ふらふらとひとり出向いた、近郊のショッピングセンター。特に何かを買うでもなく、強いて言えば今夜の夕食を買う程度の暇潰し。そこで何気なく立ち寄った、バラエティグッズを扱う一画で迷い込んだ袋小路。
両側を棚に囲まれた行き止まり、飾られた無数のジグソーパズルに眩暈がする。動物、古城の遠景、キャラクター等様々な図柄が並ぶ中、一際目を引いた、それ。
夜の海か、湖か。光の影を揺らめかせ浮かぶ満月。吸い寄せられるように動いた手が自然とその箱を取り、気が付けばサイズに丁度合うフレームも手にレジに並んでいた。
お買い上げ有難う御座います、という愛想だけは良い店員に見送られて店を出て、ハッと我に返った時にはもう遅い。自分ひとりでこれを、あの広いばかりの部屋で作るのかと思うと情けなさで涙が出そうだった。
だから、獄寺隼人は考えた。ひとりで作るのが虚しいなら、ふたりで作ってしまえば良いではないか。
思い立ったが吉日。有言実行。そんなわけで、彼は今、押しかけた沢田家の長子綱吉の部屋で、何事かと呆れ果てる部屋の主の視線を他所にパズルを広げる真っ最中。
「どうです、十代目も」
「あー、いや、うん……どうしたの、急に」
胸に抱いたランボをあやしながら、綱吉はあまり乗り気でない様子で生返事を返す。しかし既に包装を剥がし、フレームの銀縁を外して、箱をひっくり返している獄寺は気になるようで、恐る恐るではあるが後ろから近づき、作業風景を覗き込んでいる。
ランボが興味津々で触りたがって暴れるが、流石に小さい子供がやるには難しいし、誤飲してしまいそうなサイズのピースなので、綱吉はゴメンね、と言いながら結局は幼子を部屋から追い出した。後ろ手にドアを閉め、ケチだとか散々人を詰る言葉を吐き捨てて去っていく彼に溜息を零す。あまり小さい頃から、そういう乱暴な言葉を覚えては欲しくない。
父親のような気持ちの自分に首を振り、綱吉は作業続行中の獄寺の前に回りこんだ。狭い部屋、限られたスペースではパズルもなかなか広げきれない。辛うじてフレームの下敷き分だけは確保した彼は、箱の蓋と睨めっこしながら広げたパズルの中から、角を成す四つのピースを探し出している最中だった。
膝を折り、綱吉がしゃがみ込むのを目線だけ持ち上げて確認し、彼は邪魔になるらしく指輪を外した素の手で山形のピースをかき回している。
「パズル、好きなの?」
綱吉としてみれば、いきなり大荷物を抱えて獄寺が来た事に驚きを隠せない。そんな話聞いた事もなくて、だから問うたのだけれど返事は案外素っ気無かった。
「いえ、特にそういうわけでは」
「じゃあ、なんで?」
「さあ」
獄寺自身も首を傾げてしまうのだが、敢えて言葉にするとしたら、一目惚れだった、としか表現できない。その瞬間、これを買うのが予め運命付けられていたみたいに出会う品物というのは確かにあって、それが今回獄寺にとってこのパズルだったとしか。
言葉に窮しながらの説明に、綱吉はふうん、と相槌だけを返す。そして自分もまた、獄寺が崩したピースの山に手を入れて角ではなく、外枠を形成するピースを選び取っていく。
正直、図柄はかなり難解だった。色は大きく分けてふたつ。即ち紺と白のみ。紺は水、そして夜空を表現してのグラデーションで色に幅がある。白は月。空に浮かぶはっきりと円を成したものと、水に映え波に形を乱される鏡の中のそれ。
眺めるだけならば確かに綱吉でもうっとりするような綺麗な図柄だけれど、実際これをパズルで作れと言われたら、ひとりきりだと十分経たずに飽きて投げ出してしまいそうだ。なにせ同色ばかり、ピースに細かな絵が書かれているわけでもないから、殆ど勘だけで埋めていくしかなさそうだ。
それでもどうにか苦労して、ふたりして唸りながら外枠だけは完成に至った。ああでもない、こうでもないと言い合いながらの作業は、辛いかと思われたけれど意外にそうでなかったのにはふたりして新鮮な驚きだった。
「たまには良いかも」
そんな感想を口にし、綱吉は手に取った小さな破片を目の前で傾ける。立てた人差し指を頬に添え、うーんと唸りながら僅かな波の表情を読み取って、大まかにこの辺りだろうと当たりをつけて配置していく。
「そうですね」
言いだしっぺの獄寺よりも、気が付けば綱吉の方が熱中していた。忍耐力がそもそも欠けている獄寺は小一時間もすると息切れし、両手両足を投げ出して床に寝転がった。丁度その頃、奈々がおやつだと言って饅頭とお茶を出してくれたので、一息入れ直してすぐにまた再開。
黙々と、時折これは違うのではないか、等と会話を挟みながらただ時間ばかりが過ぎていく。
「ん~~」
流石に集中しすぎて少し疲れたのか、綱吉が小さく呻きながら大きく伸びをした。両腕を高く頭上に掲げて背筋を逸らし、肩を回すと骨の鳴る音が獄寺にまで聞こえてくる。パズルは大目に見てもやっと三分の一が終わったところだろうか。残るピースの山と埋まらない箇所の多さに、そろそろふたり揃って辟易して来た。
けれど完成しなければ、このままパズルを広げた状態で綱吉は生活を強いられる。ただでさえ足の踏み場が少ない部屋なので、それは出来るだけ避けたい。だから、頑張るしかないのだ、始めてしまった限りは。
出来上がっているのは大まかに、外枠、そして月の部分の外側と水に映し出された光の形。波状が大きいところも大体埋まっている。残るのは図柄の変化が乏しい場所ばかり。
「獄寺君、これきついよー」
「そうっすね……」
火の灯らない煙草を口に咥え、獄寺も苦笑いを隠せない。ここまで苦労させられるとは思っていなかったのは選択ミスだけれど、自分はどうしても、このパズルを完成させたかったのだ。理由は、分からない。けれど作りたいと思った、これが飾られているのを見た瞬間に。
静かな水面に浮かぶ月。穏やかな波間に輝く幻。
誰よりも揺ぎ無い力を持ち、決して屈しない心を持つ人。
誰よりも優しく、誰にでも深い懐を示して包んでしまえる心を持つ人。
獄寺の中のたった一人を想起させて、そのたったひとつを手に入れたくて。掴めば易く手は届くだろうに、決して相容れず、自分だけのものにはなりえない人。
尊く、気高く、誇り高く、真っ直ぐで、慈悲深い。
誰のものにもなりえないからこそ、輝ける人。手に入れたいと切望しても届かないまま、宙を虚しく掻く指を何度呪っただろう。
すぐ其処に、ほら、こんなにも近くに居るのに。
「なに?」
見詰められる視線に気付き、綱吉が小首を傾げる。
「いえ」
知られてはいけない。悟られてはいけない。獄寺は表面上平静を装って、穏やかに首を振る。
「そう?」
妙に思いつめた目をしていたから、てっきり何かあるものだと思っていた綱吉は、獄寺の返事にやや拍子抜けた様子で手の中のピースを躍らせた。残光が散る水面の一部だろう。小さく淡い光を描いた欠片を薄緑色の台紙の上に置き、思いつくままに近場だと考えられるものと組み合わせる。
音こそしないが、ぴったりと収まった瞬間には小さな感動さえ覚え綱吉は嬉しさに表情を綻ばせた。
そんな一瞬の、些細な変化さえ見逃さず、獄寺は綱吉の一喜一憂を間近に見守れるこの時間を嬉しく思う。
腕を伸ばし、逃げられないように押さえ込むのは簡単だ。それで手に入るのだとしたら、獄寺はとっくに行動に出ている。けれど純粋で穢れを知らない心まで犯す勇気は彼にはなくて、手を拱いている間に誰かが掠め取っていくかもしれない可能性を抱えながら、それでもなお、壁を破れずにいる。
求めれば、彼は許すだろう。けれどそれではダメなのだ。自分ばかりが求めて気持ちが空回りするくらいならば、いっそ秘めたまま時を過ごす方が良い。
「獄寺君?」
「え?」
ぼんやりし過ぎていたらしい。完全に手が止まってしまっていた彼は、綱吉の声に瞬きをして我に返る。目の前で手を横に振っている綱吉の顔が思いの外近くて、獄寺は顔を赤くして後ずさった。綱吉が小さく笑う。
「さっきから、変なの」
決して咎めるような口調ではなく、心から楽しんでいるのだと知れる表情に安堵しながら、獄寺は胸の動悸を抑えるのに躍起だ。パズルは綱吉の努力の甲斐あって段々と隙間が少なくなっている。ゆっくりとだけれど確実に完成に近づいていくそれを見下ろし、獄寺はふと、自分の心に去来する何かを感じ取っていた。
終わってしまう、と。
あれほど完成させたかったものが、目の前で終わりに近づいて行くその寂しさ。虚しさ。
獄寺はまだ下地に載らないピースの群れに手を差し伸べ、形を崩しながら白っぽいものをふたつ、摘み取った。そしてひとつだけを台に載せる。綱吉は気付かない。
やがて夕闇が空を包み込む頃、残り僅かになったピースを前にふと、綱吉が首を捻った。もう勘に頼らなくてもピースの形を眺めれば残りが埋まりそうなくらいになっているパズル。けれど、数が。
「獄寺君、ひとつ足りない気がする」
何気なく呟かれた、至極当然な疑問。真ん中の月、夜に浮かぶ淡い光のほぼ中心部分がぽっかりと空いてしまっている。そこを埋める欠片が、綱吉の手の中に見当たらない。
「いいんです」
「え?」
「これで、いいんです」
綱吉の手から紺色のピースを取り、音もなく隙間を埋めて獄寺が繰り返す。疑問符を頭に浮かべ、まだ何か言いたそうにしている綱吉の目を見て、少しだけ悲しげな笑顔を浮かべて。
良いんです、と、ただそれだけを。
未完成のパズル。ふたりで作った、パズル。夜に浮かぶ月、水面を照らす淡い光。欠けたピース、埋まらない穴。
許して下さい、と心の中で詫びて。隠し持った最後の一欠片を握り締め、獄寺は笑った。
このパズルを見上げるたびに、綱吉はきっと獄寺と過ごしたこの時間を思い出すだろう。完成しなかった理由を考え、決して忘れないだろ。
だから、許して。
貴方の心を、片隅を、小さな穴を作った自分を。
貴方の心に穴を開けることで、忘れないでと心を縛り付ける。卑怯な自分を、どうか。
許して。
2006/8/29脱稿