誓約

 白い方形を基本とした外観のコンスタンツィ劇場から出た瞬間、綱吉はそれまで必死に堪えていた欠伸を噛み殺し、横を行く人物から盛大に失笑を買った。
「ツナ、お前な……」
「だって、しょうがないだろ」
 呆れて言葉が出ない、を表情にそのまま表している相手に向かい、綱吉は軽く唇を尖らせた後、もう一度欠伸を掌で隠す。目尻に浮いた涙を指で拭い、更にもうひとつ。
 隣からは溜息が聞こえてきたが、綱吉は気付かない振りをしてやり過ごした。それから左腕に折り畳んで引っ掛けていたコートを着ようと、一番上にあるマフラーに指を伸ばす。
 と、歩みを止めかけていた彼の後ろから、団体で出て来た人々が断りもなくふたりの間に割り込んできた。一瞬にして視界が人で埋まる。ふたりして驚き、反射的に両側へ身体を引いて道を譲っていた。
 何処の国の観光客なのか、声高に異国の言葉を吐き散らす、周囲の景観にまったくそぐわないその一団は、人ごみを強引に突っ切る格好で進み、迎えのバスへ見る間に吸い込まれていった。
「凄い人……」
 思わずそんな感想を口にし、綱吉は最後のひとりを収容し終えたバスが無慈悲に閉ざされるのを眺める。
 周囲にいる観光客の団体は、何もあれひとつだけではない。まだ比較的チケットも手に入りやすいローマのオペラ座は、日本からの訪問者も多いようで、ロビーに居た時はパンフレット片手に座席を探す若い女性の姿もいくつか見られた。
 これがミラノのスカラ座であればまた顧客層も変わってくるのだろうが、観光の中心地でもあるローマは、こういったオペラ観劇もツアーに組み込みやすいのだろう。
 吐く息が白く煙る。日も完全に落ち、か細い月が雲の間に頼りなげに輝いているのが見える。星は無い、雲に囲まれた都市は空が今にも落ちて来そうだ。
 綱吉たちはバスが排気ガスを撒き散らして去っていくのを見送り、それから急に我に返って、彼はくしゃみをひとつした。
 忘れていたが、今は冬。建物内部は暖かかったけれど、今は外なのだ。手早くマフラーを首に回し、コートの袖に腕を通す。しかし悴んだ指がなかなか前ボタンを留められず、梃子摺っている間に帽子を被り直していた相棒が、呆れ気味に肩を竦めて近づいてきた。
「貸してみろ」
「う、御免」
 素っ気無く言った彼の手が伸びてくる。色白の肌をしている彼は、しかし今は黒の皮手袋に指先を覆い隠している。羽織っているトレンチコートの裾が動く度に揺れ、襟元からは彼のトレードマークともなっている黒のスーツが見え隠れしていた。
 綱吉は自分の首元から胸元にかけてを見下ろす。器用に、慣れた手つきで彼は綱吉のコートの、上三つまでのボタンを留めて最後に突き放すように綱吉の胸を突いた。横を、二十台後半らしき女性が笑いながら通り過ぎていく。その堪えきれない笑いが耳に届いた瞬間、綱吉は顔全体が真っ赤に染まった。
 寒いのに、顔だけが熱い。
「置いていくぞ」
 思わず両手で頬を押さえた綱吉だったが、さっさと先を進んでいる彼の背中に促され、慌てて駆け出した。
「待ってってば、リボーン」
 置いていかれてはたまらない。慣れないローマに、まだ上手く操れないイタリア語。シチリアとは随分離れているお陰でアクセントやらなにやらが違っているのもあり、同じイタリアでありながら此処は綱吉の活動拠点と随分異なっている。
 人も多く、車だって多い。まさしく観光の中心地。
 綱吉がリボーンの前に出る。進路を塞がれた格好で彼は足を止め、やれやれと首を振った。
「心配しなくても、我が親愛なるボスを置いていったりしないさ」
「どうだか」
 感情がまったく篭っていない口調で言われても説得力が無い。まだ赤い頬を膨らませて拗ねる綱吉の頭を小突き、リボーンはもう片方の手をトレンチコートのポケットに押しやってまた歩きだした。
 オペラ座のすぐ目の前はもう道路。沸き返った熱演の余韻を残し、上機嫌な人々が次から次へと街中へ流れて行く。深夜にも近いというのに、誰も彼もが浮き足立っている気がした。
「ぐっすり眠れたようだが」
 脇に立ったリボーンが、綱吉ではなく遠くを見ながら呟く。
「プラテア席で熟睡する奴は初めて見たな」
「……だから、悪かったってば」
 ローマの歴史在る劇場のひとつ、コンスタンツィ劇場で催されたオペラを、マフィアのボスなのだから一度くらい、教養を磨く意味でも見ておけ、というコメントと一緒に渡されたチケット。しかし元々こういう、長時間椅子に拘束されて鑑賞するものは、アクション映画くらいでしか最後まで耐えられた例が無い綱吉のこと。開始早々船を漕ぎ出した彼は、伸びのある歌声に導かれるままに、深い夢の淵へとあっという間に落ちていってしまったのだ。
 舞台にも近い、値段もそれなりにするチケットを熟睡の時間に使用した綱吉の所業は、決して褒められたものではない。
「大体、俺、まだイタリア語も良く分かってないのに、こんなの分かるわけないじゃん」
 マフィアのボスが言う台詞ではない。言い訳がましく両手の拳を軽く握り締めた綱吉の弁明に、リボーンは大仰に肩を竦めて帽子で瞳を隠した。
「だから、比較的初心者でも分かりやすいカルメンが選択されたんだろう」
「うっ……」
「あと、カルメンはイタリア語じゃなくてフランス語だ」
「むがっ」
 完全に反論を封じ込められ、綱吉はショックのあまりに大岩で頭を砕かれたかのような顔をし、その場で思わずしゃがみ込んだ。数歩先に行ってしまっていたリボーンは、長く伸びた足を止め、振り返る。
 人目も気にせずに両の膝を腕で抱き締めて胸との間に顔を埋め、道端に関わらずひたすら落ち込んでいる人間が、本当にあの泣く子も黙るボンゴレファミリーのボスだと、誰が信じるだろう。綱吉の明るい茶色の髪が、街灯のオレンジ色をした灯りに照らされて草原の芝のように輝いている。
「ツナ」
「どうせ俺はダメツナですよーだ」
 落ち込むのは勝手だが、何もこんな往来のど真ん中でやらなくても良いではないか。リボーンは走り抜けていく道路からタクシーを拾おうとしていたのを止め、通行人から苦笑を貰っている綱吉の頭を軽く撫でた。指先を柔らかな髪がすり抜けていく。
 いじけた声を出して顔も上げない彼に、リボーンは心底困った表情で天を仰いだ。薄暗い空に月の明かりは頼りなさ過ぎて、変わりに手が届きそうな近さにある街灯が、昼の太陽の如く彼らの頭上で輝いていた。
 眩さに瞳を細め、高速で駆け抜けていく乗用車を幾つも見送る。テールランプが彩る光の演出は、遠くから眺めればさぞかし美しい光景として映っただろう。
「ツナ、本当においていくぞ」
 ホテルに戻って休まなければ、明日の行動に差し支える。しかし梃子でも動かないと態度で表明している綱吉は、こうなると非常に扱いが難しくて、リボーンは帽子ごと頭を抱えると小さく舌打ちした。
「ったく……少し、歩くか」
 ローマへの訪問は単なる観光旅行ではないのだけれど、と頬を指先で引っ掻いて零した彼の言葉を、綱吉は決して聞き逃さない。
 落ち込んでいたのは嘘だったのか、と言いたくなりそうなくらいに、パッと目を輝かせた彼は勢いよく顔を上げた。
「本当?」
「……やっぱり帰るか」
「えー、やだやだ折角ローマに来たのにー」
 じたばたと手を広げて、子供のように駄々を捏ねる。だからローマは観光目的で訪れたのではない、といいかけたリボーンではあったが、どうせ聞いては貰えないだろうと先に諦めた。
 いつまでもしゃがみ込んでいては通行の邪魔になる。いい加減立てとリボーンが差し出した手を綱吉は元気に握り返し、勢いをつけて膝を伸ばした。冷え切った指先に、柔らかな皮手袋の感触が心地よい。即座に手は放されようとしたけれど、外し難く、綱吉は自分から力を込めて彼の手を握り返す。リボーンは僅かに眉根を寄せたが、特に何も言わなかった。
 外れかけていた綱吉のマフラーを直してやると、ふたり分の息が重なって白さを増した。
「で? 何処がご希望だ」
 綱吉がイタリアへ渡ってからまだ僅かに二年。その間ボンゴレのボスとしての知識をひたすら与えられ、また日々訓練に勤しみ休む暇も殆どなかった。重要な会議やなにやらに出席しても、最初は全くのお飾り程度でしかなかった彼も、最近は多少様になってきていて、今回のローマ訪問はその集大成とも言える。
 ナポリのカモッラのうち、最近勢力を拡大しつつあるファミリーとの会合がこの街で執り行われる予定で、それに出席するのが最大の目的だった。しかしそれだけでは面白みに欠けるだろうからと、同じく出席を予定しているディーノが綱吉の為に、先ほどのオペラ観劇を用意立ててくれたのだ。
 明日彼に会った時、感想を聞かれた場合、どう答えれば良いのだろう。チケットを渡してくれた時の、兄貴分の楽しそうな顔を思い出すと若干綱吉の良心は痛んだ。
 但し、それはそれ。また明日考えようと思考の端から追い出して綱吉は小首を傾げた。ローマの観光名所、すぐに思い出せるものは。
「えーっと……真実の、口?」
「遠い」
 にべも無い。即答で却下されてしまい、綱吉はまたしても唇を尖らせる。
 そろそろ日本で言えば成人式を迎える年代であるというのに、どうにも彼は言動が全て幼いままだ。彼から十歳以上も歳若いはずのリボーンの方が、ずっと大人びている。
 とはいえ実際、テルミニ駅近くにあるこのオペラ座から、真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会までは二駅以上の距離がある。道中にコロッセオがあるので見所が全くないわけではないが、この時間から歩くのは少々骨だ。
「行っても良いが、バスかタクシーになるぞ」
「えー、折角だし歩きたい」
 町全体が遺跡に囲まれているようなローマのこと、歩いているだけでも歴史的建築物に触れられて十分楽しい。だから乗り物で移動してしまうと、その楽しみが半減してしまって、綱吉には面白くない。
 そもそも綱吉自身、ローマに来たというだけで気持ちは浮き足立っているが、だからと言ってこの街に特別詳しいわけではない。知識としてあるのは、観光ブックに掲載されているような有名どころばかり。必然的に、そういう場所は観光客も多くなる。
 リボーンとしては、人ごみは出来るだけ避けたいのが本音。しかし悩んだ末に綱吉が望んだ行き先は、先ほどとは南北で逆方向に当たる、トレヴィの泉だった。
「はぁ?」
 聞いた瞬間、リボーンは凡そ彼らしくない素っ頓狂な声をあげてしまった。
「え? 知らない?」
「いや……というか、悪かった。お前の頭の中を甘く見ていた」
 片手で顔を覆い、心底嘆いている風情のリボーンに綱吉はつい怒りたくなる。馬鹿にされている気がしてのことだが、実際リボーンはそれを越して、完全に呆れ返っていた。
 トレヴィの泉。ローマでも屈指の観光名所であり、夜間はライトアップもされていて、この時間でもそれなりに観光客で賑わっている場所。肩越しにコインを投げればローマに帰ってこられる、という迷信もあり、人気のスポットだ。
 当然ながら、人は多い。観光客目当ての物売りも、スリも、無論の事。
 本当なら、もっとボンゴレのボスとしての自覚を持て、といいたいところではあるが、希望の場所へ連れて行ってやると言った手前、リボーンも引くに引けない。万が一が起これば自分が盾になればいいだろうか、そういう計算が頭の中を素早く駆け巡って、結局リボーンが折れた。
 分かった、と返すと綱吉は本気で喜んでいるらしく、両手を頭上に広げた後、ガッツポーズまでしてみせる始末。リボーンは一瞬、彼を殴ってやりたくなった。硬く握った拳を堪えて、息を吐いて力を抜く。
「ほら、行くぞ」
「道分かるんだ?」
「大体な」
 自然口調はぶっきらぼうになって、リボーンは先に立って歩き出した。綱吉がその二歩半後ろを進む。
 流れて行く路上の光、もう遅い時間だというのに途切れない人の流れ。自分達もそのうちのひとりだというのに、物珍しさが漂う夜の町並みを、綱吉は興味津々に見詰め続けた。
 白い大理石の彫像が見事な柱、それに支えられて聳え立つ築数百年を数える大型建造物。ひとつ路地に入ると、途端方向感覚を見失いそうになる入り組んだ町並み、古いものの中に新しいものが混在する不可思議さ。それがまるで違和感なく納まり、目新しい景色を繰り広げている。
 細い道の先が唐突に開け、予告もなく目の前に現れる広場。既に閉館時間を過ぎていて、外側だけを眺めるだけの美術館に、宮殿。それらに別れを告げて、再び小道を行き、やがて夜深い時間に関わらず人の気配が濃くなった。
 薄暗い路地から抜け出した先、唐突に、眩しい。
 池、いやこれが泉か。建物に取り囲まれた狭い広場に、人がぎっしりと詰め込まれている。プールのように広い噴水に、乳白色のバロック様式の彫像が並び、前後左右からライトを浴びて暗がりの中に一種の不気味さを残しながら陰影深く浮かび上がっていた。
 カップルが池を背中にして熱く抱擁を交わしている。その隣では、照れもしない男女がにこやかに談笑し、また別の集団は交代でカメラを構えて記念撮影に忙しい。池に背を向けてコインを投げ込む人も多く、冬の夜中だというのに人々の熱気でこの周辺だけが妙に暖かい気がした。
「凄い人」
「まったくだ」
 どの方向を向いても人間の頭がある。数の多さに思わず辟易したリボーンだったが、綱吉はむしろそれが嬉しかった。
 折角ローマまで足を伸ばしたのに、有名なところをひとつも回れないままシチリアに帰るだなんて、寂しすぎる。島に残してきた仲間への土産話のひとつくらいは手に入れておきたかったし、何より自分が、こんな風に一般の人々に紛れて当たり前のように街を歩ける現実が、嬉しかった。
 写真やテレビでしか見たことのなかった景色が広がっている。予想よりもちょっと小さい気がしたけれど、それでも満足だった。純粋に喜んでいる綱吉を横目にし、リボーンもまた、まだ呆れつつ、まぁ良いかという気持ちが漸く生まれてくる。
 綱吉が楽しんでいるのであれば、それでいい、と。
 思えばこの数年、忙しなかった。綱吉は立派なボスであろうと虚勢を張り続けていたし、リボーンもそんな彼を支える為に躍起だった。仲間は手を貸してくれたけれど、肝心要のところは綱吉がひとりで踏ん張るほかなく、周囲は黙って見守ることしか出来ない。
 綱吉は自分の部屋に居る時ですら緊張しっ放しで、心休まる余裕もなく、夜が明ければ仕事と特訓に励み、夜が更ければ倒れこむようにしてベッドで眠る日々の繰り返し。自由に外を歩き回ることさえ出来ず、いつだって護衛と言う名目の監視がついて回る。
 彼を守るためだとはいえ、本当のひとりきりになれない生活は、息苦しいものだったろう。
 それが今は、リボーンしか居ない。周囲に群れだって居る人々は、綱吉の正体を知らない。こうやって観光客に紛れてしまえば、彼は歳相応の、ただの無邪気な青年でしかない。
「リボーン、カメラ、カメラ!」
「あるわけないだろう」
 人が去った後の水辺りに駆け寄り、綱吉が肩越しに振り返ってリボーンを手招きする。日本語の大声に、日本人らしき観光客が反応して一斉に彼を見る。だが、無論誰ひとりとして其処に居る人物が、ボンゴレ、そしてイタリアン・マフィアを背負って立つ男だと気付かない。
 知るわけが無い。
 彼は、何処へ行っても何をしていても、どんな呼び方をされようとも、彼以外の誰でもない。
 沢田綱吉。それ以外の存在になど、決してなり得ない。
 彼はカシミアのコートが汚れるのも構わず、噴水を囲む外周の柵に寄りかかる。はしゃぎようは子供同然で、一緒に居ると恥かしい。実際、何人かは笑いながら通り過ぎていった。
 しかし思い返してみれば、彼があんな風に笑うのを見るのは、いつ以来なのだろう。考えて、すぐに思い出せないくらいに昔の出来事だと気付かされる。日本に居た頃は、笑ったり泣いたり、怒ったり拗ねたり、表情がめまぐるしく入れ替わり忙しいくらいだったのに。
 いつの間にか、彼はあまり笑わなくなっていた。そしてリボーンは、今の瞬間まで、その事実を忘れていた。
 近くに居すぎて見えないこともある。オペラのチケットを預けに来たディーノは、意味深にリボーンへそう耳打ちして帰って行った。あの時は意味がわからなかったけれど、だとしたら、あの跳ね馬は綱吉の変化に気付いていたのだろうか。
 分かっていて仕組んだのだとしたら、あの男は大した策士だ。いつの間にか教師役だったリボーンの上を、軽々と乗り越えていってしまっている。
「参ったな」
 してやられた気分でリボーンは天を仰ぐ。ライトアップされた建物に囲まれた狭い空は、変わらず雲が多く、薄暗い。
「リボーン」
「聞こえている」
 しつこいまでに名前を呼ぶ綱吉に、愛想の無い返事をして距離を詰める。見るからにウキウキしていると分かる綱吉は、やっと近くまで来たリボーンに一歩自分から近づくと、はい、と言って握った拳を差し出した。
 なんだろう、理解せぬままにリボーンは手を差し出す。皮手袋の掌に落とされたのは、金茶色の、ヴィーナスが彫り込まれたユーロ硬貨だった。
「ほら、投げる」
 自分は既にやった後なのだろうか、綱吉はリボーンの背中を押すと強引にその場で身体を反転させるよう試みた。しかしリボーンが足を踏ん張っているのでうまくいかず、綱吉は幾度も彼を急かしてトレヴィの泉を指差す。
「俺は良い」
「ダメ」
 拒否を表明すれば即座に拒否を拒否される。勢いで落としかけたマフラーを巻きなおした彼は、人差し指一本を立てて、今やほぼ身長が等しくなっているリボーンへ、説教する体勢に入っていた。
 トレヴィの泉に背中を向けて、肩越しにコインを投げる。そうすれば再びローマに戻ってこられるという言い伝え。しかしリボーンはローマに格別愛着は無い。必要であれば訪れる都市だし、そうでなければ素通りするだけだ。
 だが綱吉は頑として譲らない。どうしても投げさせようとして、今度はリボーンの右肘を捕まえた。
 彼の吐く息が首筋に掛かる。項を撫でるようにして通り過ぎていく感覚に、背中が震えた。
「これは、ボス命令」
 耳元で掠れるくらいに微かな声で囁かれた言葉に、喉が鳴る。リボーンは悟られぬよう感情を殺し、代わりに小さな溜息で誤魔化した。
「分かった、投げればいいんだろう、投げれば」
 だから放せ、と腕を振り上げ、リボーンはその勢いも利用して硬貨を後ろへと投げ放った。
 狙いも何もつけていない横柄な投げ方だったが、流石はヒットマン、というところか。小さな貨幣は綺麗な放物線を描き、水面で一度跳ねてゆっくり沈んでいった。
 綱吉が満足そうな顔で頷いている。いつだって自分がマフィアのボスである事を嫌がるくせに、こんなところで持ち出してくるだなんて。余程、自分にコインを投げさせたい理由があったのだろうか。リボーンは曲げた手首を左手で撫でさすり、綱吉を窺う。
 彼はすっきりとした表情で、鉄色の柵に両手を置いた。
「これで、また戻って来られるな」
「ローマくらい、近いんだからいつだって来られるだろう」
 素っ気ない態度で言い返せば、彼はムッとして頬を膨らませる。
 夜もだいぶ遅くなってきていた。人波は少しずつであるが引きつつある。自分たちも、いい加減ホテルに戻らなければ明日が危ない。
 けれど何故か去りがたい気分は薄れず、リボーンはそんな自分を持て余し気味に視線を浮かせた。同じく脇を向いた綱吉が、光に照らされている泉へと目線を投じる。鉄柵に腰を下ろし、曲げた膝に頬杖をついて。
「だって、さ。ふたり揃ってじゃないと、意味ないだろ?」
 何が、なんて無粋な事、聞けるわけがなく。
 誰と誰が、だなんて今更確認出来るわけもなく。
 身体に染み付いてしまっているポーカーフェイスが、こんな時だけ恨めしい。
「そうか」
「そう」
「この後どうする」
「戻るんじゃないの?」
「だったら」
 本当はトレヴィの泉からだとバルベリーニ駅の方が近い。しかし、観光名所を回りたいのであれば、一つ先のスパーニャ駅まで行けばスペイン広場が在る。顎に指をやり、革の肌触りを楽しみながら呟いた彼に、綱吉は少し不思議そうな顔をした。
 イタリアなのにスペイン、と言おうとしている彼の唇へ、もう片方の手が落ちていく。立てた人差し指で、開きかけていた彼の唇を軽く押さえて言葉を奪った。
 先手を打たれて無言で睨み返した綱吉に、リボーンが笑う。
「ローマの休日くらい、観たことはあるだろう」
 この街を舞台にした、おそらく最も有名な映画のひとつを例に出し、彼は意地悪く瞳を細める。視線を持ち上げて記憶の引き出しを開けているだろう綱吉は、しばらく呻いてから何かを思い出したのか、ああ、と拍子を打った。
 オードリー・ヘップバーンがアイスクリームを食べていた、あの教会前の大階段。
「行く!」
 綱吉が片手をあげて元気に返事をし、ひょいっと身軽に柵から飛び降りた。あまりの調子の良さに、リボーンは笑いが止まらない。
「なら、行くか」
 途中でカフェがあれば、少し休んで暖かなエスプレッソで眠気を飛ばし、身体を温めよう。タクシーは出来るだけ使わないで、ふたり並んで、話をしながらゆっくり歩こう。
 いつかまたこの街に戻ってきた時に、ここを一緒に歩いたと思い出しながら路を辿れるように、一歩ずつ、石畳を踏みしめて。
 また、来よう。コインの約束を果たす為だけでなく。
「リボーン、早く!」
 夜が明けてしまう。急ぎ足の綱吉をゆっくりと追いかけ、リボーンはどうしようもなく童心に戻っている己が心に誓ったボスに、左手を差し出した。
「お手をどうぞ、ボス」
 綱吉は一瞬きょとんとした後、不遜な笑みを口元に浮かべるリボーンを睨みつつも、僅かに頬を染めながら右の手を持ち上げる。
 強く握りしめた掌の暖かさは、きっと一生、忘れる事はない。

2006/11/21 脱稿