仁術

 彼が夜ひとりで眠れなくなってから、どれくらいになるのだろう。
 相変わらず昼間、授業を受けずに保健室で眠る日々が続いている中で、そろそろいい加減、教職員からも不審がる声が生まれ始めていた。
 無論、昨今何かと取沙汰されているいじめ問題や、精神的な負担が強い場合、保健室は貴重な逃げ場でもある。沢田綱吉という人間が、シャマルが学校に赴任する以前にどういった扱いを受け、どういった評価を大人から受けていたかは知る由もないが、腫れ物に触れるような態度を取られていたのだろうという想像は、今現在の状況を見ても簡単についてしまう。
 人に逆らわない、そして従わない。独自の路線を突き進むにしては自己主張が弱く、妥協の産物の末に道化を装い、感情と本音を裏側に隠す。扱いにくい子供だっただろう、大人から見れば。何を考えているのか分からない人間ほど、人は恐怖を抱く。
 また、彼ばかりを保健室に匿い、面倒を見ているというシャマルの立場も、一部見方を替えれば依怙贔屓として映るらしい。綱吉が居ることで女子生徒の中には、保健室に入りにくいと訴える生徒も出ていた。
 彼とシャマルの関係を声高に説明するわけにも行かず、曖昧に言葉を濁しているうちに綱吉の孤独は強くなる。シャマルも大人としての立場を保持し続けねばならぬ上に、一応これでも勤め人なので社会的責任も全う出来なければ、幾らボンゴレの圧力があるからといって、学校がいつまでもシャマルを放任し続けてくれると限らない。
 板挟みの状況は、苛立ちを募らせ、容赦なく選択を迫らせる。
「お前、もうくんな」
 だから、いつもの様にドアを開けて中に入って来ようとした明るい髪色の彼を見た瞬間、シャマルは反射的にそう告げていた。
 片手をドアに添えていた綱吉が、大きな目を零しそうなくらいに見開いて硬直する。
「え……?」
 聞こえなかったわけではあるまい。だがどこまでも鈍い反応しか返さない彼に、シャマルは咥えていた煙草を乱暴に灰皿に捻じ込んで、同じ台詞を繰り返した。
 今度はもっと、感情の篭らない冷たい声で。
「だから、此処にはもう来るな。保健室はお前さんだけの寝床じゃないんだ」
 保健室は限られた人間が使う場所ではない。怪我をしたもの、気分を悪くしたもの、また持病があって急に体調を崩す人間に、常に扉を開いておかなければならない。ただ夜眠れないだけの、傍からすれば授業をサボっているだけの綱吉を、いつまでも庇い続けるのは正直、難しい。
 シャマルは細く煙を吐き出し、腰を書類が山積みになっている机に預けた。浅く座り、ボサボサの頭を掻き毟る。視線は綱吉に合わさない。なにより、彼が今どんな表情をしているのか見るのが怖かったから。
「そ……か」
 どれくらいの時間が経ったのだろう、正直息が詰まりそうなくらいに長い時が過ぎてから、綱吉はぽつり、そう呟いた。太股の前に垂れた両拳が弱々しく握られている。ズボンの生地を巻き込んで深い皺を無数に作り出している彼は、今にも波に攫われて崩れそうな砂の城を思わせた。
 支えてやらなければ、壊れてしまう。
 だが、シャマルはその要求を拒んだ。
 壊れてしまえばいい、なんて無論思ってはいない。だがこのままでは綱吉はどんどん泥濘に脚を取られ、現実に目を背け続ける。逃げて、逃げた先に何が待っているのかなんて今は分からないけれど、明るい世界でないのは確かだ。
 抜け出せなくなる前に、突き放してやらなければ。
 それが大人の役目だと、自分に言い訳をして。
「分かった。ごめん」
 俯いたままの綱吉の唇から零れ落ちる言葉は、もっと泣き縋るかと思っていたシャマルの予想を裏切り、非常にさばさばとして乾いたものだった。
 言い方を替えれば、感情が一切失われているような、そんな口調で。
「今までありがとう。迷惑かけて、ごめん」
「え、おい」
 その余りの素っ気無さに、シャマルが逆に面食らう。だから突き放しているはずのシャマルがむしろ綱吉から突き放されているように感じられて、腰を浮かせてドアに近づこうとした彼を察してか、綱吉は後退すると甲高い音を短く響かせて扉を閉めてしまった。
 奥行きがあった視界が途中で塞がれてしまい、出しかかった手の行き先を失ってシャマルは臍を噛む。呆然と自分の右手を見詰め、気まずい気持ちのまま腕を下ろした彼は、少しの間感情の持って行き場を探して無駄に身体を捻らせた。
 右手を机に置き、顎を左の指で掻く。手入れを忘れがちの無精ひげが肌に突き刺さり、むず痒い痛みに顔を顰めさせる。
 これで良い筈だ。綱吉は授業に戻り、日常が帰って来る。保健室は再びシャマルひとりの城となり、訪れる怪我人と病人、そして片付かない机の資料の山に頭を悩ませるようになるのだ。
 何も変わらない、面白みもない毎日が。
 これで、良い。
 それなのに、何故だろう。やっと手間のかかる子供から解放されたというのに、心が晴れないのは。逆にどんよりとした雨雲が頭上に大きく広がって、陰鬱な気持ちが身体中を侵食している。
 理由も無い鈍い痛みが、胸の当たりを圧迫している。
「……なんなんだよ、くそっ」
 悪態をついても、相槌を返す相手はもう居ない。無意識に探して向いた方角は、誰も使っていない静まり返ったベッド。左側窓際、一番奥。
 昨日までそこにあった膨らみは、永遠に失われた。
「…………」
 漂うのは、虚無感。
 シャマルは浮かせていた腰を今度は椅子に落とす。深く、容赦なく体重すべてを押し付けられて、古いパイプ椅子は金切り声の悲鳴をあげた。ぎしぎしと背凭れを支える部位が嫌な音を響かせる、けれど構わずシャマルは背中をクッションも薄いそこへと押し付け、乱暴に床を蹴った。
 長い間磨きもしていない靴が視界の端を飛んでいく。こんなところまで、何もかもがシャマルに批判的だ。こげ茶色の靴下の模様をつまらなさそうに見やり、髭面を歪ませてシャマルは両手で顔を覆い隠す。
 泣きはしない、涙なんて流し方さえとっくに忘れた。
 下らない感傷ならさっさと捨ててしまえ、今までそうやってずっとやって来ただろう。言い聞かせるのにちっとも応えようとしない自分自身への苛々が、シャマルを暗い淵へと誘う。泥濘にはまり、抜け出せなくなっているのは自分の方だと、気付きたくもなくて彼は唇を血が滲むまで噛み締めた。
『惚れるなよ?』
 警告を発しに来た赤ん坊を憎いとさえ思う。彼のあの一言がなければ、きっと自覚せずにやり過ごせただろうに。
「くそったれ」
 吐き捨てた言葉は、けれど壁に跳ね返って彼の胸を遠慮なく抉った。いっそ冷たく詰ってもらった方がこちらとしても気持ち楽だっただろうに、彼は何故あんなにも、簡単に居場所を諦めたのだろう。
 勘の鋭い彼の事、ひょっとしたら薄々、シャマルの周囲で囁かれていた内容に気付いていたのかもしれない。実際彼は、去り際に「迷惑をかけて」と謝っている。
 迷惑。
 何に対して。
 彼はシャマルに、特別な迷惑を与えていない。ただベッドを借りて、眠っていただけ。シャマルの仕事の邪魔をしたり、いや、確かに間接的には邪魔をしていたかもしれないが、彼が居て困るという状況は、一度としてなかった。
 幸せそうに眠っていた彼の顔を思い出す。心の底から安心して眠れる場所が此処にしかなかった彼は、この先どんな夢を見て眼を覚ますのか。思春期に受けた心の傷は、長く深い場所に残り続ける。誰かに拳を振るうのを嫌がっていた彼の、自分で選んだ結果だとしても、振り上げた拳の為に傷ついた相手がいる現実は消えたりしない。
 彼は六道骸を倒し、その野望の芽を摘んだ。と同時に、彼はあの男の一生も自分の中に背負いこんだ。
 あの男が生まれ、修羅の道に走った原因は彼と全く関わりないところにある。しかし綱吉は、自分を殺そうとした相手にさえ憐憫の情を抱き、彼の無事を願っている節さえある。他人の傷を自分の内側に転換して、たとえそれが自己満足の偽善だと罵られようとも、彼は自分の勝利に傷ついている。
 傷を癒すのに必要な時間は長い。ともすれば一生消えない可能性もある傷を抱えた彼を、内側から支えてやるのは難しい。
 とはいえ、どの道いくら考えたところで結論はもう出てしまった。綱吉は保健室へ来ることはない、扉は閉ざされた。
 これがシャマルの選んだ答え。
 だのに、心が晴れない。気分がすっきりとしない。
 彼は両手を後ろへとずらした。長く伸びた癖の強い髪が指の間を擦って流れて行く。少し脂性の、煙草臭さが染み付いた髪の毛を、彼はよく茶化して笑っていた。
 今になって綱吉との日々が蘇ってくる。当たり前になってしまっていた日常が掌から零れ落ちて瞬間、自分の胸の中にあった何かも一緒になって崩れて行った。
「くそぉ……」
 もう一度目の上に手を置いて、指の隙間から天井を仰ぐ。窓から差し込む光と風に染まった天井は、少しだけ、煙草の煙を長く浴びすぎた影響からか、色がくすんで見えた。

 綱吉が教室に戻っていないと聞いたのは、昼休みが終わりを告げるまで残り五分を切った頃だった。
「いないぞ?」
 十代目、と呼びかけながらドアを開けた愛弟子の顔に反射的にそう返したシャマルは、足を止めた獄寺が変な顔をするのを見て眉根を寄せた。
「なんで?」
「なんでって……いないからに決まってるだろう」
 追い出した、なんて口が裂けても言えず、揚げ足を取る格好で言い返した彼に、獄寺は益々表情を歪ませた。
 獄寺は今までも、何度かこの時間帯に保健室を訪れている。訪問理由は至極単純で、眠っている綱吉を起こして、大丈夫そうであれば教室に連れ戻し授業を受けさせる、ダメそうなら大人しく引き下がる。たまに迎えに来ない日は獄寺自身が授業をボイコットしているか、通学途中で綱吉が迎えに来なくて良いと断りを入れた時くらいだ。
 けれど今日は、シャマルに追い出された綱吉は教室に戻っているはずで、だから獄寺の訪問はシャマル当人にとっても予想外だった。
「教室に戻ってるはずだが」
 咥えていた煙草を灰皿に置き、椅子ごと振り返る。獄寺は保険室内に入り、後ろ手に扉を閉めて訝しげにベッドへと視線を投げた。当然ながら其処には誰もおらず、朝から一切手が加えられていないベッドが沈黙するのみ。
 確認を終えた獄寺の指先が、所在無げに頬を引っ掻く。
「十代目、もう教室にお戻りに?」
「ああ、一時間目から戻らせたが」
 綱吉に対してだけは何処までも丁寧口調の彼の問いに、無意識にそう返事をしてからシャマルはしまった、と口元を手で覆った。振り返った獄寺もまた、驚きに目を見開いている。
 彼は綱吉が夜眠れないでいる理由をそれとなく察しているようで、特別口に出したりはしないもののずっと綱吉を心配していた。保健室に引きこもるのにも反対しなかったし、午後の授業への出席を簡単に諦めてしまう綱吉を、無理に引っ張り出す真似もしなかった。
 獄寺にとって綱吉の保護は至上命題で、その行動は時に狂信的な神の信者に等しいことも。だからシャマルが綱吉を追い払ったのだと知れば、怒りを爆発させる可能性は非常に高かった。
 だが獄寺が気にしたのは、シャマルの危惧する部分ではなかった。
「十代目……今日は教室に顔、出してないぜ?」
 語尾が消え入りそうな呟きに、今度はシャマルが驚愕する。
 そんなはずはない、綱吉は確かに彼が追い返した。しかし呆然としている獄寺が嘘を言っているとはとても思えない。ならば、彼はいったい何処へ行った。
 どこへ消えた。
 学校を出て家に帰ったのか。しかしリボーンが待ち構える家に戻っているのなら、そのリボーンから連絡のひとつでも来ていそうなもの。
「鞄はあったから、てっきり俺は此処にいるもんだとばっかり」
 独白めいた彼の台詞を聞きながら、シャマルは混乱する頭を片手で押さえて考える。落ち着け、と片方では自分を宥めながら、ぐるぐると目まぐるしく駆け回る今朝からの出来事を必死になって整理した。
 綱吉が居ない。一度教室に寄った後保健室に来て、シャマルからベッドの使用を断られた。ここでシャマルは、彼が教室に戻ったものとばかり思いこんでいて、彼のその後を一切確認していない。
 獄寺が言うには、教室に綱吉の鞄は残っている。だが一時間目の授業から姿を現さず、昼休みにも戻ってきた形跡は無い。だから彼は綱吉がシャマルのところにいつものように居ると疑わず、保健室へ綱吉を呼びに来た。
 肝心要の綱吉という部分で、ふたりの考えは完全にすれ違っていた。
「じゃあ、何処に?」
 獄寺の自問に、午後からの授業開始を告げるチャイムが重なる。彼はハッとして顔を上げ、苦々しげに足元を捏ねた。腰に手を置いて爪先で何度か床を叩き、授業に戻るか綱吉を探しに行くか、逡巡しているのがありありと分かる。
 だからシャマルは、彼が言い出す前に自分から立ち上がった。
「お前は授業戻れ。俺が探す」
「え、けど」
「いいから、行け」
 数歩で距離を詰めて目の前まで来た男に反論を認められず、獄寺は伸びてきた腕に背中を押されて強引に廊下まで戻された。
 始業開始目前で、教室へ戻る幾つもの足音は次第に遠退く。それでもまだ渋る獄寺の背中をもう一度押して、不安げにしている彼の目に向かいシャマルは力強く頷いた。
「……分かった」
 僅かな沈黙の末、獄寺もまた頷いて返し上履きの底で床を蹴った。途中で一度だけ足を止めて振り返り、様子を窺ってからまた駆け出す。階段に差し掛かって角を曲がった彼の背中は、いとも呆気なく見えなくなった。
 獄寺が完全に去ってから、シャマルは肩を落とし盛大に溜息をついた。
 こんな結果が待っているとは露とも思わなかった自分を悔いる。いや、可能性はあったのだ。ただ直視するのが怖かった、綱吉と、どう向き合って行けばいいのかが分からなかった。
 全て自分が招いたこと、だから自分で決着をつけなければならない。でなくては、大人を――自分を信頼してくれた子供達に、示しがつかない。
「さて……迷子の仔猫ちゃんはどこに逃げ込んだかな」
 わざと茶化した言葉で呟いて、顔を上げる。迷いのない瞳で静まり返った廊下を睨み、彼は白衣を翻して駆け出した。階段を一気に最上階まで走り抜け、屋上に続く扉を押し開ける。大きく肩で息をしながら苦しげに唾を飲み、コンクリートで均された空間を見回すが、人の気配は皆無。
 思わず舌打ちが零れた。学校内での綱吉の行き場など、教室と保健室を除けば此処くらいしか思いつかない。特別教室や準備室には鍵が掛かっているし、後考え得るのは体育館裏などの薄暗い区画や、非常階段くらいか。いや、思い込みはやめた方が良い、どこで落とし穴が待ち構えているかも分からない。
 見落としている場所はないか、可能性は最初から絞り込むべきではない。駆け回る思考に気持ちが追いつかず、シャマルは苛立たしげに腕を振り回すと即座に踵を返した。五月蝿いくらいに床を蹴り、さながら死ぬ気で学校中を走り回る。
 名前は呼べない、彼の立場が今以上に危うくなるのは回避させるべき。だが大声で叫びたい衝動に幾度となく駆られ、その度に唇を噛み締めて朝方の傷を深くする。教室から顔を出して騒音を撒き散らすシャマルの背中を見送る生徒や教諭も何人かいたから、後で何をしていたのか問われるだろうが、そんな後のことは一切考えない。
 ただ、綱吉を見つけられさえすれば、他はどうでも良かった。
 屋上から順次下の階へ。特別教室棟も端から端まで駆け回り、地上階に到達した頃には息も絶え絶え気味。流石に疲れから膝が笑い、足を止めて荒い呼吸を繰り返す。だが立ち止まっている時間が長ければ長いほど、綱吉との距離が開いてしまう気がして、シャマルは顔を上げた。薄汚れた白衣の袖で噴き出す汗を拭う。
 この階が終われば次は外だ。気合を入れ直し、シャマルは深く息を吸うと強く床を蹴った。駆け出す。だが、特別教室棟から本校舎へ戻る進路の途中で、不意に首筋にチリリとした痛みを感じ取った。
 なにか、ある。
 長年培った勘が警告を発する。シャマルは今走る廊下と直角に交差する三叉路の手前で、ほぼ無意識の反応で首を引っ込め姿勢を低くした。重力に逆らって頭上に浮き上がった毛先の先を、高速で何かが走り抜けていく。弾かれた髪の毛の何本かが、静寂の中で宙を舞った。
 あと数秒反応が遅ければ、金属製の棒がシャマルの鼻を容赦なく叩き潰していただろう。慣性の法則で直ぐには止まれなかったシャマルだったが、身体を捻りながら靴底を強く廊下に押し付け、摩擦熱を起こしつつ速度を殺す。右足を内側に折り込んで左足は横へと伸ばし、屈めた腰の前では白衣の裾を引きずらせた右手が床を掴む。薄い煙を漂わせる低い位置で反転して彼を急襲した存在を睨むと、相手もまた不遜な態度を崩さぬまま、振り抜いた格好で止めていたトンファーを腕ごと胸の前に戻した。
 雲雀恭弥、並盛中に君臨する風紀委員長。
「廊下は走るな、って教わったことない?」
 曲げた肘を伸ばし、彼が言う。理屈は分からないでもないが、どう考えてもトンファーですれ違い様に一撃を食らわせてから放たれる台詞ではない。
「悪いが、ちょいと急ぎの用があってな」
 姿勢を変えぬままシャマルが言い返す。喉元を冷たい汗がひとつ流れていった。
「ふぅん」
 雲雀が左腕を鞭のようにその場で撓らせた。ひゅっ、と短く空気を裂く音が離れた場所にいるシャマルの耳にも届く。
 あまり相手にしたくない相手だった。正面切っての体力勝負だと若干分が悪いものの、戦いにおける経験値とトリッキーな技を使えば間違っても負けることは無い。しかし六道骸戦で負傷した彼の肋骨は、まだ完治していないはず。医者としての立場からも、好んでバトルに持ち込みたいとは思わない。
 但し、向こうがどう判断するかは別。降りかかる火の粉は、払うもの。
 けれど雲雀は攻め込んで来ず、その代わり瞳を細め人を見下ろしながら口角を歪めさせた。
「誰かを探してる、……とか?」
 誰か、の部分を強調した彼の声。ざわりとした感触がシャマルの背中を撫でていった。
「……っ」
「あたり?」
 答えない、というよりも答えられない。ガン、と脳天を強く叩かれた気分で、シャマルは一瞬我を忘れた。雲雀のどこか楽しげで、そしてとても底意地が悪い声が頭の中を繰り返し流れて行く。
 誰か、と言った。
 探しているのか、と言った。
 彼は、知っている。でなければ、単に廊下を走っているだけの人間を強引に引き止めて、そんな台詞を吐いたりしない。
 彼は、綱吉の居場所を知っている。そして雲雀恭弥が綱吉を隠し、シャマルがまだ探していない場所は、ひとつしかない。
 ――応接室!
 完全に盲点だった。雲雀は群れるのを嫌い、綱吉は彼を怖がっているところがあったから、好んで近づかないだろうという認識がどこかにあったのは間違いない。
 構えと警戒を解かぬまま、シャマルは素早く頭の中に並盛中の地図を広げる。現在位置、応接室の位置を確認し、瞬時に思考を切り替えた。視線は床の上付近を滑り、やがて右側から中央にかけて雲雀の両足を捉える。
 彼の臍近辺に動きは無い。シャマルの視点は、再び左へと。
 シュッ、と短く息を吐く。引き寄せた左膝と入れ替える格好で右膝に力を加える、方角は前方斜め上めがけて。跳ぶ。
「――!」
 雲雀が息を呑むのが分かった。だがその頃にはもう、シャマルは彼を置き去りにして応接室方面へと走り出しており、振り返らないので雲雀がどんな顔をしていたのかも分からない。
 彼がうっすらと笑む意味にも、気付けない。
「そんなに急がなくても、あの子は逃げられないよ」
 くっ、と喉を鳴らして笑う。雲雀は構えを解いてトンファーを仕舞うと踵を返し、シャマルが駆け抜けたばかりの廊下をゆっくりと歩き出した。
 一方のシャマルはといえば、ぜいぜいと息があがっているのも構わずに全力疾走の末、応接室のドアをそれこそ千切り飛ばさんばかりの勢いで開いた。
「ツナ!」
 大声で内部に向かって叫ぶが、シンと静まり返った室内からは一切反応がない。虚を突かれ、シャマルは身体半分をドアに寄りかからせたまま呆然となった。
 顎を汗が伝う。脱力するには材料が足りず、彼は端から端まで目の高さで応接室を見回してから、徐々に高度を下げて反対向きに室内を眺める。中央に置かれた応接セットの、入り口に背中を向けているソファに、クッションにしては大きい膨らみが横になっていた。
 黒い学生服を被せられ、上半身が隠れているけれど、それは紛れもなく、シャマルが躍起になって探し回っていた人物。あんなに大きな音を響かせたというのにまだ眠っているのか、それともわざと無視しているのか、起き上がる様子は見られない。
「ツ……」
 名前を不用意に呼びかけて、シャマルは口元を手で隠す。そういえば今までまともに呼んだ事が無かった現実が頭の中を登ってきて、顔が赤くなった。
 無意識にさっき呼んだ事でさえ、気恥ずかしい。
「……ん~……?」
 シャマルの背後では足音、前方では眠りから覚醒しようとしている綱吉のうめき声。雲雀を警戒しなければならないのに、つい綱吉ばかりが気に掛かってシャマルはそわそわと落ち着き無く応接室の入り口で視線を巡らせた。
 雲雀の学生服が視界の片隅に浮かび上がる。と同時に、上半身をソファから起こした綱吉が、腰から上を捻らせる格好で振り返った。肩に掛けられていた学生服がずり落ちて、綱吉の胸元が露わになる。
 白い開襟シャツの、上から三つ目か四つ目まで、ボタンが外されてはだけた、白い肌が。
「――――!」
「あれ、シャマル……?」
 寝ぼけた眼の綱吉が舌っ足らずな声で呼ぶの声が、聞こえない。
 雲雀の自信満々な顔が思い出される。振り向けば其処にはその当人が、楽しげに口元を緩めて立っていた。
「邪魔だよ?」
「貴様ぁ!」
 応接室の主からすれば、シャマルは入り口を塞ぐ障害物。横柄な態度を崩さないまま言い放った彼へ、頭に血が上ったシャマルは反射的に雲雀の胸倉を掴んでいた。
 慌てたのは綱吉。寝ていて、起きて、いきなり目の前でシャマルと雲雀が喧嘩を始めようとしていたのだから、無理もない。それも大人であるシャマルが一方的に雲雀に絡むという形で、だ。
 膝の上に塊になっていた学生服をソファの背もたれに引っかけ、綱吉が急いで駆け寄ろうと立ち上がった。そしてずり落ちた己のズボンに足を取られて、絨毯の上に転がる。
「うわっ」
 ベルトは外され、前ファスナーも全開。ぶつけた腕を庇いながら起きあがった綱吉の、あられもない格好にシャマルは再び目を剥いて、捕まえたままでいる雲雀を更に締め上げた。
 それだというのに彼は、余裕綽々の表情を変えない。
「暴力沙汰は困るんじゃない?」
「うっせぇ!」
「シャマル、何やってるの。ヒバリさんも!」
 今にも取っ組み合いの殴り合いを始めそうな雰囲気に、綱吉は必死にズボンを引き上げてファスナーを締め、ベルトをはめて服装を簡単に整えて駆け寄った。上履きを履いている余裕は無い。
 この野郎、とシャマルが怒鳴る。綱吉が入り口に到達する直前に、振り上げられた彼の拳は怒りのままに雲雀の横っ面を狙った。が、あっけなく胸倉を掴むシャマルの手を払い落とした雲雀は、最小限の動きでシャマルの拳を躱した。
 躱した上で身体を捻り、隙だらけのシャマルの右顎を狙って真下からアッパーの要領で拳を繰り出す。綱吉が見ている目の前で、ゴッ、といい音を響かせたシャマルの身体は僅かに宙に浮いた。白衣が視界いっぱいに広がり、シャマルは腰から応接室の床に崩れ落ちる。
 激高して冷静さに著しく欠けていたとはいえ、十以上も年下の人間に、こうも簡単に一撃を見舞われるとは、なんていう不覚。
「シャマル!」
 瞬間的に脳みそが揺れて動けないシャマルに、綱吉が駆け寄る。痛みを堪えて片眼を閉じていたシャマルは、喉奧から漏れる呻きを必死に飲み込んで、大丈夫だと示そうと手で綱吉の身体を押し返した。
 尊大な態度で歩み寄る雲雀に気づいた綱吉が、シャマルの前に膝を折って彼を庇う。そんな綱吉を瞳細めて見下ろした雲雀は、軽く腰を屈めて両手を伸ばすと、挑戦的な色合いが濃い目で見つめてくる綱吉の胸元を指で掬った。
 無言のまま外れたままでいる綱吉のシャツのボタンを、布を引っ張りながら留めていく。呆気に取られたのは綱吉も、シャマルも同じ。
「あ……りがとうござい、ます」
「いつでも、またおいで」 
 困惑を隠せない綱吉の礼に、雲雀は低い声で囁いて綱吉の鼻の頭に触れるだけのキスを落とす。ひっ、と息を呑んで固まった綱吉の後ろで、シャマルが赤くなったり青くなったり、忙しい。
 雲雀がその様を見て笑っている。
「ツナ、戻るぞ!」
「え? あ、待ってシャマル上履き!」
 殴られた部位の痛みなどどこへやら、急に立ち上がって綱吉の腕を掴んだシャマルに、面食らった綱吉は自分が靴下のままだと思い出してソファに行きたがった。しかし力関係で勝てる筈もなく、引きずられる形で入り口を目指す綱吉に、雲雀が笑いながら上履きを投げ返してくれた。
 落としそうになりながら胸で受け止めた綱吉の眼前で、ドアが閉じられる。肩で息をしているシャマルに眉根を寄せながら、綱吉は先に上履きを履いた。
「何やってるのさ、シャマル」
「うっせぇ。大体お前こそ、あの野郎と何してたんだ」
「え?」
 きちんと雲雀へ礼も言えなかった綱吉の不満顔が不満で、シャマルは苛々口調で綱吉を問いつめる。きょとんとしている彼に、思い出したシャマルは柄にもなく顔を赤くしてそっぽを向いた。
 シャツの前をはだけさせて、ズボンの前も全開にさせて。
 応接室では雲雀とふたりきり。朝一時間目から一緒に居たのだとしたら。
 想像がついたらしい。綱吉も耳の先まで真っ赤になって、毛先から湯気を放った。
「ちょっ、やだ、なんて事考えてるんだよ。そんな事あるわけないだろ!」
 容赦ない力で思い切りシャマルの背中を叩きつける。
「……廊下で寝そうになってたら、ヒバリさんに見つかって。応接室で寝て良いって言って貰ったんだけど、寝苦しかったからボタン外してただけだよ」
 若干言いにくそうに視線を泳がせた綱吉が、シャマルの背中に顔を埋めた。軽く握った両の拳も一緒に押しつけて、体重を預ける。
 鼻を擽る煙草の臭いに、汗の臭いが混じっていた。
「そう、か」
「そうだよっ」
 何もやましい事はしていないのに、変な想像をされてしまって、それが恥ずかしい。正面からシャマルを見返せなくて、綱吉はその姿勢のままもう一度彼の背中を拳で叩いた。
 シャマルが身体を震わせ、笑い出す。
「そうか、そうか……っていてぇ……」
 口を開けて笑っていたら、殴られた顎が痛み出して彼はその場で膝を折った。
 授業が終わる。保健室に戻って暫く待っていると、獄寺が走って様子を見に来た。彼は綱吉が無事な姿を見つけると、本気で泣きそうな顔になり、赤く腫れた顔を氷嚢で冷やしていたシャマルには腹を抱えて笑った。
 綱吉は心配を掛けた事を素直に詫び、残る授業を受けるために教室へ戻ると約束する。
 獄寺に連れられて出て行こうとする綱吉へ、シャマルは何も言わなかった。代わりに、綱吉がドアを抜ける直前に足を止めて、言った。
 背中を向けたまま、顔を上げて。
「シャマル、俺、多分だけど、もう平気、だから」
 言葉を探しながら彷徨う視線は、天井近くから足下へ落ち、彼は勇気を振り絞っているのか右腕を左手で捕まえて軽く袖をさすった。
 シャマルは黙って椅子に腰掛けたまま、たった数時間しか経っていないのに随分と様変わりした綱吉の背中を見つめ続ける。
「平気、だから……でも。また、何かあったら」
 来て良いかな。
 肩に力を込めて首を窄める綱吉。シャマルは氷嚢を掴む腕を下ろし、僅かに間を置いて、静かに瞼を閉じた。
 今度こそ、答えを間違えないように、囁く。
「ああ。いつでも、来い」

 
 応接室でソファの背凭れに腰を預け、雲雀が密やかに笑む。
 綱吉の体温を微かに残す学生服を羽織り、胸の前で組ませた腕、その指先で顎を軽く撫でる。思い返すのは、廊下で心細げに佇んでいた姿と、寝入っているあどけない顔。
「今日のところは見逃してあげるけど」
 そして脳裏に割り込んでくる、無粋な白衣の男。
 振り解いた手の中には、素早く握ったトンファーの無骨な棘。空気を切った何もない空間、雲雀の目には崩れ落ちる男の姿が浮かび上がって消えた。
「次は、僕が貰うよ」
 くっ、と喉を鳴らして。
 彼は静かに目を閉じた。

2006/11/23 脱稿