春嵐 第二夜・後

 見送った綱吉が、まだ泣いているランボの頭を撫でる。もじゃもじゃの髪に隠れ気味の額にそっと口づけて、ごめんね、と人のものではない言葉で彼に謝った。
「その様子だと」
 いつ、どこから見ていたのか、綱吉の後ろへ近づきながら雲雀が言う。振り返りもしなかった綱吉は、自分が試した事の結果を悔いた。後味が悪い。
「神気に障るみたいだね、彼」
「ランボも……嫌がってる」
 獄寺が去り、周囲は静寂を取り戻す。ランボも落ち着いたのか、綱吉に甘えてはいるものの、涙はもう流されていない。雲雀にはその様が見えないものの、周辺の空気のざわめき具合から、それとなく察したようだ。
 獄寺の様子は明らかにおかしかった。ランボを連れた綱吉が近づくのを拒み、逃げるように去っていったのが何よりも証拠。倒れた神木の芽から生まれ落ちた、先代神木の霊力を受け継いだ上で雷の力を食らった精霊の魂の清浄さは、人には無害であるけれど、それ以外の存在には激しい苦痛を与えるものとなる。
「鬼ではない、と思うんです。でも……俺には分からない」
「なんにせよ、本人に白状させれば手っ取り早いよ。本家から遣わされたっていうのも、どこまで本当なんだか」
「乱暴な事は、しないでください」
「若木の精霊を金糸雀にしたくせに?」
「……ランボ、御免ね」
 ぐっと息を詰まらせて反論を封じ込められた綱吉が、短く息を吐いて胸元の精霊を繰り返し撫でる。雲雀の目には、うつむき加減の綱吉が何も無い自分の胸元に手を這わせているようにしか映らない。
 自分と彼が見つめるものが大きく違っている、その現実は時として雲雀の気持ちを大きく掻き乱す。彼は薄雲が伸びる空を見上げた後、身体を反転させて井戸の釣瓶を引き上げた。澄んだ水を湛えた桶を、立てかけてあった空の桶に移し替え、綱吉の前まで戻るといきなり中身を地面にひっくり返した。
 急な事に綱吉は驚き、ランボごと腕を縮めこませる。引きつった肩と頬に、締め付けられたランボがぎゅえ、と呻いた。
 雲雀が撒いた水は綱吉を中心にして乾いた地面に円を描き出していた。繋がりきらなかった最後の一線は、新たに汲み直した水で書き足して、最後に雲雀は綱吉へと手を差し出した。
「榊」
「え?」
「持ってるだろ」
 昨日、獄寺が里に下りている間に雲雀と綱吉がやったのは、摘んできたばかりの榊の枝を家の各所に配し、塩を盛って結界を強化するという作業だった。獄寺が放つ毒気に、本人はおそらく気づいていない。雲雀や一般人の奈々への影響はまだ微弱だが、感覚が鋭い綱吉には相当堪える。だから獄寺不在の間に、毒気の抜け道を先に設け、綱吉はそこへ極力近づかないようにする事になった。
 更に綱吉は常に朝の露に濡れた榊の枝を毎日取り替えて持ち歩き、獄寺と接する時は雲雀かリボーンか、誰かと一緒にという取り決めも秘密裏に結ばれた。獄寺の毒気の正体が分からない以上、処置の施しようが無いのが実情。だから避けられる分は、出来るところからやって、自衛する。
 雲雀の手が綱吉の顔の前で振られる。今朝方雲雀が持ってきた榊は、今も彼の胸元にある。思い出した綱吉は、ランボの拘束を緩めて左手を合わせの内側に滑らせた。絹の袋に納められた緑の葉を取り出す。
 黙って受け取った雲雀は、袋の口を緩めて濃く鮮やかな表面をしている、肉厚の葉を一枚千切った。残りを袋に戻し、綱吉に返す。それからもう一度水を汲み直し、汚れのない水に榊の葉を浸した。
 葉の表面で軽く水を掬い取る。彼はそれを持ち上げて、己の口に含ませた。
「ヒバリさん?」
 雲雀の背中に、綱吉の訝しげな声がかけられる。彼は水を咥内に含んでいる為に言葉を返さず、口の端で挟んだ榊の葉を指で掠め取る。無言のまま水で描いた輪を大股に乗り越え、綱吉の眼前に立った。
 上背のある彼のおかげで、綱吉の上に大きな影が落ちる。親指を口にくわえ、人間の赤子と同じ仕草をするランボにもまた、雲雀の生み出す濃い影が被さった。彼の腕が伸び、榊の葉で綱吉の喉が擽られる。ふっ、と吐き出した息に幼い喉仏が浅く上下した。
「ん……」
 何をされるか、なんて、考えるまでもない。雲雀の指が促すままに上を向いた綱吉は、そのまま瞼を下ろし、目を閉じた。ランボの頭を掌で押さえて、彼の顔を胸に押し当てて視界を塞ぐ。色を濃くした影が、綱吉の顔を隠した。
 榊の葉がくすぐったい。笑おうとした綱吉の唇に、暖かなものが触れる。鼻で息を吐き、同じく吸い込む空気に淡い水の匂いが感じられた。
「ぅ、んぅ……」
 唇を割って差し込まれる熱い舌に乗り、冷たい井戸水が喉へと流し込まれる。飲み下しきれない分が口角を割って顎を伝い、細く頼りない首筋に小さな川を作り出した。咥内が、喉が、そして身体全体が、雲雀から渡される冷水と彼の霊気によって浄化されていくのを感じる。内側から針で刺されるような軽い痛みと、それを上回る冴え冴えとした気分が綱吉を包み込んだ。
 雲雀の舌が綱吉の舌を撫でる。ざらりとした感触に熱を浴び、脊髄を直撃した感覚に目眩がする。つい胸に抱くランボを強く抱きしめてしまい、苦しげに若木の精霊は身じろぎした。
 綱吉の首筋を、そして喉を通り肩を伝った雲雀の手が、意地悪に彼の上腕を揉んで離れていった。同時に重ねられていた唇も離れていくが、それを追いかけた綱吉がちっ、と微かな音を響かせて最後の一滴を吸い取る。耳の端まで赤い顔が伏せられ、自然険しかった雲雀の表情が緩んだ。
「昨日散々食らったくせに、まだ足りない?」
「足りないのは、ヒバリさんだけです!」
 底意地の悪い笑みに刃向かい、牙を覗かせた綱吉を雲雀は声を潜めて笑う。彼の親指が柔らかな綱吉の唇を撫でて、残っていた水気をぬぐい取っていった。赤くなった頬を隠そうとして、思い出した胸元の存在に綱吉はあわてて腕から力を抜く。ぷはっ、とランボが久方ぶりの空気を楽しんだけれど、無論雲雀にその光景は見えない。
 雲雀は手の中に残る榊の葉を指で遊ばせ、薄い唇を僅かに曲げた。
「で? どうするつもり?」
「どうするって……どうも、しませんよ」
「そのうち君が倒れるよ。根比べでもしたいわけ?」
 榊の枝だって無限ではない。綱吉が獄寺の毒気に慣れるが先か、神社の榊が葉をむしり取られて丸裸になるのが先か。どちらにせよ、雲雀にとってはあまり好ましくない未来だ。
 難しい顔をする彼に、綱吉はランボを地面に下ろしてそのまましゃがみ込む。抱えた膝の心細さに瞳を細めれば、幼いながらに何かを察したらしいランボが、小さな手で綱吉を励ますように背中を叩いた。微笑みを返してやると、彼ははにかんだ表情で笑って、踵を返し去っていった。
 雲雀の目にも、綱吉から離れた薄い靄状のものが遠離っていくのが辛うじて見て取れた。やがて樹木がざわめき、靄は風に掻き消されて存在は遠くなった。
 しかし、気配は微かに残る。若木の精霊は、山に生える樹木全てに祝福され、守られて育つのだ。いずれ、里全体を見守る程に太く深く根を張り、堂々とした枝振りを見せてくれるだろう。ただ、それは綱吉達の孫の世代になるだろうが。
「そんなつもりは……」
 榊の木は貴重だ。里の人々への病治癒にも使われるので、綱吉だけが独占するわけにもいかない。しかし現状ではこの木や、雲雀たちの存在に助けられなければ綱吉は、自分の家であるに関わらず行動の自由が効かない。
 獄寺を招き入れたのは綱吉の決断なのだから、自業自得と言えばそれまで。好奇心だけで他人の人生に首をつっこむのは危険だと、昨晩も枕元で雲雀に散々説教されただけに、耳が痛い。
 雲雀の指が再び綱吉の口元を撫でる。顎を支えられて上向かされ、問答無用で目線を合わされた。挑む気持ちで睨むと、相手はふっと気配を逸らして笑むので調子が狂う。離れた彼の手は、人差し指だけを立てて残りは握られ、綱吉の胸元を小突いた。
 上半身が僅かに揺れる。心の臓が潜む位置を指し示した彼の指先を目で追いかけた綱吉は、昨日に感じた痛みを思い出して奥歯を噛んだ。
「ともかく、君が調子悪いままだと、僕にも響くの、忘れないでね」
 言い捨て、雲雀は綱吉に背中を向けた。近くに置きっぱなしだった桶の水を捨てようと、片膝を曲げたところで彼は何かに気づく。そのまま桶の傍の土に指を置き、何かを掬い取った。どうかしたのかのかと、綱吉も揃えた膝を軽く追って彼の後ろからのぞき込む。
 雲雀がつまんでいたのは、なんて事はない、庭を埋め尽くす土だった。しかしそれだけではあるまい。眉間に皺寄せる彼が難しい表情をしているので深く問いかけられないでいる綱吉の鼻先に、微かに、錆び臭いような変な臭いが漂った。
 一瞬だった。雲雀が指先で土を捏ねた瞬間の出来事。
「なに?」
 綱吉もまた眉間に指を置いて考える。嗅いだ事があるような、無いような、記憶の奥底にありそうで心当たりが見つからない臭い。
 雲雀の指先は土を払った後も少しだけではあったが、黒ずんでいた。元々湿り気を持っていた土の水分が、指紋の間に残ったような印象。彼はそれを、桶に残っていた水で洗い流した。
「昨日の……」
 独白を零す雲雀の記憶に蘇るのは、昨日の騒動の後に座敷で見つけた黒い粉。あれが水に溶かされて零れたものなのだとしたら、落とした主は一人しか考えられない。
 雲雀は桶を手に立ち上がり、獄寺が吸い込まれて行った勝手口を見据える。綱吉も遅れて身体を起こし、同じ方向へと視線を流した。
「ヒバリさん?」
「綱吉、今日は母屋になるべく近づかずに過ごすように」
「え、どうしたんですか急に」
「祠に行ってくる」
「ええ?」
 短い雲雀の返答に、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。あからさまに驚いてみせる彼を睨み、雲雀は腰に手を置いてため息をついた。
 綱吉の足下には、いつの間にか黄色い頭巾の赤ん坊が立っている。
「あんまり勝手な事はするなよ」
 どこから話を聞いていたのだろう。相変わらず気配も存在感も皆無の座敷童に、もうひとつため息を零し雲雀は肩を竦めた。綱吉はというと、突然の彼の登場にまたしても驚き、大げさに身を仰け反らせて足を滑らせた。尻から落ちて強かに打ち付け、痛みに涙を浮かべる。
 雲雀のため息がもうひとつ。
「不浄を祓うのも、僕の仕事のひとつだけど?」
「お前のはいつも乱暴過ぎるんだ。もうちっと様子を見てからにしろ」
「式を飛ばすだけだよ」
「だったら祠じゃなくても出来るだろう」
 雲雀が何をしたいのか、大まかに想像がついているのだろう。口元を歪めて不敵に笑うリボーンに、彼は嫌悪を隠そうともせず両腕を袖口の中に交差させて通した。
 足元では尻餅をついた格好のまま、綱吉が不安げに雲雀を見ている。その折れ曲がった膝にひょいっと軽い調子で飛び乗ったリボーンは、小さな手を掲げると同時に出現した木製の撥を雲雀の鼻先へと突きつけた。
 雲雀の表情が益々険しさを増す。剣呑な空気を肌で感じ取り、綱吉は背筋を震わせた。
「無駄に使うな。内側から食い破られるぞ」
「使いこなしてやるさ」
「図に乗るな」
 尊大に言い放った雲雀の頭目掛け、再び飛び上がったリボーンが撥を繰り出す。唐突に視界から消えた童の姿を見失った彼は、いともあっさり頭に一撃を見舞い、奥歯を噛む。大した痛みではないが、綱吉の目の前でやられた事が大きく彼の自尊心を傷つけた。
 殴られた拍子で首を竦めて俯いていた彼の全身からどす黒い気配が溢れ出す。明らかに怒っていると分かる冷たい空気に、綱吉は頬を引き攣らせて腰を落としたまま後退した。リボーンだけが楽しそうに、口元を綻ばせて撥を構えている。
「丁度良い。君には僕の実力を、はっきりと教えておくべきだと思っていたところだ」
 雲雀の黒髪が怒りに揺れている。袖から引き抜いた彼の手には、愛用の拐がしっかりと握られて即座に構えが取られた。
「最近調子に乗ってきてるからな。お仕置きしてやる」
 対するリボーンは、彼を宥めるでなく逆に煽る発言をして、綱吉の爪先手前で撥を正眼の構え宜しく縦に持ち直す。
 こうなると、最早綱吉では止められない。何もこんな風にふたりして険悪な状態からやりあいが始まるのは初めてではないが、いつだって雲雀が劣勢になり最終的に打ち負かされてしまうのは目に見えている。そもそも卑怯なことに、リボーンは自在に姿を消したり現れたり出来るのだから。
 しかし雲雀はそんな事一切考えもせず、喧嘩を売られてはその都度買っている。これも修行の一環だとリボーンは言うけれど、彼にしてみれば雲雀をからかうのは最早ただの暇潰しではないのか、というのが最近の綱吉の見解。
 だっていつだって、最後に雲雀は、一方的にリボーンに負けるのだから。
「もー、ふたりともいい加減にしてよー」
 膝を地面に下ろして完全に腰を沈めた綱吉が、天を仰ぎながら予想される結末を思い描いてその後の自分をひたすら憂う。リボーンに負けた日の雲雀は、超絶機嫌が悪いので慰めるのが大変なのだ。
 今夜もあまり眠れないかもしれない。壮絶な打ち合いが始まった眼前を冷ややかな目で眺め、綱吉は右手で顔を覆うと盛大に溜息をついて肩を落とした。

 なんだか外が騒がしい。
 もう昼時も近かった朝食を済ませた獄寺は、奈々に何か手伝えることが無いかと問うてやんわりと断られた。その後特にすべき事もない彼は与えられた部屋へと戻り、布団を片付けたり荷物を整理したりして暇を持て余していたのだけれど、ふと、さっきから妙に屋敷の周辺を取り巻く霊気に乱れが生じていることに気付かされた。
 最初は霊山故の山の気まぐれかと思われたが、どうもそうではない。格別自分自身に影響が及ぶとも思えなかったが、気になった彼は様子を窺いに外へ出た。
 予備に持ってきていた下駄を縁側から地面に下ろし、鼻緒に足を差し込んで二枚歯で乾いた地面を軽く蹴る。具合を確かめた後、左右へと首を振り、気配を探る。
 風は少なく、一見すれば景色はとても穏やかだ。しかし目に見えない霊気の流れが如実に狂っているのが肌を通して感じられて、鳥肌が立った腕をさすり獄寺は右に足を向けた。
 この感覚は尋常ではない。幼児期を人が訪れぬような霊地で過ごした獄寺であっても、異質だと感じられる空間の歪み方に自然眉根が寄る。午前中は何事もなかったのに、急にどうして。疑問は尽きぬものの、根源を見出せない限り全てが憶測の域を出ない為、獄寺は注意深く歩を進めた。
 台所の裏手に出る。角は鬼門封じで凹み、傍には桃の木が植えられている。薄紅色の花が枝に沿って咲き誇っており、獄寺は暫くの間霊気の乱れも忘れて鮮やかな花に見入った。
 ガタゴトと音がしたので、視線を転じる。我に返った彼の目線の先には、井戸から水を汲み上げる最中の奈々の姿があった。慣れた手つきで縄を操り、足元に置いた瓶へと水を移し変えている。彼女はこの空間の乱れに気付かないのか、至って平然としており、それが逆に獄寺の目には若干異質に映った。
 綱吉は、奈々には見魔の能力が殆ど無いと言っていた。だからランボの姿も、これまでは綱吉にしか見えなかったのだろう。雲雀も奈々と同様であるとも。だが、ならばリボーンはどうなる。雲雀はあの童の姿をはっきりと捉え、しっかり反応していたではないか。
 わけが分からない。リボーンだけが別格なのか、雲雀の目がおかしいのか。口元に手をやって瞳を細めた獄寺に、顔を上げた奈々が気付いて手を振った。数秒遅れて気付いた彼は、若干気まずそうに表情を崩し彼女の側へ歩み寄った。
 水を縁までたっぷりと蓄えた瓶は、彼女の細腕では重過ぎる。
「持ちます」
「あら、ごめんね。有難う」
 ひょっとしたら彼女は最初から獄寺の存在に気付き、手伝わせるつもりで水を此処まで汲んだのではないだろうか。そう勘繰りたくなるくらいに重たい瓶を担ぎ上げ、獄寺は先導する彼女の背中を追いかける。
 その中でさりげなく外が騒がしい旨を問うと、彼女は口元に手をやってコロコロと笑った。
「お昼前からね、リボーンちゃんと恭弥君が大暴れしてるの」
 悪戯をした後の娘の顔になって告げる彼女は、どことなく楽しそうでもある。あくまでも屋敷に被害が出ない限り、騒動は彼女にとって対岸の火事なのだろうか。
 しかしこれで、霊気の乱れの理由がはっきりとした。まだ顔を合わせてから一晩しか経過していないものの、雲雀とリボーンに関しては並々ならぬ霊力を持っていると体感させられている。そのふたりが正面切ってぶつかり合えば、周辺の空気がざわつくのも無理ない。
 それにしても。
「昼前から、ですか?」
「そう。隼人君がご飯食べた直ぐ後くらいからかしら?」
 名前で呼ばれたことにまず唖然として、次に彼女の言葉を正確に理解してからまた唖然とした。
 もうあれから、かれこれ三時間は経過している。幾らなんでも冗談だろう、と改めて奈々を見詰めると、彼女は含みの在る笑顔で目を細めるばかり。
 結局自分で確かめるのが一番早いだろう、と思うに至り、獄寺は茶の間から屋敷に上がって廊下伝いに表の庭を目指すことにした。玄関入って直ぐ、昨日通された畳の間を右に見て角を曲がればもう其処は解放された空間に繋がっている。雨戸を収納している部分を越えれば、細長い板を敷き詰めた廊下にはひんやりとした空気が漂い、獄寺の頬を軽く撫でた。
 数本の角柱を隔て、縁側に腰を下ろす綱吉の姿が見える。彼は屋敷ではなく、前方の庭に向いて座っていた。何か別のものに気を取られているようで、徐々に近づく獄寺にはまるで気付かない。
 彼の膝の上には、戻ってきたらしいランボの姿もある。
 改めて確認するまでもないくらいに、綱吉は何処にでもいる子供に等しい。彼が本当に蛤蜊家を継ぐに相応しいのかなんて分からないが、彼が十代目なのだよ、と言われても俄かには信じがたい。いや、こうして目の前にしていても未だ信じられない。
 幼少時には神童と呼ばれていたらしいが、力を失った今の彼は例え見魔の才に優れていても、ただの人と大差ない。腕を伸ばして首を掴み、ちょっと力を加えれば簡単に折れてしまいそうな細い肢体と、まるで人を疑うことを知らぬ瞳。 
 その大きな目で見詰められて、心の内側まで見透かされるのではないかという危惧を抱いた。しかし現実にそんな事が起きるわけもなく、獄寺は追い出されもせずに沢田家に厄介になる許可を得た。
 彼の本当の目的など知る由もなく、無邪気なまでに獄寺の弁明を信じた綱吉は、獄寺の立場から言わせればとてつもない愚か者だ。しかしその方が効率的で作業も楽になるのも、紛れもない事実。
 綱吉に同情するつもりはない。彼の力量を測り、蛤蜊家当主を継ぐに相応しいか否かの判断材料を見つけ出して報告すること、それが獄寺に与えられた任務。
 そして蛤蜊家の老人が、九代目が定めた後継者を自分達にとっては相応しくないと判断したその時は。
「あ……」
 決意が揺るがぬ様に意思を込めて拳を握った獄寺の耳に、微かな囁きが届けられる。視線を持ち上げれば綱吉が、気持ちよさそうに眠っているランボの頭を撫でながら獄寺を見上げていた。
 気付かれてしまった以上、逃げれば変に思われる。獄寺は開いていた数歩の距離を埋め、柱に寄りかかるようにして居場所を定めた。しかし綱吉の方が彼から若干逃げるように横にずれていった。
 不審がられる事があっただろうか、怪訝に彼を見返すが綱吉は曖昧に笑って誤魔化すばかり。
 そうしているうちに、左側から激しいうねりを感じ取る。びりびりと鼓膜を震わせる感覚に背筋が粟立った。
 ――なんだ?
 視線を転じるよりも、早く。
「あー、戻って来た」
 綱吉の場違いすぎる間延びした声が響いた瞬間。
 ぶわっ、と庭に巨大な突風が落ちてきた。地面に空気の塊が直撃し、行き場をなくした空気圧が四方八方に飛び散る。一緒になって砂礫もが宙を奔り、獄寺は咄嗟に両腕を顔の前で交差させて目を庇った。長く伸びた髪の毛が激しく煽られ、短い袖や野袴の裾が大きくはためく。露出した肌に細かい砂が無数にぶつかり、微かな痛みを彼に与えていく。そのまま風に押し潰されるのではないかというほどの衝撃に、足を踏ん張っていても身体は勝手に後ろへと流された。
 背中が凭れていた柱からずれる。飛ばされる、と片目を開けて柱を掴もうともがいた刹那、彼は濛々と立ち上る煙の中に巨大な黒い影を見た。
 ――なんだ?
 先ほどよりもずっと強い声が心の中に反照する。竜巻の中心かと思われたが、其処から放たれる圧力は明らかに異質。正体を探ろうと目を見開こうとした獄寺だったが、再び吹き荒れた突風に瞼を開け続けるのは困難だった。
 風が去る。終わりは実に呆気ないもので、獄寺は暫くの間風を受け止めた姿勢のまま硬直し続けて綱吉の失笑を買った。目を開ければ瞼の裏側に砂埃が積もっていて、涙目で押し流した獄寺は決まりが悪そうに腕を下ろした。
 綱吉はさっきまでと同じ位置で、同じように腰掛けていた。
 あの風は嘘だったのだろうか、自分は幻術でまやかされたのか。それほどに周囲は静まり返り、日常となんら変わりない光景が展開している。違っているといえば、庭の中央、丁度獄寺が風の中央に影を見た場所で、リボーンと雲雀が睨みあっていることくらいか。
 ――って、どこから!
 さっきまでは確実に居なかった、だが突風が吹き荒れた後獄寺の目の前に現れた彼ら。その経過からして、あの風はリボーンたちの仕業だという事だろうか。綱吉も「戻ってきた」と言っていたのだから、間違いはなさそうである。
 しかし、では、いったいどこから戻ってきたというのか。
「頭が痛くなる……」
 獄寺が今まで経験してきた現実だけではとても推し量れないものが、この家にはあるらしい。片手で頭を抑えた彼の前方では、雲雀がリボーンへ巧みに拐を仕掛けるものの、実に素早い動きでリボーンは撥を操り、それらを徹底的に封じ込めてかわしている。
 髪の中にまで砂が潜り込んでいることに舌打ちし、獄寺は乱暴に髪をかき回した。爪の間に潜り込んだ細かな砂を見下ろし、同時に僅かに黒く染まった指先に顔を顰める。脇では、膝の上に肘を置いた綱吉が、どこかつまらなさそうに欠伸を零した。
「いつも、こうなんですか?」
 正直な感想、雲雀とリボーンとの対戦は、彼の常識の範囲を超えている。もし蛤蜊家の家老たちが綱吉への判定を否と下した時、手を下すのはあくまでも獄寺の勤め。しかしそれにはまず雲雀の目を掻い潜らなければならないだろうと予測される。だが、実際この目で見てしまうと、とても敵う相手だとは思えない。
 背中を嫌な汗が流れた。
 獄寺の乾いた問いかけに、目尻を擦った綱吉が垂れ下がってきている前髪の一部を引っ張りながらうーん、と唸る。視線を浮かせて考えてから、髪の毛を弄っている手ごとひとつ頷いた。
「貴方は、良いんですか?」
「……俺があそこに割って入れると思う?」
 修行に加わらなくて、と言葉尻に匂わせて更に問うと、彼はやっとの事獄寺を見返し、やや無理の在る笑顔を浮かべた。視線で「君は出来るの?」と聞き返されている気がしたので、獄寺はそれ以上口にせず、改めて柱に寄りかかり庭の光景を眺めた。
 雲雀が身体全体を使って拐を繰り出し、リボーンがそれを撥で受け流す。しかし即座に反応した雲雀が、身体が流れきる前に右足を振り上げて小柄なリボーンの脇腹目掛けて蹴りを放つ。裾避けを身に着けていないのか、大きく捲れ上がった彼の長着の裾から鞭のようにしなやかな脚が姿を現した。
「……っ」
 呆然と観戦している横で、綱吉がムッとした表情を作ったが、獄寺は気付かない。
「だから野袴にするか裾避け着てっていつも言ってるのに……」
 ぶつぶつと小言で文句を口にするが、獄寺には聞こえない。
 リボーンは雲雀の蹴りをひょい、と軽い仕草で飛び越え、中空で一度頭を下にして体勢を整え直し、その流れの中袈裟懸けの要領で撥を繰り出す。背後からの一撃は、雲雀に直撃するかと思われた。だが背中に目でもあるのか、左肘を引き戻す動作の途中、拐の持ち手を緩めて本体を反転させた雲雀は、その先端で撥を受け止め上へと弾き飛ばした。
 軽いリボーンの身体が再び宙を舞う。くるくると二回転した彼は爪先から地面へと着地を果たし、落としそうになった黄色の頭巾を手で押さえた。
 時間にして十秒と経っていない間の出来事。あまりにも速過ぎて途中から目で追うのも諦めた獄寺は、疲れたと眉間を指で揉み解しながらリボーンの位置を自分に置き換えて肩を落とした。
 恐らく、真正面からぶつかっても雲雀には太刀打ちできないだろう。だが勝機はある。
 と、視線を感じた。反射的に顔を上げる。リボーンと向き合っていたはずの雲雀が、獄寺を見ていた。いや、実際今も雲雀は正面を向いてリボーンと対峙している。だのに、何故だ。
 刺すような視線を肌が感じている。
 ――嘘だろ!
 威圧感が獄寺を包み込む。先ほどの突風とは趣がまるで異なる風が、獄寺だけを狙って打ち放たれている。
 雲雀から。
 全身の血液が沸騰している。獄寺は咄嗟に腕を引いた、柱から身体を離し片足を退いて右半身を斜めに構えを取る。左肩を窄めて袂に腕を戻し、其処に潜ませているものを乱暴に指で掴み取る。
 綱吉の視線が持ち上がり、雲雀から獄寺へと向けられた。
 風が。
 雲雀の腕が振り上げられる。リボーンが繰り出される一撃を先読みして地を蹴った。だが雲雀の握り持つはずの拐は、其処にはなく。
 唸りが。
「やばっ!」
 正真正銘焦りを含んだ声が獄寺から飛び出す。同時に彼が袖から抜き取り、そのまま前方に放った指先から、短冊状の紙が散った。
 何かが渦を巻いて獄寺目掛けて突っ込んでくる。避けている余裕が無い速度で接近するそれに、獄寺は迫り上がってくる吐き気と恐怖心を懸命に飲み込んで、己が放った人差し指大の大きさの呪札に意識を向けた。
 札は全部で三枚。それが獄寺の意思に従い、三方向に散る。
「絶!」
 素早く左手一本で印を結び、最後の締めに腹の底から搾り出した声で命を下す。ぼっ、と札が一斉に小さな炎を上げた。直後、綱吉を巻き込んだ獄寺の前方でどす黒い煙がわき起こる。暴風に着物の裾が強くはためき、片手で顔を庇った綱吉はランボを胸に抱えて身体を捻って幼子を自身の身体と床との間に隠した。その頭上を爆風が走り抜けて、座敷の襖を大きく撓らせた。
 獄寺が印を解く。焼けこげた札だったものが煙に揉まれながらバラバラと地面に崩れていく。主の手から離れた拐が片方、縁側の手前に回転しながら落ちた。
「……っぶねぇ」
 冷や汗を拭った獄寺の目に、煙が晴れた先に佇む雲雀の姿が映し出される。綱吉も身体を起こし、苦しげに藻掻いたランボを床に置いた。片手を床板に添えて、振り返る。雲雀は左手にだけ拐を握っている。右手に構えていたものは、今は綱吉達の前方に。
「悪い、手が滑った」
 少しも悪びれた様子が無い雲雀の放った一言に、獄寺が拳を堅くして怒鳴った。
「嘘つけ! 今のどこが、手が滑った程度なんだ!」
 明らかに意志を持って放たれた拐は、強力な霊力が流し込まれて強度も破壊力も、何もかもが強化されていた。験術の使い手は、己の霊力を肉体強化に使う以外に、使用する武器に注いで武器自体も強化する場合が多い。雲雀にとってはそれが拐。持ち手をつけた棍棒の一種。
 直撃していたら獄寺の頭は、高い位置から地上に落とされた西瓜の如く潰れていただろう。寸でで気づき、呪札で即席に作り出した結界で防いだものの、こちらの手を見せるきっかけともなってしまい、獄寺は軽率だったと自分自身に向けても心の中で悪態をついた。
 てくてくと近づいたリボーンが、ひょいっと落ちた拐を拾って雲雀へ投げ返す。彼は空になっていた手で軽々と受け取り、袖の中にしまい込んだ。獄寺へは一切視線を合わさない。あくまでも、今のは事故だと言い張って謝るつもりは無いらしい。
 ――こいつ、嫌いだ!
 最初に会った時から感じていた事を今もう一度確信し、獄寺は地団駄を踏んだ。
「炎の結界か。お前、幻術使いだな」
 自分の調子をどこまでも突っ走るリボーンが、膝を折って燃え滓になった呪札を指で掬い取った。彼が触れると、真っ黒に炭化したそれは、粉々に砕け散る。
 幻術は、獄寺が放った呪札のように触媒を使用して術を具現化させる技。雲雀が拐に霊力を注いで強化したのと似ているが、実際の幻術はもっと繊細で扱いが難しい。基本的に触媒の作成は術者にしか出来ないし、術者の体調や精神状況、呪札や呪符の類であれば紙の質や墨を磨る水の質でも、触媒の出来は大きく左右されてしまう。
 更に幻術は個々人の霊力の質にも大きく依存しており、たとえば霊気が水を帯びていれば水の術を得意とし、獄寺の場合ならば炎、といった具合に。
 リボーンの問いかけに答えず、獄寺は横を向く。
「炎?」
 代わりに呟いたのは綱吉だ。背中から頭に登りたがるランボを捕まえて再び膝に戻し、下ろした足をぶらつかせている。戻ってきた雲雀がその横に並び、しかし縁側には上がらず庭に立ったまま矢よりも鋭い視線を獄寺の横っ面に投げ放つ。
 地面を弄り回しているリボーンが、なるほど、と頷いた。
「そういや獄寺家の始祖は炎系の幻術師だったな。その流れか」
「へー」
 獄寺が反応に困っている間に、綱吉が感心した風に首を曲げて彼を見上げる。戸惑ったまま見返すと、にっこりと微笑まれた。
「うん、なんかそんな感じがするね」
 君らしいね、と。
 臆面もなく告げた綱吉に、獄寺の顔がカッと赤くなった。
 瞳を細めた雲雀の表情が険しくなり、獄寺は三人六対の瞳に背中を向けた。調子が狂わされてしまって、何より綱吉にどんな顔を向ければ良いか分からなかった。
 顔が熱く、胸が早鐘を打ったように五月蠅い。
「獄寺君?」
「すみません、用を思い出したので失礼します」
 訝しむ綱吉の声を拒み、獄寺は振り切って歩き出した。残された綱吉が首を捻って、獄寺に向けて伸ばそうとした腕を雲雀に押さえ込まれる。
 用事なんて無い、けれどこの場にとどまり続けるのも彼には困難だった。
 ――なんなんだ、あいつは。
 今まで出会った人間は、どいつもこいつも腹に一物抱えた、人を利用するか見下すかするばかりの最低な人間ばかりだった。実の父親でさえ、立身出世の為に母親の元にいた獄寺を引き離した。そして蛤蜊家に売った。
 既に凋落の一途を辿るばかりの家を再興させようと目論む男の言いなりになるしかない自分が、憎い。あんな男の為に等働きたくないと思っているのに、人と深く混じってしまった自分には、もう彼処しか居場所が無い。
 綱吉の笑顔を思い出す。彼はきっと、何の不満も不安も無く、生まれた頃から暖かな家庭で温かな人々に包まれて過ごしていたのだろう。獄寺とは違う、何もかもが。
 憎らしい程に、彼を羨んでいる自分に気づく。
「くそっ」
 部屋へ戻り襖を閉め、堪えきれずに吐き捨てる。片眼ごと額を押さえつけた手の隙間から、黒に染めた髪が覗く。
 偽りが自分を包んでいる。素性も、本性も、目的も、何もかもに一枚皮を被せて隠している自分が此処にいる。だのに、綱吉は。
『君らしいね』
 獄寺家の血を継ぐのならば、炎を操れるのは当たり前だと言われ続けてきた。だから自分も、この力は必然的に自分に宿ったものであり、扱えるのは当然だという認識で居た。
 けれど、そうだと知らない綱吉は、いとも容易く獄寺の中にあった凝り固まった常識を打ち破った。
 炎の力を、獄寺の家の力ではなく、獄寺隼人個人の力だと。
 本人は無意識なのだろう、どこまでも優しい目をして獄寺を見ていた。
「これが……透魔の力って奴か……?」
 人の心の内側に宿る鬼さえも見抜くという、蛤蜊家初代が持っていた力を継ぐかもしれない人物。なるほど、彼が当主となれば、さぞかし困る人間は多かろう。
 くっ、と喉の奥を鳴らして獄寺が笑う。そのままずるずると膝を折って畳の上に崩れ落ち、彼は噛みしめた唇を開いた。
 勝手に笑いがこみ上げてくる。押し殺した笑いを湛えながら、獄寺は指の隙間から覗く闇を睨み続けた。

2006/11/26 脱稿