくとも静か過ぎる室内、互いの呼吸さえはっきりと耳が音を拾う距離感に、眩暈がする。
 右、左、下、上と彷徨った綱吉の視線が、結局行き場をなくして雲雀を正面から見返す。冴え冴えとした瞳には睡魔の欠片も感じられず、いいように遊ばれている自分を意識せずにいられない。震える声は、恐怖に彩られ聞く側もさぞかし愉快であろう。
「も、もし……うそ、だった……ら……?」
「咬み殺す」
 即答された、それも真顔で。
 脳が雲雀の発言を理解した瞬間、ヒィィと綱吉の全身を鳥肌が襲い髪の毛が逆立つ。口元は僅かに歪んで笑みを表しているのだろうが、目がどう見ても笑っておらず、頬をひくつかせた綱吉は笑い返すことさえ出来ないまま、全身の汗腺を開いて冷や汗に背中を濡らした。
 この人だったらそれくらい、やりかねない。しかも此処は病院なので、どれだけ怪我をしても直ぐに手当てしてもらえる環境が整っている。
 とは言え「本当」と返すにも勇気が要って、生唾を飲んだ綱吉は雲雀の指がその小さな喉仏を擽るのを黙って受け入れるしかなかった。
 だが、待てよ、と猫みたいに喉を弄られながら、綱吉は違う視点で自分の置かれている状況を見下ろした。そもそも雲雀が、綱吉のあの発言に固執する意味が分からない。綱吉を嫌いであれば無視するなり、追い出すなり、気味悪がるなりするだろう。綱吉の感情を拒絶する気持ちがあるのなら、真偽の程を確かめる必要性は、何処にも存在しない。
 では、何故。
 動揺から微かに立ち直った目で、改めて雲雀を見詰める。平静さを取り戻したその双眸に、雲雀はスッと目を細めて口角を持ち上げた。傷の残る親指の腹が綱吉の喉の窪みを擦り、喉仏の膨らみをそっと押す。僅かに感じ取られる圧迫感に、潰されたら命にもかかわりかねない急所を彼に握られて、綱吉の首筋に冷たい汗が伝った。
 残虐で残酷な、鋭利なナイフを思わせる瞳の色に見詰められ、心が恐怖に震えると同時に歓喜に溢れていくのを感じる。今この瞬間、彼の中にいるのは自分だけだという意識が、綱吉を総毛立たせた。
 ゴクリと喉を鳴らすと、その動きがダイレクトに雲雀へと伝わる。絡み合った視線を互いに外しもせず、数秒見詰め合った時間はともすれば永遠に近い時を思わせた。
「じゃあ……もし、ほんとう、て、言ったら……」
 蚊の泣くような心細い声。単語のひとつずつを切り取った台詞に、雲雀の指の動きが重なる。くすぐられる感覚は全身の感覚を鋭敏にし、血液は巡りを早めて予期せぬ場所に集約されようとしている。ドクン、と激しく鳴った心臓に、生々しく熱を感じた身体の一部位の浅ましさを堪え、綱吉はからからに渇いた喉で懸命に、掠れた言葉を紡ぐ。
 本当、だと言ったら。
 ヒバリさん、貴方は、どうしますか?
 嘘と言えば咬み殺される。本当だと認めれば、彼は。
「そうだね」
 喉を辿った指が綱吉の顎を上向かせる。不適に笑み彼をただ追いかける綱吉の目に、妖しいくらいに紅く濡れた彼の唇が映し出された。艶めかしい舌が楽しげに上唇を舐める。
 意識せずにいられない下肢に熱が降りて、綱吉は咄嗟に目を閉じた。
 心臓の音が五月蝿い。雲雀に聞こえそうなくらいに鳴り響くそれは、彼の指が綱吉の唇に触れた瞬間最高潮に達して、今にも破れるのではないかと彼の肝を冷やさせた。勝手に浮かんだ涙が目尻を濡らし、どうにか持ち上げた片方の瞼から零れていく。右目に触れた柔らかなものの感触にまた喉を引き攣らせると、耳元に熱い息が吹きかけられた。
 ささやきは、一瞬。
「良いことを教えてあげる」
 目を見開いた綱吉が、零れ落ちるばかりの瞳を咄嗟に雲雀に向けて、ややして緩く首を振った。それから両手で己の頭を抱え込み、もうひとつ首を振ってから、彼を見上げ直す。
 不適に笑む相手の感情は矢張り読み取りづらく、だが彼が半端な冗談を言う人間でないのは十分承知の上で、尚更困惑した綱吉は、今さっき耳が拾い上げた単語を幾度と無く脳内で反芻させ、魂に刻み込み、反駁しながら飲み込んだところで。
 三度目の火山が爆発した。
 雲雀が実に楽しげに笑っている。恨めしげな目で見詰めると、宥めるように生まれて初めてのキスはあっさりと奪われた。

 スキ?
 それ、本当? 

2006/12/5 脱稿