前路

 中学入学と同時に通らなくなった、小学校への通学路。
 ほんの少し前までは、毎日のように通っていたというのに、卒業してしまうと案外呆気なく、この道とは縁が切れてしまった。
 錆び付いていて渡るのが怖かった歩道橋、交通量が多いのに信号のない交差点、草が生え放題だった空き地、よく吼える犬のいる家。同じ時間、同じ場所に立って通学を見守ってくれていたお爺さん、箒を片手に道を掃除しているおばさん、ジョギングを欠かさないおじさんに、散歩途中のお年寄り二人連れ。
 挨拶をすれば返してくれる人がいたし、向こうから挨拶をしてくれる人も大勢いた。面倒くさいな、と内心思いながら通い続けた道だったのに、卒業証書を胸に抱いて帰ったのを最後に、一度も通らなくなっていたことを今思い出した。
 商店街へ行くのには遠回りで、中学校に行く道順ではない。駅は学校の反対側、小学校の周辺は住宅地で綱吉が出向くような店も無い。
 足は遠退き、訪れる理由もないままに月日は流れる。
「あれ、ここ確か、……なんだっけ」
 アスファルトに引かれた白線の内側で脚を止めた綱吉は、記憶の端に引っかかった建物を見上げて微かに顔を顰めさせた。
 ここにこんなマンションは建っていただろうか。明らかに新築を思わせる風合いの壁と、金色のプレートに刻まれたマンションの豪華すぎる名前には覚えがなくて、首を捻る。後ろを、規定速度を確実にオーバーしている車が走り抜けて行った。
 排気ガスがその場に残り、小さな渦を巻いて綱吉に襲い掛かる。持ち上げた腕で口と鼻を押さえた彼は、険しい表情で過ぎ去った後の車を睨み、布越しに息を吸いこんだ。丁度マンションからは若いスーツ姿の女性が出てくるところで、入り口を半分塞ぐようにして立っている綱吉を迷惑そうに見てから、ワザとらしく肩をぶつけて去っていった。勿論謝りもしなければ、振り返りもしない。
 知らない女性、見たこともない。けれど折角の美人なのに悪い印象しか綱吉には残らなくて、損をした気分になる。
 日曜日の、午後。
 特に出掛ける予定もなくて、気が緩んでいたのだろう。目覚めたのは午前も残すところあと一時間とか、そういう時間帯。母親は買い物に出ているのか不在で、騒がしい子供達も奈々が連れて行ったのか姿が無かった。ビアンキは数日前から、新しい食材を探すとかで出掛けている。
 だから静まり返った台所で、ひとり寂しく冷めた朝食を胃に押し流した後、昼からどうしようか、と考えている間に十二時を過ぎていた。奈々はまだ帰らなくて、ゴミが散らかる自室で暇潰しにゲームでもやろうかと思ったものの、手持ちのソフトは全てクリア済みだし、レースゲームもひとりでやるのは虚しすぎる。
 宿題をやるには気力が足りず、ベッドに寝転がっても起きたばかりなので眠くない。自堕落にだらだらと時間が過ぎるのを待っているところを見付かったら、またリボーンにどんな小言を言われるか分からない。誰かと遊びに行こうかとコードレスフォンを手に部屋を右往左往してみたが、山本は野球部の練習試合だと言っていたし、獄寺は自宅の電話も携帯にも出なかった。
 家にひとりきり。退屈。
 だから鍵を掛けて、出掛けることにした。目的地は特に定めぬまま、腕時計と上着と、中身の薄い財布だけを持って、ぶらぶらと自分の住む町を歩いてみようと思った。
 それでも完全に知らない場所をひとりで、地図もなしに歩き回るのは不安で、ならば久しく足を向けていない場所を訪れてみようと選んだ先が、小学校の通学路。
 それほど遠くない距離、珍しくも無い景色。ただ矢張り時間の流れを感じさせる、記憶の中の景色と完全に合致しない周囲。先のマンションもそのうちのひとつで、何より綱吉に衝撃的だったのは、毎日眺めていたはずなのに、マンションの前にここにあったものが何であったか、思い出せないことだった。
 見ているようで、案外見ていない。見えているようで、意外と見えていない。
 ランドセルを背負って歩く自分の姿は思い浮かぶのに、その目が見詰める先は己の足元ばかりで、視界は紺と黒が入り混じったアスファルトに埋め尽くされている。
 少し、哀しい気持ちになった。
「行こう」
 このままじっとしていても仕方が無い。また住人に変な顔をされるのも嫌で、綱吉は歩き出した。
 駄菓子も置いていて、学校帰りにこっそり買い食いをした文房具屋はシャッターが閉まっていた。日曜日だからなのか、それとも店番をしていたお婆さんがもういなくなってしまったのかは分からないが、くすんだ色をしたシャッターに描かれた、かすれ気味の店の名前がどこか懐かしい。
 低学年の頃友達だった子のアパートは、数年前に家事になってその子も引っ越してしまって以後音信不通。長い間思い出しもしなかった相手の顔が、こんな時だけは音声付きで妙にはっきりと思いだせるのだから、人間の記憶力なんてあてにならない。
 彼は元気にしているだろうか。爪先に目線を落とし、その脇で咲く花に気付く。軒先に並んだプランターで、少し狭そうにしながら緑の葉を広げている花の名前は、いつだったか誰かに教わった気がするのに、今度はちっとも浮かんでこない。
 視線を持ち上げる。小学校の校舎とそれを囲む灰色のブロック塀が、手前の建物の影で少しだけはみ出しているのが見えた。
 当初の目的地まで、あと少し。腕に巻いた時計を見れば、まだ一時に達するどころか、十二時半にさえなっていなかった。交通量は日曜日の住宅街だからかかなり少なく、閑散として音も殆ど響かない。いくらゆっくりめに歩いてきたとはいえ、暇潰しにもならなくて綱吉は頭を悩ませた。
 昼食を必要とする程空腹でもなく、小学校の外側をぐるりと回って家に戻ってもやることは無い。奈々はさすがにもう帰っているだろうか、子供達がいれば多少時間は潰せるだろうけれど、それにだって限界はある。リボーンの小言も出来れば避けたい。
 それでも、行き先は見付からない。
 繁華街へ出るには電車を利用するか、バス。しかし行ったところで目的地は定まらない。ぶらぶらと歩き回るだけで十分とは思うが、決して安くない交通費で元から薄い財布を更に薄くするのも気が引ける。
「中途半端なんだよなー」
 頭を掻き毟っての呟きに呼応するかのように、電信柱の天辺に停まった烏がひと鳴きした。
 なんだか馬鹿にされた気分で、綱吉は足元の石を蹴り飛ばす。数回跳ねて路肩の排水溝に落ちた石を見送らずに再び歩き出して、大きめの交差点を渡ろうと左右を確かめる。此処は事故も多いのに、未だに信号が設置されずに放置されていて、綱吉も何度かヒヤリとさせられたことがある。だが車の数は明らかに少なく、タイミングを計れば呆気ないほど簡単に道を渡れてしまった。
 小学校の外壁が近い。こうやって見上げると、昔はとても大きな建物だと思っていたのに、中学校の校舎を見慣れてしまったからだろうか、随分と貧弱で小さく映るから不思議だった。
 単純に、自分がランドセルを背負っていた頃よりも身長が、若干ではあるものの伸びているだけ、かもしれないけれど。
 自転車に乗った女性の姿が増えた気がする。器用に綱吉を避けて進んでいく彼女達の中に奈々はいないだろうか、と視線を巡らせてから、そんなわけないよな、と彼は肩を竦めた。
 小学校近くには食料品や生活雑貨を扱ったスーパーがある。しかし駅前に大型スーパーが出来て以降、客足は鈍る一方だった。安売りの広告が時々新聞に挟まれているのを見たことがあるが、単色刷りかせいぜい二色刷りで、大判カラー広告を使ってくる大型店相手ではどうしても見栄えが悪い。
 それでも稀に、他よりも安く販売されていることもあって、奈々はごくたまに利用しているらしい。そして綱吉は、小学校低学年の頃に奈々の買い物に付き合って以降、店に立ち入ったことはなかった。
 今日は何かの特売日なのだろうか、人の出入りはそれなりにあるようだ。
「あれ?」
 物珍しげに、遠巻きにスーパーの入り口を眺めていた綱吉は、ふとある事に気付いて首を傾げる。動きの悪そうな自動ドアを抜けて出てくる人の中に、見慣れた人物の姿があったからだ。
 膨らんだこげ茶色の布袋、それから印としてテープを大きく張られた白い中身の透けた袋を右手に提げ、左手は落ち着き無く胸ポケットを弄っている。恐らくもうじき煙草が出てくるはずで、予想通り片手で器用に一本抜き取った彼は即座に咥えると箱と入れ替わりにライターを引っ張り出した。
 出口を塞がぬように横に避け、単純な仕草で煙草に火を灯す。気持ちよさそうに煙をひとつ吐き出した彼は、綱吉が近くにいるのに気づく気配もない。
 こんなところで、何をやっているのだろう。彼の家はこの近所ではなかったはずなのだが、といぶかしみながら綱吉は歩を進め、クラスメイトの名前を呼んだ。
「獄寺君?」
「あぁ? ……ってじゅ、じゅうだいめっ!」
 人が一服している時に話しかける不届き者は誰だ、と言いたげな態度の悪い返事の直後、鋭かった彼の目が綱吉の姿を写し取った瞬間、なにもそこまでと綱吉が引きそうになるくらいに彼は大袈裟に驚いた。抓んでいた煙草の火を危うく手で握り潰しそうになり、熱さにまたしても驚いた彼は「あちち」と口走って左手を大きく振り回す。落ちた煙草はガンガンと何度も靴の裏で踏み潰して、どうにか落ち着いた頃には周囲に小さな人垣が出来ていた。
 先に気付いた綱吉が、遅れて気付いた獄寺が、揃って顔を赤くして俯く。くすくすという笑い声は各所から聞こえてきて、自分は関係ないはずなのに綱吉は穴があったら入りたい気分だった。
「すいません十代目、まさかこのような場所にいらっしゃるとは思わなくて」
 人の気配が遠ざかったところで、獄寺は気を取り直すように両手を広げて弁明する。一瞬だけ見せた、全てが敵だと言い放つ瞳の鋭さは完全に消え去り、柔和で穏やかな表情は綱吉を安心させた。正直、触れればこちらが傷つきそうな顔をした獄寺は、今でも怖い。
「ううん、こっちこそいきなり声かけたから」
 驚かせてしまったことを素直に詫びる綱吉に対し、獄寺はどこまでも低姿勢を貫く。綱吉は悪くない、自分が全て悪いのだと言い張る彼に苦笑を禁じえず、綱吉は困った表情で彼を見返した。
 友達としてもっと対等でいたいのに、獄寺はいつだって綱吉を持ち上げるばかりでその逆を許してくれない。その上綱吉に危害が加えられようものなら容赦なく、相手が誰であろうと牙を剥く。特に山本に対しての対抗意識は郡を抜いていて、仲良くして欲しいのに間に立たされる綱吉はいつだって心休まることが無い。
 どちらが悪いかの話は堂々巡りに差し掛かっていて、綱吉は疲れて来たと溜息を零すと強引に話題を切り替えた。荷物を握りなおした獄寺の、その手が持つものを見下ろす。
「トイレット、ペーパー……」
 本音として、とても、彼に似合わない。
「どうしたの?」
「知らないんすか? 今日、特売日っすよ」
 蚤の市で掘り出し物を見つけた人の顔で、獄寺が嬉しそうにトイレットペーパーが入った袋を持ち上げる。黄色い購入済みのシールが貼られているそれは、成る程、スーパーから出てくる人も大体同じものを持っている。
 しかしまさか、彼は、わざわざこのためだけに自宅から歩いてきたのだろうか。綱吉の素朴な疑問に、彼はむしろ何故そんな事を聞くのかという顔をする。
「いや、これかなり安かったですよ?」
 生活感がありすぎる発言に、綱吉は自分が抱いていた獄寺のイメージが音を立てて瓦解していくのを感じた。こんなにもマフィアが庶民臭くて良いのだろうか、と考え至ったところで自分も十分庶民臭漂っているのを思い出して余計落ち込む。ディーノにも初対面の時に散々言われたではないか、オーラがない、と。
 兎も角マフィアには怖いイメージがついて回るので、その影響を過分に受けて拒絶する方向に思考が働く綱吉にしてみれば、目の前にいる獄寺など、どこをどう見てもマフィア構成員だと分からない。
 彼はひとり暮らしだから、身の回りの生活雑貨も、食料も、自分で用意したり補充したりしなければならないのだろう。母親がいて、彼女に世話の大部分を依存している綱吉とは、そこが大きく違っている。彼が思いの外しっかりしているのも、この辺りに理由があるのかもしれない。
「それより、十代目こそ。こんなところで何を?」
 庶民臭い会話がひと段落したところで、獄寺が腕を下ろして綱吉に問う。何をしていたのか、と聞かれてもただ適当に歩いていただけで理由なんてない。偶々通り掛ったところに獄寺の姿を見つけたので、声をかけたまで。正直に答えてから、綱吉は獄寺が電話に出なかった理由も併せて聞いた。
 言われた当人は、目を丸くしてから慌ててズボンの後ろポケットを手で弄る。いつもなら其処に在る筈の膨らみが存在しないのに、彼は漸く気付いたようだ。
「ああ……っ。すみません十代目、折角お電話を頂いたというのに、携帯電話を忘れてきています……」
 一生の不覚、とまで呟いて本気で落ち込んでいる素振りの獄寺に、用事があったわけではないから気にするなと告げ、綱吉は彼の肩を軽く叩いた。さっきから彼を宥めるのが綱吉の仕事になっていて、恥かしいやら照れ臭いやら。
 時折とても大人びた雰囲気を醸し出すくせに、誰かに喧嘩を売る時は子供の理論を振りかざしたり、目上相手でも遠慮がなかったり。かと思えばいきなり腰が低くなって平伏せんばかりの勢いを見せる彼の感情は、とても起伏が激しくて傍に居ると見ていて飽きないが、時としてとても疲れてしまう。
 でもそれは、獄寺が自分にどこまでも正直だからこそ。本音を押し殺し、他人の顔色を窺ってばかりいた綱吉には、彼がとても眩しく映る。
「十代目?」
「ううん。なんでもない」
 じっと見上げていたら獄寺に変な顔をされてしまった。慌てて首を横に振り、瞳を伏せて小声で返す。
 人の微かなざわめきは背中越しに、開閉が繰り返される自動ドアからは店内で流れている軽妙な音楽が。左側の道路には稀に車が走りぬけ、また自転車が何台も通り過ぎていった。
 日々代わり映えのしない、ごく平凡な日常が広がっている。ただ、経営不振で立ち退いた工場跡地には建売住宅が並び、スーパーの外観は幾分草臥れて霞んでいる。夏場になればトウモロコシが一杯に実っていた畑が無くなり、壁の高い一戸建てが居を構えていた。
 たった数年で世界は様々に変わった。綱吉の日常も大きく変貌を遂げ、騒がしくなった反面、ひとりきりで過ごす自由な時間は減った。欲しくてたまらなかった友人や、弟のような存在を手に入れたというのに、一人っ子だった静けさが今は懐かしくもある。
 なんて身勝手な想いだろう。
「そこ、小学校あるの、見える?」
 考えてしまった内容を忘れたくて、綱吉はわざと声に力をこめて背後を振り返った。促されるままに獄寺も目線を持ち上げ、建物に隠れ気味になっている灰色の壁とくすんだ色をした窓を見やった。それから妙に納得した風に「ああ」と呟く。
「あれ、小学校だったんですね」
「何だと思ってたの?」
「収容所か、何かかと」
 どこまでも獄寺は正直だ。率直過ぎる、しかし予想外の返答に、綱吉は目を丸くして絶句した。
 灰色の壁に囲まれた建物に、転落防止用に上階の窓には金網が設置されている為、見方を変えればそう思えてしまうかもしれない。自分では考えてもみなかった獄寺の発想に、綱吉は深く頷いてから嘗ての学び舎を改めて眺めた。
 古い外観、補修を繰り返した形跡がそこかしこに残っている。ゆっくりと近づけば首を逸らせて見上げる場所に建物は聳え立っているのに、今は不審者を警戒して正門を潜り抜けるにも許可を取らなければならない。卒業生だと言い張っても即座に納得してもらえない環境を、綱吉は悲しいと思う。
 小学校在学年代をイタリアで過ごしている獄寺は、物珍しそうに冷たい色合いの校舎を眺めてから、ある瞬間綱吉を振り返った。
「ちょっと入っていきますか?」
 彼は現在の小学校を取り巻く問題を知らないから、簡単に言えるのだろう。突然すぎて驚いてしまい、反応が鈍った綱吉だったが、直ぐに平静さを取り戻すと若干哀しげに瞼を閉じ、緩く首を振って拒否を表す。
 意外そうに唇を広げ片眉を持ち上げた獄寺だったが、綱吉の雰囲気を悟ってか何も言わずに口を閉じた。
 校舎に阻まれて見えないグラウンドでは、町内会の野球チームが練習でもしているのだろうか。時折けたたましいまでの掛け声や、バッドにボールが当たる快音が聞こえてくる。本当はあの中に混じりたかったのに、天性の運動オンチから練習でさえ皆の足を引っ張り、仲間は気にするなと言ってくれてもその親達の視線が突き刺さるのが怖くて、数回参加しただけで辞めてしまった苦い記憶が蘇る。
 使い込まれることもなく、父親が行方知れずになってからは一度も手に嵌めていないグローブは、今も物置の何処かに眠っているのだろうか。
「……れは、十代目の」
「――え?」
 暗い顔をして、胸の奥で疼く微かな傷に意識を向けていた綱吉は、間近で獄寺が何かを喋っているのに気付くのが一瞬遅れた。見上げた先で、白い鉄格子にも似た門を背景にした獄寺がいる。
 毎日見ていた過去の記憶にある光景の、その何処にも重ならない彼の姿。
「昔の姿とか、何も、知らないんですよね」
 しみじみと呟いて、彼は綱吉から校舎の屋上方面へと視線を流した。穏やかに見える彼の横顔は、しかし何処と無くとても寂しげに感じられる。
 綱吉だって獄寺の幼少時を知らない、条件は同じ。けれど今、自分達は日本という国にいて、過去をこの国で過ごしたのは綱吉だけ。同じものを見上げていても捉え方や考え方はまるで異なり、そして綱吉の目を通して語られる内容が、この国の真実。
 獄寺が感じる寂しさは、彼がまだこの国に完全に染まりきっていないことから起きる、文化の違いに起因しているのか。
「何も面白いことなんてないよ」
 小さく肩を竦めた綱吉を横目に見て、獄寺は持っている鞄を握り直す。物憂げな瞳から読み取れる感情は少なく、続ける言葉を捜して綱吉は誤魔化すように反対側の道路を向いた。走り去っていく車の起こした風が、獄寺の長く伸びた毛先を揺らしている。
 道路の向こう側も、景観は大分変わってしまった。変わっていないところも無論あるものの、全く同じとはとても言い得ない。
 瞳を細めて何も言わない綱吉を改めて見詰めた獄寺は、持ち上げた片手で自分の項を爪で引っ掻く。持て余し気味の、しかし名前の無い感情に胸の中がもやもやと渦を巻いていて、どうも落ち着かなかった。
 踵を軸にして身体を反転させ、彼は唐突に歩き出す。二歩目を踏み出したところで綱吉が振り返り、予告無く開いていた自分達の距離に慌てて後を追いかけて来た。
「どうかした?」
「いえ……」
 獄寺はこの道の過去を知らない。綱吉と同じものを見上げても、それを懐かしいとは思わない。この差は決して覆らないと理解できても、釈然としない気持ちは治まらなかった。
 自分といる時は、自分の知らない話をしないで。言えたならいいのに、そんな我が儘を綱吉相手に貫けなくて、余計自分を腹立たしく思いながら獄寺は足元の小石を電信柱目掛けて蹴り飛ばした。
 獄寺が何も言わないので、仕方なく綱吉は背中で両手の指先を絡ませて並んで歩き出す。車が時々通るのでなるべく端に寄りながら、時々ふらついた綱吉の肩が獄寺の腕に当たる。それでも獄寺は自分から話を振ろうとせず、自宅を目指して歩くので綱吉も家に帰らずに済むからと彼の横を進んだ。
 信号が赤に変わる。横断歩道の手前で足を止めた獄寺の前を、軽トラックがゆっくり走り出す。ペンキが剥げ落ちかけた会社の名前、遠くに見える看板。何処かで響いている救急車の音、獄寺の呼吸。
 この辺りも大分変わった。綱吉が何気なく呟く。
 そうですか。返す獄寺の相槌は素っ気無い。
 うん。綱吉が頷く。その手が僅かな角度を持ち、獄寺が持つ荷物に触れた。
「片方持とうか?」
 信号が青に変わる。獄寺は最初の一歩を出し損ね、持ち手を掴んだままだった綱吉が歩き出そうとしていた為に、左右から引っ張られた布鞄が切なげな悲鳴を上げた。
「あっ、ごめ……」
「いえ、平気っす」
 咄嗟に手を放した綱吉に小さく笑いかけ、獄寺は荷物を抱え直す。気まずそうに俯いた綱吉の肩を叩き、獄寺は促して交差点を渡った。最後の一歩で段差を乗り越え、歩道へと戻る。角は個人医院のようで、銀色の手摺りを設けたスロープが延びている。今日は休みなのか、ドアにある覗き窓の内側はカーテンが引かれて見えなかった。
 再び手持ち無沙汰に戻った綱吉は、臍の下辺りで重ねた掌の指先をあげたり下げたりしながら、今一度何の変哲も無い住宅街の光景を眺めた。
 記憶の中にあるもの、無いもの。覚えているもの、そうでないもの。過去と今とを比較しながら、けれどやがて、それが意味の無い行為だと思い至る。
 時間は願っても祈っても求めても、誰の身にも均等に訪れて去っていく。変わって行くのは必然、過去を懐かしむのは無駄ではないが、過去ばかりを追い求めてもそこに未来はない。
「どんどん……変わって行くんだろうな」
 感慨深く呟かれた綱吉の言葉に、獄寺は顔を上げて彼の横顔を盗み見た。静かな輝きを湛えた湖面を思わせる双眸は、遠く遥か彼方を見詰めている。
 変わるもの、変わらぬもの。
 変わってゆくもの、変えられないもの。
 変えたくないもの――
 十年後、自分達がどうなっているのかなんて、分からない。生きているのか、死んでしまっているか、元気でいるか、笑っているか。
 分からない、先のことなんて。
 でも、今の自分たちが、言えることは。
 深く息を吐く。胸の奥底にわだかまっていたものを全部洗い流して、獄寺は少しの間目を閉じ、光をそこに見つけた。
 獄寺の空いている手が宙を掻き、綱吉の手が泳ぐ。再びぶつかった肩と腕と、しかしお互い言葉を交し合ったわけでもないまま、触れ合った指先がそのまま交錯して絡み合う。
 綱吉の頬が僅かに赤く染まる。獄寺の目線が高い位置を彷徨った後、自分の爪先を見下ろして、やがて揃って顔を向けて笑った。
「変わらないものも、あると思います」
 雲の隙間から陽射しが覗く。白いカーテンのように、幾つもの筋が地表を照らしているのが見えた。
「……たとえば?」
 一呼吸置いて、綱吉が真っ直ぐな目で獄寺の顔を覗き込んだ。握り合った手に、どちらからともなく力が篭る。
「そうですね」
 わざと言葉を濁し、もったいぶらせて、獄寺は視線を彼方へと転じた。
 重ならなかった過去の時間を追い縋るより、今この一瞬から始まる未来を積み重ねようと思う。いつか思い出した時、胸を張れる時間を築いていこう。
 そして願わくば、貴方の中に眠る記憶のパズルに、ひとつでも多く、自分がいるピースが増えますように。
「たとえば――」

 ――貴方の隣に俺がいる、この光景はきっと、永遠に――