共鳴

 ――こういうの、好きなんだ?
 ――別に、好きじゃない。
 ――じゃあ、なんで聴くの?
 ――……知らない。
 ――でも、聴くんでしょ?
 ――……
 ――それ、多分。

 人ごみの中で彼を見出したのは、偶然の気まぐれでしかなかった。
 好きな漫画の最新刊が発売されているのを不意に思い出し、財布ひとつを持って出掛けたビデオショップも併設している大き目の本屋。目的のものは入ってすぐ左の漫画コーナーで平積みにされていて、あっと言う間に用事は終わってしまったのだけれど、すぐに家に戻るにはどうにも勿体無い気分だった。
 だから夕方、学生や仕事帰りのOLなんかも多い店内をすり抜け、いつもは立ち寄らない区画へと足を伸ばしたのも、本当にただの気まぐれ。
 夕食までのタイムリミットはまだ余裕があって、絶対に家では表紙も捲らないだろう参考書のコーナーを、いかにも勉強頑張ってます、という顔をしながら眺めてみたり、きっと三ページ目で気持ちよく眠れそうなハードカバーの小説が並ぶ棚を巡ってみたりと、存外に広い店内を十分過ぎる程見て回った。そして一通り満足して、最後に出向いたのがビデオやCDが並んでいる、ガラス戸で本屋とはスペースが分けられている一画だった。
 出入り口は本屋の内部にしかなく、万引き防止の装置が両脇に厳しく設置されている。綱吉はそれを見るたびに、自分はやらないのに最初から疑って掛かられているような気分にさせられるので、あまり好きではなかった。
 無論万引きによる被害が甚大である店側の、例え客であっても疑いの目を向けざるを得ないという葛藤は、全く分からないわけでもない。綱吉は白いフレームの機器をそっと指先で撫でながら、白い床と壁に覆われた、少しだけ空気の違っている店内に足を踏み入れた。
 本ばかりのところでは少し黴っぽい臭いを感じていたのに、此処ではそれがない。元々は此処も本棚が並んでいたのだが、数年前に改装工事をして今の形になった。今時分のご時勢、ただ本を売るだけでは採算が合わないのだろう。お陰で少し便利になったのだけれど、ともう思い出せない昔の本屋の姿を懐かしみながら、綱吉は邦楽のCDが並ぶ棚をまず目指した。
 ショップ内は、本屋よりも客層が若く、賑わっている気がした。数ヶ月前に公開されたばかりの映画が、もうDVDになって発売されている。幾つものポスターが壁を飾り、アイドルが華々しい笑顔を振り撒いている。照明もずっと明るい。
 同じ店の内部なのに、こうも違うのか。ディスプレイの仕方ひとつであまりにも変化が生まれてしまう現実を思い知りながら、綱吉は適当に、名前に覚えのあるアーティストのアルバムを棚から引っ張り出した。裏を返し、それから表を眺め、それだけで棚に戻す。すぐ隣には聞いた事もない名前のアイドルグループのCDがあったが、綱吉の興味を引く要素は何も無く、指は素通りする。
 折角来たのだから何か買って帰ろうか。財布の中身と相談しながら、本屋で渡された紙包みを脇に挟み直した綱吉は、ズボン後ろのポケットへと手を伸ばした。曲げていた腰を戻し、背筋を伸ばす。ふと、棚に下半分を遮られた視界に、何処か見覚えのある帽子を見つけた。
 一枚布で、先端に同色のボンボンがついている。花にしようとして失敗したような、少し荒っぽい作りの飾りをつけた帽子。首をすっぽりと包み込む襟の学生服、色は黒に近い紺。すらりとした肢体、細い顔立ち。顔の造詣に比べて少し大きめの眼鏡、そのすぐ下に特徴的なタトゥー。
 振り返った相手も、己を見詰めて呆然としている綱吉に気付いたらしい。元から乏しい表情を僅かに顰め、神経質な動きで眼鏡を押し上げている。
「あれ……」
 少し間をおいて、やっと綱吉は声を発した。
 数日前に発売されたばかりの、日本を代表するともいえる人気アーティストの曲が繰り返し店内で流され、場は騒々しい。しかしふたりの間にある空気は妙に冴え冴えとしていて、気まずい沈黙に喉が渇いてしまう。
 彼は眼鏡から手を離すと、綱吉になど最初から気付かなかった素振りをして、急に顔を背けた。視線は手元、CDが並んでいる棚へと。
 綱吉は唾を飲み、妙に高鳴っている心臓を服の上から軽く押さえると、彼とは違って上を向いた。右の方、棚の上辺に設置されたジャンル分けのプレートを探し、其処が洋楽のディスクが並んでいるエリアだと知る。何故か立ち去り難い気持ちにさせられて、綱吉は胸に置いた手を握り締めると、意を決して彼の居る区画へと向かった。
 数人の高校生のグループが、大声で話しながら奥へと歩いていく。行き違いになりはしないかと心配したが、彼はさっきの位置に立ち止まったまま、熱心に棚を眺めていた。細い指先が、順に左から右へとゆっくり流される。
 ひとりなのだろうか。見覚えがあるもう一人の姿を軽く店内で探すものの、物静かな彼とは違い騒がしいという印象を持っている相手は見付からなかった。視線を巡らせているところへ、いきなり声がかけられる。
「犬は、いないけど」
 静か過ぎて、もう少しで聞き逃してしまうところだった。自分に話しかけられたのだと二秒後に気付き、眼を数回瞬かせた綱吉は、あ、とも、え、ともつかない声を発して急ぎ彼――千種に向き直る。淡々とした、感情の読み取りづらい表情がその先で待ち受けていて、犬や骸に抱くのとはまた違った感覚に綱吉はどきりとした。
「犬に用?」
 千種にではなく、今綱吉が探していた相手に用事があると彼は誤解したのか。低く微かな声で問われ、綱吉は慌てて首を横に何度も振った。勢いが良すぎて耳元で風が唸る音がする。千種は「そう」と短く呟いて返し、そしてまた綱吉への興味を失った。 
 眼鏡の奥に潜む冷たい瞳は、無機物が並ぶ棚へと。隙間もないくらいにびっしりと、透明なケースに収められた幾つもの銀板を前に、彼は何を思うのか。
 柿本千種。六道骸の配下であり、忠臣。獄寺を窮地に追い込み、仲間であった筈のランチアへも裏切ったとみると容赦ない攻撃を放った。四肢が砕ける程の傷を負っても骸への忠誠心は覆らず、あの男の為ならば喜んで身体を差し出すような男。
 心を許すな、警戒しろ。警告は常に頭の端に残っているのだけれど、今綱吉の前にいる青年は、何処をどう見てもその辺に居る男子中学生となんら変わらず、ただ少し表情に乏しいだけの人に見える。
「音楽、好きなんだ」
 何か、話題を。続かない会話に息が詰まる思いで、綱吉は視線を泳がせながら後のことも何も考えず、そう聞いた。ケースの角に指を置き、下へ向かって引き倒す形で棚からCDを一枚抜き取ろうとしていた千種は、そのポーズのままで瞳だけを動かし綱吉を見た。
 下から見上げられる。睨んでいるような、そんな瞳に背筋が粟立つ。近づくな、そう警告している彩に、しかし綱吉はぐっと腹の底に力を込めた。
 確かに、一度は敵だった。最初に築かれてしまったその関係は、今更どう足掻いてもきっと覆らない。
 けれど今は、無理に敵愾心を剥き出しにしてまで、争わなければならない理由は無い。骸はまだ囚われたままであり、彼らは依然骸の救出も諦めておらず、またマフィアへの憎しみも変わっていないだろうけれど、少なくとも千種や犬、そして凪はボンゴレの保護下に置かれている。骸が霧のリング保持者であり続ける限り、この関係は変わらない。
 彼らは居場所を欲していた。自分達だけの、自分達の為の居場所を。骸はそれを作ろうとした、と思う。
 彼が戻ってこられるかどうかは、綱吉にも分からない。だけれど綱吉がボンゴレの名を背負う以上は、それまでの間、骸が守ろうとした彼らを、綱吉もまた守ってやりたい。彼らの居場所を、与えてあげたいと考えている。
 互いを何も知らぬまま距離を置き、相手側に踏み込まずに躊躇しているなんて、嫌だ。
「どんなの、聴くの?」
 千種が答えないままなので、重ねて質問を続ける。一歩、二歩と前に進んで距離を詰め、隣に並ぶと彼は僅かに身を引いた。半端に頭半分を引っ張り出されたケースが棚に残される。
 黒人男性がマイクを握り、歌っている写真が見える。顔は無論知らない、名前も横書きで咄嗟に読み取れないところに、綱吉の不器用さが滲み出る。
 千種が神経質に眼鏡を触る。顔を上げると入れ替わりに降りていった彼の眼が、そして指が、飛び出ていたケースを棚へ押し戻した。同じような色のジャケットが並んでいるお陰で、他に紛れると途端にどれがそうだったのか分からない。背筋を伸ばされると身長差が顕著に現れるのもあって、綱吉は小さく頬を膨らませてちぇ、と息を吐いた。
 一度殻に篭ってしまった相手を引っ張り出すのは、難しい。踵で床を蹴り飛ばした綱吉は、滅多に来ない洋楽コーナーをぐるりと見回した。後ろで両手を結び、紙袋に入っている漫画本を握り締める。
 千種に背中を向けていた綱吉は、その千種がその間ジッと綱吉を見詰めていたのを知らない。振り向いた瞬間に顔を逸らされてしまい、なかなか重ならない視線に苛々しているのが自分だけだというのも理解せず、千種がさっさとその場から立ち去るべく歩き出したのに慌てる。
 彼は既に手にしていた数枚のCDをレジに出すと、ポケットから裸のままの一万円札を抜き出した。ポイントカード云々の確認を求めてくる店員を完全に無視し、店のロゴが入った袋に入ったCDと釣銭を受け取ると、何も言わずに踵を返し、店を出て行く。
「あ、待ってよ」
 完全に綱吉は置き去りであり、見向きもされない。それが尚更悔しくて綱吉は地団太を踏む間もなく、去っていく千種を追いかけた。本屋の出口も出て、道路へ。日が暮れた空は暗く、代わりに道端に灯る街灯と店から漏れる照明が眩しい。
 目の前の大通りでは忙しなく車の往来が続く。買い物帰りの主婦が自転車のまま歩道を駆け抜けて行き、跳ねられそうになった綱吉は急いで端に避けた。
 前を向くと千種が足を止め、肩越しに振り返っているのが見えた。視線が久しぶりに合って嬉しく思っていると、呆気ないほどに視線は外されてまた彼は歩き出す。追いかけて、綱吉だけが赤信号に引っかかっていると、あちらはまるで綱吉を待つように交差点の向こう側少し行った場所で足を止めていた。
 ただ、追いかけると彼は逃げる。一定の距離は常に保たれたまま、綱吉は千種の背中ばかりを眺める。意地悪をされているのか、そうでないのかも分からぬまま、やがて周囲は住宅区に背景が切り替わり人の往来も激減した。
 もう少し行けば、綱吉は家に帰るかこのまま千種を追いかけるかの選択を迫られる。分かれ道までの距離を計算しながら、綱吉は急く気持ちを懸命に押し殺した。大声を出して呼び止めたら、今度こそ本気で逃げられそうな気がする。いや、実際既に彼は綱吉から逃げているのだけれども。
 拒絶されることは哀しい。受け入れて貰えないのは辛い。彼を追いかけるという事は、彼を追い詰めることになりはしないか。もう少し自分達には時間が必要だっただろうか、もっとゆっくり歩み寄る方法を探した方が良かったか。
 後悔先に立たずとはよく言ったもので、会話がない、ゴールも見えない追いかけっこの最中、他に考える内容を持たない綱吉は次第に、悪い方向へ思考が巡っていった。暗くなる空と重なるように、気持ちも沈んでいく。千種との距離が次第に開きつつあるのも忘れ、やがて彼の足は完全に止まった。千種の背中はもう見えない。
 唇を噛み締める。情けない、たったひとりの心さえも掴めずに、何がボンゴレ十代目か。
 戦う力を手に入れたところで、ひとりも救えない。そしてなにより、自分であれば彼らと心を通じ合わせられるのではないか、という独りよがりの思いあがりが、恥ずかしかった。
 鼻の奥がツンとする。こんなことで泣きたくないのに、勝手にあふれ出す涙が睫を濡らした。
 往来のど真ん中で立ち止まり、いい歳をした男が泣いているだなんて、格好悪い。分かるのに動けなくて、綱吉は軽く握った右の拳を瞼に押し付けた。嗚咽が零れそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。それでも止まらないしゃくりが肩を揺らし、耐え切れなかった涙がひとつ頬を伝った。
「――っ」
 誰かが息を呑む。人の気配を間近に感じ、綱吉は反射的に顔を持ち上げた。
 夕闇、既に茜色も薄れ群青色と藍色が交じり合った空が、地平線まで覆い尽くそうとしている世界で、際立つまでに白い帽子がやけに瞳に眩しく輪郭を描き出していた。
 どうしたのだろう、あまり彼の事は詳しくないけれど、とても彼らしくないくらいに息を乱して肩で呼吸をしている。口を大きく開けて熱を含む息を繰り返し吐き出して、千種が、呆然としたままの綱吉の前に立っていた。
 さっきまで居なかった。綱吉を置いて、先に進み、そのままねぐらへ帰っていったはずの彼が。
 電信柱に結び付けられた街灯の弱い明かりに照らされている彼の表情は、何故だろうか、綱吉の目にはとても怒っているように見えた。眼鏡のレンズ越しに感じる視線が、咎める色を含んで綱吉を射抜いている。
 無視されて、置いていかれたのは綱吉の方なのに、何故彼が怒るのか。わけが分からないまま、涙も引っ込んだ綱吉は呆然と彼を見上げ返す。
 千種の吐く荒い息、鼻先を掠めて耳に響いてくる。走って来たのだろうか、気温の下がった周囲に白い煙が薄く広がってすぐに消えていく。
「なんで……?」
 どうして、戻ってきたのか。答えを聞きたかったのに言葉が出ない。
 千種がきっと表情を引き締め、苦しげに歪めた。伸びてきた彼の腕が、相変わらず無言のまま、綱吉の肩から背中へと回された。引き寄せられて、そのまま。
 抱き締められる。
「――え?」
 目を瞬かせ、綱吉は現状を理解しようと懸命に脳細胞を働かせた。
 街中の店で、千種に会った。彼は綱吉を全く相手にせず、店を出て行った。綱吉はなんだか彼とそのまま別れ難く感じて、追いかけた。千種は綱吉を無視してずんずん進んでいく、けれど距離が開きそうになると足を止めて、綱吉を待った。
 一定の距離、一定の間隔。近すぎず、遠すぎず、それはまるで今の自分達の間にある心の距離にも似て。
 でも、綱吉が先に足を止めた。自分から歩み寄ろうとしていたくせに、先に、綱吉が追いつくのを諦めた。
 気がついた彼が足を止め、振り返った先には。
「……れも、居ない」
 掠れる声、千種が耳元で呟く。綱吉は身体の自由を奪われたまま、必死にその声を拾おうと神経を集中させる。
 道の脇にある家から響いてくる音楽が五月蝿い。犬が吼える声がこんな時に限って大きく聞こえる。
「誰も、居ない……っ」
「……?」
 痛いくらいに切なくなる声が綱吉の脳内に幾度と無く反芻される。
 誰も居ない。後ろに、居たはずなのに、確かに。それなのに振り替えればもうそこに、誰も――――あの人が、いなくて。
 どこにも、居なくて。
 ズン、と綱吉の胸の深いところに、激しい衝撃を伴ってとても重いものが落ちてくる。腹の奥底に響き渡る衝動に、唖然と目を見開き、綱吉は、自分が犯した罪の意味を漸く知る。
 彼は探していたのだ。彼は綱吉の後ろに、骸を見た。
 何度も立ち止まるのも、振り返って後ろを確かめるのも、綱吉が――骸に重ねた綱吉が、其処にいるのを確かめる為。いや、違う。綱吉でなくてもいいのだ、骸でなくても、きっと彼は構わないのだろう、本当は。
 ただ、誰かが。
 自分の後ろに、自分の後を……もしかしたら、前を。
 隣を。
 歩いてくれる、誰かを捜していたのだとしたら。
「……めん……」
 綿雪のような言葉が唇から零れて行く。
「ごめ……ごめん……」
 持ち上げた両腕が無意識に千種の制服を握りしめた。身体にぴったりと合わさる、余裕の少ない布地。それをたぐり寄せ、指でかき集め、ぎゅっと大きな皺をいくつも作り出して、捕まえる。伏せた額が彼の首筋に埋もれる。耳の端が彼の被っている帽子に触れた。
 綱吉の声に、千種が僅かに身じろぐ。ハッと、我に返った呼気が微かに聞こえた後、彼は綱吉から手を離す。しかし綱吉の両腕に拘束されたままの彼は、自分になのか綱吉に対してか、驚きを隠さぬ表情で戸惑いを声に出した。
「なんで……?」
 君が、謝るの。
 かき消えた語尾がそう問うている気がして、綱吉は少しだけ曇らせていた表情を和らげた。
「さあ、……なんでだろ」
 自分でも分からなくて、苦笑する。だが、謝らなければならないと感じた。ただそれだけ。
 くっ、と喉を鳴らして笑うと、困惑を消せぬまま彼が顔を上げる。同じく見上げた綱吉と間近で、暗闇の中でもはっきりと分かる近さで視線が重なり、自然綱吉は微笑んでいた。
「俺は」
 何気なく囁いた、そのことばで。
「俺は、此処にいるよ」
 捕まえたその細い身体をもう一度抱きしめて、綱吉は精一杯の笑顔を、浮かべた。

 どうぞ、と渡した缶コーヒーを、彼は僅かに瞳を泳がせながら受け取った。
 夜闇に包まれた町中の小さな公園は静まり返り、白色電球が心細い明かりを提供している。ペンキの剥がれたベンチに腰を下ろした綱吉は、背中越しに千種がプルトップを開ける音を聞いた。
「落ち着いた?」
 少し意地悪な声で問いかけると、重ね合わせた背中が動き、彼が頷いたのが分かる。綱吉は振り返らず、自分の分に買った缶の紅茶を開けぬまま両手で包み込んだ。
 冷えた空気が周囲を漂っている。自分の吐く息の白さに驚きつつ、綱吉は指先と掌を伝う缶の暖かさに安堵を覚えた。それは、人肌のぬくもりによく似ている。
「……みっともない、ところ」
 見せた、と言おうとしたらしい。千種は綱吉が見えない場所で視線を漂わせ、飲み込んだコーヒーの思いの外苦い味に眉根を顰めつつ、指先を濡れた箇所へと送り込んだ。見つめる先は微かな光に照らし出された手元、握りしめた缶。
 誰かにおごって貰うなんて、そういえば初めての経験かも知れない。そんなどうでも良いことを思いながら、千種は次に話すべき言葉を懸命に探した。
 こんな風に、戦いの場を離れ殺伐とした空気も一切無い会話など、ずっと無縁だった。だからいざこんな状況に置かれた時、共通の話題なんてそうあるものではなく、どう場を繕えば良いのか分からない。
 最初に店で会った時だってそうだ。話しかけられても、生来の無愛想さが先に立って何を話せば良いのか、どう相手をすればいいのか、分からなかった。
 背中越しの綱吉が身体を揺らす。触れあった場所の布が擦られ、千種は俯いていた顔を上げた。振り返ろうと首を動かしたところで、思いとどまる。
 なれ合うつもりなど、最初からない。
 横並びになるのがどうにも出来なくて、千種はベンチの端で背もたれを右側にして座っていた。綱吉はそんな彼を自動販売機から戻って来たところで見つけて、小さく笑いながら、両足をそろえて持ち上げ、敢えて千種と背中合わせになるよう居場所を定めた。
 彼が見上げる先の空には、淡く輝く月がある。薄い雲に時折隠されながら、ぼんやりとした輪郭線は、まるで今の自分たちの心のようでもあり、なんだか見つめていると苦しくなって、綱吉は両手の中の紅茶に口をつけられずにいた。
 ただそっと包み込み、頬に押し当て、その温かさに心を向ける。
「ごめんね、なんだか」
「……謝る事なんて」
 自分でも何に対しての謝罪なのか、もう分からないまま口に出た言葉を、簡単に千種は否定する。綱吉は右親指の爪で缶の上辺と側面を区切っている角を擦りながら、銀の縁が摩耗して中身が溢れ出して来ないだろうか、なんてありもしないことを考えた。
 そのうちに擦る角度がおかしかったのか、親指がアルミの表面からはね除けられて大きく滑った。耳に微かな音が響き、あっと息を呑む。その動揺だけが伝わったらしい千種が、様子を窺うようにして肩越しに綱吉を見た。
 カサリ、とふたりがそれぞれ同じ場所に置いていた荷物が震える。
 ビニル袋に入れられていた千種のCDが、押し出される格好で綱吉の腰に当たった。薄茶色のデコレーションがされた缶から斜め下へと視線を移した綱吉が、まず先にそれを見つける。確か二枚ほど彼は購入していたように記憶している、コンパクトディスク。
「音楽、好きなの?」
 店で聞いたのと同じ質問を繰り返す。あのときと同じく、返事はないだろうという前提での問いかけに、しかし千種は視線を前方へ戻すと、持ち上げた手で眼鏡を直そうとして、何を思ったのか、途中で動きを止めた。
 移ろう視線が、闇に包まれた住宅地の頭上に漂う。
「……」
「中、見ていい?」
 そういう無言の返答は想定の範囲内だった綱吉は、気落ちする事なく勝手に話を進める。答えに躊躇している千種を、答え無いのは構わないという合図だと勝手に解釈し、彼は上半身を捻って自分が置いた紙袋を覆い隠している袋を持ち上げた。
 膝の上に移動させ、口を広げる。がさがさという音を立てて取り出されたのは、綱吉が聞いた事も見たことのない歌手のジャケットだった。男性のものが二枚、女性のものが一枚。いずれも黒人か、ヒスパニック系を思わせる肌色をしている。落ち着いた色合いの、どちらかといえば暗めの、英語なのか外国語が飾っているCDだ。
 当然、綱吉は読めない。けれど、うち一枚だけ日本語で解説の帯がついていた。片仮名で記されている歌手名は、どことなく聞き覚えがある気がする。
「こういうの、好きなんだ?」
 それを手に取り、目の前に掲げ持って呟く。裏返してもそこに記されているのは英語のタイトルばかりで、薄いビニルに包まれている中身を取り出すのも気がつけた綱吉は、表面を飾っている歌手の顔をぼんやりと眺めた。
 帯に書かれている文字を流し読む。アメリカで売り上げの記録を達成したとか、そういう飾り文句が大きく並んでいるものの、彼の歌を知らない綱吉にはピンと来ない。
「別に」
 千種が呟く。注意が逸れていて危うく聞き逃すところだった綱吉は、え、と息を呑んで下ろそうとしていた手を止めた。
「好きじゃない」
 独白めいた、どことなく吐き捨てるような感じを抱かせる口調。それは本心から発せられた声として到底思えるものではなく、ふぅん、と曖昧な相槌を返した後、綱吉はCDケースを膝元に置いた。プラスチックのケースに、公園の細い照明が反射して一部分だけが明るく輝いている。
 月さえも写し取りそうな、透明な黒。
「でも、わざわざお金出して買ったんだよね。好きじゃないなら、じゃあ、なんで聴くの?」
 店にまで足を運び、レジを通して代価を支払う。不要なものをゴミ箱に捨てる為だけに、この手間をかけるはずがない。CDはそこに収録されている音を、歌を聴くためにある。千種が購入したものだって、そうだ。
 綱吉は光りを浴びている部分を指でたどりながら、反対の手で握りしめている缶が徐々にぬるくなっていくのを感じ取る。暖めようと指先に吹きかけた息は、思いの外冷たかった。
 千種はすぐに返事をせず、眼鏡の奧で瞳を細めた。
 何故、と問われても困る。分からない。ただ、綱吉が今持っているCDの歌手は、以前から幾度も歌声を聞き、歌詞を読み、触れてきた。この国で気まぐれに立ち寄った店に、隠されるようにして並んでいるジャケットを見つけて、手が伸びた。
 ただそれだけ。
「……知らない」
 理由なんて知らない。懐かしさを感じたのだと言われればその通りかもしれないが、過去の感傷に浸るほど自分は惨めだと思いたくなかった。
「でも、聴くんでしょ?」
 無邪気な、時として相手の心を遠慮無く抉る綱吉の声。彼の指は動きを止め、冷たいケースの側面を握りしめた。指の腹が、ケースを包んでいるビニルの切れ目を擦る。開けて中を見たい気持ちに駆られながらも、勝手に開けたら怒るだろうなと、そう苦笑いを浮かべて彼は袋へとCDを全て戻した。
「…………」
 千種が息を吐く。その動作が背中を通じて綱吉にも伝わる。
 少し意地悪だっただろうか、袋を脇に置こうと動かした腕が、力無く垂らされていた彼の肘に当たった。過剰な反応を示して彼は腕を引く。綱吉は気配だけで笑みを浮かべ、逃げていくその手を、感覚だけで追いかけた。
 捕まえる。彼の手は、綱吉の手も、だけれど、冷たかった。
 それでも、握った先から脈動を感じる。生きている力強さを、感じ取る。
 千種が息を呑む。振り返ろうとしたけれど、それは綱吉の背中全体で阻まれてしまった。
「あのさ、俺、思うんだけど」
 彼の指は細い。そして幾つもの細かい傷痕が刻まれている。綱吉のものとは違う、平和な世界に生きてきた彼とは、どこまでも違う。
 きっと、誰か綱吉の知らない人の血が、そして彼自身が流した血が染みついた手なのだろう。それでも、綱吉はこの手を汚いと罵れない。むしろ、綺麗だと思う。
 まっすぐで、暖かくて、正直で、本当は優しい手なのだと、信じようと思う。
「それ、多分」
 だから精一杯の笑顔を作って、綱吉は肩越しに、彼の肩に自分の肩をぶつけながら振り返った。下からのぞき込む彼の瞳は、闇夜に浮かぶ月のように澄んでいた。
「好き、って事だと思うよ」
 好きだから聴く。好きだから探す。好きだから求める。とても単純で、簡単で、ありきたりな、けれど見つけるのがとても難しい答え。
 なんて事はない、日常に溢れている感情。でも、それを逐一ことばにして伝える作業を、人はつい忘れてしまう。
「すき……?」
「うん」
 綱吉は空っぽになった膝を胸元に引き寄せた。左の手で二本揃えて抱き込む。捕まえた手を逃そうか迷ったが、掌の内側で千種のそれが堅く丸くなったのを受け、放すタイミングを見失った。
 どくん、どくん、と心臓の音が響いてくる。触れあう背中、肩、そして指先から、彼の体温を感じる。流れていく血液と、流れ込む熱を受け止める。
 息を吐いた、ふたり、ほぼ同時に。気がついて綱吉が笑う。意味が分からないまま、千種も、引きずられて口元を緩めた。
「なに?」
「ううん、なんでもないけど」
 何かおかしかっただろうか。率直に聞き返す千種に、綱吉は理由などなかった事を告げる。だが、そうか。これもまた、日常忘れかけている感情のひとつに分類出来るのかもしれない。
「すき、だから?」
 訊いたのに聞き返されて、千種は目を瞬かせた。話が一気に飛躍した。理解が追いつかず、表情を硬直させていると、綱吉がまた笑った。拳に重ねられている綱吉の手に、更に力が籠もる。
 暖かい。人の肌はこんなにも無条件に自分の心にまで染みこんでくる熱を持っているのかと、思い知る。
 骸や犬たちとの関係には、馴れ合いに近い触れ合いはほとんど無かった。眠る時に身を寄せ合う事くらいならあっただろうが、それは夜の冷気に体温を奪われてしまわぬ為の手段でしかなかった。彼らは転んでも差し出す手を持たなかった。幼さ故に、自分ひとりが生きるだけで精一杯。
 でも、立ち止まって、追いつくのを待ってくれた。それが救いだった。
「知らない」
 彼は千種とは違う。千種が知る人間の、どれとも異なっている。首を振り、視線を逸らし、千種はすっかり冷めてしまった缶を握り直す。左手は温かく、右手は冷たい。左側から流れ込んだ熱が、右側へ到達する前に失われてしまう。
 彼と同じ世界には行けない。でも、もうこの暖かさを知ってしまった以上、元の暗い世界にも戻れない。
「そっか」
 綱吉はそれ以上何も言わなかった。彼もまた千種から視線を逸らし、力を抜く。綱吉に凭れ掛かられて、千種への加重が増した。
 しかしそれは、決して嫌な感情を抱かせるものではなく、むしろ心地よい安らぎを彼へと与える。触れあっているのだと、例え視線が交錯しなくてもしっかりと感じ取られて、安心する。
 まだ自分たちには、時間が足りない。正面切って向き合うだけの時間が。
「今度、聴かせてよ」
 何を、と綱吉は特に限定しなかった。千種も、
「分かった」
 敢えて問い返さず、頷いて目を閉じた。拳を解くと、指の間に綱吉の細いそれが潜り込んでくる。手首を裏返して掌を重ねると、綱吉は少し驚いたようだったけれど、特に何も言わずにそのままで居てくれた。
 心臓の音が聞こえる。自分のものか、綱吉のものか、ふたりのものか。
 冷え込む夜気は彼らを容赦なく刺す。でも暖かい、と思った。
 いつか、そう、いつか、でいい。
 ひとつのヘッドホン、左右を分けて、ふたりで笑い額をつき合わせながら一緒の音楽を聴けたら。
 同じ音をふたりで一緒に聞けたなら。
 響きあう音を、どうかどうか、共有出来ますように。
 彼が振り返り立ち止まらなくても、すぐ傍に誰かが居てあげられますように。
 微かな祈りを瞳に込めて、綱吉は静かな月を見上げた。

2006/11/12 脱稿