教室中に掛け声が響き渡る。一斉に出された右手が合計で十数名分、そのどれもが三種類あるじゃんけんのポーズをひとつ選択していた。
無論一発で勝敗が決まるわけがない。数回あいこを繰り返す掛け声が続き、仲良しを自負するクラスの男子はここぞとばかりに無駄な気合を打ち放った。
そして、開始から十数回のあいこが続いた末、クラスで最も不幸な男子生徒が選出された。
固唾を飲んで見守っていた女子からも、いい加減疲れを感じていたほかの男子からも、悲鳴に似た歓声があがる。その中央で、沢田綱吉は自らが出したちょきの形を作った右手を呆然と見詰めていた。
「すげーな、ツナ」
後ろから山本が、笑いながら彼の肩を抱く。がっ、と体重を預けられて綱吉は上半身を斜めに傾けた。眼前に、明るいオレンジをした奇怪なマスクが差し出される。目を瞬かせ、綱吉は引き攣った笑みで親友を振り返った。
「本当にやるの……?」
「モチ」
左の頬を痙攣させて聞いてみたが、即座に笑顔が頷いた。悪気もなく、本気で楽しんでいると分かる細い目に綱吉もまた、微笑みを硬直させる。
「頑張れよ、ツナ」
「任せたぞ」
「成果を期待してるぜ!」
口々に勝手なことを言い放つクラスメイトへ視線を一巡させ、渡されたお化けのマスクを手に綱吉はぐったりと項垂れる。
今日は、ハロウィン。
クラスの女子が、教室でパーティーをやろう、という話を出したのがきっかけで、とんとん拍子に準備は進みいざ当日。しかし耳聡い風紀委員が、学校内でのそういった不埒なイベントを見過ごしてくれるわけがない。
綱吉は期待に胸膨らませた表情のクラスメイトと、その背後で見事に飾りつけられた教室を眺め、更にもう一度溜息をついた。パーティー開始の準備が整う直前、教室に乱入してきた風紀委員は、パーティー用に皆でお金を出し合って持ち込んだ菓子やジュースを、校則違反だという一言で片付け、没収してしまったのだ。
まだ表に出ておらず、鞄に隠されていたものに関してはお咎めがなかったものの、食料の大半が持って行かれてしまい、クラスメイトは憤懣やるかたない。先ほどのじゃんけん大会は、風紀委員に直談判、もしくは強行軍で奪われたものを取り返す人間を選出する為のものだった。
むしろ罰ゲームだ、と綱吉は手の中のおもちゃを見下ろす。これもまた、ハロウィンパーティー用に持ち込まれたもの。こういう馬鹿げたものに風紀委員は興味がなかったようで、没収されずに済んだかぼちゃのマスク。折角なのだからハロウィン風味で突撃してこい、という趣旨らしい。そんな事をすれば速攻トンファーが飛んできそうな気がするのだが。
「頼んだぜー」
皆好き勝手言い放題である。最近の綱吉の評価は、一時期のダメツナよりは改善されているものの、あまりに過剰な期待を寄せないで欲しいと本人は泣きそうだった。果たして彼らのうち何人が、無事綱吉がお菓子を取り返して帰還できると予測しているだろう。単純にこの状況を楽しんでいるだけの気がして、重ねた溜息にマスクを握り締める。
「ツナ君、頑張ってね」
「京子ちゃん……」
だが淡い想いを寄せる女子に、両手を胸の前で結ばれて真剣な瞳で見詰められたら、黙って頷くほか無い。踊らされていると自覚しつつも、綱吉は思いきってかぼちゃ大王のマスクを被った。視界が急激に狭まる、だが歩けないほどではない。
数歩慎重に足を進め、足元を踏みしめて確かめてからもうひとつ前進。横幅を把握出来ていなかった肩が扉の角にぶつかってよろけた以外は、特に問題なし。無事に廊下に出たところで綱吉は被っていたマスクを外し、教室を振り返った。
早々に飾りつけを再開させている女子がいる。抽選会用のクジ作成に取り掛かる男子が居る。折角皆で企画したのだから成功させたい。それには矢張り、メインを張る食料が必要不可欠。食べ物があるか無いかだけでも、ボルテージは違ってくる。
実力行使をしてきた風紀委員には不満の声が大きい。しかし面と向かって苦情を出せなかったのは自分達だ。独善的な行動を取る彼らを取り仕切る風紀委員長が怖くて、誰も手出しできなかった。綱吉も山本も、その時外へ買出しに出ていて不在で、何があったのか詳しいところまでは、聞いた話でしか分からない。ただその場に、雲雀もまた居なかったのは間違いないようで。
マスクの表面を撫で、綱吉は廊下を歩き出した。既に放課後、居残る生徒の数は少ない。窓の外ではサッカー部が練習している声が聞こえる。遠く体育館からは剣道部の掛け声。
階段を下りる。教室が並ぶ階から、職員室や用具室が並ぶ区画を通り抜け、問題の人がいる部屋へ。後ろには誰もついてきていない、皆雲雀が怖いのだ。
「俺も、なんだけどな……」
胸の前に抱いたかぼちゃのマスク。お化けにしては愛嬌のある顔の目の部分を指でなぞり、綱吉は教室を出た時のように頭からすっぽりと被った。薄暗く、見える範囲が狭まった視界の上の方に、応接室と書かれた札が見えた。
無意識に喉が鳴る。生唾を飲んだ彼は、意識した瞬間脈動を激化させた心臓を服の上から手で押さえ、落ち着け、と呪文のように幾度か繰り返した。
雲雀恭弥。並盛中で最も喧嘩が強く、凶暴で極悪。唯我独尊を地で行く人で、この中学に在籍している限り誰も彼には逆らえない。今時珍しいバンカラな風紀委員を取り仕切り、権力のトップに君臨する男。教職員さえ震え上がらせ、応接室を不法占拠し個室として使用している、彼。
綱吉もその他大多数の生徒同様、出来る限り彼との関わりを避けていたのだが、とある出来事をきっかけに接点を持ち、以後なんだかんだと言って言葉を交わしたりする機会が増えた。接してみると存外に彼のことを誤解していた面も多く、新鮮味を感じたりもした。けれどやはり、最初に植えつけられた恐怖心が完全に払拭されたわけではない。今でも彼に会いに行く時は緊張する。
雲雀に冗談が通じないのは痛いくらいに分かるので、今回のマスクもやめておいた方がいい気がしないでもない。けれど渡された手前被らないと格好がつかないというか、少しくらいおどけて見せた方が、自分としても気が紛れるというか。
要するに最初の一撃が怖くて目を合わせるのが嫌で、マスクがあれば多少変わるだろうか、とか。そんな気弱な理由。
応接室の扉前に立つ。深く深呼吸、胸を上下させてドアをノックしようとして、持ち上げた手が止まった。やっぱり怖い、せめてマスクを外そう。いやいやそれでは意味が無い、もっと自分に度胸と根性を。思考がぐるぐるとめまぐるしく入れ替わり、混ざり合い、いっそどうにでもなれ、と綱吉はノックをやめてドアノブに直接手を伸ばした。
彼はあまり部屋に鍵をかけない、外出する時以外は。だから、中に居るなら、ノブを回して押せばドアは開く。
物事、最初が肝心。今日はハロウィン、お化けは悪乗りするのが常。
「と……trick or treat!」
しかし最初の一音がどもったのは、いただけない。
綱吉は大声で叫びながらドアを押し開いた。廊下とは違う明るさが狭い視界に飛び込み、一瞬後自分の足元を見詰めていた。いきなり殴られた、とかではない。単純に勢い余り過ぎて左手がドアに攫われたまま、前につんのめっただけだ。
「…………」
ひんやりとした、北極よりも遥かに冷たい風を感じる。綱吉はおっとっと、をした姿勢のままよろよろと首だけを持ち上げた。かぼちゃ頭が前を向く。その先に、ソファへ優雅に腰を下ろした黒髪の男性が居る。
首から上だけが綱吉の方へ向けられていた。涼やかな、いっそ凍りつくような冷たい視線を浴び、綱吉の背中どころか全身の汗腺と言う汗腺から、大量の汗が噴出した。ダラダラと音を立てて汗が滝を作り出す。失敗した、なんて生易しい状況ではない。
膝が震えて内股がぶつかり合う。逃げ出したい気持ちに駆られるのに身体がいう事を利かなくて、綱吉は不自然なダンスをその場で披露する羽目に。
はぁ、という盛大なため息が聞こえた。雲雀がゆっくりとした動きで顔の向きを戻す。
「なにをやっているんだ、君は」
呆れて言葉も出ない、と言いたげな口調、声色。
静まり返った空気に、いたたまれない気持ちになって綱吉は呆然と立ち尽くす。彼は以後一切綱吉を無視、取り付く島も無い。
ここで諦める方が、後から考えればよかったのかもしれない。しかしクラスからの期待を一身に背負っているという手前、このまま手ぶらでは帰れない。ぐっと緩んだ腹に力を込めて踏み止まり、握り締めた拳で自分自身を叱咤激励する。
「お……」
それでもやはり第一声に詰まるのは、最早ご愛嬌。
「お菓子をくれなきゃ、い……悪戯するぞ!」
かぼちゃ頭の中学生が叫ぶ台詞ではない、と自分でも思ったけれど、後悔先に立たず。言った瞬間マスクの下にある綱吉の顔は茹蛸よりも真っ赤に染まり、再び浴びる冷たい視線に背筋が凍りついた。
二度目の溜息。雲雀は黒髪を指で掻き揚げると、膝に置いていたファイルをテーブルに置いた。
「へえ?」
今度は幾分興味をもたれたような、いや、違う。明らかに不機嫌で人を見下した声だ。口角を持ち上げて歪んだ笑みを浮かべている、子供が見たら泣き出しそうな顔だ。無論綱吉も今すぐに踵を返して教室に逃げ帰りたい。じゃんけんに負けた自分の不運さを本気で呪う。
雲雀は動かない。だがオーラが明らかにさっきと違っている。鳥肌が立ち、心臓が鷲掴みにされている気分だ。動いたらやられる、まさしく蛇に睨まれた蛙。指先一本さえ動かせず、綱吉はカチカチと奥歯を震わせる嫌な音に耐えねばならなかった。
マスクで顔を隠してはいるものの、声で中身が綱吉だというのはもう知れているだろう。雲雀は肩を竦めて右手人差し指をこめかみに押し当て、なにやら考えている素振りをする。ポーズだけだろうと予測される、綱吉の知る雲雀恭弥という男は、下手な冗談を冗談で返してくれるような生易しい相手ではない。
「で?」
だが。
比較的低いものの静かな声に、綱吉の震えが止まった。ひょっとして見逃してくれるのだろうか、一瞬の間に淡い期待が胸を過ぎる。
「僕に悪戯なんて、いい度胸だね、君は」
カミサマのバカ。
見逃して貰えるわけもなく、綱吉は信じてもいない神に思い切り恨み言を呟いて肩を落とした。雲雀が組んでいた脚を下ろし、立ち上がる。視線を持ち上げておいかけると、狭い範囲に辛うじて彼の胸から下半分だけが見えた。
いつまで被っているの、といわれる。声はそれなりに近い場所から響いた。
「う……」
怒られる、というか彼は既に怒っている。泣きたい気持ちを堪え、綱吉は両手をのろのろと持ち上げた。かぼちゃの側面に掌を添え、真上に引っ張り上げる。直後。
瞬きをした瞬間を狙って、雲雀の指が一直線に綱吉の顔めがけて伸びてきた。
「――――っ」
目潰しか何か、か。咄嗟に瞼を下ろして両目を硬く閉ざす。だが衝撃はもっと下にやってきた。閉じた唇を突きぬけ、なにやら柔らかい小さなものが同じく噛みあわされていた前歯に当たって止まった。歯という鎧戸に守られた舌先に、苦味の強い味が僅かに届く。
目を見開く。状況が良く分からないまま、綱吉は数回瞬きをして奥歯にこめていた力も緩めた。途端、不躾に人の唇に突っ込まれていた雲雀の親指は外へ、人差し指は前歯の檻を突き破り、綱吉の舌の上にまで達した。
むしろ、何かを綱吉の口腔内に突っ込む目的で指を差し込んできた、という表現が正しいか。
「んぐっ」
再び前歯を閉じようとして、先端に雲雀の指の厚みを感じて慌てて止める。反射的に唾と口腔内の空気を飲み込んだ影響で舌と粘膜との空間が狭まり、これでは彼の指を自分から逃さないようにしているみたいで綱吉は赤くなった。
苦い味が濃くなる。眉根を寄せて覚えのある味に意識を傾けるよう集中していると、唾液に指先を濡らした彼の指はスッと引き抜かれた。絡み付いていた綱吉の舌までもが引っ張られ、薄く開いた唇の間から窄められた肉厚の舌先が覗く。比較的ゆっくりめに離れていく雲雀の指にまとわりつく透明な唾液が、細い糸を作って途切れた。
「ぁ……」
唇に触れた冷たさに目を細め、綱吉は照明を浴びて薄く光る彼の指を追いかける。
「いやらしい顔」
「っ!」
ぽつりと囁かれた低い声に、綱吉は頭の中が爆発した。頭上に抱えていたかぼちゃのマスクが指の間をすり抜けていく。ゴン、という硬く鈍い音を響かせてそれは床に落ちて部屋の中央に向かって転がっていった。空っぽになった綱吉の両腕は、未だ頭の上に。指先がヒクヒクと痙攣して、失敗した阿波踊りのようだった。
反対の腕を伸ばした雲雀が、綱吉の背後でまだ開け放たれたままのドアを押す。乾いた音を短く響かせ、それは抵抗も見せずに壁に収まった。
音に反応した綱吉が背筋を震わせ、喉を上下に動かす。口の中に広がった苦味に眉根を寄せたまま、彼は訝しげに目の前に佇む男を見上げた。彼は先ほど綱吉へ突っ込んだその指を、あろうことか見えるように舌を伸ばして舐めていた。
単純に濡れたものを舐め取っている、と考えれば良いだけなのに、綱吉は再び頭が噴火しそうになった。目を丸くして、あわあわと言葉にならない音を声に出す。思わず苦いチョコレートと混ざり合った唾を吐きだしかけて、慌てて口を閉じた。
そう、チョコレート。それもカカオ度が高い、苦味の強いもの。
以前甘いものを得意としない雲雀に、綱吉がこういうものもありますよ、と渡したことがある。これならば平気だという感想を貰って、嬉しかったのでよく覚えている。だがそんなものを、何故口に。
と考えたところで、先ほどの自分の台詞を思い出し頭の先から湯気が出た。
「委員の何人かが、ハロウィンパーティーだとかで騒いでいる連中を取り締まったとか言っていたけれど」
嬉々として報告に訪れた委員の顔を思い出しているのか、指先を顎に添えた雲雀がその肘に反対の手を置いて腕を組ませる。綱吉が聞いているかいないかも関係なしの独白に、床上に転がるかぼちゃを見詰めていた綱吉も、やがては視線を持ち上げ、下から彼の整った顔を見やる。
まだ湿っているのか、少しだけ色が違う彼の人差し指に意識が向いてしまって、慌てて視線を逸らしたら小さく笑う気配がした。
「君のクラスだったのか」
「……です」
詳細を知らなかったところをみると、今回の騒動の発端は雲雀の命令ではなかったらしい。独断で動いた委員数名へ、なにやら不穏なことを口の中で呟いた彼に、綱吉は聞かなかったことにしようと心へ強く刻み込んだ。
新たな冷や汗を流していた綱吉に、ふいっと背中を向けた彼は長い脚を惜しみなく動かして室内中心部へと戻っていった。おいていかれた格好になった綱吉は視線を左右に散らし、どうしたものかと困惑を露にする。
彼が落ちていたかぼちゃ頭を拾い上げた。埃を軽く叩いて落とし、胸の高さまで持ち上げる。物珍しそうに眺めている彼へ思い切って距離を詰め、綱吉は先ほど自分がされたようなことをかぼちゃ頭に向けて実行した。
空洞に指を突っ込む。円を描くようにぐるぐると手首を回していると、不審気味の視線が落ちてきた。
「また、して欲しいの?」
「いっ」
ビクン、と肩が跳ねて背筋が粟立つ。まだ小さな塊として残っていたチョコレートまで飲み込んでしまって、軽く噎せた綱吉は呂律の回らない状態で懸命に否定を繰り返した。
雲雀が小さく笑う。視線が宙を行き、やがてまたもとの位置へ。そこから首に角度を作り、綱吉へと。
「trick …… or treat ?」
囁かれた低い声に、吸い込まれそうな黒い瞳を見詰め返す。
「はい?」
「僕には、ないんだ?」
状況の理解に頭が追いつかなくて、ついつい聞き返してしまった綱吉に、雲雀が口をへの字に曲げた。
「えー……っと」
それは、つまり。
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、と。
天下の雲雀恭弥が。
綱吉の体温がサーっと音を立てて下がり、全身の血液が一斉に心臓へ逆流を開始した。それこそ、ここで何か出さなければ殺されかねない雰囲気に、綱吉は大慌てでブレザーやズボンのポケットを上から叩いて確認する。が、いつもはひとつくらい持っている飴玉が今日に限って在庫切れ。胸の前で両手を交差させ、広げた掌を制服に押し付けた状態のまま、綱吉の視線は宙を泳いだ。
絶体絶命、大ピンチ。
目の前の男が実に楽しげに瞳を細めて綱吉を見ている。伸ばされたしなやかな指先が、硬直したままの綱吉の顎を撫でた。
ぞわっという悪寒、それとも違うもの? が背中を駆け抜ける。触れられた喉仏が大きく上下して、否応無しに緊張の度合いが彼へと伝わっていった。
雲雀のもう片手からかぼちゃ頭が落ちていく。今度は直接床ではなく、ソファに落ちたそれは、革張りの布の上でひっくり返って首を入れる部分を上にし、背凭れに顔の部分を埋めた。顎に指を添えられている所為で頭自体を動かせなかった綱吉は、瞳だけでマスクの動きを追いかける。やがてこれ以上は苦しくて無理、というところまで視線を流したところで、喉元に吐息を感じた。
直後に生温い、柔らかなものを肌に直接感じ取る。更にチリッとした微かな痛み。
「う……」
正直気持ち悪いという感想が先に立ったのだけれど、戻した瞳が映し出す世界に黒髪がいっぱいに広がっていて、反り返った指先が震えた。舐められた箇所に牙をたてられ、きつく吸われる。痛みが強くなり、じくじくとした感覚に脳髄が痺れる。足がこむら返りを起こしそうで、上手く息が吐き出せなくて綱吉は喘いだ。
虫刺されの如く赤くなった首を、また舐められる。さっきとはまた違う感覚に全身が戦慄いた。
「はっ」
吐く息が熱い。綱吉は居た堪れない気持ちできつく瞼を閉ざす。嘲笑うかのように雲雀の気配が近づいてくる。
指の背だろうか、硬いものが先に唇に触れた。ノックする時と同じ動きで小突かれ、促されるままに歯列を開くと、唇同士が触れ合う前に濡れたものが差し込まれる。
反射的に顔を後ろへ引こうとして、顎を今度は二本の指でしっかりと掴まれた。逃げないように拘束され、意識が竦み咄嗟に目を開いた瞬間、はっきりと黒目と白目の境界線が見て取れるくらいの至近距離に雲雀の顔があった。
彼は目を閉じていない。ジッと見詰められ、恥かしさに綱吉が目を閉ざすと彼が身にまとう空気が笑う。猫をあやす仕草で喉を撫でられ、上向かされて少し苦しい体勢のまま綱吉は懸命に彼が与えてくる愛撫から意識を逸らそうと別のことを考える。だが時折、わざとらしく足の付け根を掠める彼の膝にすぐに意識は掬われ、重なり合う熱に全身の血液が沸騰しそうだった。
「んぅ……」
鼻から抜ける息がくすみ、甘えるような声が漏れる。内壁を擽り、柔らかな舌の表面を撫で竦めてきつく吸い上げられ、食道を通り抜けて内臓全部が彼に呑まれてしまいそうな勢いを感じる。下腹部に感じる熱が否応なしに心臓を掻き乱し、膝が震えてまともに立っていられない。
己の太もも外側に置いてズボンを握りしめて堪えていた腕が、次第に緩んでいく。必死につなぎ止めようとするものの、なめらかな布地に指が浚われ、うまくいかない。何度も爪先がズボンの表面を引っ掻き、呼吸の苦しさから次第に肘が持ち上がっていく。
雲雀の着るベストの裾を掴んだ指が、引っかける場所を得て安堵した。柔らかな布に深い皺が無数に刻まれる。
彼は抱きしめてはくれない。ただ綱吉の顎を固定したまま、好きなだけ綱吉の内部を蹂躙する。まさしく傲慢な彼の性格そのままの行動に、怒りさえ覚えるのに、抵抗する気力はひとかけらさえ綱吉の残っていなかった。
立っているのもやっとの状態。そうなった張本人に縋る他ない現実。濡れた音が外からも、身体の中からも耳に響く。瞳の奧がちかちかする。瞼を閉ざしているのに頭の中が黒と白に明滅して、綱吉の指は彼のベストをがむしゃらに掻き乱した。爪が縫い目に引っかかる。
下から服を引っ張られるのを受け、彼やっと綱吉を解放した。ただ顎に置いた手はそのまま、だらしなく開ききった綱吉の唇を舐め、上唇を軽く咬んでいく。
「は……ぁ、っ……ん」
喉が何度も上下する。ふたり分混じり合って、もう別々には出来ない口の中に溢れた唾液を飲み込んで、荒く肩を動かして呼吸する。久しぶりに吸い込んだ空気は暖かく、綱吉の火照った身体を鎮めてはくれなかった。
顎に添えられている雲雀の手、親指の腹で唇の近くに零れた分を拭われた。そんな些細な動きにさえ心臓が震えて、綱吉はゆるゆると首を横に振った。振りほどくと、彼の手はあっさりと離れていく。
「チョコレート味」
「――――っ!」
去り際に耳元で囁かれた言葉に、綱吉の顔がまた真っ赤に染まる。確かにさっきまで食べていたチョコレートは、まだ舌の上に若干残っていたりしたけれど。
唾と熱に融かされ、それはもう味も思い出せないくらいに遠い存在になっていた。
「ひ、ヒバリさん!」
「ああ、没収物だけど、持って帰ってね。捨てるだけだし」
指の先まで赤くなった綱吉が、多少詰まりながらそれ以上下手な事を言われたくなくて雲雀を止めにかかったのだけれど、あっさりと振り回された綱吉の腕を逃れた彼は、執務机に置かれた袋を指さしてそう言った。
まるで綱吉ひとりが照れて、熱くなっている雰囲気。雲雀にとってこんな事はなんでもないのかと思わせられて、綱吉は握った拳がおろせない。
雲雀が振り返る。涼やかな瞳に魅入られ、綱吉は奥歯を噛んで横を向いた。あげたままだった左手に、雲雀の右手が降ってくる。
「綱吉」
拳の上から掌全部を使って包まれて、引き寄せられるままに彼の胸に小柄な綱吉はあっけなく納まった。微かに感じる彼の拍動が、暖かい。
上を向く。間近で見る彼の瞳は黒水晶よりも深く、澄んでいる。僅かに潤み、熱を帯びて、内側に秘められた感情を言葉よりも雄弁に綱吉に教えている。
「ヒバリさん」
名前を呼び返す。彼は表情を、綱吉くらいにしか分からない僅かな変化で和らげた。
「悪戯の続きは、その後でね」
「……ばかっ」
背中に右腕を回され、更に強く抱きしめられる。
耳を寄せた彼の鼓動は、いつもよりずっと速かった。