日向ヨリ

 雀の鳴き声がどこかからか聞こえてくる。
 綱吉は草鞋の裏で砂利を踏みしめ、周囲に視線を巡らせた。少しきつめの鼻緒が指の間に食い込み、小さな痛みを放っている。彼は頭上を見上げると、緑濃い樹木の隙間から零れ落ちる陽射しに目を細めた。
「ヒバリさーん」
 右手を口元に立てた状態で沿え、空に向かって呼びかける。
 ざわめきを放つ木々の隙間を縫うように、彼の澄んだ声は遠くへと伸びていく。しかし応える声はなく、綱吉は手を脇へ下ろすと落胆したのか肩を落とした。
 ――此処。
 薄い桜色をした唇から溜息が零れ落ちようとした時、不意に綱吉の脳裏に己のものとは異なる声が響く。
 音ならぬ音、声ならぬ声。慌てて顔を上げた綱吉は音の発生源を求めて再度視線を周囲に巡らせた。しかし人影は無く、声の主の姿は見当たらない。
 ――どこ見てるのさ。
 再び、脳裏に響く声が。先ほどよりも若干人を小馬鹿にした笑みを含んだ口調に、綱吉は唇を尖らせるとその場で地団太を踏んだ。
「だから、どこですか!」
 それだと分からない、と続けて叫んだ彼の耳に、低い押し殺した笑い声が微かに届けられる。
 紺地に緑の唐草模様、地味ではあるけれど作りの良い小紋の裾を翻し、綱吉はその場で急ぎ振り返った。視線は左斜め上へと一直線に向けられる。樹齢二百年は数えるだろう楠木の太い枝に、黒髪の青年が腰を下ろし、どっしりとした幹に背中を預けていた。片手を後頭部へと回して枕とし、もう片手は膝の上に伸び、手の甲では一羽の小鳥が羽を休めている。
「そんなとこに」
「綱吉はちっとも気付いてなかったけどね」
「教えてくれれば良かったんですよ」
「教えたじゃない」
「伝心じゃ場所までは分かりません!」
 ぶぅ、と頬に空気を入れて膨らませ、拗ねているのだと表情で表現する綱吉に再度小さく笑いかけ、雲雀は左腕を頭上へと放った。甲に停まっていた鳥が羽を広げ、勢いをつけて空へと飛び立っていく。一瞬で遠ざかった羽音に目を向けているうちに、真横で空気が唸りと共に垂直に動いた。
 綱吉どころか雲雀の背丈よりもずっと高い位置にある枝から、彼は何のこともない顔をして飛び降りたのだ。膝をやや曲げて衝撃を緩め、片手を砂利の敷かれた地面についてはいるものの、涼しい表情を崩しもせず、彼は綱吉と同じ地平に立つ。着物の帯に手を置いて崩れてしまった部分を簡単に直すと、指先の砂埃を息吹きかけて弾き飛ばす。
「それは君の修行が足りないからだろう」
「むう」
 至極真っ当なことをさらりと言われてしまい、綱吉は益々頬を膨らませる。砂を払った彼の指がそこを小突き、雲雀が先に立って歩き出したので綱吉も後を追う。どこか遠出をしようという気は無いようで、進む方角は彼らが暮らす屋敷に通じている道だ。
 涼やかな風がそよいでいる。木漏れ日の中を瞳を細めて進む綱吉の瞳には、藍色の色無地を身にまとう大きな背中がいっぱいに広がっていた。
「本家は、どうだったの」
「え?」
 三日ぶりに眺める背中にぼんやりしていた所為で、問いかけを投げられていたのに反応が遅れる。顔を上げると腕組みをしたまま肩越しに振り返っている彼と目が合って、綱吉は漆黒の闇にも等しい彼の瞳に慌てた。
 あわあわと冷静に対応が出来ず、頭の中で色々なものがごちゃ混ぜになって浮かんで消えるうちに、彼の腕は解かれて右手が頭に伸びてくる。軽く叩かれ、細い毛足を撫でられた。
「なんとなくは、分かるけどね」
「あっ、はい、そうだ、俺ヒバリさんに凄い報告が!」
「本家十代目に選出されたって?」
「そうなんです! ……って、なんで知ってるんですか」
 両手の拳を握り締め、その時のことを思い出して興奮しながら叫んだ綱吉の手前、どこまでも冷静な雲雀が呆気なく綱吉の言いたかった事を当ててしまう。故に勢いのまま頷いてから、挙げた拳を下ろせない綱吉が不審なものを見る目を彼に向けたのは自然の道理。綱吉は先ほど件の報告を胸に抱いて屋敷に帰ってきたばかりだ。早馬が出たという話も聞いていない。ならば何故、この三日間恐らくは一度も沢田の敷地から出ていない雲雀が遠く離れた本家でのやりとりの結果を知っているのか。
 訝しげな視線を受け、彼は綱吉の頭を一段と力を込めて撫でまわした。元気に跳ね上がった髪の毛が押し潰され、ぐちゃぐちゃにされる。持ち上げた拳を解いて自分の頭を両脇から抱え込んだ彼は、薄らと涙目になりながら虐めてくる張本人を睨んだ。
 手が離れていく。
「聞こえたんだよ、喧しいくらいに。『どうしよう、どうしよう』って、僕の名前を何度も呼んでいただろう」
 掻き乱された髪を手櫛で整え、聞いていた綱吉が「そうだったっけ?」と首を捻る。雲雀は呆れた表情を作り、立てた人差し指をこめかみに押し当てた。
「僕だって、まさか馬で二日の距離もある本家から君の心が聞こえてくるとは思わなかったよ」
 本家――
 綱吉の生まれた沢田という家は、数世代に渡り退魔を生業としている。その祖先は今も隆盛を誇る退魔師の一族蛤蜊家に直結し、それなりに由緒正しい家柄でもある。傍流ではあるが。
 その蛤蜊家であるが、現在の頭首は数えて九代目。唯一の直系男子である嫡男が数年前に行方不明となって以後、九代目は新たなる後継者を任命せずに居た。しかし時は過ぎて嫡子の行方は依然として不明、また九代目も高齢となり病に伏せる日も次第に増えつつある現在、跡継ぎの任命は火急の課題として蛤蜊家に突きつけられていた。
「本家も、見る目があるというか、無いというか」
 沢田綱吉は蛤蜊家と始祖を同じくする家柄、その嫡子。今年で齢十四を数える。
「まだ候補、ですけどね」
「嬉しいんだ?」
 傍らでくすくすと笑みを零す相手に、しかし雲雀はどこか不機嫌そうに問いかける。大きな目を数回瞬きさせた綱吉は、うーんと顎元に手をやって少しの間考え込んだ。
 風が吹きぬけ、足元で煽られた砂利が散る。構わず歩を進めた雲雀のつま先が、日陰の切れ目に差し掛かった。
 雑木林を抜け、視界が一気に上下左右へと開かれる。手入れのされた庭が広がり、左前方に奥ゆかしさを漂わせる大きな平屋建ての屋敷が現れた。築二百年は越えるだろう、沢田家初代より引き継がれている屋敷だ。綱吉と、雲雀の暮らす家でもある。
 屋敷の前方には整えられた庭。枯山水の印象を抱かせる石と潅木が配置され、その奥には小さな池があり赤い太鼓橋が架けられている。水は裏手の山から引かれ、池を経て庭の間を実際に小川となって流れていた。子供が遊ぶのに丁度良い幅で飛び石も設けられており、雲雀はそちらへと足を向ける。
 綱吉はふたつしか年が違わないのに圧倒的に異なる歩幅に苦労しながら、彼の背中を追いかけた。追いつこうとすると足を速められる。広がりはしても狭まりはしない微妙な距離感に、綱吉は肩で呼吸をしながらなおも追い縋る。
 白い玉石が敷き詰められた川辺を模した場所を抜け、飛び石の上に。表面を均されて水面から顔を覗かせている石に飛び乗った雲雀が、そこでやっと綱吉を振り返った。
 慣れない馬での移動、休みもろくになかった道中、そして名さえ知らぬ親族が大勢集まる場に唐突に呼び出された緊張感、与えられた新たなる名前。たとえそれが仮の決定であったとしても、それまで蛤蜊家の歴史からも忘れ去られたに等しい傍流の息子が、いきなり本家の世継ぎの枠を掠め取っていったとあっては、無数に存在する蛤蜊に連なる血族が黙ってはいないだろう。
 己の息子が指名されるのではないか、と密かに期待していたに違いない本家に近しい連中にしてみれば、青天の霹靂。沢田のさの字さえ耳にした事もない輩も大勢居るだろう。だが九代目が悩みぬいた末に選んだ候補者を蔑ろにも出来ない。綱吉の現在の立場は、非常に曖昧で危うい。
「ヒバリさん、待って」
「まったく、君のどこを見て九代目は君を指名したんだろうね」
 膝に両手をついて懸命に呼吸を整えている、実年齢よりもずっと幼さが際立つ少年を改めて見下ろし、雲雀が呟く。
「もし本当の君を知っているのであれば、九代目とやらはなかなかの策士だろうけれど」
 まったく、誰の入れ知恵か。
 腹立たしげに吐き捨てた雲雀の脳裏に、今も襖を開いた座敷でのうのうと茶を飲んでいるだろう童の姿が思い描かれる。その様があまりに強く心で念じられた為に、綱吉にも伝わってしまったようだ。顔を上げた彼が額の汗を拭い、そういえば、と前置く。
「リボーンも、知ってるって事ですか?」
「ああ、教えてある。さもありん、という顔をしていたよ」
 綱吉の動揺が遠い空を経て雲雀に達した時、彼は座敷に居た。いつも童の相手をしている綱吉が不在の為、不本意ながら彼の退屈に碁の相手をしていた最中だったので、そっくりそのまま飛んできた言葉を伝えたのだが、彼は当然だと言わんばかりの顔をして深く頷いていた。
 その余裕しか感じ取れない表情に、もしかしたら九代目に入れ知恵をしたのも彼ではないか、とさえ勘繰ってしまう。雲雀の不機嫌の要因の多くは、沢田家に長年居座っている正体不明の童にあるともいえよう。
 童の名前は、リボーン。赤ん坊の姿をしているものの、実年齢は不明。人ではなく、また物の怪の類とも異なる。魔を退治する家に平然と居座っていることもあり、恐らくは神に連なる存在だとは推察できるが、誰も深く追求しようとしない。どこから来て、いつから居て、何が目的なのかさえ一切不明。しかし常に的確な助言を他者に与え、また術に長けており、不在がちな綱吉の父であり沢田家現党首である家光に代わる、綱吉や雲雀の実質的な師匠でもある。
「なーんだ。じゃあ、誰も驚かせられないんだ」
「山本がいるだろう」
「あいつも案外耳が早いからなー」
 つまらなそうに足元の小石を蹴り飛ばした綱吉に、雲雀と同じく綱吉の幼馴染にあたる青年の名を出してやるが、綱吉の機嫌は戻らない。確かにあの男は妙に時事に詳しく、耳聡い。今は綱吉と同年齢でありながら既に退魔師として一人前と認められ、修行の旅に出ている最中。蛤蜊家は各地に拠点を持ち、山本もまたそれを頼りとするだろうから、戻ってくる頃には綱吉の十代目襲名の話も耳にした後だろう。
 元気にしてるかな、としゃがみ込んだ状態で綱吉が呟く。見魔の術も退魔の術も持ち合わせている山本は器用で、話術も長け憎めない性格というのもあり、成長は目を見張るものがあった。どちらかと言えば人見知りして大人しい綱吉を引っ張り、強引なくらいに前に押し出してよく雲雀とも喧嘩をした。
 三人で遊んだ日々が懐かしい。
「君も、いい加減術のひとつくらい覚えないと」
 十代目となるからには。溜息に乗せて現実を冷酷なまでに突きつけた雲雀に、綱吉は両腕で顔を覆って俯く。誰の所為だと、という嫌味が伝心で聞こえてきて、雲雀は同じく伝心で自分の所為だと素直に認めた。
 瞬間、綱吉が顔を上げる。
「違う!」
 普段から細い目をしている雲雀が目を見開き、驚きを露にする。それくらい強烈な声で叫んだ綱吉は、今にも泣き出しそうな顔をしていて一層雲雀を驚かせた。
 雀の鳴き声がする。池で鯉が跳ねたようだ、水音がそこに重なる。
「悪かった」
 率直に告げた謝罪に、勢いつけて立ち上がったままの体勢で固まっていた綱吉は苦々しい表情で再び足元に視線を向けた。腕を解いた雲雀が、やや緊張気味に指を伸ばし綱吉の方へと動く。けれど触れるかどうかという距離で躊躇し、時間がそこで止まった。
 綱吉には退魔の力がない。鬼を、物の怪を見抜く目は人より優れていると自他共に認めるけれど、肝心の魔を調伏する力が彼には一切なかった。故に術も使えない。師である童リボーンが徹底的に教え込むのだけれど、この十年で成功した試しは一度としてなかった。
 対して雲雀は、見魔の力が殆どないに等しいながら、退魔の力は人よりも強力という特性の持ち主だった。綱吉には輪郭も色合いもはっきりと見て取れる魔も、彼の瞳には薄ぼんやりとした黒っぽい靄としか映らない。辛うじて居場所は見出せても、気配を隠されてしまっては彼に魔を追う術がない。
 その為彼らは仕事を命じられた際は、常に共に行動するよう強いられる。綱吉が鬼を見つけ、雲雀がそれを滅する。両者の意思疎通が完璧に成されていなければ難しい。その点、言葉を用いずとも互いの声が届く伝心は非常に有用だと言えよう。
 とはいえそれも、距離が開いてしまうと声は掠れ、届かなくなる。伊太の里にある本家でのやり取りが聞こえて来たのは、本当に稀な事象なのだ。
 腕を伸ばし続けるのも労が必要で、雲雀の手は段々と下がっていく。指先が求める前に綱吉の柔らかな耳朶に触れ、顔を上げた彼と久方ぶりに視線が絡んだ。綱吉の手が持ち上がり、雲雀のそれに重なり合う。肌に押し当てるように力を込め、彼はそちらへと頬を預けた。暖かな体温が掌を通し、雲雀へと届けられる。
「本家は、どうだった」
「ん……」
 静かに問えば、甘えた息を吐いて彼は眉根を寄せた。
「あんまり、楽しくなかった」
 本気でそう思っていると分かる表情で素っ気無く告げられ、雲雀はつい苦笑してしまった。
 それはそうだろう、綱吉は生まれてこの方並盛の里を出たことがない。本家へ出向くのも無論初めてのこと、それは彼の母である奈々も同様だ。本家と傍流という間柄とはいえ、血筋は既に遠く離れてしまっている。呼び出しなど滅多になく、もしかすれば家光が家督を継いだ挨拶に出向いて以来の訪問ではなかろうか。
 九代目の後釜となる人間が指名されるとあって、分家も大勢集まっていただろう。広い座敷を埋める人の群れに、見魔の才優れる綱吉はどんな闇を見たのか。思い出しただけで気分が悪くなるのか、綱吉は辛そうに目を閉じて唇を震わせた。
 実際雲雀が聞いた綱吉の声は、「どうしよう、怖い、帰りたい」の三つに要約される。名前を呼ばれて前に出た瞬間に浴びせられた無数の毒気ある視線に、幼い彼は萎縮しきってしまったことだろう。矢張り共に行くべきだったか、綱吉の表情を読みながら雲雀は悔恨の念に囚われる。
 だが雲雀は、沢田とは何の血縁関係も持たない。ただ、綱吉の隣に居るように縛られた存在というだけで。
「ヒバリさんまで、あんなところ行く事ないです」
 好奇の目に晒されて、見世物のようにじろじろと不躾に見詰められ、値踏みする顔を向けられる。九代目は依然病床にあり、代理の者による宣告であったのだけれど、その瞬間のどよめきと波立った人の悪意を、綱吉は一生忘れられそうにない。
 蛤蜊家の十代目となるという事は、あそこに居た連中と常に顔を合わせなければならないという事だ。出来るならば拒否をしたかった。しかし神経が麻痺した綱吉は何も言い返せず、また平常心を保っていたとしても、反論は認められなかっただろう。
 まだ候補者の段階であり、正式に十代目の就任が決定したわけではないけれど、九代目が撤回しない限りほぼ次の頭首は確定。果たして見魔の能力しか持ち合わせていない綱吉に勤まるのか、行く末は闇の中。
「そうなった時は、僕も一緒に行くけどね」
 綱吉が魔を見破り、雲雀が魔を滅ぼす。それは十年前、ふたりが出会った瞬間から決定付けられた未来。
 雲雀の指が意思を持って綱吉の頬を擽る。薄く瞼を持ち上げた綱吉は彼のもう片手に腰を抱かれ、引き寄せられるままに飛び石へと居場所を移した。雲雀の膝と膝の間に綱吉の下肢が潜り込む。小さな肢体はすっぽりと、雲雀の胸の中に綺麗に納まった。
 雲間に途切れがちだった陽射しが地表を包み、彼らの足元に広がる水面に写し取られ眩い輝きを放つ。綱吉は甘えを存分に出して雲雀の胸に顔を埋めると、心の臓に触れる位置で色無地の着物を握り締めた。吸い寄せられるままに彼の引き締まった首筋に頬を寄せる。赤い舌を覗かせて角張った骨のある薄い皮膚を舐めると、後ろ髪を引っ張って顔を上向かせられてしまった。
「其処で良いんだ?」
 頭皮が痛みを発する前に彼の手は解かれる。至近距離から見上げた漆黒に飢えた獣の揺らぎを感じ取った綱吉が、表情を緩めながら首を横に振った。
「いやです」
 真面目に言い放ってから、噴き出す。雲雀に頭を小突かれ、小さく舌を出して彼は片目を閉じて愛嬌ある顔を作った。
 その頬を、ゆっくりと雲雀の掌が辿る。
「あんまり眠れてないだろう」
「ヒバリさんこそ」
「君ほどじゃないよ、ずっと此処に居たんだし」
 むしろ三日も離れていた君のほうが心配だ。気難しい顔をして告げる彼の声には力があって、耳を通して胸に届くたびに綱吉は力を分け与えられている気持ちになる。触れ合ったところから伝う熱が、思いが、綱吉の沈んでいた気持ちを高揚させてくれる。
 唇に降りてきた柔らかな触れ合いを、綱吉は素直に瞼を下ろし受け止める。潜り込んでくる熱い舌を拒絶する理由もなく、吸い込んだ空気と一緒に他者の熱が流れ込んできて背筋が震えた。つい解きそうになる指に力を送り、彼の着物の合わせを強く握り締める。皺を刻んだ色濃い着物にしがみつき、反り返りそうな背中を強く抱き寄せられ、綱吉は与えられる口付けに全神経を集中させた。
 呼吸の度に深まりが強まり、雲雀により一層近づきたくて綱吉は爪先立ちになる。踵が浮き膝が震えるのを、雲雀に寄りかかることで乗り越える。そうやって全体重を預けてもなお、彼は平然と綱吉を抱き締めていた。
 幾度か息継ぎを経て、開かれたままの口腔に差し入れた舌を引き抜く。余韻を残す熱い吐息に絡んだ唾液が糸を引き、光を浴びて卑猥な輝きを綱吉の瞳に宿らせる。飲み込んだ唾液に彼の薄い喉仏が上下して、溢れ出た分が雫となって彼の喉元を濡らした。
 雲雀が首を竦めて背を丸め、顔を寄せて彼の細く白い首筋に牙を立てる。雫が辿ろうとしている道筋を逆流させながら舌を動かし、震える柔肌の感触に瞳を細めさせた。
「は……っ」
 喉を仰け反らせた綱吉が苦しげに息を吐く。開いた瞼の先に太陽が見え、反射的に彼は目を閉じた。
 考えればまだ昼間だ、そして自分は長旅を終えて帰りついたばかり。やらねばならない事は沢山、まだ残っている。なにより神棚への無事の帰還を報告、そして家の守護者でもある童のリボーンへ挨拶をせねばならない。
 急に蘇った現実に、綱吉は肘を突っぱねて雲雀の身体を押しのけた。
「なんだ、もう良いの」
「どうもご馳走様でしたっ」
 濡れた口元を乱暴に拳で拭い、熱っぽく赤い顔から湯気を出して綱吉が吐き捨てる。予想外にあっさりと自分を解放した雲雀に多少の猜疑心は残るが、小川に落ちぬよう背中を支え続けてくれたことに関してだけは、礼を言わなければならない。
 まだ火照りを残す体を捻り、綱吉は雲雀の腕から脱出すると同時に向こう側の飛び石へと飛び移った。片足で軽やかに着地し、続けて反対の足で石を蹴って次の石へ。両腕を広げて風を受け、袖口から潜り込んだ空気に背中が大きく膨らんでいる。最後の石を飛び終え、玉石の地表へと降りた彼はその場で反転し、まだ一つ目に佇んでいる雲雀に大きく舌を出した。
「子供」
 ぽつりと呟いた声は果たして彼に届いたか。くるりと踵を返した綱吉は、屋敷の表口に向かって駆け出していた。背中は小さくなり、建物の中に入られると完全に見えなくなる。
 雲雀は袖口に互い違いに腕を通して胸の前で組ませると、綱吉よりもずっと鈍重な動きで飛び石を渡った。そして陽光照りつける白浜から空へと視線を移す。
 一面蒼に塗りたくられた空に、ぽっかりと浮かぶ大きな雲。それが間もなく太陽に差し掛かり、地上から隠そうとしている。
 騒がしくなる、その予感がする。何事もなければいいというのは浅薄な願いだ。間違いなく、嵐がやってくるだろう。この地に、この家に、綱吉の身に。そして何よりも、雲雀本人にも。
「まったく」
 細い幅の川を渡り終えた雲雀が、砂利道を踏みしめて心底つまらなそうに呟く。遠く、西から大量の雲を引き連れた団体が徐々に蒼天を埋め尽くそうと動いているのが見えた。遠雷が微かに雲雀の耳に届く。
 まるでこの先の自分たちを暗示しているような雲行き。彼は屋敷に戻る路を行きながら西の空を仰ぎ見、忌々しげに舌打ちを繰り返した。
 袖口から引き抜いた己の右手を見つめ、五本の指をそれぞれ曲げて力を込めて握りしめた。雨の気配が鼻先を掠めて行き、ため息がそれを追いかけて走り去る。
「面倒なことに、ならなければいいんだけど」
 今度ははっきりと、先ほどまでの晴天が嘘の如く、暗雲轟く音が地表を覆い隠した。

 闇。
 一面の、闇。
 蠢く。
「沢田の長子に決まったそうだな……」
「愚かなり。傍流の成れの果て、退魔の力すら持たぬ軟弱ものよ。九代目も耄碌したか」
「しかし、聞けば沢田が嫡子、幼き日は初代に劣らぬ力を持っていたと言うが?」
「見魔の力も、我らが知るとは異なる魔を見透かす力……透魔の域に達していると」
「はっ、魔を見抜いたところで何の役にも立ちませぬわ」
「おやおや、お宅のご自慢のお坊ちゃんはろくに魔も見破れぬと聞くが?」
「なにを、貴様こそ!」
「……おやめなさい。今は醜い言い争いをする時ではないでしょう」
「はっ。申し訳御座いません……」
「して、沢田の長子なるもの、いかがなされるおつもりか?」
「初代にも勝ると言わしめた力、何故に奴は失ったのか? 知る者はおらぬのか」
「なんでも奴には、退魔に優れた者が常に傍に控えているとか」
「ほう……名はなんと?」
「確か、雲雀……恭弥と」
「雲雀……? どこぞで聞いたような名だが、はて」
「今はそれよりも、沢田の長子を如何するかで御座いましょう」
「そうだな。隼人……いるか」
「はい、此処に」
 闇の中に炎が宿る。赤い灯籠がふたつ、その間にまばゆき白銀が、ひとつ。
「良いか、お前に任を与える」
「はっ。有り難きお言葉」
「今より、並盛の里へ出向き、沢田綱吉なる男子と接触しその力量を見極めよ」
「沢田綱吉……で御座いますか」
「余計な詮索は無用」
「左様。貴様は命じられたままに動けばよし」
「…………御意」
「もし、その男子、蛤蜊家の名を汚すような輩であれば、構わぬ」
「殺せ」
「殺せ」
「殺せ」
 声が響く。無数に、数多に、地の奥底から、毒をもって、低く、低く。
 銀糸の髪が縦に揺れる。
「御意」
 炎が消える。再び、闇が。そして静寂が。
 遠く、嵐が吹き抜ける音だけが――――