縫目

 自分を産んだ親のことは覚えていない。
 そもそも自分が、人の形をしたものから本当に生まれ出たのかさえ疑問で、そんなだから自分は、きっとバラバラのパーツをいびつに繋ぎ合わせて作られたのだろう、と幼心に理解していた。実際自分の身体はどこか他人事のようにそこにあって、心と言われる精神部分とどこかしら繋がり方もちぐはぐ、感情と行動とが一致しないのも稀有な出来事ではなかった。
 ぼんやりしている、とは良くいわれる。何を考えているのか分からない、感情が読めない、その辺りが大体自分に与えられる評価だ。だがそれも、結局のところ、肉体と精神が乖離している自分には至って普通で、今更他人にどうこう言われる筋合いは無い。
 自分をこんな風にしたのは、周囲なのに。
 排気ガスを撒き散らす車、ちっぽけな国のちっぽけな町の狭い道。灰色の空、灰色の壁、黒い地面、どこもかしこも重い色に染められて息苦しい。柿本千種は眼鏡を中指で持ち上げると、薄い硝子越しに鈍い空を見上げた。
 与えられた名前からして、恐らく自分は、血脈的にはこの国と過分に関わりがあるのだろう。しかし親は知らない、自分がどこで産声を上げ、果たして自分を産み落とした母親という女性に抱かれた過去があるのかさえ、分からない。
 会いたいとも思わない、無論そんな相手が本当にいるのかさえ知らないし知ろうとも思わないけれど。
 自分は試験管の中で、要らない部分を集めて継ぎ接ぎされた存在。それでいい。温い風を受けて視線を足元へ落とした千種は、眼鏡から手を離しそのまま手をポケットに突っ込んだ。背中をやや丸め、前傾気味の姿勢を取るとゆっくり歩き出す。
 しかしその足が、数メートルも行かぬうちに不意に止まった。
 彼の先には、ゴミ捨て場があった。集荷を待つ袋と、カラスを避けるために張られたネットからも外れ、道路に転がり落ちているちっぽけな人形。
 手作り、それともどこかの民芸品か。よく言えば愛嬌の在る、悪く言えばへたくそな布製のぬいぐるみだった。片手で握れるくらいの大きさで、頭でっかちのそれは、右腕が胴体部分から千切れ中に詰められた綿があふれ出していた。
 辛うじて腕は繋がっている、だが縫い合わせた糸が僅かに残っている程度。少し力を加えれば完全にふたつに分離してしまうだろうそれを前に、千種は浅い呼吸を繰り返した。心音は平常を保っているものの、妙に鼓動が五月蝿く耳の奥に響いて彼は頭を振る。
 腰を曲げ、拾い上げたそれは、左手で抓むと本当に三針分くらいの糸だけが腕と胴を繋いでいた。赤と紺のチュニックを着せられた性別も判別不能の人形は、妙に縦長の赤い唇を千種に向けて感情に乏しいボタンの目で見つめる。
 これを可愛いと表現するのは、昨今の女子中高生くらいではないだろうか。どうも愛着が沸き辛い顔をしているそれを見下ろし、千種は暫くの間、今にも外れそうな人形の右腕をぶらぶらと動かした。その度に、はみ出している綿が不自然な動きを示す。
 彼は人形を左手で支えたまま、これがあった場所に目を向けた。アスファルト上に即席で設けられた廃棄場は、生臭さが立ち込めているもののほかに散乱するものはない。だからこの人形が、カラスが袋を突いて破いた時に飛び出した、というのとは違っていて、明確に意思の在る誰かが、今日ここでゴミが集められるのを知った上で遺棄したと考えるのが自然だろう。
 捨てたのは誰か。恐らくこの人形の所有者だった人。
 捨てたのは何故か。腕が千切れて綿が飛び出した人形に見切りをつけたから。
 要らないと捨てられたのだ。乱暴に扱ったからか、原因はわからないが、腕が千切れてしまって、見た目にも悪いからと、ゴミ捨て場に放置されて。
 緩い円形の袋の上から滑り落ちて、道路にはみ出した。
 千種の左手に横たわる人形は、相変わらず感情のない黒ボタンの目で虚空を見つめている。捨てた人間への不満も、憤りも感じられない。感情らしいものを殆ど持ち得ない千種と良く似た目で、空を。
「あ」
 地上から、声がした。
 思わず人形が放ったものかと錯覚した。当然ながら違う。しかし反射的に手元を見下ろしてから、千種は前方に眼鏡越しの視線を投げた。淡いブルーのニットにグレーのズボンを履いた、実年齢よりもずっと幼い顔立ちの少年が逃げ腰気味に立っていた。
 覚えのある顔だ、というよりも忘れることが出来ない顔だ。
 明るい茶色の髪、はみ出しそうなくらいに大きな瞳。気弱そうな表情に細い手足。こんな何処にでも転がっていそうな、平々凡々とした少年が、千種が最も尊敬し何をおしても優先させる人を打ち負かした事実は、未だに信じられない。
 しかし実際に彼らに負けて千種たちは捕らえられ、そして逃げ出し、あの人だけが再び囚われた。救い出せるようならば既に出向いている、自分達の力量の狭さと弱さを十分理解しているからこそ、足は止まる。
 滅ぶべき、滅ぼすべき存在――マフィアに与しなければ生きられない自分を、何処までも呪いたくなる。
 だが目の前の小さな存在は、千種の視線を受けてまた肩を、身体を大袈裟なまでに震わせたものの、以前のように叫んだり動転して卒倒したりすることは無かった。アルコバレーノの姿も無い。驚いているが落ち着いている、そんな顔の彼は数回の瞬きを経て、逃げ腰だった姿勢を戻した。
 進行方向に千種がいるので、戻るか引くか迷っているように見える。が、彼は意を決したように瞳に力を込めると、ゆっくりと休めていた足を持ち上げた。そのまま脇を通り過ぎ、去っていくものと思っていた千種は彼から視線を逸らし、拾ってしまった人形をゴミ捨て場に戻すか否かで一瞬躊躇する。
 だから反応が遅れた。
「それ、君の?」
 思いもかけずかけられた声に、千種は眼鏡の奥に宿る双眸を見開いてしまった。
「え……」
 気がつけば若きボンゴレ後継者である少年は千種の傍らに立ち、左手の上に転がる人形を見詰めている。どうことばを返すべきかに迷い、千種はゴミ袋の山から己の手元を見た。
 右腕が千切れかけた人形。咄嗟に違う、と否定しようとしたものの上手く声を発せられず、その間に彼、沢田綱吉は勝手に、人形を千種のものだと勘違いしてしまった。
「腕、取れそうだよ」
「……」
 持ち上げられた彼の指が人形の、外れかけている肩の部分を小突いた。僅かに人形が奥へ押しやられ、皮膚がこすれ合う。信じられないほどに強い熱を感じ、千種は息を呑んで彼を見下ろした。
 自分と彼とはまるで別次元の生き物のように思われる。こんな町中で擦れ違う偶然もあったものではないが、何よりも彼が当たり前のように、千種へ平然と話しかけたことが驚きだった。
 自分達は確かに、ボンゴレの後継者争いに巻き込まれる形で加担してはいるが、本来は敵対する間柄。いくら此処が平和ボケした町中であっても、もう少し警戒心を抱いてもらわなければ、こちらとしても困る。
 骸もまた、そう釘を刺していたのに。
「おーい」
 千種があまりにも呆然としたまま反応を示さないのを不審に感じ取ったらしい彼が、口の横に手を当てて、もう片手を人の顔の前で横に振った。至って真剣な顔をして、人差し指を立てて「これ何本に見える?」と聞いてくる辺り、苦笑を禁じえない。
 彼は、要するに、馬鹿なのだ。
「聞こえてる」
 眼鏡を直しながら呟く。彼は安堵と分かる表情を浮かべて息を深く吐き出し、「そっか」と相槌を返した。
 千種は人形を握り締める。このまま捨てて行っても構わないのだが、多分確実に、目の前の小動物が五月蝿く吼える。呆れたような、諦めたような表情を瞳の奥に隠し、千種は腕が外れかけている人形を、肩から吊るしている鞄へ入れようと動いた。
 その手を、沢田綱吉が止める。
「なに」
 語尾の上がらない、どちらかと言えば叱責するのに近い声が出ていた。無意識に睨みつけていた千種だったが、眼鏡の逆光で瞳の強さは彼にまで届かなかったらしい。彼は臆する事無く千種の腕を引き、そして唐突に歩き出した。
 予期せぬ出来事に千種が揺れる。上半身だけが彼に引きずられ、千種の左足が宙に浮いた。
「俺んち、近いから」
 わけが分からない。困惑したまま更に右足を浮かせると、抵抗せずについてくる千種に気をよくした彼が笑いながら振り返る。放せば逃げると思われているのか、腕は解放してもらえない。
 彼は今、なんと言った。
 近い。
 何に?
 家に。
 誰の?
 彼の。
 ボンゴレ十代目の、家?
 待ってくれ、そう言おうとした千種の鞄が跳ねて彼の腰を強打した。布製なので痛みは酷くないが、中に入っているものの角度が悪く、尖っている部分が骨に当たりかすかな痛みを訴えて彼から言葉を奪い取る。速度はそうないが、決して遅いペースでもない。もしここで自分が強引に歩みを止めたら、彼はどうなるだろうか。
 考えかけて、やめた。
 それからどれくらい進んだだろうか、ありふれた建売住宅が並ぶ区画を過ぎ、小さな庭を持つ一戸建てが目立つようになったところで、沢田綱吉は千種の手を放さぬまま歩調を落とした。やがて一軒の、何処にでもありそうな平凡な概観をした家の前で立ち止まり、此処にきてやっと、彼は千種の腕を解いた。
 放されてから千種は、彼が触れていた場所を見た。皺になっているそこは分厚い学生服の布地を越えてもなお仄かな暖かさを残し、淡く痺れている。目の錯覚か眼鏡がおかしくなったのか、そこだけが妙に明るさを持っているようにも見えた。
 キィ、と音がする。顔を上げると、敷地と道路を隔てている門が開かれて沢田綱吉が中に入るところだった。柵を隔て、手招きをしている。
「……」
 入れ、という事らしい。いったい彼は自分を本拠地である自宅に招き入れて、何をしたいのか。手の内を千種に曝け出しても、それは千種たちには有利に働くかもしれないが、彼にとっては何のプラスにもならない。
 だが、待てよと千種はずれた眼鏡をしつこく正しながら考える。
 ここにはあのアルコバレーノもいるはずだ。他にも数名、ボンゴレの息が掛かった面々が構えているに違いない。自分達は結局、彼らに駆逐されるのだろう、人のよさそうな顔をして近づいてきておいて、簡単に裏切る。
 どこもかしこも、誰も彼も、同じ。
 千種は唇を噛んだ。簡単についてきてしまった自分を悔いながら、門柱に手を置いて逡巡する。沢田綱吉は道路側で動こうとしない千種を見て、首を傾げていた。
「もしかして、何か用事とかあったり、した?」
 そして間をおいて顔を伏せながらも上目遣いに千種を見やり、問いかける。
 急ぎの用事があった千種を、有無を言わさず引っ張ってきてしまったのではと心配しているのだろう。小動物の瞳は僅かに潤んでいて、揺れている。だから、いったい、彼は何なのか。ここまで警戒心を持ってもらえないとなると、自分の立場さえ危うい気がして、千種は溜息が出た。
 黙ったまま首を振ると、彼は少し元気を取り戻す。パッと目を輝かせると、それ、と千種の左手を指差した。そこにはまだ、鞄に入れ損なった人形が、奇跡的にまだ右腕をぶら下げた状態で握られていた。
「そのままじゃ可哀想だから」
 言って、彼は内側から門を開く。最早千種が後に続くのを疑わず、彼はそのまま玄関に向かって行ってしまった。
 千種は左手の人形と、遠ざかった背中を交互に眺め、それから肩を落として鞄を抱えなおすと境界線をくぐる。頭上で小さく光るものを見つけ顔を上げると、家の二階窓に物騒なものが構えられていた。
 最低限の警戒はしておくに越したことが無い。沢田綱吉は既に玄関も開けて中から千種を待っている。
 千種は視線を逸らし、早く、とドアに片手を置いたまま立っている人へと歩み寄った。小さなテラスに入り上からの視線が遮断されると、アルコバレーノも諦めたのだろう、首筋から背中にかけてピリピリと感じていた殺意は薄れ、やっと、千種は息を吐き出した。
 これくらいの方が自分には丁度良い。そう思いつつも噴出した冷や汗は拭えなくて、千種はぎこちなく、初めて訪れる一般家庭の玄関で時間をかけて靴を脱いだ。
「こっち」
 沢田綱吉は千種の準備が整うのを辛抱強く待ち、階段を指差して先に立って歩き出す。廊下の奥からは知らない顔の女性が姿を見せ、エプロンで手を拭いながら彼に何かを語りかけた。「母さん」という単語が耳に入ってくる。彼女が、そうなのだろう。
 ボンゴレ十代目の、母親。
 視線を向けると彼女は人好きのする笑顔を千種に投げかけた。親子揃って緊張感に欠けている。息子と瓜二つ(この場合本当は逆なのだが)の彼女は、息子よりも若干色の薄い髪を肩の上で揺らし、ゆっくりして行ってと千種に語りかけた。
 指先が攣るかと思った。
 彼女は千種が、綱吉の友人だと思っているのだろう。まさか敵ですとは言い出せず、千種は戸惑いながら会釈だけを返して階段を登った。先に登りきった沢田綱吉の背中が角に消え、慌てて追いかける。白い靴下がやけにフローリングに映えて見えて、自分が中流家庭に育ったただの中学生のように思えてしまう。
 彼が開けたドアをくぐると、窓辺の椅子に腰掛けていたアルコバレーノが椅子ごと振り返った。目が合う。探るような視線を向けられて千種は睨み返した。が、その横を明るい茶色の髪が通り抜けて、気を削がれてしまう。
「ゆっくりしてて。リボーン、悪さするなよ」
「誰がするか」
 最初の声は千種に、後ろ半分はアルコバレーノに向けて言い放ち、彼は再び階段を下りていった。足音を響かせ、母親を呼ぶ声が続く。
 千種は彼の背中を見送ってから、再び部屋の内部へと視線を。重なり合った目線で火花が散った、向こうも千種の訪問を予想していなかったらしく、一見そうだとわからないが複雑な表情を浮かべていた。
「何しに来た」
 潜められた声に問われ、千種は誰も居ない廊下を振り返る。無理やりにつれてこられたのだと態度で示すと、想像がついたらしいアルコバレーノは大仰に肩を竦めた。
「ツナか」
「……」
 視線を戻し、頷く。そうこうしているうちに階段を駆け上って彼が戻って来て、まだ廊下に突っ立っている千種を見つけて「あれ?」とクエスチョンマークを頭に浮かべた。両手には、大事そうに木箱を抱えている。
 黙ったまま身体を引いて道を譲ろうとすると、彼は片腕を伸ばして千種の背中を遠慮なしに押した。つれてこられた時同様の強引さは変わらず、辟易しつつも千種は大人しく従う。アルコバレーノは何も言わなかった。
 彼は千種が部屋のほぼ中央まで行くと、その手でドアを閉めた。中央に置かれたテーブルの上に、雑多に積み上げられていたものを一気に床へと落とし、そこに持ってきた木箱を置く。蓋を開けると、女性特有の可愛らしさをもった裁縫セットが出て来た。考えるまでもないが、彼の母親のものだろう。
 一瞬呆気に取られる。その前で、沢田綱吉が手を差し出した。千種は、数秒考えてから視線を落としつつ、まだ握っていた人形を彼に手渡した。アルコバレーノは興味を失ったのか、背中を向けて銃器の手入れを始めたようだ。
 彼は千種にも座るよう促し、自分は窓側の角に陣取って人形をテーブルに置くと、裁縫箱をひっくり返し始めた。針と、人形の地色に合う色の糸を探し出し、鋏を引っこ抜いて、実に手際悪く作業を進めていく。
「おい」
 千種が何か言おうとしても、まるで反応が無い。集中力が凄い、というのではない。ただ必死なだけのようだ。まずは糸を針の穴に通すところから、彼は大きな目を細めて懸命に実行するけれど、失敗した数は両手では足りない。
 もしかしたら道具だけ借りて、自分がやった方が倍近く早かったかもしれない。そう思わずにいられないが、大人しく千種は正座をしたまま待った。
 ほかにすることもなくて、部屋を見回す。乱雑にものが散り、生活感が溢れかえっている。床に積み上げられた雑誌、端に放り出された制服、飲み終わって空のペットボトル、など等。彼の性格を感じさせ、彼がいかに幸せな日々を過ごしているのかが窺い知れる、千種が持ち得ない、与えられなかった日常がここにはある。
 羨ましいとは思わない、欲しいとも思わない。
 ただ、異質である自分が此処に居るという実感が、乏しい。
 肉体と精神が離れていく。身体は此処にあるのに、千種は遠い場所から自分を眺めている気分だった。
 ドアがノックされる。振り返り、沢田綱吉もまた作業を中断させてドアを見た。返事をしたのは彼で、ドアが開け放たれると同時にとても嫌そうな顔をしたのもまた彼。千種はただぼんやりと、事の成り行きを見守るだけ。
 現れたのは彼の母親で、上機嫌に盆を抱えて部屋に入って来た。紅茶と、ケーキがふたつずつ。彼とアルコバレーノの分かと思いきや、ショートケーキの皿が自分の前に置かれて千種は面食らう。
「リボーンちゃんは、下でみんなと一緒に食べようね」
 あのアルコバレーノを赤ん坊扱いした彼女は、そう言ってまだ作業中の彼を後ろから抱き上げて去って言った。千種の前では、沢田綱吉が力尽きた表情でテーブルに突っ伏している。彼のケーキはチョコレートだった。
「いや、あの、ごめんね、うちの親が勝手に」
「……別に」
 溜息と共に顔を上げた彼が、頭を掻いて照れ臭そうにいった。千種は目の前のケーキと、湯気を立てる紅茶とを前にしばし言葉を失う。
 こんな風に同年代の誰かの家を訪れ、訪れた先でおやつを馳走になることも初めて。どう対応して良いのか分からず困惑は消えず、千種は窺うように彼を見た。まだ苦笑していた彼は、僅かに朱が差した頬を指でなぞり、どうぞ、と手を差し出す。
「いいよ、食べてて」
 俺はこれを先にやっちゃうから、と針が繋がったままの人形を持ち上げた彼の手元で、黒いつぶらなボタンの目もまた、千種を見ていた。
 気のせいか、あれほど空虚に映っていたものが、輝いているように感じ取られる。素直な驚きを息と共に飲み込み、千種は遠慮がちに紅茶の、来客用のそれだと分かるこの家では上物の部類に入るカップを手に取った。
 先に匂いを嗅ぐのは習性であり、悪気は無い。毒の入っている可能性を考えて、即座に否定した自分にも驚く。そんな小ずるい真似は、しないだろう。彼の母親は、単純に、千種の訪問を歓迎してくれていた。それが胸にくすぐったくて、ついつい口元が緩んでしまう。
 目の前の沢田綱吉は人形の縫合に忙しく、彼の紅茶からはどんどん湯気が少なくなっていく。
 何故そんなにも懸命になれるのだろう、どうでも良いことなのに。他人のことなのに。自分は、敵なのに。
 千種の戸惑いを含んだ視線にも気付かず、彼は十数分後、苦心の末「出来た!」と声をあげた。結び目を糸の終わりに作って前歯で不要な部分を切り取り、両手に抱いて頭上に掲げられた人形は、確かに腕は胴体としっかり繋がっているものの、縫いが粗く雑で、隙間から白い綿が僅かに覗いていた。
「はい、どうぞ。……うわ、ぬるっ」
 しかし彼は満面の笑みを浮かべて人形を千種に差出し、戻る動作の途中でカップを手に取った。口に含んだ紅茶は無論冷め切っていて、渋みが増した味に彼は眉間に皺を寄せる。
 ころころと、よく変わる表情。犬もそうだが、彼は不機嫌にしている顔の方がずっと多くて、だから目の前の対象はとても、千種にとって珍しい存在だった。
「……下手」
 千種は渡された人形を胸元に持ち、手術を終えたばかりの右腕部分を抓む。前後に揺らせば縫い目が際立って見えて、すぐにまた同じように千切れてしまいそうに思えた。
「どうせ不器用ですよーだ」
 両手にカップを持ち、口元に添えたまま彼が拗ねた声で言い返す。聞こえないように呟いたつもりだったが、耳は良いらしい。軽く睨まれたのを受け流し、千種はほぼ食べ終えたケーキの皿にフォークを転がした。三叉の先端が、最後まで残しておいた赤い苺に触れる。
 角を丸めたそれが彼の側に倒れた。視線がそこに向けられたのに千種も気付く。彼は一仕事終えた満足感からか美味しそうにチョコレートのケーキを抓んでいたが、口も手も同時に止まっていた。
「食べる?」
 ショートケーキの上に飾られていた一粒の苺。それを避けてからスポンジと生クリームを綺麗に食べ終えた千種の声に、彼は弾かれたように顔を上げ、目を輝かせ、それからいやいや、と首を横に振る。表情の変化はめまぐるしく、忙しい。
「だって、それは君の」
「いい」
 食べられるものならばなんだって食べる、好き嫌いは特にない。贅沢を言っていられなかった分、偏食も無い。執着も。
 千種は更にフォークで苺を転がす。彼が生唾を飲み込むのが分かった。
「え、じゃあ……」 
 いいかな、と問いかける目が嬉しそうに綻んでいて、千種はそれが面白かった。膝の上で人形を弄る左手の薬指が、右手の荒い縫い目に触れる。
 千切れていたものが、繋がった。繋げたのは、彼。
 千種の握るフォークが苺を突いた。僅かに汁を滲ませたそれを、持ち上げる。ゆっくりと、彼の顔の前へ。彼は口の中にあったものを一気に噛み砕いて飲み込み、息を吐いた。瞳が苺を追いかけて動く。知らず、千種の口元に薄い笑みが浮かぶ。
 彼の、唇に触れるか否かの距離。開かれた口腔に、けれど苺は届かなかった。
「あー!」
 するりと彼の顔の前を通り抜けたフォークが、あっという間に千種の口の中へ吸い込まれていく。テーブルに両手をついて前のめりになった彼の非難めいた叫びに、千種は笑いが止まらない。
 舌の上では甘酸っぱい汁がいっぱいに広がっている。
「酷い、酷い騙されたー!」
 じたばたと両手で交互にテーブルを叩いて、振動で喧しく茶器が音を立てるのも構わず、彼は駄々っ子の如く千種への不満をここぞとばかりに噴出させた。まさか苺ひとつでこうも大袈裟に反応されるとは思っていなくて、面くらいながら千種はそれでも、笑いが止まらない。
 声を立てて、人形ごと腹を抱えて、笑って。
 それから、いつの間にか彼が静かになっているのに、気付かされる。
 じっと、零れ落ちそうなくらいに大きな目で間近から見詰められ、千種は僅かに背を後ろに反らしながら見詰め返す。そうやって少しの間互いに黙りこくって睨めっこをして、やがて彼の方が先に噴き出した。
「なーんだ」
 悪気も、深い意味も無いだろう彼の感想。自分自身ですら気付いていなかった現実に、千種は愕然とした。

「ちゃんと、笑えるんじゃん」

 

「ただいま」
 ねぐらに戻ると、先に帰って犬が寝転がりながらこちらを見た。遅かったな、と呟いた彼が身体を起こし近づいてくる。くんくん、と動物の犬さながらに鼻を動かしている彼の前で立ち止まると、いきなり胸倉を掴まれた。
「甘い匂いがするっぴょん」
「……ああ」
 ケーキを食べてきたのだというと、犬の顔が途端に輝く。自分の分はないのかと、空っぽの両手を交互に見下ろして、それからがっくりと項垂れた。彼もまた、感情が表に出てくる分、考えている内容も読みやすい。
 付き合いが長い分もあるだろうけれど。
「俺の分は?」
「ない」
「全然?」
「ない」
「柿ピーだけずるいっぴょーん!」
 泣きながら遠ざかっていく背中を、眼鏡を直しながら見送る。すっかりいじけて寝床の片隅で小さくなっている犬の背中を眺め、千種は頭の中で彼との会話を思い出した。
「また来て良いって言っていたから、今度、犬も連れて来て良いか聞いておく」
 帰り際、玄関ホールを抜けて門のところまで見送られた時に、言われたのだ。無論ただの事務的な挨拶の一環でしかなかったろうが、案外彼のこと、本心かもしれない。いつでも、来てくれて構わない、と。笑顔を向けた彼はどこまでも無邪気で、馬鹿らしいほどに純粋だった。
「本当かっぴょん?」
 千種のひとことにすっかり元気を取り戻した犬が、跳ねながら振り返る。多分耳があったならひょこひょこと動き回っているに違いない。彼の更なる問いかけに頷いて返し、千種は、もうひとつ思い出して言葉を止めた。
「行く前に、でも、練習しないと」
「何を?」
 犬の瞳に、千種は視線を逸らしながら小さな笑みを零した。

『また、来てよ。歓迎するから』
『……いいの?』
『うん』
『変なの』
『そう?』
『じゃあ、また、壊れたら』
『うん?』
『縫って貰いに来る』
『オッケー』
『じゃあ』
『あ、わざと壊すってのはナシね』
『…………』
『冗談だよ』
『じゃ』
『あ、待って』
『……なに』
『その、さ。前からずっと、聞きたかったんだけど』

 
「返事する、練習」
 千種は自分にだけ聞こえる声で呟くと、鞄を置きに自分のテリトリーへと向かう。
 鞄に吊るされた赤と紺のチュニックを着た人形が、不器用に縫われた右腕を揺らしつつ、黒い瞳を輝かせて千種に笑いかけていた。

『君の事、なんて呼べばいい?』