家郷

 君が生まれた街を見てみたい。
 夕食の席で、丁度海外の町並みを特集した番組がテレビで放送されていて、だから、綱吉は深く考えもしないままに隣の椅子に腰掛けている同年代の少年に呟いた。
 日本人よりも上手ではないかと思えるくらい、茶碗を左手に持って右手に箸を握っていた薄茶色の髪をした彼は、綱吉の声に「え」と小さく声を漏らして動きを止めた。彼の渋い茶色の箸が、摘もうとしていた小芋を取り損ねる。表面を擦られただけの小芋は、積み上げられていた他の芋の山から崩れ落ち皿の底に沈んだ。
「え?」
 綱吉もまた、バジルの予想外の反応に困惑して箸が止まった。白米を口に運んでそのままの姿勢で、あわや今入れたものが歯の隙間から落ちてしまいそうになるのをぎりぎりで止めると、どうにか咀嚼だけは開始して視線をテレビからバジルへと移動させる。彼は手を引き、茶碗も手に持ったままだけれどテーブルへ下ろしたところだった。
 テレビからは騒がしく、品の無いレポーターがはしゃぎまわっている声が響く。
 彼の気を悪くさせるようなことを言ってしまったのだろうか。綱吉もまた食器をテーブルの平面に戻し、お茶の入ったコップを引き寄せながら傍らの少年の顔を見詰める。俯いているバジルの表情は感情が読み取りづらく、綱吉はまだ塊も大きい米飯を、お茶で強引に胃へと押し流した。
「拙者の……故郷、ですか?」
 ふたりだけの、少し遅めの夕食。ランボとリボーンを風呂に入れる為、奈々はこの場に居ない。ビアンキは、イーピンと風呂の順番を待ちながら別の部屋でテレビを見ている。音楽番組だろうか、ドラムの音が低く響いている。
 バジルが完全に箸をおいた。その僅かな音にすら綱吉は肩を揺らしてしまい、どこか気落ちしている感じがする彼の顔を改めて、見詰め直す。
「うん」
 彼はイタリア生まれで、イタリア育ち。変に日本かぶれで妙な言葉遣いをしているけれど、外見はどこから見ても異国の人。文化も習慣も、言葉も違う国からやってきた彼を、綱吉も最初は珍しく思った。
 バジルが綱吉の父親である家光を親方と呼び、家光から様々な物事を学んできたと知らされると、自分が家光と一緒に居なかった時間を彼が独占していたのだとも思えて、正直羨んだこともある。彼が居たから家光がいなくなったのだ、とは流石に考えないけれど、自分の代わりに彼が家光の隣に居た現実は、覆しようが無い。
 けれどバジルを知るにつれ、家光がイタリアでどういった仕事をしていたのかを知るにつれ、そういった相手を妬ましく感じる気持ちは綱吉の中から消えていった。と同時に、自分が持ち得なかった家光の様々な姿を彼から教わり、ふたりが過ごした日々を聞くに従って、自分もまた、遠い異国で彼らと一緒にいた錯覚を覚えた。
 もっと、知りたい。その欲は綱吉の知らぬところで、十分大きく育っていたらしい。思いがけずテレビ番組に触発され、無意識のうちにその気持ちが働いて、バジルに、彼の故郷の話を強請っていた。
 が、彼は暗い顔をしてしまった。
「バジル君?」
 綱吉が頷いて返した後も黙りこくってしまっている彼に余計に不安と心配が募って、綱吉はコップを置いた手で彼の肩に触れようとした。しかし指先が彼の細くしなやかな髪に届く寸前、手首が痙攣して動きが止まる。そのまま中空で拳が作られ、膝へと戻された。
 聞いてはならないことだったのだろうか。次第に綱吉までも沈痛な面持ちを作り、唇を浅く噛んで視線を足元へと落とす。小さなテレビから流れ出る音だけが、場を支配していた。
 やがて、どれくらいの時間が経過しただろう。
 番組が中断してコマーシャルに入り、陽気で明るい女性歌手の新曲に乗ってお菓子の宣伝が始まった頃、バジルの手が宙を彷徨い、無地透明のグラスを捕まえた。残り僅かなお茶を一気に飲み干し、胸の中に閊えていた大きななにかを息と一緒に吐き出す。
 綱吉もまた手を動かし、リモコンで耳障りに感じられるようになっていたテレビの音量を下げた。直後に映像がパッと切り替わり、美しく彩られた庭園を歩く女性リポーターの後姿が現れた。
 イタリアではないが、ヨーロッパのどこか。季節の花々で飾られ、植樹の緑が太陽の陽射しに映えている。日本とはまるで異なる景色、建物。やがて庭園を抜けた先に設けられた白亜の宮殿が姿を現し、そちらに目を奪われていた綱吉は、バジルの動きに反応が遅れた。
 彼は腰を浮かせるとヤカンを取り、自分と、綱吉のコップに茶を注ぎ足す。再び椅子へ深く座り直してコップを手にし、彼は揺れる水面をジッと見詰めていた。
 テレビに、宮殿の名前がテロップで現れる。スペインのかつての王宮らしい。女性リポーターのかすかな声が空気を揺らす。恐らくは建物の感想を述べているのだろうけれど 音量を小さくしてしまったので内容は殆ど聞き取れなかった。
「何も」
 ぽつり、と。
 テレビに意識を向けていた所為で、間近から響いた声に綱吉は思わず驚いてしまった。ハッと我に返った彼が横を見ると、バジルもまた綱吉の横顔を見ていた。目が合って、控えめな微笑みを向けられる。
「なにも、無いところですよ」
 彼の呟きがどこにかかるものなのか、即座に理解できなかった綱吉は一秒半考えて、先程自分が差し向けた話題への回答なのだ、と漸く気付く。
 バジルの生まれた場所、生まれた街。そこを訪れ、見てみたいと言った綱吉に対しての、バジルの回答がそれ。つまり、は。
 語るようなものはなにもない、という、そういう事。
「え、でも……」
 遠まわしに拒絶された綱吉は呆気に取られ、返す言葉を失う。何か続けなければと思うのだけれど、元々あまり賢くない頭では現状を打破しきれるような会話の糸口がひとつも浮かんでこなかった。
 テーブルに添えられた綱吉の左手小指が、身を引いた動きの最中で置きっぱなしの箸に当たった。軽い衝撃だったけれど、軽い箸は思った以上に勢い良く飛ばされ、転がってそのまま床へと落下した。
「あ」
 短い呟きが、床に跳ねる箸の落下音に重なった。バジルが椅子を引き、綱吉よりも早く腕を伸ばして彼の足元を探る。座ったままで曲げられた腰、バジルの頭が綱吉の膝元まで下りてきた。
「い、いいよ。新しいの使うから」
 反射的に開き気味だった膝を閉じて、慌てた声で綱吉が言う。しかしそう言っている間にバジルは綺麗な指先で転がった箸を二本とも拾い上げ、姿勢を戻そうと動き出していた。
 やや前傾気味になって床を覗き見ていた綱吉の鼻先に、起き上がったバジルの頭が掠める。危うくぶつかる寸前のところを通り過ぎていった彼と、一瞬だけ間近で目が合った。
 顔が赤くなっていることや、不自然に足を閉じた意味を、彼に気付かれただろうか。
「洗ってきますね」
 しどろもどろなままにサッと顔を背けた綱吉に笑いかけ、彼は立ち上がって流し台へと向かっていく。何事も無かったように涼しい顔をしていた彼にホッと安堵を浮かべ、反面どこかで残念がっている自分に綱吉は驚いた。
 少しだけ拍動が速まった心臓を意識する。さっきからどうも、ギクシャクしっぱなしだった。
 空っぽの手が己の唇に触れる。他の部位よりも若干柔らかみが強いそこに与えられた熱はすっかり冷めきったはずなのに、未だに奥深いところで燻っている感じだ。
「沢田殿?」
 ぼんやりし過ぎていて、バジルが戻ってきたのにも気付かない。呼びかけられてやっと顔を上げ、向けた角度が丁度彼の顔を真正面に見据えていただけに、余計に綱吉は顔を赤く染めた。一時間も経っていないのだから、思い出さない方がおかしい。
 しかも赤くなっているのが綱吉ひとりというのが余計に悔しくて、場馴れしている彼に対して意味もなく怒りさえ覚えてしまう始末。綱吉は腹立たしいやら恥かしいやら、悔しいやらが入り混じった感情を持て余し、床を踏み鳴らしてから差し出された僅かに湿っている自分の箸を受け取った。
 食事を再開させる。薄水色の茶碗に盛られた米飯は、艶やかさを若干失い、冷めていた。
 黙々と白米を口に運ぶ綱吉に小さく笑って、バジルもまた席に着く。テレビでは相変わらず、レポーターが豪華な食事を前にしてはしゃいでいる。
「本当に、何もないんです。ですから」
 中断させていた食事を再開するに当たり、彼は行儀良く掌の間に箸を挟んで一礼してから、手をつける。先程抓み損ねた小芋を小皿に寄せて、半ば無理やりに途切れていた会話を引き戻し、繋げた。
 バジルは、綱吉が怒っているのが、自分の言葉足らずの所為だと勝手に思ったらしい。自分の故郷は、と前置きをした上で、
「沢田殿がもし訪ねてこられても、楽しいことはひとつも、ない、と……思います」
 やや尻すぼみに彼が言った。視線はテーブルの上、箸は小皿の小芋を弄って左右に転がして遊ばせている。
「そう?」
「はい」
 唇に箸の先を載せたままの綱吉が聞き返し、バジルは迷うことなく頷いた。けれど、それを言ってしまえば、綱吉の故郷でも在るここ並盛町だって、十分、何も無いに等しい平凡な町だ。
 特別目立つ建物もなく、歴史的建築物や地域があるわけでもなく、ごくごくありふれた、バブル期の開発にちょっと乗り遅れた感じのするベッドタウン。高層マンションや大型スーパーの数は少なめで、多少活気は一時期よりも落ちているけれど、まだまだ商店街は元気で、電車やバスを使えば都心への便も良い。特別賑やかでもないけれど、死んだ町のように静まり返る夜も無い。
 日々を過ごすにはうってつけの、暮らしやすい場所。だけれど、他所から招いた人を案内するのに、行き先に困ってしまう町。名前が示すとおり、ここは「並」の町なのだ。
 綱吉がそう言い返しても、バジルはまだ小芋を弄っている。そろそろ角が潰れて煮汁の染み込んだ部分が崩れそうだ。食べ物を粗末に扱うのはよくない、と綱吉は行儀が悪いのを無視していきなり、彼の箸先に自分のそれを割り込ませた。
 芋を串刺しにして、自分の口へ。バジルが呆気に取られて口をポカンと開け放つ。その前で大袈裟に顎を動かして芋を噛み砕いていると、やっと、バジルは笑みを零した。つられて綱吉もまた、険しかった表情を和らげる。
「でも、沢田殿。この町には貴方が……いえ、皆さんがいます」
 少しの間見詰めあった後、先に視線を逸らしたバジルが途中で言い直して頷いた。細かく噛み砕いた芋を飲み込んだ綱吉は、歯の隙間に残る粘性の塊を茶で洗い流し、一息ついてから改めて彼の横顔を見た。
 遠く、ランボが騒ぐ声が聞こえてくる。他所の部屋のテレビは、綱吉の耳にも馴染みあるヒットチャート上位のポップスが演奏中のようだ。思わず指がリズムを刻んでしまう。
「俺達?」
「沢田殿は勿論のこと、獄寺殿や山本殿……リボーン殿に、奈々殿も、皆、この町に暮らしている。何もないことなんて、ないと拙者は、思います」
 一緒に戦ってくれる仲間、見守っていてくれる人たち、帰る家を守ってくれている人、そんな大切な人たちが暮らす町が、何も無い町だなんて思えない。言葉を重ねて口にしたバジルの表情は穏やかで、だからこそ余計に彼の声は重く綱吉に響く。
 彼にだって両親も、友人も、居るだろうに。
 でも、彼の口ぶりからは、既にそういったものが彼の中には失われてしまっている様子が窺い知れる。考えてみれば綱吉は、バジルの生い立ちも、どういう経緯で家光のところへ来たのかも、何一つ知らされていないのだ。
 彼が日本に来た理由、今もこの地に留まり続ける意味。それは分かる。親方様――家光の話もよくする。綱吉の知らない間の父親の姿を、バジルの目と言葉を介して知る事が出来たのは、綱吉にとっても大きな喜びだった。
 けれど、彼はいつも家光との出来事は話をしてくれるけれど、それ以前の彼がまだボンゴレと係わり合いを持つ以前の話は、殆ど聞いていない。以前にも話を振った覚えはあるけれど、答えは曖昧に誤魔化されていた気がする。
 彼が言う、何も無いという場所。
 彼にとっての何か、が無い場所。
 テレビは相変わらず、緊張感の無いリポートが続いている。あでやかな民族衣装に身を包んだ女性が、華麗なステップを刻んでポーズを決めたところで映像が止まり、コマーシャルへ。残り時間がどれくらいあるのだろうか、と盗み見た時計はまだ当分、この番組が終わりそうに無いことを綱吉に教えた。
 綱吉は外国に行ったことが無い。それどころか、行動範囲はとても狭く、一番遠くまで出掛けたのだって小学校の修学旅行くらい。何処まで行っても変化の乏しい町並み、見慣れた景色に飽きているからこそ、テレビが流す旅番組に心が躍ったりもする。
 外国出身の、バジルの知る海外の町並みに、興味を覚えるのも至極当然の帰結だった。けれど。
「バジル君は、あんまり、その、なんていうか……」
 思い出したくない思い出が故郷にあるのだろうか。だとしたら、綱吉はそうと知らぬままに彼の傷を抉ったことになる。眉根をひそめ、声を落とし気味に言った綱吉の暗い表情を受け、彼は慌てて、跳ねるように首を横に振った。
 取り繕うように、無理のある笑みを浮かべる。
「決して、沢田殿が気になさることはなにも、ないです。拙者はあまり小さい頃のことを覚えていなくて。あちこち転々としていたというのもありますが――――」
 不意にバジルの脳裏に、出来るなら一生振り返りたくなかった人物の顔が思い浮かび、瞬間的に彼は非常に気まずい渋い表情を作ってしまった。彼が各地をひとりで転々とせねばならなくなった直接の原因であり、彼に「何もない」と言わしめるだけの影響を与えた人物。
 声も、顔も、髪の色さえもろくに覚えていない、あやふやな輪郭だけしか覚えていない、けれどあまりにも鮮烈過ぎて記憶の底にいつまでも沈んだままでいる、人。
 今も生きているのか、死んでしまったかも分からない。興味も無い、知りたくもない。会いたいと欠片も思わない、けれど奈々を見ているとどうしても思い出して、比べてしまう。
 何故、自分だけが。そんな気持ちが沸き起こって、苦しくて仕方が無い。
 バジルにとっての故郷は、決して優しい記憶を彼に与えはしなかった。そこには何も無い、空っぽのがらんどうの、冷たい風ばかりが吹き抜ける寒々しい灰色の空が広がっている。
 悲鳴を、あげそうになった。
 誰も居ない場所、誰も待っていない部屋、アパートの裏にあるゴミ捨て場、薄汚いズボン、底に穴が空いた靴、ヒステリックに叫ぶ女、振り乱された髪、空っぽの冷蔵庫、落ちてきた木箱、滴り落ちる赤い液体。
 痩せ細った白い手。
「バジル君」
 ふわりと舞い降りる、優しい声が。
 暗く淀んだ澱に落ち、抜け出せずにもがいている幼子の手を引き戻す。
「大丈夫?」
 額が擦れ合うくらいに近い場所に、大粒の琥珀がふたつ並んでいた。瞬きを繰り返し、心配そうに揺れ動きながら、綱吉の手はバジルの耳元から項に向けて撫でるように動いていった。
 触れられた場所から、熱が生まれる。じんわりと、ゆっくりとバジルの中に落ちていって、凍えてしまった彼の心臓を暖める。彼が吐き出す呼気が、バジルの細い睫を揺らした。
「沢田殿……」
 一瞬、今いる場所が現実なのか夢なのか判断がつかなくて、バジルは掠れる声で彼を呼んだ。目の前に居る人物が、呼ばれたことに嬉しげに微笑を浮かべる。人懐っこい、子犬のような笑顔だ。
 彼の手はまだバジルの頬と肩を抱き、子供をあやす仕草を繰り返している。自分の体温をバジルへと分け与えているみたいでもあり、さすられた位置から凝り固まった筋肉が緩やかに溶けていく。他人が暖かいものだと、随分と久しぶりに意識させられた。
 吐き出した息が熱い。自分もまた生きているのだと気付いて、涙が出そうだった。その頬を、綱吉の指が静かに辿っていく。
 額に落ちたキスは、彼なりの慰めなのだろう。詳細は聞かずともバジルの様子で大まかに察した彼の、慣れないぎこちない動きに、バジルは小さく噴出した。
「な、なにさ。人が折角」
 耳聡く聞きつけた綱吉が、バジルを解放しながら怒鳴る。離れていく体温と彼の手が惜しくて、無意識にバジルはその手を掴んでいた。顔の横で、綱吉の手首がバジルの力に圧倒されている。何かを思い出してか、綱吉の頬にサッと朱が走った。
 放せ、と彼の唇が告げようと動く。それよりも早く、バジルは己の唇を彼に重ね合わせ、ことばを奪った。
 掴んだ彼の左手を自分の側へと引き込み、綱吉が身体のバランスを崩して前のめりに倒れこむのを利用して、胸の中に連れ込んで抱きしめる。
 開かれたままの唇から口腔に忍び込むと、食事中だったのもあろう、決して甘くは無い味がした。
「ん~~~~」
 非難めいたくぐもった声を上げ、鼻で懸命に呼吸しながら綱吉がバジルの背中を叩く。名残惜しみながら顔を離し、ちょっとだけ、と伸ばした舌で上唇を舐めて彼を解放すると、涙目の綱吉が奥歯を噛み締めながらもう一度力任せにバジルの膝を叩いた。
 痛い、と声を上げた彼の左足が、脚気を調べる時の要領で僅かに持ち上がった。爪先が綱吉の脛を蹴り飛ばし、そこだけを見ればふたりが喧嘩をしているように映っただろう。
「人が真剣に心配してたのに!」
 更に怒号を上げる綱吉に、何事かと聞きつけたビアンキが台所に顔を出す。いつの間にか風呂を終えたランボが廊下を走り回っていて、まだ裸の彼を奈々が必死に追いかけていた。
「先お風呂入るけど、いい?」
「あ、うん。どうぞ」
 タオルを頭に載せたイーピンを抱いたビアンキの、婀娜っぽい表情を思わずうっとりと見詰めた綱吉が返す。その横顔を、バジルがどこかムッとした表情で見詰める。イーピンがビアンキの胸の谷間に埋もれながら首を傾げた。
 やっとこさランボにパジャマを着せた奈々も、まだしつこく暴れまわっている幼子を両手でしっかりと拘束しながら台所へと顔を出した。そしてまだ夕食を片付け終わっていないふたりを見て、呆れる。
「なにしてたのー、ふたりとも」
 眉を持ち上げて交互にふたりを見下ろし、さっさと食べちゃいなさい、と釘を刺した彼女がランボを寝床へと運んでいく。彼女にしてみれば、ふたりが食べ終えないと食器の片づけを始められないので、その怒りも至極当然のものだった。
 顔を見合わせ、先に綱吉が噴出す。
「食べちゃおう」
「ですね」
 すっかり気勢を削がれてしまい、綱吉もバジルも箸に手を伸ばす。そしてあらかた皿に並んでいた惣菜を食べ終えて、ご馳走様の目礼をして綱吉はテレビを消した。番組はとっくに終わっていて、天気予報も最後のテロップを流しているところだった。
 胃袋も満たされ、バジルが使い終えた汚れた食器を重ねて流し台へと持っていく。奈々はランボとリボーンを寝かしつけるのに時間が掛かっているのか、なかなか戻ってこなかった。
 水で軽く表面だけを漱ぎ洗いしていると、同じく食器を持った綱吉がバジルの横に並ぶ。狭い場所なだけに、肩と肩がぶつかり合った。故に避けようと少し左へずれたバジルだったが、追いかけるように綱吉の肩が迫ってきて、またぶつかる。
 触れ合った場所が、暖かい。
「あのさ、やっぱり、何にも無いってことは無いと、思うんだけど」
 もうこれ以上逃げ場がなくて、バジルは濡れた手を持て余しながら視線を泳がせていた。綱吉の声にも、横を向くことも出来ず、ただジッと耳を傾けるのみ。
「君が言うみたいに、俺の、この町にみんなが住んでいるって言うのなら」
 バジルだって、その一人なのだ。
 一緒に戦う仲間であり、綱吉が守りたい友人であり、綱吉の背中を支えてくれている人のひとりであり、笑顔を――元気をくれる大切なひと。
 もし彼に故郷がないのだというのなら、この町がそうなればいい。生まれ育った町ではないけれど、ここは綱吉が彼と出会った場所。そこから始めれば、この町だって十分、彼の故郷になる。
 家族にだって、なれる。
「ダメ……かな?」
 恐る恐る、綱吉がバジルを窺いながら問いかける。彼は即座に言葉を返せなくて暫く固まったまま、濡れた自分の指から零れ落ちる雫を見詰めていた。
 透明でなだらかな表面が、天井からの光を受けて、輝いている。
「ダメじゃないなら」
 ここは、君の家でもあるのだから。
 帰りたくなったら、帰っておいで。
 会いたくなったら、会いに来て。
 返事をしないバジルを辛抱強く待ちながら、綱吉が指を折って数える。流れ続ける水の音が遠く、細波のように心の中に波紋を広げて散っていく。
「良いのですか……?」
 震えていると自分でも痛いくらいに分かる声で、バジルが問う。綱吉は目を細め、しっかりと頷いた。
「父さんも反対しないだろうし、母さんもあんなだから反対しないに決まってるし……。っていうか、さ。一緒に暮らしてるんだよ、俺たち。どんな理由でも俺達、もうとっくに、家族だよ」
 リボーンも、ランボも、イーピンも、ビアンキ……も、きっと。本人はその意識が無いかもしれないけれど、共同生活を送る以上、自分達は家族だ。綱吉の、沢田家の、大切な一員。
「ね?」
 にこりと微笑みかけた綱吉に、即座の返答が出来ずバジルは冷たい水に己の手を晒したまま、頭の中で、心の中で、彼のことばを繰り返した。
 家族。
 ファミリー。
 自分の、自分だけの、居場所。
 ここに居ても良いのか。
 此処に、帰りたいと願って、帰ってきても良いのか。
「沢田殿の……側に」
 貴方の隣に。
「嫌、かな」
 反応が鈍いバジルにまた不安が募って、綱吉は声を潜めながら問いかける。蛇口をひねって水を止め、指先を伝う飛沫を払い、彼は濯いだ食器を隅に片づける。
「嫌……じゃない、です」
 その逆だと、どう言えば彼に伝わるのだろう。
 バジルは今まで知りもしなかった感情に胸がたじろぎ、巧く言葉を見いだせない。困惑が先に立つ自分に微かな苛立ちさえ覚えながら、彼は濡れたままの手を握り、胸に押し当てた。
 心臓が、熱い。
「とても、嬉しいです」
 他にもっと、探せば的確なことばがあったかもしれないけれど、バジルはそれ以外言い表しようがなくて、そっと瞼を伏せて呟いた。
 傍らの綱吉が、「そっか」となんでもない事のように返事を受け止め、静かに笑む。
「じゃあ、俺たち兄弟だね」
 どっちが兄でどっちが弟だろう。そんな、冗談としか取れないような事を呟いて、彼は自分が手を拭いたタオルを彼に差し出した。バジルは左手でそれを受け取り、滴の飛んだ薄茶色の毛先を大きく揺らした。
 去りゆく綱吉の背中を追いかけ、耳元に、囁く。
「どうせなら、兄弟より――」
「ツっくーん、宿題終わったの?」
 掠れるようなバジルの声が、顔を覗かせた奈々の声にかき消される。辛うじて耳が拾い上げた彼の台詞に、綱吉の顔は赤い。
 その場で硬直した綱吉を後ろから眺め、バジルがクスクスと声を立てて笑う。奈々が真っ赤になっている息子へ不思議そうに視線を向けると、彼は我に返ると同時に騒々しい足音を響かせて台所を駆け出した。
「どうしたのー?」
「なんでも、ないです」
 のんびりとした奈々の声に笑いを残した口調で返事をして、バジルがタオルを置く。そのまま、綱吉を追って階段へと向かった。
「沢田殿、待ってください」
「あぁ、もう、さっきの撤回! さっきの無し!!」
「男に二言はない、でしょう?」
 綱吉の自室のドアを挟んで力のせめぎ合い、閉めようとする綱吉と開けようとするバジル。ドアの隙間から顔を向き合わせて、穏やかな微笑みを崩さないバジルに、耳の先まで赤く染めながらも必死の形相でドアを押さえる綱吉。
 力の差は、歴然としていて。
「バジル君のばかー!」
 綱吉の虚しい叫びが家中にこだまする。うるさい、とリボーンの怒鳴り声が下から飛んでくる。
 ただ、それより早く、バジルの唇が綱吉から声を奪ってしまっていた、けれど。

『どうせなら、兄弟より』

『貴方を愛する人でありたい――』