琴線

 中間テストは散々な成績だった。試験結果を知らされたリボーンのお冠も凄まじかった。
 期末テストはこうはなるまい、と心に誓っても、授業の基本的な部分でさえ理解力が追いつかない綱吉にとっては、試験で赤点を取らないことでさえ非常に困難。
 かといってリボーンに泣きつけば脅迫じみた方法での勉強が待っており、それは出来る限り避けたいところ。故に綱吉が頼る先はひとつしかない。
 マンションのポーチで部屋番号を押し、在宅中のはずの彼を呼び出す。程なくして綱吉の顔の高さにあるスピーカーから、聞き覚えのある声が電子処理された状態で流れてきた。
『今、開けますね』
 直後に左を見れば、防犯カメラの向く先、強化硝子の正面玄関のロックが外されたところ。綱吉は、恐らくまだ電話口の前にいるだろう獄寺に短い礼を告げ、金属製のドアノブに手を置いた。重さを感じる扉を押し開き、中へ入る。空調が利いているのか、乳白色の壁が広がるロビーは外にいるよりも湿気が少なくひんやりとしていた。
 綱吉は視線を巡らせ、まずはエレベーターを探す。階段を使っていくには上層階過ぎる獄寺の部屋を目指して移動すること数分、探し出したドアの横に記された「獄寺」の表札に若干の違和感を抱きつつ、綱吉は呼び鈴を探して視線を巡らせた。
 が。
「十代目、お待ちしてました!」
 持ち上げた指を押す先が見出せないうちに、内側から外向きに開かれたドアに綱吉は目を剥いた。顔の前すれすれを通り過ぎていった鉄製の扉に何よりも驚き、現れた満面の笑みを浮かべてドアノブに寄りかかっている獄寺の顔に更に驚かされる。
 ひょっとしなくても彼は、綱吉がドアの前に来るまで扉一枚隔てた先で待ち構えていたのだろうか。十分ありえそうな発想に、綱吉は思わず溜息を零した。
「十代目、御加減でも悪いのですか?」
 その吐息の意味を履き違えたらしい獄寺が、素足のまま通路に出てきておろおろと声を発する。どこまでも心配性の彼にもうひとつ溜息をついてから、綱吉はゆっくりと頭を振った。
「違うよ。それより、上がっても平気?」
「あ、はい。どうぞ」
 勉強を始める前から疲れてしまいそうで、綱吉は気を取り直すとまだ困惑している獄寺の目を見ながら問いかけた。そして道を譲って貰ってタイル張りの玄関へと入り、靴を脱ぐ。後ろでは獄寺がドアを閉めていた。自動でロックされるのだろう、重い音が一度だけ綱吉の耳に届いた。
 スニーカーの踵を潰しながら靴を脱いでいる間に、脇を抜けた獄寺が細長い廊下を突き進んでいく。見失う前に急がなければ、と綱吉は乱暴に靴を脱ぎ捨てると、左右をそろえる間もなく彼を追った。
 外から見上げた時も感じたのだが、内部はかなり広い。細長い廊下を突き進みながら綱吉は考える。家族用の間取りであるのに、彼はここにひとりで暮らしているのか。
 通路よりも更にひんやりとした空気が、綺麗に磨かれたフローリングから登ってくる。肌を刺す冷気に思わず腕をさすりながら、綱吉は内扉の向こうへ消えた獄寺に続いた。視界が急に明るく広がる。前方には南向きの大きな窓が連なっていた。
 左手にカウンター形式のキッチンが、右手奥にソファやテレビを並べた空間が。本来食卓が置かれるだろうスペースには、見事に何も無い。
「十代目」
 あまりにもがらんどうの空間に、呆気に取られていた綱吉を獄寺が呼ぶ。彼は壁際のソファと、膝の高さのテーブルの間に立ち、綱吉を手招いた。言われるがまま靴下でそちらへ向かう。ワックスが利いた床は、ともすれば足を取られて滑りそうだ。
 傍まで行くと、テーブルには既に勉強道具一式が揃えられていた。教科書にノート、辞書など等。どの教科を重点的にやるかまでは決めていなかったので、手当たり次第持ってきたという感じがする。綱吉はそのテーブル前で肩から提げていた鞄を下ろし、柔らかな質感の絨毯に腰を下ろした。手触りが良く、気持ち良い。
「何か飲み物持ってきますね」
「お気遣いなくー」
 綱吉が着席するのを待って、獄寺が入れ替わりに立ち上がる。キッチンへ向かおうとする彼に遠慮がちに声をかけるが、返事は無かった。仕方なく彼の背中を見送り、早々に正座から足を崩して部屋をぐるりと見回した。
 生活感があまり感じられないのは、家具やそれに付随する備品などが少ないからだろうか。どれも綺麗で統一感があるのに物寂しいと思えるのは、そのいずれもが手垢もつかず購入当時のままだからか。まるで家具の展示場に来ている気分だ。
 綱吉の家にあるどのテレビよりも薄く大きなテレビが壁に据えつけられている。ビデオデッキの横には数本のテープと、DVDのパッケージ。書かれている文字は日本語ではなく、綱吉には読み取れない。彼は今でも、本当は日本語よりイタリア語の方が読み書きするのが楽なのかもしれない。
 四つんばい状態で右手を伸ばし、一番上にあるDVDを裏返していたところで獄寺がお盆を手に戻ってきた。彼は綱吉が見ているものを見下ろし、困った風に苦笑する。
「後で観ますか?」
 去年のベネチア国際映画祭で賞を取った作品です、と教えられても綱吉にはさっぱり分からない。字幕も無い、何を言っているのかも分からない映画を観ても楽しめる自信がなくて、綱吉は首を振って居住まいを正した。
 獄寺がお盆からコップを二つテーブルに置いた。縦長の円柱形をコップの片方には薄茶色の液体が、もう片方には濃い黒に近い液体が注がれている。彼は薄茶色の方を、綱吉へ差し出した。
「有難う」
 素直に礼を返し、受け取る。鼻に近づけても何の匂いもしなかったが、口をつけて僅かに舌先に含ませると、甘い匂いと味が広がる。アイスコーヒーにミルクとシロップをたっぷりと注いだもののようで、つい一気に飲み干してしまいたくなるのを理性でどうにか押し留めた。
「何から始めますか」
 空になった盆をテーブルの脚に立てかけて置き、獄寺もまた綱吉の真向かいに座る。彼の背後に広がる白い壁にはこげ茶色のラックがあって、ミニチュアだったり一輪挿しだったり、小さなものが幾つかに分けて並べられていた。横には、スタンドに立てかけられたギター。
 そういえば彼はピアノも弾くのだった。両手で抱いたコップを置き、綱吉は彼の手元へと視線を向けた。
 普段の荒々しい彼からは想像もつかないけれど、その指先はとても繊細な動きを発揮する。ちょっとした取り扱いのミスで大爆発を起こしかねないダイナマイトを武器とする彼だから、考えてみればそれは当たり前の事かもしれないが。
 その指は今、銀色のシャープペンシルを握り、一番上に積まれていた英語の教科書を捲っていた。
「十代目?」
 ぼんやりしていたのだろう、獄寺の動きが不意に止まった。綱吉はハッと我に返り、真正面を見る。存外に近いところに獄寺の両目があって、そこに映し出されている自分の姿にまたハッとした。
「ご、ごめん。英語からお願いしていいかな」
 慌てて謝って、顔を背け自分の鞄に両手を突っ込む。しかし気が急いているのか動揺しているのか、手が滑ってなかなか思うものが掴み取れない。鞄の中でひっくり返った筆入れが、蓋を開けて中身を撒き散らした。
「焦らなくても、時間はあるので大丈夫ですよ」
 気を悪くされただろうか。不安になる綱吉だけれど、聞こえてきた獄寺の優しい口調に胸を撫で下ろす。こうやって彼に甘えてばかりだから良くないんだよな、と自分で分かっていても、綱吉はこの状況からなかなか抜け出せない。
 彼は優しい。綱吉の為といわれれば、きっと燃え盛る炎にだって平気で飛び込んでいく。
「じゃあ、試験範囲だけでも大雑把に振り返っていきましょうか」
「うん、よろしく」
 広げた教科書を立てて角で机を数回叩き、獄寺が呟くのに頷く。文法のおさらいから、単語の意味、訳し方のコツ。獄寺が見立てたテストに出るだろう予測を重点的に、しつこいくらいに繰り返し綱吉は説明を受けた。
 同じ間違いをしても、獄寺は決して怒らない。その度に詳しく、丁寧に間違いを指摘し、辛抱強く綱吉が理解できるのを待ってくれる。彼だって自分の勉強があるだろうに、復習になるから構いませんと笑って受け流す。
 あくまでも彼にとっては綱吉が全ての中心。それが却って申し訳なさを先に立たせて、綱吉は回答を間違える度に恥じ入って消えてしまいたい気持ちに駆られた。
「良いんですよ、十代目」
 また同じ単語の訳が思い出せず、手詰まり状態になって黙り込んだ綱吉に獄寺の声が静かに響く。
「いっぺんに、すぐには覚えられませんから。大丈夫です、十代目」
「けど」
 綱吉の握るシャープペンシルの先端が、白いノートに黒い点を刻み込む。疎らだったそれもやがてはひとつの大きな黒点へと姿を替え、ノートの端に目立つ存在となっていた。
 俯いたまま唇を浅く噛む綱吉のその手に、暖かなものが触れる。目を開けて視線を投げると、獄寺が遠慮がちに手を伸ばし、指先を重ねて来ていた。顔を上げるとそのまま目が合って、微笑みを向けられる。
「俺は、十代目とこうして一緒に過ごせるだけで、嬉しくて仕方ないんです」
 もっと頼ってください。真摯な思いを真正面からぶつけられ、綱吉は一瞬心臓が跳ねた。触れられている指先が痺れて、感覚が遠ざかっていく気がする。その反面爪の内側から伝う熱さが心地よくて、上昇する心拍数と相俟って綱吉は獄寺からサッと顔を逸らした。
 硬直したまま指先ばかりを見詰めていると、何も言わず彼の手は離れていった。再び、シャープペンシルを握って次の問題に話を切り替えてしまう。
「あ……」
 何か言った方が良かっただろうに、綱吉は咄嗟の反応が出来なくてそれを悔いる。獄寺は少しも気にした様子がないのだけれど、肌で感じ取った空気の変化に綱吉は前歯で下唇を噛んだ。
 英語の次は数学、その後化学もやりましょう、と話を振られて頷くだけで精一杯。問題をその後いくつかこなし、どうにか基礎部分だけは理解出来ただろう、というところで英語は終了。息の詰まる空間に僅かな緩みが生じ、気がつけば随分と喉が渇いていた。
 視線を揺らしてコップを探す。残り僅かとなっていたコーヒーは生温く、コップの外側には水がたまっていた。気がついた獄寺が自分の分も残りを飲み干し、盆を使わずふたり分を指でつまみ持った。スッと立ち上がる。綱吉の視線がそれを追う。
「新しいの、持って来ますね」
「手伝おうか?」
 両手をテーブルに置き、既に腰を浮かせかかっていた綱吉だったけれど、見上げた先の獄寺がやんわりと首を振って「平気です」とだけ言葉を返してくる。
 ここは獄寺の家であり、綱吉は勝手が分からない。素直に彼に任せてしまう方が良いに決まっているのだが、あまりにも自分がお客様然としているのが気に入らなくて、綱吉は唇を尖らせて不満を表面に出しつつ、けれど結局はその場に座り直した。
 獄寺が苦笑して背中を向け歩いていく。空っぽのダイニングを抜けて、薄暗いキッチンへと。部屋はこんなにも明るく綺麗なのに、眺めているとなんだか落ち着かなくて、綱吉は崩した膝の上に手を置くともぞもぞと視線を床に這わせた。
 横に広げた脚、身体の前方でくっつけた太ももの間に手を挟んで、背筋を伸ばしながら目線は壁際へ。スタンドに立てられたこげ茶色のアコースティックギター、それだけが人の使った形跡を感じさせて綱吉は数回、瞬きを繰り返した。
 音楽に造詣がある彼だから、ギターも当たり前のように弾けそうな気がする。どちらかと言えばエレキギターの方が似合いそうだけれど、などと考えながら綱吉は膝立ちでそちらへと向かった。
 綱吉自身、得意ではないけれど音楽を聴くのは好きだ。ギターを片手にした歌手の歌が流行した時は、箒をギターに見立てて部屋で歌ったこともある。ただ実物は、お金もなく弾きこなせる自信も無ければ、飽きずに続けられる見通しも無くて、購入には踏み切れなかった。
 絨毯の上から冷たいフローリングの上に。手を伸ばして弦に触れると、それは微かで低い音をギター本体の空洞に響かせた。思わずびくり、と大袈裟に肩を揺らしてしまう。
「良いですよ」
 更に追い討ちで、不意をついて背後頭上から声が響き、二重に驚いて綱吉はその場で尻餅をついた。指先に磨かれた床を感じながら顎を仰け反らせると、ほぼ真後ろに獄寺が立っている。上半身だけをブリッジする姿勢で後ろを見れば、逆さまの視界に、テーブルに添えられたコップがふたつ見えた。
 いつの間に戻ってきたのだろう、全く気付けなくて綱吉は自分の迂闊さを呪いながら痛みを訴える背中を宥めつつ姿勢を戻した。
 獄寺が脇を通り抜け、ギターのネックを持ち上げる。立てかけてあっただけなのでそれは簡単に外れ、彼の胸元に納まった。
 そうやって彼が抱えると、想像以上に彼に似合っていて、綱吉は思わずボーっと見とれてしまった。彼ならば高校に行ってどこかのバンドにでも入れば、一躍人気者になれるだろう。頭の中で、眩い照明を受けながらステージ上で弦を掻き鳴らす彼の姿が思い描かれ、慌てた綱吉は急ぎ首を振って考えを打ち消した。
 その鼻先に、ギターがつきつけられる。
「え」
「十代目も、弾かれるんですか?」
 差し出され思わず受け取ってしまい、広げた膝に支える格好で抱きしめたギターに呆然とする。追い討ちで問いかけられても即座に返事が出来ず、綱吉は曖昧に誤魔化した笑みを浮かべるほか無い。
 目の前の獄寺が、不思議そうに首を傾げる。
「そうじゃないんだ、弾いたことなくて」
 興味はある、弾けたら良いなとも思う。でも行動に移すのには勇気が足りなくて、諦めた。早口に説明すると、獄寺は綱吉の横に座って「じゃあ」と前置きした。横を向いた彼の顔が少しだけ近づく。
 吐く息が綱吉の鼻先を掠めた。
「弾いてみますか?」
 勉強ばかりでは息が詰まって疲れるから、少しくらい息抜きも必要ですし。笑いながら言う彼に最初は戸惑っていた綱吉だけれど、好奇心は元から旺盛な彼のこと、ふたつ返事で頷いた。
「それじゃ、ネックをこう……そう、右腕でボディを支える感じで」
「こ、こう?」
「はい」
 まずは持ち方からだなんて、自分がいかに中途半端にギターの奏者を見ていたのかが分かり、綱吉は恥かしくなった。しかし獄寺は、さっきまでと同様に全く意に介する様子もなく、丁寧に綱吉に教えてくれた。
 ギターの各部位の名称を、指を差しながら簡単に説明し、次いで弦の呼び方も。彼のしなやかな指がネックに挟まれていた銀色のピックを外し取る。差し出されたそれを右手で受け取り、ポーズを取ると、それだけで綱吉は、自分がスターになった気分に陥った。
 音を鳴らしてもいないのに嬉しくなって、横の獄寺を振り向く。彼もまた、長い前髪の向こう側にある瞳を細めて綱吉を見詰めていた。
「音は、どうすれば?」
「そうですね、いきなり曲も難しいですし、基本のコードを押さえてみましょうか」
 こうなってくると俄然興味が沸いてきて、綱吉は逸る気持ちを抑えながら問いかける。少し逡巡した獄寺は、軽く握った拳を顎に押し当てて視線を宙に流し、それからスタンドの傍に無造作に積み上げていた雑誌を何冊か引っ張ってきた。
 外国のミュージシャンだろうか、薄暗い中でギターを構えた男性が汗を飛ばしている写真が表紙を飾っている。書かれている文字は矢張り綱吉の読めないもので、彼が普段どんな生活をしているのか若干窺い知れた。
 こうやって、彼が異国出身なのだと意識するたびに、少しだけ彼が遠くなる気がして、何故か寂しい。
 右手で持ったピックの先で何気なく一番上の弦を弾く。ミ、だろうか。左手で何も押さえぬままに掻き鳴らした音は綱吉の聴覚に、そう響いて聞こえた。
 物珍しげな視線を手元に向ける。ナイロン製の弦をピンと張り巡らせているだけなのに、弾けば音が響く。本体内部に作られた空洞を伝って音が深まり、広がっていく。とても簡単な構造なのに、実に様々な音を奏でる。当たり前のように感じていたけれど、こうやって直接肌に触れて実際自分で弾いてみて、その不可思議な現象に綱吉は目を見張った。
 傍らの獄寺が広げた雑誌を床に置き、指先で紙面をなぞった。つられて綱吉もそこへ目を向けると、なにやら複雑な記号が五線譜よりも一本多い譜面に細かく書き込まれていた。後で知ったがそれはギターをやる人のための譜面らしい。当然ながら綱吉は理解できず、困った表情で獄寺を盗み見る。視線が間近で重なって、彼はにこりと優しい笑顔を浮かべた。
 今日の彼は随分と上機嫌だ、ずっと笑っている。
 先ほど綱吉と一緒にいられるだけで嬉しいと言っていたけれど、それが彼の本音だと気付かされて、綱吉は照れ臭いやら恥かしいやらで、頬をサッと赤らめてワザとらしくギターに意識を向けた。綱吉の左手が握るギターのネック部分に、彼の右人差し指が伸びてくる。
 差し示された場所を指で押さえるように言われ、その通りにしようと綱吉は動いた。続いて別の箇所も、同時に押さえるのだと説明される。
 だが、もうだめだった。
「え、と……あ、あれ?」
 片方を押さえていると、もう片方に指が向かない。届いたと思ったら、最初に押さえていたところに力が入らなくて浮いてしまう。獄寺はもう一本、合計三本の指を使うように指示するのだけれど、最初だから勝手が分からないどころの問題ではなく、綱吉はすっかり混乱してしまった。
 獄寺が身を乗り出し、辛抱強く説明を繰り返す。だが音を鳴らすところまでたどり着くのに、あとどれくらい掛かるかも分からない。綱吉の物分りの悪さは彼も承知の上だろうが、どこか苛立った雰囲気が彼の上に降りてくるのが空気を通して伝わってきた。
 だからこれ以上彼を不機嫌にさせぬよう綱吉も必死になるのだけれど、焦れば焦るほど空回りして上手くいかない。最後は泣きそうな気持ちになって、ギターになんて興味を持たなければ良かったと投げ出したくなった。
 顔の前で獄寺のため息が聞こえる。彼も呆れてしまっている、綱吉は益々気落ちして俯いた。鼻の奥がツンとして、泣きたくも無いのに涙が溢れてくる。
 と、顔の前にあった影が消えた。直後背中に気配を感じる。綱吉が顔を上げて振り返ろうとした時には既に、後ろへ回りこんだ獄寺が膝を曲げてしゃがみ込んでいた。脇腹を摺り抜けた彼の腕が、綱吉の胸元へと伸ばされる。
「え……」
 どきり、と。
 左手が重なっている。勉強を教わっていた最中に感じたものと同じ熱が、ギターのネックごと綱吉の左手を下から包み込んでいた。
「ごく、でらく……」
「良いですか、これはこう」
 喉が掠れて上手く声が発せられない。しどろもどろのままそれでも彼の名前を呼ぼうとしたら、先を打った彼の静かな口調が耳元にこだました。
 獄寺の右腕は綱吉の太ももの傍へ下ろされ、意識は左手に。綱吉の指をエスコートするように彼の手は動き、押さえるべき弦へと導くと動かぬよう上から押さえて固定する。更にもう一本も。強引に押し込むのではなく、あくまでも仕草は丁寧に、綱吉を支える格好で。
 身を引こうとした綱吉の肩が、獄寺の胸板にぶつかって止まる。逃げ場は用意されておらず、完全に封じ込められた狭い空間で、否応がなしに獄寺の呼吸が耳の奥に響いてくる。早鐘を打ち鳴らす心臓が五月蝿くて、綱吉は生唾を飲むと背中越しの体温を無理やり意識の外へと追い出した。
 しかしギターを教わっている手前、左手からは視線を外せない。自分の細く頼りない指に、ぴったりと添う形で獄寺の指が張り付いている。掌全体をすっぽりと包んで隠してしまえそうなくらいに大きな彼の手、やがて彼の右腕も緩やかに持ち上げられ、辛うじてまだピックを抓んでいた綱吉の右手首を掴んだ。
 ビクッと身体が震えて、振動が伝わった獄寺が驚いたように目を丸くして綱吉を見下ろす。至近距離で顔を見合わせて、それで彼も漸く、綱吉が何を緊張しているのかに気付いたらしい。銀色の髪とは対照的なくらいに顔が赤く染まり、瞬時に逸らされる。
「ぇと、そのっ! ……すみません」
 消え入りそうな声で謝られても、綱吉は困るだけ。お互い首から上はそっぽを向く格好になっていても、肩から下の相手の心音が聞こえてきそうな距離に指先が痺れている。
 しかし綱吉は、離れて、とも、放して、とも言えなかった。
「いや、俺も……」
 変に意識してしまうと、もうそこから気持ちが離れない。左手の指先へ痛いくらいに弦が食い込んでいて、けれど獄寺が上から押さえている所為で外すことも出来ず、綱吉は視線を泳がせた末に自分の膝元を見た。
 譜面に並ぶ記号、折り癖のついた雑誌。君はどんな音楽が好きで、この部屋でどんな時に耳を傾けているのだろう。もっと、彼のことを、知りたいと思う。
 どうすれば、もっと君に、近づけるだろう。
「十代目……」
 喉の奥で引っかかった末に落ちた、そんな感じのする声が綱吉を呼ぶ。促されているようで、綱吉は恐る恐る彼を仰ぎ見た。
 左斜め後方、肩越しに映る獄寺の瞳は熱を帯び、どこか獣じみた色を感じさせた。戸惑いに揺れている双眸が、それでも強い意思を秘めて綱吉を見詰めている。引き込まれてしまいそうで、綱吉は息を呑んだ。
 こんな顔をする彼は、知らない。
 彼がこんな顔をする瞬間を、綱吉は、知らない。
「ごくでら、くん……?」
 名前を呼ぶ、その呼気が彼の肌へと触れる。その逆も然り、彼がゆっくりと繰り返す呼吸に、いつの間にか綱吉はリズムを合わせていた。心臓の音が重なり合って聞こえる。彼もまた、緊張している。
 彼の唇が震えている。名前を呼ばれた。繰り返し、繰り返し、低く腹に響く声で、耳に残る声で、心臓を抉る切ない声が、綱吉を呼んでいる。
 怖い、とも思う。彼が何故、今どうして、綱吉にそんな目を向けているのか、その理由を知ってしまうのが怖い。けれど進みたいとも思っている自分が確かに存在する、彼は怖くないと言い聞かせている声が心の中に響いている。
 息を吐いて唇を閉じ、唾を飲む。喉が上下する動きを追った獄寺の目が、妖しく輝いて見えた。
 指が痛い。心臓が、痛い。破裂しそうだ。胸に直接スピーカーを繋げられたなら、きっと部屋を飛び越えて町中に響くくらいの心音が響いただろう。
 獄寺の息が、上唇に触れる。
 熱い。眩暈がする。反射的に綱吉は目を閉じた。弦を押さえ続けるのも難しく、力を失った指先がずり落ちていく。それを獄寺の左手が受け止めて、ギターのネックに縫い付ける。
 引き込まれる。獄寺に、何もかも全部、奪われてしまう。
 けれど不思議に恐怖は感じない。こうなるのが必然だったとすんなり胸が受け入れている。とても近い場所に獄寺がいる。存在を強く意識する。彼もまた、目を閉じているのだろうか。堪え切れなくて綱吉は薄く唇を開き、彼を、呼んだ。
 音にならない声が、獄寺に触れる。
 熱が、降りてくる――――

 ピンポーン

 まさしくその瞬間を狙っていたかのように、間の抜けた音が天井を駆け抜けていった。
 音に驚いて目を見開き、額が擦れ合うくらいの距離に互いの顔があるのに気付いて我に返る。ふたりして「うわっ」と驚いた声を出してしまい焦り、慌てる。獄寺が勢い余って前のめりに倒れ、綱吉は反射的に後ろへ身体を引いてそれを避けた。手を放してしまったギターが倒れる。そこへ獄寺が覆いかぶさって床に撃沈した。
 ピンポーン、という呼び出し音はまだ続いている。連打されているのか、間断なく続いて騒々しい。
「誰だ!」
 良いところだったのに、と続けようとして寸前でこらえた獄寺が、赤くなった額をそのままに起き上がる。激しく怒り狂った歩き方でキッチン脇の壁に据えつけられているインターホンへと向かって行くのを、綱吉は呆然と見送った。
 まだ顔が、身体全体が火照っている。自分はいったい何を考え、何をしようとしていたのだろう。一瞬思い出せなくて、二秒後思い出し、顔から火が出る思いで綱吉は両手で顔を挟み込んだ。
 後数秒、否、一秒でもチャイムが遅ければ、自分の唇と、獄寺のそれは完全に重なり合っていたに違いない。それくらいの近さにあった彼の顔は、思い出すだけでも穴があったら入りたい気分にさせられた。危うく流されるところだった、しかもあの瞬間は、流されても良いと本気で思っていた。
「あぶ、な……」
 左胸を抑えてがっくりと床に項垂れていると、応対に出た獄寺がなにやら不機嫌に怒鳴っている。宅配便か何かだと思っていた綱吉は、軽く頬を叩いて顔を上げ振り返った。床にへたり込んでいた脚を叱咤して起き上がり、彼の方へと歩み寄る。
 足音の響かない床を滑るように移動して、獄寺の後ろへ。壁には小さな白黒のモニターがあって、そこには綱吉もよく知る人物が映し出されていた。彼が先ほどの呼び鈴を押したのだろうか。獄寺は彼に向かって、「帰れ」と連呼している。相手の声も辛うじて聞こえてきて、「良いじゃないか」と、いつもののんびりした声で、獄寺の要望を呆気なく無視している。
「山本?」
『おー、ツナ。そこのケチ、なんとかしてくれよ。いいじゃねーかよな、俺も勉強会混ぜてくれたって』
 いったい彼は、どこから、今日綱吉が獄寺の家で勉強会をすると聞きつけたのだろう。思い返せば約束をしたのは教室だったから、盗み聞きしていたのかもしれないが。綱吉が瞳だけを動かして横を向くと、獄寺は苛立たしげな表情で舌打ちしていた。しかし綱吉の視線を受け、いつまでも強情を張るのも得策でないと判断したらしい。最後は折れて、開錠のボタンを押した。
 インターホンの受話器を置くと映像も途切れる。数分と経たぬうちに玄関を激しくノックする音がリビングまで聞こえてきて、綱吉が見守る中、獄寺が鍵を開けに向かった。
「よーっす、寿司の出前でーっす」
 ドアが開くと同時に威勢の良い山本の声が響き渡り、綱吉の視線を時計へと促した。確かに昼食の時間に近い、実家が寿司屋を営む彼は、本当に握り寿司を三人分持ってきていた。
「山本、どうしたの」
「つれないなー、ツナ。なんで俺も誘ってくれないんだよ」
「いらねーよ、お前なんざ。邪魔すんなら帰れ」
「ツナ、寿司どれにする? お前の好きな奴中心に見繕ってきたんだけど」
「聞けよコラ」
「えーっと、その、山本?」
 リビングに入ってくるなりテーブルにどん、と容器を置いて、獄寺を無視して綱吉に語りかける山本。綱吉は糸目の笑顔を向けられているはずなのに、どこか山本の鬼気迫る気配に圧倒される一方だ。後ろでは獄寺がキィキィと喚いているけれど、山本の視界には一切彼が入っていないのだろうか。
「とりあえず、その、なんていうか……」
 ギターより、寿司より、なにより。
 勉強会を再開させても良いだろうか、とは言い出せず、綱吉は引き攣った笑みで助けを求めて天井を仰いだ。