発熱

「うわっ、寒」
 屋上に出ると途端に吹き抜けていった風に体温が攫われ、全身に鳥肌が走った。両腕で身体を抱きこんだ綱吉は、自分が立ち止まっていることで後ろが詰まっている現実を二秒後に思い出し、慌ててその場から横に飛ぶ。一歩遅れて外に出た山本と獄寺もまた、すっかり秋めいた空模様に辟易している様子だ。
 上背のある山本が手を庇代わりにし、流れていく鰯雲の群れを見上げる。
「こりゃ、もう屋上で昼飯はやめといた方がよさそうだな」
 カレンダーは十一月を迎え、急ぎ足の秋も終わりに近づきつつある。暖冬を予感させる陽気が続いていたのも先週まで、この数日ですっかり冷え込んだ朝晩に衣替えは完全に間に合わず風邪を引く生徒も続出していた。
 三人で屋上に出て食べる昼食は、わいわいとして楽しかったけれど、外の気温があまりに下がりすぎてしまうようでは、指先も悴んで箸が使えなくなりそうだ。山本の言葉に綱吉も同意しつつ、折角来たのだからと今日だけは諦めて屋上の一角に陣取った。
「そういえば、応接室って冷暖房完備なんだっていう話っすね」
「へー、良いな。ヒバリの奴だけ寒さ知らずってわけだ」
 早速思い思いに食事を開始した矢先、何気ない獄寺の言葉に綱吉の心臓が小さく跳ねた。山本もまた、羨ましそうに表情を緩めてヤキソバパンにかぶりつく。綱吉は食べようとしていた卵焼きに箸を伸ばしたままの体勢で、暫くの間硬直していた。
 気付かないふたりが、口々に勝手なことを言い放つ。
「大体、アイツだけ特別扱いってのがおかしいんだよな。俺らはストーブ使えるの、十二月入ってからだし」
「そうそう。まったくむかつくったら……十代目?」
 目の前のもの全てが憎らしい、と言わんばかりに野菜サンドにかぶりついた獄寺だったが、依然箸を弁当箱に添えたまま動かない綱吉に気付き、眉根を寄せる。呼ばれてハッと我に返った綱吉は、勢い余って端の先端で卵焼きの表面を抉ってしまった。そのままひっくり返しそうになって、慌てて腕を引く。
 山本もまた、牛乳パックのストローに口をつけながら、不思議そうに彼を見ていた。
「え、あ、いやその……」
 膝の上に広げた弁当箱のおかずに箸をつけるものの、口にまで運ばずに綱吉は先端でタコの形をしたウインナーを転がす。ふたりが食事を休めて自分を見ているのがなんとも気恥ずかしくて、彼は視線を脇へ流しながら途絶えさせてしまった会話をどう復活させようか迷っていた。
 応接室の冷暖房、確かにあそこは快適な住環境をしている。獄寺たちが羨むのも無理はなく、綱吉だって少し前まではそちら側の人間だった。少し前、までは。
「ツナ?」
 ぼんやりしている、と山本の手が伸びてきて顔の前で振られる。コレ何本だ、と立てた人差し指に苦笑して、だから気を緩めたついでに綱吉はつい口を滑らせた。
 箸の間から、一緒にウインナーも落ちていく。
「でも、今応接室の暖房、故障してるから」
「え?」
 目を細めて笑いながら言った綱吉に、ふたりが目を見開いて驚きを露にする。
「え?」
 その表情の変化に綱吉も驚いてから、改めてふたりを交互にみやる。彼らは顎に手をやって、なにやら難しい顔をして考え込んでいた。気まずい沈黙が場を支配する。
「え……?」
 俺、何か変なことを言っただろうか。自分の台詞を反芻させながら困惑を隠しきれないでいる綱吉に、ややしてからやっと、山本が重い口を開く。彼は手にしたまま、危うく握りつぶして中身を噴出させる寸前だったパックの牛乳をコンクリートの床へ置き、胡坐をかいた膝に手を添える。
 表情は妙に真剣で、怖いくらいだ。
「なあ、ツナ。ひとつ聞くが」
 声も低い。無理に作っているというトーンで、余計に空気が重くなるのを綱吉は感じた。されたこともないけれど、警察官に尋問される時はきっとこんな感じなのだろう。想像しているうちに、山本の声が続いた。
「なんで応接室の暖房が壊れてるって、知ってるんだ?」
「だって、昨日ヒバリさんがそう」
「ヒバリ?」
「え?」
 自分ではおかしなことを言っているつもりはないのに、綱吉の台詞に逐一獄寺も山本も反応を示してくる。
「ヒバリの野郎と、昨日会ったんスか?」
「そういやツナ、昨日は昼休みから居なかったよな」

 ――君は、暖房が目的なのかい?

 不意に蘇る雲雀の声。膝を詰めて距離を縮めてきたふたりに囲まれながら、綱吉は過ぎた時間に気持ちが飛んでいく。
 顔が、赤くなる。
「十代目?」
「いや、えと……だから」
 何故雲雀に会いに行くのか。再び我に返っても、問い詰める獄寺の声に答えを与えてやれず、綱吉の瞳は宙を彷徨う。
 確かに昨日の昼休憩時、午前中の授業での冷え込みに辟易していた綱吉は暖を求めて応接室のドアを叩いた。そしてドアを開け中に入った途端、廊下とそう変わらない室温に驚き、執務机に居た彼に真っ先に問質していた。
 何故暖房を入れていないのか、と。すると雲雀は先ほどのようなことを言った後、頬杖ついて呆れた顔をしながらも、今朝から調子が悪いので修理を呼んでいる最中である事、修理は翌日、つまりは今日の午後に来る予定である事を教えてくれた。
 恐らくは急激に冷え込んだ所為で機会の調子が狂ったのだろう、というのが雲雀の見解だった。そして綱吉が明らかにがっかりした顔をするので、彼は益々呆れた顔をした。

 ――僕と、暖房と、どっちが目的なんだい?
 
 綱吉、と低い声で名前を呼ばれ心臓が跳ねた。色気を含んだ漆黒の瞳が入り口に佇む綱吉を射抜き、彼の背中にしっとりと汗を浮かばせる。

 ――そんなの、決まってるじゃないですか……
 ――本当に?

 机上で腕を組んだ雲雀が薄く微笑む。試しているのか、いないのか、含みのある表情に視線を逸らせず、綱吉は相手にまで聞こえそうなくらいに早鐘を鳴らす心臓の五月蝿さに動揺したまま、何度かに分けて唾を飲んだ。

 ――なら、おいで。

 机の上で優雅に腕を解き、右手の平を上にして雲雀が綱吉の側へと伸ばす。無論届く筈がないけれど、綱吉は引き寄せられるままに彼の方へと歩み寄った。
 瞳を逸らせない。獣に近しい輝きを放つそれに吸い寄せられ、行儀が云々など考える余裕もなく綱吉は彼の執務室に膝を乗せ、手をつき、最短コースを通って彼へと顔を向ける。僅かに下方にある椅子に腰掛けたままでいる雲雀の、黒い前髪に見え隠れする漆黒の双眸にうっとりと目を細め、薄く開かれた唇へと首を向けた。
 
 ――行儀の悪い子だ。お仕置きが必要だね?
 ――ん……だって……

 音を立てて唇を吸われる間にそんな風に囁かれ、彼の手が綱吉の肩を抱く。爪先が机の角にぶつかり、ローファーが勝手に脱げて落ちていった。足の裏に感じた空気の冷たさが全身に伝わり、肌が泡立つ。

 ――だって?
 ――ヒバリさん、が、……ん、待って……

 肩に置かれた雲雀の手が、上腕を伝って胸元をたどる。ベストの上から撫でられるだけでも全身が震え、筋肉が弛緩していく。横に開かれた膝が力を失い、腰が完全に机の上に沈んだ。左の太ももの裏側に、雲雀が広げていた資料がある。このままだと踏み潰してしまいそうで、綱吉は懸命に手を動かしてそれを退かそうとした。
 しかしベストの裾にまで到達した雲雀が、遠慮も見せずにベストをシャツごとズボンから引っ張り出す。下腹部を撫でた冷気に綱吉は反射的に身を引いた。くしゃり、と紙が潰れる音が微かに響き渡る。

 ――ひゃっ。

 短い悲鳴。雲雀の手から逃れようと身を捩ったものの、追いすがる彼の左腕が背中に回されて叶わない。逆に引き寄せられ、膝頭が机の端からずり落ちた。そのまま重力に導かれるままに身体が前方へ傾ぎ、落ちる、という恐怖心に綱吉の心が震え上がる。
 持ち上げた両腕が勝手に雲雀の肩から背中に落ちて、首に絡みつきしがみついていた。胸元に沈んだ彼が笑っている。雲雀の左手が、逃げ場を失った綱吉の背中に直接触れた。
 冷たい指が肌をなぞる。脊髄から迫り上がってくる言葉にならない感覚に、綱吉は奥歯を噛んで懸命に声を堪えた。
 心臓が痛いくらいに拍動が速まっている。

 ――ひば、り……さっ……ん……
 ――相変わらず、いやらしい子。
 ――やっ、ん……そんな、の……

 知らない、と言わせてはもらえない。再び塞がれた唇に意識が向いて、好き勝手背中を撫で回しているの手とは違う腕が、いつの間にか前を完全に広げているのにも気づくのが遅れた。
 薄く持ち上げた瞼が写し取る世界は、まだ明るい。遠くから予鈴の鳴り響く音がする。

 ――あ、授業……じかん、がっ……
 ――授業と僕と、どっちが大事?

 唇から逸れた彼の唇が悪戯な笑みを浮かべ、首を竦めて綱吉の胸元に埋まる。赤く色づいた蕾に濡れた舌を沿わせて、意地悪に前歯を立てれば簡単に綱吉は抵抗する力を失った。
 全身が熱い。雲雀の指が、舌が触れていった所から発熱していく。ともすればすぐに解けてしまいそうな指へ必死に力を込め、雲雀の首に抱きついたまま、綱吉は明るい日差しを見たくなくて目を閉じた。
 目の前の男が笑っている。楽しそうに、意地悪く、知り尽くした綱吉の身体を蹂躙していく。
 ただ彼が、綱吉と等しく熱のこもった息を吐くのにもそう時間はかからなかった。

 ――ン……ぃっ……
 ――はっ……、相変わらず……
 ――……?
 ――綱吉の……中、は……暖かいな……

 ぼっ、と綱吉の顔から火が噴いた。
「十代目?」
「ツナ?」
 目の前で百面相をした末に、頭の中が爆発した綱吉に山本と獄寺は目を丸くして驚く。
 がちゃがちゃと音を立て、綱吉は全く手をつけていなかった弁当箱に蓋を閉めた。箸も片づけ、それを強引に山本の手に押しつける。
「トイレ!!」
「ちょ、ツナ!?」
「十代目、どうしたんですか!?」
 昨日の昼休みの事を聞いていたのに、答えもせずに急に立ち上がった綱吉の背中に、獄寺も追いかけようと膝を立てるけれど、それよりも早く綱吉の姿を隠して屋上のドアは閉じられた。
 冷たい秋の風が吹き抜けていく。呆然とした後、獄寺は山本の顔を窺い見るが、無論山本にだって何がなにやら、さっぱり分からない。
「なんだ……?」
「さあ……」
 本格的な冬の到来まで、あと少し。階段を駆け下りていく綱吉の発熱は、しばらく治まりそうにない。

2006/11/03 最終アップ