Before the beginning

 チチチ、と愛嬌のある鳥の鳴き声を掻き消す大声に、ライは色素の薄い髪を揺らし、顔を上げた。
「ライー?」
 徐々に近づいてくる声は自分の名前を呼ぶもので、しかも声の主は自分の幼馴染。すっかり聞き慣れてしまった彼女の声に小さく肩を竦めた彼は、もう一度、目の前にある鳥の巣でライを見上げている存在に瞳を細めた。
「もう落ちるなよ」
 差し出した指の先っぽで、一際元気に鳴き続けている小鳥の頭をそっと撫でる。それは今朝、彼が普段より随分と早くに目が醒めた原因でもあった。
 まだ地平線に太陽がやっと顔を覗かせ始めた頃、ピイピイという甲高い鳥の声に被っていた布団を持ち上げたライは、宿屋の庭先に聳え立つ木の根元で巣から落下したらしい小鳥を見つけた。目覚めの早い親鳥は既に餌を探しに去った後なのか姿もなく、立派な枝ぶりの間に設けられた巣は静けさに満ちている。
 しっとりと空に広がっていく明るさを身体の左半分で受け止めたライは、数分間思案した末に自力ではまだ飛べない鳥をフード部分にそっと保護し、身体を反り返らせないようにだけ注意しながら慎重に木を登り始めた。
 ささくれ立った樹皮が、水仕事で荒れている指先を擦る。微かな痛みに眉根を寄せつつも、ライはゆっくりと身体全体を使って背の高い木の、営巣されている枝を目指して進んだ。
 次第に太陽が高くなり、陽光が遠慮なくライの顔を照らす。時折枝と生い茂る緑の葉に遮られるものの、隙間から流れてきた弱い光が彼の左目を突き刺して、彼はこの時だけとても嫌そうに顔を顰めた。
 背中のフードからは、鳥の鳴き声が絶えず続いている。早く巣に戻してやらなければ、それに食堂の仕込みだってある。幼馴染の姉弟が来る前に事を終わらせて、何事も起こらない平凡な日常に戻りたい。
 ライは突き出した枝を避け、腕を伸ばし太い根元を掴むと、ぐっと腹に力をこめて身体を一気に引き上げる。右膝を折って枝に乗せ、左手を幹に添えて息を吐いた。浮かんだ汗を雑に拭って視線を持ち上げると、遠い山並みに浮かぶ太陽が嫌味なくらいに眩しい。彼は瞼を半分閉ざして瞳の奥に焼きついてしまった光をやり過ごすと、気を取り直して更に上を見た。
 鳥の巣まではもう少し。あと枝を二つほど経由すれば手が届くだろうと、自分の身長と読みづらい真上までの距離感を確かめながら、ライは曲げていた膝を伸ばすついでに両腕を高く掲げ、現在足場にしている枝よりは若干小ぶりのそれにしがみつく。先ほどと同じ要領で身体を引き上げ、残る距離を一気に詰めた後は、腰を落ち着けられる枝の根元に居場所を定め、そろそろ鳴き疲れたのか若干静かになった小鳥を手に取った。
 ピィ、と人の顔を斜めに首傾がせながら見詰める鳥の瞳は小さくて、自分がさっきまでどういう状況だったのかを理解していないようだ。もし猫や何かが通り掛っていたら一発でお陀仏だっただろうに、緊張感がまるで無い顔につい苦笑が漏れる。
 両手で大事に包み込み、巣に触れないように注意深く小鳥を運ぶ。細かい枝で構築された巣は、ちょっとでも触れれば直ぐに傾いて崩れてしまいそうで、恐々と解いた手の間から、小鳥は短い距離を落下していった。
 チィィ、と鳴く声。あまりに集中しすぎていて視野が狭まっていたらしいライの目に、別の小鳥が映し出された。兄弟だろうか、戻ってきた家族に嬉しそうに擦り寄っている姿には自然と笑みが浮かぶ。
 良かったな、と囁いて息を吐き、自分が呼吸を止めていたのを思い出した彼は服の裾を抓んで軽く引っ張った。汗ばんだ肌に下着が張り付き、熱を持っている。広がった首元から抜けていく空気と入れ替わりに潜り込んできた朝の冷気に、一安心と彼は深呼吸を数回繰り返した。
 リシェルの甲高い、ご近所なんてないけれど、近所迷惑な声が響き渡ってくる。左右の大腿部分で枝を挟み身体を支えていたライは、小鳥から顔を逸らすと左肘を曲げて頭上を覆っている枝を押しのけ、その姿勢のまま首から上を捻って足元を見た。
 緑の葉に覆われた枝の内側にいる彼の姿は、外側からだと恐らくとても見つけにくい。案の定リシェルと、そしてルシアンのふたりは周囲をきょろきょろと見回しながらライのいる木の前を通り過ぎていく。
「おーい」
 このまま隠れているのも面白いかな、と一瞬思ったけれど、それだとばれた後のリシェルが五月蝿いな、と思いなおし、ライは残る左手を口元に縦に添えてふたりを呼んだ。気付いたルシアンが足を止め、その場で改めて回りを見回すが、まさか木の上にいるとは思っていないらしく、てんで見当違いの方角ばかり気にしている。
「おーい、ここ、此処」
 掴んだ枝をバサバサと揺らし、ライは尚もルシアンに呼びかける。数歩先を行っていたリシェルも戻っていて、音を頼りに木の根元まで近づき、そこでやっと彼女は視界の端にぶら下がるライの靴を見つけたようだ。あっ、と短い声が上がった後、両手を腰に当てて頬を膨らませる。
 帽子の鍔に隠れた瞳も、恐らくは怒りの色に染まっていることだろう。
「そんなところで何してるのよ、もー」
 枝に跨った姿勢で鳥の巣を前にしているライの姿は、彼女の位置からでは下半身しかまともに見えていないだろう。ライは僅かに身を乗り出してリシェルの隣に来たルシアンも視界に収め、シーっと人差し指を唇に押し当てた。そのまま立てた指で枝の間に隠されている巣を指差す。
 先に理解したのはルシアンで、ああ、という顔をした後興味深そうに目を大きく見開いて一歩前へ出た。まだ分からないでいる姉に手短な説明をすると、やっと彼女も表情から怒りを消して再度ライのいる位置を見上げる。
 その前で彼は掴んでいた枝を離すと、左膝を持ち上げて座っていた枝の上に靴の裏を押し当てた。右腕を伸ばして巣を揺らさない位置にある別の枝を捕まえると、曲げた膝に力をこめて身体を持ち上げる。
 浮いた右足が不安定に空中で揺れた。
「あぶなっ」
 リシェルが悲鳴に近い声をあげたが、ライは落ち着いた動作で見当をつけていた枝に右足を下ろした。ゆっくりと左手を手繰り寄せて右手に持つのと同じ枝に体重を預け、左足を自由にして一段低い位置にある枝へ移動を果たす。
 ルシアンはホッと胸を撫で下ろすが、リシェルは胸の前で両手を結んでハラハラと落ち着かない表情をしている。降りようとしているライが一番冷静さを保っているのが分かって、彼は笑いながら次に乗り移る枝を求めて視線を左右に流した。
 と、何処からか鳥の声が響き渡る。
「うわっ」
 先ほど巣に返した小鳥の親なのだろうか。物凄い剣幕で鳴き喚き、鋭い嘴を開閉させながら青紫の翼を広げたそれは、枝にまだ安定しきっていないライの顔目掛けて攻撃を仕掛けてきた。
「ライさん!」
 ルシアンが出した大声も、あまりよくなかった。余計に興奮した鳥が、強く風を叩きながら幾度もライに向かってくる。持ち上げた腕で風と嘴を避けるライは、親鳥に反撃するわけにもいかず困惑したまま、小さく舌打ちした。
 親鳥にしてみれば、餌を取りに行って戻ってきてみれば、人間が巣に近づこうとしているように見えたのだろう。本当はその逆で、しかもライは雛鳥の命の恩人なのに、言葉が通じるわけでもなし、一方的な攻撃はライの姿勢を崩させる。
 ただでさえ狭い木の上、細い枝だけが命綱。
 あ、やばい。そう思った時にはもう、ライの視界は天地がひっくり返っていた。
「きゃぁぁ!」
 痛いのは俺なのに、なんでお前が悲鳴をあげるんだ。心の中でリシェルに冷たい突っ込みを入れながら、ライは背中を丸め両腕を頭に回して衝撃に控える。ドスン、と腰から落ちた音は案外大きく響き、彼女を更に怖がらせてしまったようだ。しかし背骨に直接響いた痛みに息がつまり、声さえも出なくてライは数秒後に噎せた後、全身を弛緩させてその場で仰向けに両手両足を投げ出した。
 ルシアンの脚から上が、陽射しを遮ってライに影を落とす。黒いシルエットしか見えなくて、数回の瞬きを経てやっと見えた彼の顔は、姉同様今にも泣き出しそうになっていて、ライを複雑な気持ちにさせる。
 親鳥はライの落下を見送って、巣へと戻ったらしい。羽音は静まり、周囲にはライが吐き出す荒い呼吸と、リシェルが涙を堪える嗚咽だけが、朝焼けに照らされた大地に沈んでいった。
「悪かったよ……」
 いつまでもリシェルが泣き止まないので、ライは地面に横になったままぶっきらぼうに言い放つ。だが逆にそれが彼女の逆鱗に触れたようで、
「なによ! もっと反省しなさい!」
 物凄い怖かったんだから、と、そっぽを向いた彼女の消え入りそうな声に、余計に胸が痛くなってライは奥歯を噛むと彼女達とは反対側へ首を傾けた。茶色の地面が近くなり、影に覆われた世界は行き場の無い闇を思わせる。
 間に立たされているルシアンは、暫くの間ふたりの喧嘩に右往左往していたけれど、やがて時間が過ぎると肩を落とし、跳ね上がった髪の毛を指で弄りながらライへ手を差し伸べた。
「怪我は?」
「平気」
 最初の地点よりも低い枝から落ちたので、衝撃はあったが今は痛みも大分引いている。突っつかれた箇所が赤く腫れあがっているものの、上半身を起こして試しに腕を回してみれば、問題なく動く。骨が折れているというような感覚は無い。
 視線を感じて顔を上げればリシェルが様子を窺っていて、ライの視線に気付くと慌てて赤い顔をしてまた他所を向く。
 彼女が怒ったのも、ライを心配してこその気持ちだとちゃんと分かっているから、もう反抗する気も怒らず、ライはもう一度「ごめん」と呟いて背中についた土を払い落とす。背後へ回ったルシアンも手伝ってくれて、立ち上がった瞬間だけはふらついてしまったものの、それも彼の肩に助けられて転ぶようなヘマはしないで済んだ。
 ルシアンに寄りかかったまま、視線を持ち上げて緑の間に紛れ込んでいる鳥の巣を探す。あの綺麗な羽根をした鳥は、子供達の無事を見届け再び飛び去ろうとしているところだった。
 羽音に、目を伏せて瞼を閉ざす。
「早く、帰ってきてやれよ」
 囁いた声は、誰に対して放った思いか。
「ライさん?」
「なんでもない」
 聞き取れなかったルシアンの声に首を振り、未練がましい自分の感情を否定してライは自分の足で立ち上がった。泣き止んだリシェルが、それでもまだ許してくれないのか、形の良い唇から舌を出して睨みつけ、踵を返して早足に歩き出す。
 傍らのルシアンが、素直ではない姉に肩を竦めて一寸ばかり同情めいた視線をライに送る。同じく肩を竦めた彼は、視線の意味には気付かなかったフリをして、彼女が向かう先、自分の自宅兼職場である宿へと歩みだした。
 陽射しが遠慮を知らず地表に照りつける。
 今日も平穏でありますように。胸に押し当てた手に祈りをこめて、ライはドアを開けた。