真っ白い雪が降り積もり、地面が赤く、紅く、鮮やかに染まっていく。
「あー……凄い、綺麗、かも」
頬に降りかかる雪を払いのけもせず、鉛色をした空から降り注がれる、その空色からは想像もつかない美しい結晶に見入る。
ドクドクと心臓が脈打つ力が少しずつ弱まっていくのが分かる。別段おかしくもないのに笑いがこみ上げてきて、ともすれば霞みそうになる視力で懸命に、上を睨みつけた。
「綱吉」
傍らに腰を落とす雲雀の声が、いつになく焦りを伴って響く。ゆるりと首の角度をつけてそちらを見ると、彼の黒い綺麗な髪に白い雪が積もっていた。
肩にも、膝にも。
「はは、なんか、おっかしいの。俺、まだ、生きてる……よ?」
ほら、と持ち上げようとした腕に力が入らない。人気のない路上に横たえられ、上半身だけを彼に抱えられている自分の顔は、きっと蒼白に近いだろう。指先から力が抜けていく感じで、試しはしないけれどもうひとりでは起き上がれない。
路上に降り積もった今年最初の雪が、赤い薔薇よりも鮮やかな色に染まっていく。
「笑うな。ここは笑うところじゃない」
「でも、おかしいよヒバリさん。だって、俺」
腹に穴開いてるんだよ?
言葉が続かない。雲雀の手が雪よりも濃い赤に濡れているのが見えた。冷え込みが激しさを増しているのに上着を脱いで、それを使って綱吉の、銃撃された腹部を必死になって押さえ込んでいる。少しでも流れ出る血を減らそうと、出血を止めようと、出来る限りのことを。
彼自身もまた無傷ではない。混乱の最中に切ったのか、右の額が割れて顔半分が赤黒い。ただ彼の血はほぼ止まりかけており、その端正な顔を汚しているのは殆ど、綱吉の血だ。
日本からのビジネスを装った今回の旅行は、ずっとずっと願い続けてやっとのことで実現したものだった。マフィアという枠からほんの数日間だけ抜け出して、自由気ままに本来の自分を取り戻しての旅行。行き先は限定されてしまっていたけれど、スイスに近いイタリア北部へのバカンスは、ふたりにとって一生の思い出に残る筈だった。
事件は、綱吉をそうと知って狙ったものではなかった。
偶然乗り合わせたバス、そこで起こった発砲音。悲鳴、混乱、怒号。運転手の首根っこを掴み、ライフルを振り回す男。逃げ惑う人、タラップから飛び降りる男、後続の車が掻き鳴らすクラクション、早まるなと叫ぶ乗客、構わずに銃口を向けて引き金を引く男。
人種差別、就職差別、政府の無策無能ぶりへの批判、信じる神への畏敬、信じない神への侮辱。飛び散る血飛沫、弾け飛ぶ人の身体だったもの。割れる窓ガラス、腰を抜かして失禁する年配の女性、座り込んで小さく震え神への祈りを口にする老人。耳を劈くブレーキ音、通報を受けて駆けつけたパトカーのサイレン、停止を呼びかける複数の声、泣きじゃくる子供、五月蝿いと詰る男。向けられた銃口、咄嗟に床を蹴る爪先。
雲雀の手をすり抜けた小さな身体。子供を庇って突進し、発砲音と同時に逆方向へ、宙を舞う明るい茶色の髪。
「君は馬鹿だ」
病院には行けない、警察から追われる身としてそこは安全ではない。地元であったなら闇医者の存在は熟知しているのに、不運にもここは慣れない旅先。綱吉を撃った男はその二秒後、雲雀が抜いた短銃の餌食となって頭を半分にして崩れ落ちた。その混乱に乗じ彼は動けない綱吉を抱えバスを脱出する。周辺は野次馬でごった返しており、血相を変えてこの場所を立ち去る彼らを気にする者は居なかった。
点々と血の痕を残し、だがそれも降り出した雪に消された。
「あはー……怒られた」
綱吉がくたりと笑う。頭を片手で抱えられ、雲雀のもう片手は彼の腹部に。腹部左側を貫通している傷は見た目にも酷く、処置は一刻を争う。シチリアの城には連絡を入れたが、この場所は遠すぎる。ボンゴレの息がかかったファミリーに向かわせると言われたが、果たして間に合うか。
間に合ったところで、下克上の瞬間を狙って目を輝かせている連中が大人しく従うかどうか。なにせ重体なのは、百を数えるイタリアンマフィアの頂点に立つような男だ。彼の首を獲れば、と思って止まない輩は多い。
そんな事はさせやしない、雲雀の心には例え百人に囲まれようと綱吉を守りぬく意地がある。けれど、今まさに、その守り抜くと決めた命が燃え尽きようとしている。
ゆっくりと、静かに。
「そんな顔、しないで」
いったいどんな顔をしていたというのか。不意に真面目な表情を作って綱吉が囁く。懸命に腕を持ち上げようとしているのが分かって、雲雀は最早無駄でしかない止血をやめ、血にまみれた手で彼の手首を握りしめた。
細い、か弱い、少し力を加えれば簡単に折れてしまいそうな腕。同じように細い足、か細い肩。東洋系の血が濃い所為か全体的に小さい身体、幼い顔立ち。こんな子がひとりで、数百数千という人間を配下にし、時には先頭に立って闘い、仲間を守り、時に自分が傷つけた相手を憂いで涙を零す。
優しすぎたボンゴレ十代目は、その優しさから命を落とすとでも言うのか。
「死なせない」
悲壮な決意が雲雀の口から零れ落ちる。それを拾い、綱吉はゆるりと首を振った。
「死なせない、死なせるものか!」
けれど彼は頑なに綱吉の瞳が告げる現実を拒否する。彼らしくなく、目の前を冷静に見る術を失って、ただ紅く染まる雪に埋もれ行く青空に唇を噛み締める。弱々しく握られた手を揺らし、綱吉はしょうがないな、とでも言いたげに口元を緩めた。
全身が熱い。周囲はすっかり雪化粧で真っ白で地上を覆う空気もかなり冷たいのに、それが分からないほどに身体が発熱している。傷口から鈍く響き渡る痛みは、今や全神経を通じて彼の意識を奪おうとしている。少しでも気を抜けばこのまま深い闇に落ちていきそうで、それが何より怖かった。
一分でも、一秒でも、瞬きする一瞬の間だけでも構わない。一緒にいたい、その温もりを覚えていたい。
「ね、ヒバリさん……キス、しよ」
囁く言葉、喉が渇き息をするのさえ激痛が伴う。掠れてしまって蚊の泣くよりもっと弱々しい声は、果たして彼に届いただろうか。掌を握る彼の力が強くなる。
大丈夫、まだ神経は生きている。彼の息吹を感じる、心音を感じられる。
自分の心臓は、まだ動いている。
「ね? キス、して」
血まみれで、雪まみれで、すっかり汚れてしまっているけれど。ごめんね、こんな顔で。本当は笑いたいのに、笑っていて欲しいのに。
彼の頬を伝う涙を、どうすれば止められるのだろう。
「そんな事……言うな」
息を詰まらせ、声を詰まらせ、雲雀が首を振る。揺れて零れ落ちた雫がひとつ、綱吉の瞼を伝った。
今朝目覚めた時に交わした口付けの温かさ、変わり得ぬと神にも誓える気持ち。ただ、愛しい。その気持ちは今も全く変わっていない筈なのに。
「だめ?」
彼の涙を拭ってやれないのがもどかしい。甘える声で聞き返した綱吉に、雲雀は再び首を横に振った。そして綱吉の頭に添えた腕に力を込め、引き寄せる。雪に湿った髪に、バスを脱出する時に硝子の欠片で切ってしまった瞼の傷に、鼻筋に、頬に、吐いた血の名残を残す唇に。
「う……」
深くなった交わりに、きつく息を吸われて綱吉が噎せる。小刻みに分けて吐き出された咳には、濁った、赤い柔らかな塊が複数個混じっていた。
飛沫が散り、雪の上に点々と赤い水玉が浮かび上がる。
綱吉は折角綺麗に積もっている雪が自分の血で汚れるのを残念がったけれど、雲雀は顔を険しくしたまま綱吉の血を舌で舐め掬い、吸血鬼さながらに唾に混ぜて嚥下していた。彼の口の周りは気味悪いほどに赤く、朱く汚れている。
綱吉が目を細めて笑うと、不機嫌そうに白いシャツの袖で拭い取った。乾ききっていない血が肌にこびりつき、横に長く伸びて頬にまで至っている。
「ヒバリさん、泣いてる、の、……初めて、見た……かも」
「そんな事ないだろう」
「……そう?」
「見たいなら、この先幾らでも見せてやるから」
これが最後みたいに言うな。綱吉を更に強く抱きしめて雲雀が唇を噛む。
流れ出る血は止まらない。雪を溶かし、交じり合った水が排水溝へ落ちていく。綱吉の命が、こんな場所で消えてしまうなんて。
呼吸が苦しい、喉が熱い。目の前の雪景色が霞んで、世界がゆっくりと薄暗さに包まれていく。死が迫っている、綱吉にはそれが分かる。雲雀にも、伝わっている。心臓が弱まる音、綱吉の呼吸が段々と短く、間隔が長くなっている。
綱吉は瞬きをした。
雲雀が、見えない。その現実に少なからず動揺する。怖くなって舌を震わせると、音にならない吐息を聞いた雲雀が優しいキスをくれた。
幸せだったと、思う。普通に大きくなって、普通に好きな人と一緒になって、子供を作って、年老いていく普通の生活は出来なかったけれど、自分はとても、幸せだったように思う。
その幸せをくれた人を、ひとりにしてしまう。
「綱吉……?」
「ね……約束、して?」
指切りをしよう。震える腕で小指だけをどうにか立てて、懐かしい、日本を思い出しながら。
「後は……追わない、で」
言葉がつまり、血を吐く。絡め取られた指に、彼の命を感じる。誰よりも強く、誰よりも綱吉の傍で、誰よりも綱吉の為に生きてくれた人。
貴方は生きて。生きて、生き延びて。自分の代わりに、そしてどうか。
自分以外の誰かを好きにならないで。
「ごめん、ね……?」
自分は此処で死ぬ。そして貴方をおいていく。貴方の心を縛って、貴方の心だけをつれていく。
遺していく自分を貴方は許さないだろう。憎まれても良い、忘れないでいてくれたら、それだけで構わない。
覚えていて欲しい、心焦がれるまでに深く愛し合った日々を。決して嘘ではなく、確かに、自分という存在が貴方の腕の中に居たことを。
「謝るな!」
どうしよう、最後まで貴方の姿を目に焼き付けておきたかったのに、もう全てが闇に閉ざされて何も見えない。声が遠くなる。抱きしめられているのに、それが分からない。
何も感じない。
落ちていく。
でも、伝えたい。どうか、最後に貴方へ。
笑顔で。
届け。
「ヒバリさん、――――大好き」
2006/9/5脱稿