彼岸花

 じりじりと照りつける陽射しは、こちらの状況など一切お構いなしに容赦が無い。窓の外を、身を低くして伺い見ると、世界は僅かに歪んで見えた。
「あまり前に出るな」
 背後から、潜めた声で注意され、体の位置を元に戻す。たった数秒の出来事なのに胸の中は緊張感でいっぱいで、吐き出した息は深く長かった。
 ヒュンッ、とその気を抜いた瞬間を狙ったかのように、耳元を高音が掠め通る。一秒後、窓の反対側にあるコンクリート打ちっ放しの壁に何かがぶつかり、抉られた破片が弾けて散った。
「ったく」
 先ほどの声が呆れた様子で舌打ちする。冷や汗が背中を伝った。もう少し首を竦ませるのが遅ければ、危なかった。
「狙われている自覚、持て。馬鹿ツナ」
「……ごめん」
 振り返った先、黒の帽子を被り直した男に、小さく舌を出して謝る。威嚇のつもりなのか狙撃はもう一度、二発続いて止まった。すっかり凹凸だらけになったコンクリートの壁を眺め、外気に暖められた窓辺の壁に背中を預けた綱吉は、やれやれと首を振った。斜め右では、彼よりも若干背丈が低いものの、年齢不相応の表情と態度の男が黒光りするライフルを弄っていた。
 ボロ布に薄く油を染みこませ、汚れを拭いつつ関節部を磨きあげる。時折両手で持って構えを作り、標準を確かめ、繋ぎ合わせられている部分にも指を添えてずれていないかも調べていく。組み立て式のライフルは、随分長い間使われもせずにこの小屋に放置されていたものだ。
 この島には同じような小屋がいくつもある。いつ、どこで、誰に襲撃されるかも分からないから、逃げ延びて援軍を待ち、安全に過ごせるように用意された施設。普段は別の目的で使われていたりするので、表向きはボンゴレの息がかかっているそれだとは分からない。綱吉たちがいる小屋も、普段は刈り取った干草を保管する為に利用されている。
 ただ、ずっとこの地域では襲撃事件も起きていなかったようで、床下に隠されていた無線機が使い物にならなかったのは予想外だった。武器も弾薬の一部が湿気てしまっており、使えない。
「リボーン、やれそう?」
「さあな」
 バラバラと床にライフル用の弾薬を転がし、使えるものを選別している最中の男に問うても、返される声は実に素っ気無い。本当に大丈夫なのだろうか、と心配は常に頭の片隅にあるのだけれど、この男と一緒ならば問題ないだろう、と安堵している自分も確かに存在している。
 彼は慣れた手つきで、旧式のライフルを組み立て、使えるところまで持っていった。犯人は三人、もしくは五人以内の少人数で、接近せずに遠距離からライフルで狙い撃ちをしてきている。車での移動中にまず襲われた。運転手が真っ先に撃たれ、次いでエンジンを。咄嗟にリボーンに手を引かれて脱出し、彼の記憶を頼りにこの小屋に逃げ込んで、既に一時間。
 忍耐勝負だ。
 汗がじっとりと肌を覆う。水分補給さえままならない状況で、空腹はまだ起こらないが、疲れは蓄積される一方だ。いっそ小屋に攻め込んできてくれれば楽なのに、と軽く握った自分の拳を見下ろし、綱吉は思う。
「ダメだぞ」
 その心を見透かしてか、準備を終えたリボーンがぴしゃりと言った。考えを読まれて綱吉の胸がどきりと跳ねる。
「だけど」
「戦うのは、俺ひとりだ」
 綱吉は直接相手と拳を交えて戦うのを得意としている。だから今回のように、遠隔地から一点集中で銃撃されるのにはとことん弱い。更に銃のセンスに至っては皆無に等しかった。護身用に短銃は持たされているものの、射程距離はライフルのそれを大きく下回る。つまり、対応できない。リボーンも同じだ。
 だからこの小屋に隠して用意されているものを頼ったのだけれど、この情報も相手側に伝わっていたのだろうか。こうも悪条件が重なると、無線機も奴らに破壊されたと勘繰ってしまう。
「疑うな」
 ひっそり、汗の引く声。いつの間にか至近距離に来ていたリボーンが肩越しに語る。
「血の盟約は絶対だ。裏切りは死を意味する。お前は、信じていればいい」
 ボンゴレの隠し拠点の場所を知っているのは、内部構成員のみ。この場所が敵陣に知れているのだとしたら、それは即ち内通者がいる証拠。だが、マフィオソーたちの連帯は絶対であり、オルメタもまた絶対。それに上に立つ者の動揺は下へ伝染する。
 リボーンの揺ぎ無いことばに、綱吉はただ黙って頷いた。
「分かった。……それで、どうするのさ」
「やるしかないだろう」
 携帯電話は妨害電波が放たれているのだろう、一切通じない。無線も使えない。仲間を呼べない。敵は彼らの位置を正確に把握しているけれど、綱吉たちはそうではない。どこから、誰が、どのようにして狙っているのか。はっきりしているのは、ボンゴレのボスの地位を継いだばかりの綱吉の命を狙っての行動、ということくらい。
 じりじりと地表を焼く太陽が恨めしい。この国は、この島は、綱吉が生まれ育った島国よりもずっと、空が高く、近い。
 青い。
 奴らの銃口がぴったりと綱吉を狙っているというのに、本人はあまり死の実感を抱くことなく、低い位置から見上げた空の美しさに息を潜めている。リボーンが自覚しろ、と言ったばかりだというのに、彼は。
 自分が死なないことを、心のどこかで確信しているのだろう。
 やれやれと肩を竦め、リボーンは膝を薄汚れた床について彼の元へ移動した。横に並ぶと、互いの汗の臭いが強まる。呼吸する音、唾を飲む音も近い。
「やれるの?」
「やるしかないだろう」
 同じ台詞を繰り返し、肌の白い、綱吉よりも十以上年下のくせに、熟練の狙撃手でもある男は乾いた下唇を舐めた。目を閉じ、充填した弾薬の数を確認する。安全装置を外しているのを手探りで確認し、細まった銃口を、枠もガラスもなく、ただコンクリートを四角く切り取っただけの窓に添える。
「離れていろ。暴発するかもしれない」
「けど」
「大丈夫だ」
「だったら、此処に居る」
「……勝手にしろ」
 押し問答は綱吉に軍配。諦めた風に吐息をひとつ零し、リボーンは帽子の鍔を持ち上げた。先端が窓から少しだけはみ出す。直後、狙い澄ました狙撃手から放たれた弾丸が彼の帽子を弾き飛ばした。
 黒が、部屋の中をゆっくりと舞う。
 刹那、耳を劈く炸裂音。
 一撃が相手から放たれ、帽子を後ろに飛ばしたリボーンが即座に立ち上がり、大して標準も合わせていないだろうに引き金を引いたのだ。そしてすぐに膝を折って身を隠す。綱吉はライフルが爆発したのではないかと口をぽかんと開き、その一部始終を見守るしか出来なかった。
 リボーンは平然とした様子で、手動で空薬きょうを排出すると次に備えて構えを取る。
「あそこか」
 鼓膜が震えて高音が綱吉の頭の中を駆け巡っている最中、薄らとそんな彼の、不遜な声が聞こえた。
 ヒュンヒュン、と先ほどまでのものとは明らかに違う弾筋が窓から飛び込んでくる。リボーンは窓を越えず、外壁に当たって落ちた分も数え、大体の見当をつけてまた立ち上がり、もう一度ライフルの引き金を引いた。
 そして合計三発撃ち終わった後、周囲は急に静まり返る。
 窓辺で立ち尽くすリボーンは無傷。左腕を引き、銃口を足元に下げてじっと外を睨んでいる。その表情は険しいままだ。ライフルからは薄い煙が棚引いている。身体を縮めこませてしゃがんでいた綱吉は、両耳に押し当てていた手を外し、顔を上げた。
「……終わった?」
「いや」
 短く、否定して、途端に鬼の形相になったリボーンが手にしていたライフルを投げ捨てた。踵を返す。綱吉が身構える間も与えない。
 駆け寄ってきた彼に抱えられ、綱吉は藁の積まれた床に倒れこむ。驚きに目を見張り、舌を噛まないようにするのに必死になる。リボーンの両腕ががむしゃらに綱吉を抱きしめ、その胸に押しつけた。カン、と窓の下の硬い床に、硬いものが落ちる。
 衝撃音、そして光。
「――――っ!!」
 声も、呼吸も奪われて、目の前が真っ白に染まった。爆音が響き、振動が背中どころではなく全身に襲い掛かる。上に人間が圧し掛かっているというのに、ふたりまとめて宙に浮き上がって数メートル先の壁に叩きつけられた。藁が舞いあがり、降り注ぐ。視界を奪われ、何が起こったのか咄嗟につかめない。
 綱吉にかかっていた圧力が低下する。リボーンが離れたのだと悟った瞬間、鈍い音が立て続けに響いた。誰かのくぐもった声、それに続く銃撃音。頭がくらくらして、脳みそ全体が衝撃に激しく揺さぶられたのか吐き気もする。彼は強かに打ちつけた背中の痛みを堪えて無理やりに息を吐くと、まだ戻らない正常な視界に涙しながら懸命に前を見た。
 藁に半ば埋もれた自分を最初に確認し、それから。どの段階でそうなったのか、あちこち破れて原型を留めない服装になったリボーンが、取っ組み合いの末に襲い来た男を投げ飛ばしていた。右手に握り締めたS&W M945を抜き(あれは予備で持ち歩いているものの筈だ)、床の上で仰向けになった男の脳天に狙い外さず、鉛球を叩き込む。
 床には他にももうひとり、眼球が飛び出しそうになっている男が、既に事切れて転がっていた。
「いてて……」
 頭を振り、綱吉は油断するとぐらついてしまう首を支えた。リボーンが振り返る。額が切れて血が出ていた。出血量が多いので、ほぼ顔の左半分が血に染まっている。口に入ったらしく、苦い顔をして唾ごと吐き捨てた。
 服としての役割を果たさなくなってしまった黒のスーツを破り捨て、リボーンはS&W M945をまずしまい、次いでふたり相手に格闘していた最中に落としたのだろうCz75を拾い上げる。
「リボーン、怪我」
 見れば背中は、上着さえ越して下に着ていたシャツまでもが破れている。コンクリートの細かな破片が刺さって、見るからに痛々しい惨状を曝け出していた。綱吉の言葉に彼は顔を顰め、平気だと首を横に振る。滴り落ちる血が、彼の白いシャツを汚しているというのに。
「けど」
「お前が無事なら、構わない」
「俺が、よくない!」
 どうしてこうも彼は、ひとりで戦おうとするのだろう。背中の傷は明らかに綱吉を庇った時のものだ。額を割られて流れる血が止まらないのも、全部。
 綱吉を守るための。
「俺を庇ったりしてお前が死んだら、俺は一生お前を恨むからな!」
 自分の上着を脱ぎ、全くと言っていいほど汚れていないシャツを脱いでそれを繊維に沿って破りながら綱吉が怒鳴る。血を流しすぎたのか、ふらついて彼の元へ戻ってきたリボーンの額に、それを包帯代わりにして巻きつけて、収まらない怒りの矛先を探して憤慨し続けている。頭から煙が出ているようだ。
 リボーンは小さく笑みを零した。
「俺の命程度で、お前を一生縛れるのなら、安いものだな」
「何か言ったか?」
「いや」
 緩く首を振り、否定を返しその後は口を噤む。綱吉は止血に必死の形相で、リボーンの呟きはその後一切触れることはなかった。
「なんでもない」
 小さく、囁いて。
 力の抜けた身体を綱吉に預ける。今だけはこの甘えを許して欲しいと祈りながら、目を閉じた――

2006/9/2脱稿