毎年思うのだが、この季節になると街も、人も、どこか浮かれ気分で華やいでいる気がする。
綱吉は暗くなった帰り道、住宅地で街灯も少ないのに妙に明るい道路を行きながら瞳を細めた。
道の両脇に並ぶ住宅のうちの何軒かが、軒下にツリーを飾ったり、ベランダに電飾をちりばめたりしている。それがチカチカと、色鮮やかに変化しながら明滅を繰り返していた。庭先の成木に電飾を巻きつけているものもあれば、サンタクロースが壁に張り付いている家も。毎年趣向を凝らし、段々と熱をあげているのが分かる入れ込みように、眺めるだけでクリスマス気分が味わえて綱吉はこの通りが好きだった。
自分の家でも出来れば楽しいだろうが、沢田家周辺にはこういったお遊びを好む家も少なく、一軒だけ浮いてしまうのは気が引けて、実行出来ずにいる。それに綱吉の美的センスでは、どうやってもちゃちな飾りつけにしかならないだろうし、何よりも電飾だって無料ではない。
結局、いいな、綺麗だな、羨ましいな、と思って眺めて道を通り過ぎるだけで、今年もリビングにツリーを出すだけで終わりそうだ。とは言えたったそれだけでもクリスマス気分にはなれるから、人間というものは案外調子が良い。
小さく肩を竦めてひとり笑い、綱吉は眩い電飾を見送って帰路を急ぐ。少し前まであれやこれや考えながら彷徨った街は、クリスマスムード一色に染まっていて、緑と赤が溢れかえっていた。
プレゼントを選びあうカップルの姿も多くて、彼らを遠巻きに眺めながら、自分もあんな風に堂々と歩けたら良いのにと思ってしまう。人前で手を繋ぐのも気が引ける、それでも大好きな相手は自分と同性だから、人の目はどうしても気になるのだ。
「あーあぁ」
吐き出した息が白い。ゆっくりと上に流れながら姿を薄くしていく吐息をもうひとつ繰り出し、ポケットに入れた手を揺すって綱吉は上空を仰いだ。勝手に足は止まり、街灯を浴びて幾方向へも伸びる影を踵で踏みつける。
もうじきやってくる、クリスマス。年に一度きりのお祭りで、聖人が生まれたという日。
この国はキリスト教徒も多くないので、どちらかと言えば皆でパーティーをしたり、恋人とふたりっきりで過ごしたりする日というイメージが強い。だから綱吉自身もあまり実感が沸かなかったのだが、獄寺がその日だけはミサに参列する、という話を聞いた時はとても意外に思ってしまった。
『何? それ』
『知らないんですか? 教会に行って賛美歌を斉唱して、キリストの血肉であるパンとワインを……』
『ああ、いい。なんか、良くわかんないし』
細かく説明を受けても、恐らくは全部理解出来ないと踏んだ綱吉は、長々と語りだしそうだった獄寺へ先手を打って次を封じた。彼は若干不満そうだったが、綱吉が力んだ表情をしているので小さく噴き出す。
『手っ取り早く言えば、要するに、教会にみんなで集まって、ちょっと眠くなるような話を聞くことです』
はは、と笑いながら言われて、それならばなんとなく理解できると綱吉は頷いた。どうも偉い人の話は眠くなる魔法が掛かっているのは万国共通のようで、綱吉は獄寺に笑い返す。
彼は緩く結んだマフラーの端を指で弄り、学校帰りの道をゆっくりと進む。手袋に包まれた綱吉の手は胸の前と身体の側面を行ったり来たり。お互い、何処と無く落ち着かない雰囲気を保ちながらも、そこから先の行動には移れぬまま、もう数ヶ月。
『日本のクリスマスは、なんだか騒がしいですね』
不意に呟かれた彼の言葉は、綱吉の脳天を素通りしてから、急ブレーキをかけて高速バックをしてきた。
『え?』
『いえ、なんとなく、なんですけど』
聞き返そうと顔を上げた綱吉にはにかんだ笑みを浮かべ、獄寺は自分が吐き出す息の白さに見とれながら歩調を緩めた。
街中の一般道だから、彼の言う騒がしい飾りつけは殆ど見受けられないけれど、その日が迫るにつれてラジオやテレビからはクリスマスソングが絶え間なく流れ、映像は各地の煌びやかなツリーやクリスマス風に装飾された建物を映し出す。
『イタリアも、そうなんじゃないの?』
『まぁ……そうかもしれないですが』
『?』
キリスト教の中心であるバチカンを内部に抱え、敬虔な信者も多いと思われるイタリアで生まれ育った彼にしては、妙に歯切れが悪い。獄寺なら本場のクリスマスを知っているとばかり考えていた綱吉は、不可思議そうな表情で首を傾げた。
獄寺が困ったように指先で頬を掻く。先に止まってしまった足に、綱吉は彼を追い越して距離が一メートルほど開いた。
『ほら、俺、ちょっと環境が特殊でしたし』
『あ……』
マフィアの家に生まれ、育てられながらも、異国の血が混じっているからという理由で差別を受けた。後継者になど興味は無かったようだが、誰からも期待されないし望まれもしないという状況は幼い彼をどれだけ傷つけただろう。
次第にその傷は彼の内部で大きく膨らみ、劣等感は大人に反発することで誤魔化した。屋敷を飛び出し、ひとりで生きていけるのだと突っぱね、仲間も無用と孤独を選び、自分の命さえ顧みずに、ただ勝つ事だけに執心した。
『屋敷にいた頃は、クリスマスも姉貴とふたりだけでしたし。その後は、……』
刹那的な生き方を選んだ彼には、年に一度しか訪れない日を前もって準備して祝う、だなんて発想も起こらなかったに違いない。一日、一日を生き延びるのに必死で、特別な日など持たず、己の誕生日すら忘れて。
在る一瞬に立ち止まって振り返った時、其処には何も無いと知る虚無感は忘れ難い。
眉間に寄せた皺を解かず、俯かせた瞳に自身の両手を広げて映し、獄寺は言いかけた言葉を呑み込んで首を横に振った。銀色の髪の毛が動きに合わせてステップを踏み、綱吉は迂闊にも、それが綺麗だと思ってしまった。
『そっ、か』
間に一呼吸置き、綱吉が相槌を打つ。だがそれ以上の言葉が何も浮かんでこなくて、曖昧に、笑っているのか哀しんでいるのか分からない表情を作る。二人の間に落ちた気まずい沈黙は、吹き荒ぶ冬の風に攫われて音も無く砕けた。
道半ばで立ち止まっている彼らを、邪魔だと言わんばかりに車がクラクションを掻き鳴らす。響いた警告音にハッと顔を上げ、綱吉は慌てて獄寺の腕を掴み、脇へと避けた。
徐行しながら通り抜ける車を見送り、息を吐く。
『ミサの後は、何かあるの?』
『ミサは大体夜ですから、後は帰って寝るだけですね』
『あ、そうか。夜なんだ……』
一緒に過ごせたら、なんていい出すきっかけも作れぬまま、再び会話は止まった。だが惰性で動き出した足は勝手に獄寺の自宅を目指して進み、幾つかの角を曲がって道を渡ったところで、トラブルも無くゴールに到達してしまった。
ポケットに入れた手で鍵を取り出した獄寺が、じゃあ、と別れの挨拶を切り出す。
『また、明日』
『あ、待って。獄寺君、あのさ』
何か、欲しいものはある?
一緒に過ごせないならば、せめて何か贈りたい。しかし本人に直接聞くのは嫌らしいだろうかと思い至って、綱吉は半端なところで言葉を止めてしまった。
マンションの入り口前で、獄寺が僅かに首を右に傾ける。
『十代目?』
『あ……あの、えと、最近、その……なにか、うん、だから、困ってること、とか……ある?』
胸の前で交差させた指を弄りながら、視線は何処かも分からない遠くへと向けて、綱吉がしどろもどろになりながら問う。
我ながらなんて情けないんだろうと思いつつも、言ってしまった言葉は撤回出来ず、目を丸くした獄寺の顔もまともに見返せない。もっと湾曲した表現を使えばいいものを、これでは獄寺だって返答に困ってしまう。実際、彼は数回瞬きを繰り返してから、困った風に表情を崩した。
力の抜けた顔つきで、息を吐く。
『困ったこと……そう、ですね』
持ち上げた手を丸め、顎に添える。少し考え込む仕草で瞼を薄く閉ざした彼は、ややしてから期待に胸膨らませる綱吉に悪戯っぽく笑ってウィンクを繰り出した。
今度は綱吉が、目を丸くする。
『十代目にそんな困った顔をされるのが、一番、困ってしまいますね』
手の先で口元を隠し、一呼吸置いた末喉を鳴らして声を殺しながら獄寺が笑った。一瞬、言われた内容が分からなかった綱吉だったけれど、数秒の間をおいてからかわれたのだと気付き、顔が真っ赤に染まった。それが余計に彼のツボにはまったらしく、今度は腹を抱えて声を立てて笑い出す。
公道に面した、人の出入りもあるマンションの入り口なだけに、声はよく響き通り過ぎる人は変な目でふたりを眺めていく。今度は青くなった綱吉が、どうしようかと両手を泳がせてから思い切って獄寺の肩をポカスカと殴って、やっとのことで涙目になった彼は身体を起こし、笑い止んだ。
『あー……はは、すみません。でも、十代目、本当に俺、今すごく幸せですから』
指先で目尻を擦り、まだ微かに残る笑いをこらえながら獄寺が、嘘だとはとても思えない笑顔を綱吉に向けた。心の底から幸せだと感じていて、見る側にも幸せを分け与えてくれるような、そんな満面の笑みを浮かべられて、気恥ずかしいやらなにやらで、綱吉はうっと息を詰まらせて慌てて視線を逸らしてしまう。
『そう、なんだ……』
『はい。十代目のお陰です』
臆面も無く素のまま言い放つ彼は、流石海外育ちと褒めるべきなのか、どうなのか。自分の心情を包み隠さず露にする彼の素直さを時に羨ましく思いながら、それ以上会話を続けることもなく綱吉は獄寺と別れた。
結局欲しい答えはもらえないまま、その足でひとり街に繰り出したものの、求めていたものの形には巡りあえず、時間は過ぎてタイムリミット。すっかり日も暮れた夜の住宅街は、人気はするのに音は外に漏れて来ず、とても寂しい。
己の影を睨みつけ、綱吉はコートのポケットに入れた両手をその状態で広げた。表面が指の形に膨らみ、そして元に戻る。握った指先はほんの少し体温を失い、悴んでいた。
「クリスマス、かぁ……」
せめて何か、記念になる品をと思ってあちこち見て回ってみたが、どれも似たり寄ったりで物珍しさに欠け、また心の琴線に触れるものが無かった。
獄寺が喜びそうなものを考えてみる。
アクセサリー、はよく身に着けている。だがそれらはどれも凝ったデザインが施されており、前に聞いたのに名前を忘れてしまったけれど、どこぞのお高いブランド品なのだという。格好いいのつけてるね、と話題を振った時に、このショップのデザインが大好きなのだと嬉しそうに話していた。
その後にこっそり雑誌を立ち読みして、該当するブランド品の値段を調べてみたけれど、キーホルダーひとつで綱吉の半年分の小遣いを余裕で上回っていて、とても自分で買える代物ではなかった。
どうせなら彼がお気に入りのものを、と思ったけれど、現実問題として高額出費は極力避けたいところ。アクセサリーは断然せざるを得ず、ならば他に何があるだろう、と色々悩んではみたものの。
服も、アクセサリー同様に彼は特定のブランド品を好んで着ているようで、シャツ一枚でも平気で諭吉が飛んでいく。文房具、は実用性が高いもののなんだか貧相に見えて却下。生活用品……もあまりに実用的すぎてムードが無い。一番喜ばれそうだとも思ったが。
ケーキ。甘いものはあまり好きではない。
コーヒーやエスプレッソ。豆の良し悪しが分からない。そもそも彼はエスプレッソメーカーを持っているのかも知らない。
何処かへ出掛けるのは、ふたりの時間がかみ合わず難しい。ミサに一緒に出ても良いだろうか、とも考えたが、途中で眠ってしまうだろう結末は目に見えていて、迷惑や恥をかけたくもないので却下。
「難しいなー」
暗い空を見上げ、呟く。星が殆ど見えない空には雲もなく、ただ藍色の闇が裾野を広げ町並みを多い尽くしていた。まるで今の自分の気持ちを表しているみたいで、憂鬱な気持ちに拍車を掛けられた綱吉は、片足を持ち上げて地面を蹴る。一緒になって動く影が滑稽で、皮肉に歪んだ口元を手で覆い隠し、肩を落とす。
まだ時間は残されている、その間に探せば良い。それは分かっているのだけれど、日に日に気ばかりが急いて考えは次第に散漫になり、落ち着かなさだけが増えていく。
日めくりカレンダーを千切り取らなければ明日はやって来ない、だなんておまじないも、効力を発揮するわけがなく。
大好きな君へ、せめて何か心に残るものを。
大切な君へ、一生記念に残るものを。
初めて君と迎える記念日を、数年後に思い出した時も懐かしいね、と笑えるものを、贈りたいのに。
一番素敵だと思える答えは、なかなか上手く見付からないよ。
今とても幸せだ、と言ってくれた彼へ、お礼の気持ちを込めたいのに、彼に相応しいと思える贈り物は、意地悪なカミサマが隠してしまったのか。
立ち止まっていても仕方が無い。歩を進め、自宅への道を急ぐ。既に夕食時は過ぎていて、空腹を訴える腹の虫に背中を押されたとも言える。脇に挟み持った鞄はずっしりと重く、交互に足を繰り出す動作は事務的で、それだけでなんだか生きていることが嫌になりそうだった。
「クリスマス、クリスマス」
そういえば、と歩きながら視線を持ち上げる。今まで誰かと一緒にこの日を過ごしたいだなんて、思ったこともなかったのだと気づかされる。
少ない友人、招かれるはずもないパーティー。いつだって自宅で、家族と一緒に地味に慎ましやかな、普段より少しだけ豪勢な夕食を囲んで、サンタクロースからの贈り物に胸躍らせながら眠りに就く。小学校高学年手前までは、本当にサンタクロースが世の中に実在すると信じていて、同級生から大笑いされたこともあった。
父親が行方知れずになってからは、プレゼントの質は少し下がった。眠気を堪えて正体を探ったサンタクロースが母親だった時は正直ショックだったけれど、やっぱりそうだったんだな、という気持ちも何処かにあって、その日は明け方まで眠れなかった。
彼は、そんな風に誰かからの贈り物を心待ちにすることなんて、無かったのかもしれない。
マフィアの子供は、恵まれた環境で欲しいものは何でも手に入って、我が儘し放題だと勝手な思い込みで決め付けていた節があった。ロンシャンはそんな調子に近いものがあるけれど、獄寺は違う。彼は欲しいものは自力で手に入れるタイプだ。誰かから恵んでもらおうだなんて、これっぽっちも思っちゃいない。
だから綱吉は迷う。彼に何を贈ればいいのかが、分からない。
次第に重くなる足取りと、間近に迫った自宅の門。見上げた自室に明かりは当然ながら灯っておらず、それが何故か、帰り着いたという実感を呼び起こさない。此処は他人の家で、自分の居場所は此処ではないと、胸に吹いた隙間風に心が震えた。
彼も昔は、こんな気持ちだったのだろうか。そう思うに至り、今すぐに彼を抱き締めたくなって、綱吉は居た堪れない気持ちのまま両腕で己自身を掻き抱いた。噛み鳴らした奥歯に響く鈍い痛みを堪え、足を引きずる調子で門を潜る。ただいま、の声の後には一瞬間があって「おかえり」と奈々が廊下に顔を出した。
「遅かったわね、寒かったでしょ」
出迎えてくれる人がいる現実の、このどうしようもないくらいのこの暖かさが嬉しくて、綱吉は泣き笑いの表情でコートを脱いだ。
そうして悶々と悩みながらも、残酷なまでに時間だけはどんどん過ぎていく。クリスマス本番まで指折り数えるまでもない僅かな猶予しか残されていない現実に打ちひしがれながら、増えたりしないのに貯金箱の中身を何度も数え直し、その度に溜息が零れる。
リボーンからは鬱陶しいと怒られ、近寄り難い雰囲気を醸し出しているからかランボたちも寄ってこない。本番前の最後の休日、机に頬杖を着いて窓から外を眺めて入れば、石焼芋のトラックが軽快なリズムで騒音を撒き散らす。
「あー、もうっ」
両腕を高く掲げ、勢い良く振り下ろす。殴りつけた机は遠慮なくダメージを拳に返してくれて、肘まで登ってきた痺れに綱吉はがっくりと頭を垂れた。
終業式も終わってしまったので、獄寺との接触は自分から繰り出すか、向こうの出方をただ待つだけか。学校でさりげなく、という演出はもう出来なくて、ここまでうじうじ悩んでいるくらいなら、いっそ安くても良いから使えそうなものを選べば良かったと後悔もひとしおだ。
それでも安易な気持ちで選びたくなかった。彼が幸せだと感じている今を、綱吉も大切にしたいから。
簡単に壊れたり、なくしたり、消えてしまうものではなくて、一生胸に刻み込めるようなものにしたい。出来れば自分も忘れなくて、獄寺も忘れなくて、気軽に身に着けられるもので、彼が受け取るのに躊躇しないもの、が。
「むー」
唇を尖らせて唸り、机に倒した腕に顔を埋める。首を横に向けて左を向いて、視界を埋める壁を恨めしげに睨みつける。
獄寺はあまりクリスマスに執着が無いようだ。もしかしたらわざと、なのかもしれないけれど、その話題に自分から積極的には触れようとせず、綱吉や周囲が話を向けてものらりくらりとかわしてしまう。長くひとりきりで過ごしてきたから、今更皆で盛大に、という雰囲気を敬遠しているのだろうか。それとも、他に誰か一緒に過ごす相手がいるのか。
いや、そんなはずが無い。そんなわけが無い。身体を起こし、そのまま背凭れに深く預けて頭を後ろへ。だらしなく垂らした指先は真っ直ぐに床を指し示し、伸ばした脚に押されて椅子のコマが少し流れた。
浮かべてしまった嫌な想像を打ち消そうと、綱吉は勢い任せに身体を起こした。頭が揺れ、軽い眩暈を覚える。くらり、と来た身体を支えようと咄嗟に片手を机の端に乗せるが、掴むところまで力が入らずに滑ったそれは引き出しの取っ手に引っかかって止まった。崩れ行く身体に引きずられ、銀色の金具ごと木製の引き出しが前面にせり出す。
折れ曲がった膝が床につき、布地が薄い皮膚に食い込んだ。片方の眉毛を持ち上げて顔を顰めさせた綱吉は、変な方向を向いて鈍い痛みを放っている指を金具から抜き、反対の手で宥めるように皮膚をそっと撫でだ。
今度こそ立ち上がる。意図せず開けてしまった引き出しを閉めようと掌を裏向かせ、木目のそれに押し当てた。だが落とした視線が引き出し内部の、ごちゃごちゃと整理もせずに放り込まれているもののひとつに留まり、力なく開かれていた唇が唐突に真一文字を結んだ。
「あー……」
ストン、と胸に落ちてきた答え。折角立ち上がったのにまた手を机上に残したまま両膝を崩して額を角に押し付けた綱吉は、遠回りをしすぎた己の思考回路に激しい自己嫌悪を覚える。ガン、と音が響くまで頭で机を叩き、その痛みに暫く悶絶してから、気を取り直して再度立ち上がる。
道が開けた以上、進まなければ。時間が勿体無い、と綱吉は上着と財布を掴んで部屋を出た。
開けっ放しの引き出し、大事なものと、そうでないものの間に紛れ込んでいるもの。
みんなで夏に出掛けた海、並んで撮った記念写真。笑っている、自分、山本、獄寺、ハル、京子、リボーン。
みんな、みんな一緒に、笑顔で。
写真を撮ろう、今から。
みんなを呼んで、集まって、特別な格好なんて必要ない。気取らなくて良い、構えなくて良いから。
ありのままの自分で、いつまでも笑っていよう。
大切な君のために、大好きな君のために。
君が笑顔を忘れないように。君がいつでも笑っていられるように。
笑おう。たくさん、たくさん、笑おう。
今日という日を忘れないように、思い出に刻めるくらいに。大好きだと胸を張れるように、幸せだと言い切れるように。
今日の幸せが明日にも続くように。永遠に、続きますように。
君のいる世界を、君といる世界を、刻もう。
「母さん、カメラどこー?」
階段を駆け下りながら叫ぶ。
響き渡る足音を攫い、風が吹いた。
大切な、誰よりも大切な君へ。
今を、遺そう――――
2006/12/7 脱稿