沈丁花

 八月、夏休み残り僅かになった日。歓声沸き起こるグラウンドの中央に立つ彼を、綱吉は万感の思いで見詰めていた。
 中学軟式野球、全国大会の決勝戦。九回裏、ツーアウト。
 観衆が息を呑み見守る中、打ち返されたボールが、高く、高く舞い上がり、弧を描いて地上へと落ちてくる。山本武はそれを、ピッチャーズマウンドから一歩も動く事無く左手のグローブで大事に受け止めた。
 主審が腕を挙げ、アウトと試合終了をコールする。
 群集が立ち上がり、拍手と歓声が雪崩のようにグラウンドへと駆け下りていく。綱吉は一塁側ベンチすぐ上の座席から起き上がることさえできず、呆然と、駆け寄る仲間に笑顔で応じる彼の姿を見詰めていた。
 綱吉はこの試合の初回から、心臓が破れるのではないかという緊張が一秒も止まず、祈る体勢で握り締めた両手は血流を悪くして指先が白く染まるほど。ただ一心に、彼が、彼が率いる母校の野球部が勝ち残ること、それだけを願っていた。
 後ろに座って同じく試合を見ていた少女が、顔をハンカチで覆っている。関係者か、もしくは部員に恋人又は思い人がいるのだろう。時々隣に座る友人の肩に凭れかかり、嬉しさを押し殺せないまま感情を爆発させている。
 その素直さ、純粋さにほんの僅かに羨望の眼差しを向け、綱吉は背中から迫ってくる拍手に押され自分も手を叩いた。
 帽子を手に一礼を終えた選手が、列を崩してベンチに駆け戻ってくる。互いに肩を抱き合って喜びを分かち合い、笑顔が崩れない彼らを眺め下ろし綱吉は小さく息を吐いた。山本が近づいてくるのが見える。
「ツナ!」
 やったぞ、と開口一番に叫ばれた。ざわめく周囲に気兼ねしつつ、綱吉は立ち上がって数段降りフェンスに阻まれた先にいる彼の元へ歩み寄る。熱気が納まらないグラウンドと選手たちの中で、自分だけが冷えた空気をまとっている気がして落ち着かなかった。
 フェンスの網を握り締める彼の右手は、最後の投球間際に豆が潰れたらしくテーピングに覆われ隙間から血が滲んでいた。痛みもあっただろうに彼はそれでも、最後の回までひとりで投げ抜いた。
 中学校最後の大会、最後の試合。今日を境に彼ら三年生は引退し、受験勉強を本格化させる。目指す高校はもう決まっている生徒と、そうでない生徒で半々。綱吉は数ヶ月前に提出した進路指導の用紙に書き込んだ内容を思い出す。
 山本は、有名私立を第一志望にでかでかと記していた。第二希望以下は空欄。彼は野球名門のその高校だけを目標に掲げている。昨年、今年と連続して甲子園出場を果たし、好成績を収めた高校だ。
 既に彼の元には推薦入試の話が舞い込んできているとも聞く。大会が近いので詳しい話はまだ聞いていないけれど、といつだったか山本が帰り道で話してくれた。夕焼けがただ眩しくて、教えられた時綱吉は瞬きさえできなかった。
 タイムリミットが迫っている。
「ツナ、勝ったよ」
「うん。おめでとう」
 試合開始からずっと見ていたのだから当然知っている。けれど彼から直接報告される結果は、本当に優勝したのだという実感を綱吉に呼び込んだ。興奮で上気した頬がいつも以上に緩んでいる。山本は心底野球が好きで、それを楽しんでいるのだと見ているだけで伝わってくる。
「おめでとう、ってそれだけか?」
 綱吉の淡々とした受け答えが不満なのか、山本は若干唇を尖らせて拗ねた表情を作る。それがあまりにも子供っぽくて、綱吉は思わず笑ってしまった。大勢の人が見ている中だから気兼ねしているのに、少しも考えてくれない相手に肩を竦める。
 けれど何かしてあげないと彼は、チームメイトが呼んでいるのにちっともこの場所を動こうとしないから、諦めて綱吉は左手を持ち上げた。フェンスを掴んでいる彼の、大きな仕事を終えたばかりで熱を持っている右手に重ね合わせる。
 夏だというのにひやりとしている綱吉の手に眉を寄せ、山本は何かを言いかけた。しかし淡い表情を浮かべて佇んでいる綱吉を見上げて言葉につまり、ただ重ねられた手を握り締めるだけに留める。
「おーい、アイシングするぞー」
 戻って来ない山本に痺れを切らし、チームメイトが駆け寄ってくる。山本と二年生の頃からバッテリーを組んでいる人だ。綱吉とも顔見知りの彼は、山本の影に隠れていた綱吉を見つけ、しまった、という風に持っていたアイシングで口元を隠した。
 綱吉と山本の関係は、表向きは親友。むしろ仲が良すぎるほど、という認識。但し当人に近しい場所に居る人間ほど、彼らの関係がそれだけではないのをそれとなく感知している。ただ当人同士が決して口外しない分、周囲はそれに気付いていないフリを強いられる。
 やや大袈裟に反応してしまったのを、更にしまったという顔を作るキャッチャーに、振り返った山本は悪い、と呟いて綱吉から手を離した。眼鏡がずり落ちそうになっている相方に笑いかけてその肩を叩き、何事もなかった風を装って山本は綱吉から遠ざかる。
 フェンスに残された手と熱に、もやもやした気持ちが消えず綱吉は唇を噛む。
 談笑しながら球場内部に消えた背中に、観客側のざわめき。試合を終え興奮冷めやらぬまま家路に着こうとする人々を他所に、綱吉は暫く動けない。
 いつか山本には言わなければならないと分かっているのに、答えを引き伸ばし、誤魔化し、逃げてきた。この大会が終わったら告げようと決めていた言葉を、結局今の今も口に出せぬまま、彼の熱さに神経が麻痺している。握り締めたフェンスが軋んでいる。指に細い金網が食い込んで痛い。けれど心はもっと痛い。
 噛み締めた唇から伝う鉄の味に吐き気を覚え、綱吉は己の爪先を見詰めたまま踵を返した。覇気の無い背中に、燦々と午後の太陽が降り注ぐ。
 球場を出るとその先はアスファルトに覆われた黒々しい大地。陽射しの眩しさに酔いながら、彼は過ぎ行く人々を眺めつつ壁に凭れかかって腰を落とした。山本は勝者のインタビューを受けたりもしているのだろうか、なかなか出て来ない。
 約束をしたわけではないがひとりで帰る事も出来ず、彼がチームメイトと一緒にバスで帰るという予定を知りつつも球場を離れ難かった。重ねた膝と肘の間に顔を埋め、立ち上る熱風に吐き気を堪える。
「ツナ」
 そうやってどれくらいの時間が過ぎたのか。誰も構おうとしないで通り過ぎる綱吉の前方に影が落ちた。顔を上げるまでもなく誰だか分かったものの、綱吉はすぐに反応出来ない。ただ緩く首を横に振る。跳ね上がった毛先が揺れる。
「ツナ、俺さ、推薦の話断るから」
 山本の静かな声。遠くにざわめき。きっと、少し離れた場所では野球部の面々がバスを待っているのだろう。しかし彼らは、山本と綱吉の間に流れる微妙な空気を察してか、近づいてこない。山本を追い掛け回している女生徒も、今は声が遠い。
「だから、俺と一緒に高校、行こう。野球部が弱くてもいいさ、俺が盛り立てて甲子園くらい簡単にいけるって証明してやるから。それでさ、ツナ。お前、マネージャーやってくれよ。野球部が無い高校だって良いんだ、一から自分達で作るって楽しそうだしさ。な、ツナ」
 山本からは土と汗の匂いがする。彼が懸命に話をしているのは、彼の腕が揺れるたびに起こる風の具合からも十分に伝わってくる。
「なあ、ツナ。いいだろ?」
 山本は、気付いている。綱吉が中学を卒業すると同時にイタリアへ渡る決意であることを。獄寺と、リボーンと、もしかしたら雲雀なんかも一緒に、イタリアへ行ってしまうだろう事を。
 そして山本は、野球を諦められない。幼い頃から描いてきた夢、甲子園へ行くことも、プロになることも、いずれはメジャー進出という夢も。この道は譲れない、自分は日本に残る。それが山本の答え。
 けれど、野球と同じくらいに、綱吉を諦めきれない。当たり前のように傍に居て、隣に居て、並んで歩いて、一緒に生きていくのだと、当たり前のように思っていたのだ。今更彼の居ない頃の自分に戻れない。戻りたくも無い。
 野球も、綱吉も、どちらも手放せない。だったら、どうすれば良いのか。
「あのさ、これ。記念に貰ってきたんだ」
 綱吉は返事をしない。ただ黙って首を横に振り続ける。顔を上げようともしない。山本はそれでも懲りずに話しかけ続ける。彼が取り出したのは、土埃に汚れた軟球だった。一箇所に、赤いしみが残っている。
 中学時代最後の公式戦、最後を締めたボール。あの瞬間、太陽の中から現れて山本に勝利をもたらしたボール。彼の汗と、血と、感動がいっぱいに詰まった、あの。
「ツナにやる。ずっと決めてたんだ」
 差し伸べられた手に、応える声はなく。
 山本はほら、と幾度となく綱吉にボールを差し出す。しかし反応は無い。彼は左手でボールを強く握り、俯いて奥歯を噛みしめた。泣きたい気持ちが胸の中に広がりつつある、けれど公の場で人目も憚らずに泣くという行為に臆して、彼は素直になれない。
 目の前が見えているからこそ、彼はそれ以上綱吉に歩み寄れない。
 綱吉をこんな約束で縛れないことくらい、彼だって承知している。それでも、どうしても、諦めることが出来ない。今手放せば永遠に届かなくなる。失えば、そこで道は途切れるのだ。
「頼むよ、ツナ。受け取ってくれ……俺は、お前に」
 息が詰まる。言葉が詰まる。
 目の前が霞んでいく、綱吉が見えない。
 ちくしょう、と口の中で呟かれた悪態に、漸く綱吉の肩が反応を示した。ボールを握ったままの彼の手が頭上に掲げられる。そのままボールをコンクリートの地面に叩きつけようとして、けれど仰ぐ綱吉の視線に直前で山本の腕は止まった。
 瞳が告げている。ごめんね、と、ただそれだけを。
 それなのに。
「そうだね……高校、一緒に、いこう」
 両手を広げて差し出して、降りてくる山本の手からボールを受け取り、汚れるのも構わずに綱吉はそれに頬を寄せる。直後襲った絶望の嵐に、山本は言葉を失くした。
 綱吉を必要としている人間は大勢居て、綱吉はそれに応じようとしている。山本は自分の独り善がりで彼を縛り付ける。約束と言う名の鎖で、彼を。
 行かないで。確かにそうやって綱吉の腕を掴んだはずなのに、握り返されたその手はあまりにも冷たい。
「……ああ、行こう。一緒に」
 掠れる声で必死に言葉を紡ぐ。見詰め返す綱吉の目は、何処までも澄んでいて。
 ただ、一緒にいたいと願っただけなのに。そう、綱吉は頷いてくれたのに。
 どうしてだろう。こんなにも、――――哀しい。

2006/8/31脱稿