聖血

 あの日の夕焼けは異様なほどに赤く、明るく、巨大だった。
 血に濡れた十字架が地に傅き、頭を垂れている。見せしめとして晒された姿は人としての形を失い、ただの無機物と成り下がってそこにあった。
 命を奪い、その見返りを糧として存在している自分にも、いつかこんな日が来るのだろう。漠然とした思いは悲しみも怒りも呼び起こさず、ただ空虚なまでの冷たい空気が頬を濡らした。
 近づけば無数の銃口が容赦なく火花を散らす。人垣に飲まれる己の肉体が蜂の巣になる様を想像し、或いはそんな結末も悪くないと義理人情に厚くない自分を嘲笑って背を向けたはずなのに。
 お前は苦しんだか。一瞬で逝けたか。そんなはずはないだろう、肉が削げ落ちるまでの拷問を受けた形跡は容赦なく残り、永遠に近い責め苦にお前は己の人生を呪ったはず。傷に汚れた十字架は、お前にとっての救いに成り得たのだろうか。
 静かに、風が吹き抜ける。埃っぽく生温い風はやがて幾多の声にならぬ呻きに溢れ、さしたる苦もなく辿りついたお前の足元には、流れ落ちた血で黒ずんだ大地が広がっていた。
 連れて帰ってやれたなら良かっただろう。しかし俺にはお前の器は大きすぎて、お前が生涯大事にしていたこの十字架だけしか連れて行ってやれなかった。お前は怒っているだろうか、それとも笑っているだろうか。
 信心深くない俺がこんなものを後生大事にポケットに入れて、時々取り出しては小さく祈りを捧げているのは、そんなにも似合わないだろうか。
 そうだ、聞いてはくれないか。
 変な奴を見つけたんだ。自分よりも他人が大事で、腕っ節もからっきしの癖にいざと言う時に限って予想外の力を発揮する。その癖痛いくらいに純粋で、人の心の中に勝手に潜り込んでは内側からドアを開けて出て行っちまう。捕まえようとすると逃げ出すくせに、こっちが追いかけるのをやめると向こうから近づいてきたりと、わけが分からねえ。
 誰かに、似てやしないか?
 笑うなよ。笑えねえんだよ。
 そうさ、俺は怖いんだ。いつかお前みたいに、簡単にいなくなっちまうような気がして、怖いんだ。
 この世界はいい奴から消えていく、お前みたいなのが死んで俺みたいな卑怯で狡賢い奴ばかりが生き延びる。だから、アイツは真っ先に逝くだろう、誰かを守り誰かを庇い、誰かの為に命を落とすんだ。そんな奴なんだ。
 どうすればいい、俺はあいつの傍に居てやることさえ叶わない。
 俺はまた赤い夕焼けに照らされて、全てが終わった後の世界を見なければならないのだろうか。届かない神への祈りを口にして、ちっぽけなロザリオに縋るしかない俺の卑小さを嗤ってくれ。

 夜半の雨と雷は明け方前に静まり、学校へ出勤する頃には空も灰色より青色の方が多くなっていた。上空の風は流れが速いようで、急きたてられるように雲が西から東へと抜けていく。昼過ぎには完全に快晴が戻ってくるだろう、と空の明るさとは対照的にぬかるんだグラウンドを踏みしめ、シャマルはそう予測した。
 学校の裏手に在る駐車場から正面玄関方面へと進むと、校門から入ってくる生徒の群れが否応なしに目に入ってくる。人生楽しい盛り、青春を謳歌している顔もあれば、つまらなさそうに、眠そうにしている顔も並んでいる。互いに挨拶を交し、笑い声を立てる女子生徒の横を、欠伸をかみ殺した男子生徒が黙々と歩いて追い越す光景を見やり、この国がいかに平和かを思い知る。
 ただ、少なくともシャマルが生まれ育った国も、表向きは至って平和だ。昨今では国の代表者である議員数名が麻薬の常習者だと素っ破抜かれ、各方面に対して動揺が広がっているけれど、それくらいだろう。彼はしなびた煙草を燻らせ、小さな水溜りを大股に乗り越えながらゆっくりと進む。
 皺の刻まれたお決まりの白衣は保健室に置きっぱなし、故に今の彼はスーツ姿だ。そんな彼が珍しいのか、登校中の女生徒が茶化しながら駆け足に通り過ぎていく。
「せんせー、おはよー」
 いつでも元気いっぱいの京子が手を振りながら校舎へ消えていった。彼女の挨拶にへら、とだらしなく顔を歪ませたシャマルは、去り行く背中に手を振り返してその指で煙草を抓んだ。反対の手で小型の携帯灰皿を取り出し、残り火を揉み消して蓋を閉める。
 ふと感じた視線は気のせいではなく、左側を振り返ると無数に連なる生徒の中で際立ってシャマルの目にだけ目立つ男子生徒が、非常に鈍い足取りで歩いていた。明るい茶色の髪、寝癖なのか地毛なのか重力に逆立つ髪型をして、大きな目をどことなく虚ろだ。しかし振り返ったシャマルが自分を見ているのだと気付いた瞬間、彼は息を呑んで視線を逸らすと、それまでの足の歩みが嘘の様に、前を行く生徒を掻き分けて走り出した。
 シャマルとの距離は余裕で十メートル近くはあっただろう。目が合った、というのは考えすぎかもしれない。しかし彼の行動を考えるとほかに可能性は思い当たらず、シャマルは知らず苦虫を噛み潰したような面持ちで舌打ちしていた。
 小さな背中が無機質な校舎の中へと消えていく。ざわめいているはずの正面玄関が、雑音の無い虚無の空間に思えてシャマルは自分の髪を乱暴に掻き毟った。溜息を零す。足元に落ちたそれは跳ね返りもせずに呆気なく砕けた。
 足元の地面を踵で浅く抉り、急き立てられながら教室へ向かう生徒の背中を無数に見送る。自分には担当の授業が無いからと、傍目にはのんびりしたように見えるがその実今の彼には大分余裕がなくて、シャマルは苦々しい思いのまま頭を振ると真上から鳴り響いたチャイムの音に思わず肩を竦めた。
 余裕が無い、本当に。自分でも苦笑を禁じえず、彼は頭にやっていた手を下ろすともう人の姿も疎らの玄関を抜けて、自分の砦である保健室へと向かった。
 あれ以降、彼には避けられている。それもそうだろう、理由も告げずにあんなことをしておいて、避けて通られない方がおかしい。あの後車の中でも一言の会話もなく、別れ際に「じゃあな」と告げたのが交わした言葉の最後だ。以後、彼から保健室を訪れることは無くなったし、元から彼との接点が少ないシャマルは、自ら彼の元へ出向く理由もないままに現在に至る。
 ただ、時折シャマルを訪ねてくる彼の教え子が、聞きもしないのに逐一丁寧に敬愛する十代目の動向を報告してくれるので、彼がどんな具合であるのかは大体察しがついてはいる。階段から落ちてくじいた足は、数日引きずっていたようだけれど今はもう痛みもないようで、先程見かけた姿からも大丈夫そうだというのは窺い知れた。
 でもずっと、元気が無いように見える。そう言った獄寺本人が落ち込んだ犬のように耳を垂れ下げていて、原因がまさか自分にあるかもしれないとは言えず、曖昧に誤魔化して彼を慰めるのに必死だった。俺がキスをしたからだ、だなんていおうものなら、一生賭けてでもあの子を守ると誓った奴のこと、師匠であるシャマルでさえ容赦なく向かってくるだろう。
 それはそれで、あの坊やの特訓になるから悪いことではないだろうが、複雑な気持ちは否めない。向こうだってそうだろう、だから黙っている方がいいに決まっている。
 しかし胸の中にあるもやもやはいつまで経っても消えず、むしろ時間が過ぎるに連れて膨らんで、濃くなって、前を見失いそうになっている自分に気付かされる。答えの無い問いかけに自問自答を繰り返し、結局はあの日の夕暮れの赤さに魔が差したとしかいえない自分の愚かさを嘆くばかり。
「……ったく」
 指の腹で何度も頭を掻き回し、人気の無い廊下で足を止めてシャマルは腹立たしげに息を吐いた。
 後悔しているのか、と聞かれれば違うと答えるだろう。ではああすることが良かったのか、と問われれば、こちらも違う、と答えるほか無い。今目の前に転がっている現実は全て結果論であり、夕暮れに照らされたあの瞬間では、後のことなど何一つ考えていなかった。
 踏みとどまるのが一番良かったはずだ。しかし出来なかった。
 祈りを、願いを。
 純粋無垢な水晶の瞳が曇ることのないように、と。
「――――」
 しかし結果はどうだ、結局自分はまた道を間違えただけではないか。
 視線が合ってもすぐに逸らされる。姿を見かけても、あちらが先に気付けば背を向けられる。避けられる、逃げられる。怖がられている。
 シャマルはポケットから煙草を取り出し、一本口に咥えてから次いで鍵を取り出した。施錠されていた保健室のドアを開け、若干湿気た感じのする空気を取り払おうと、ドアを半分開けたまま窓辺に向かった。
 解放された窓から注ぎ込まれる陽射し、そして淡く雨の名残を感じさせる風。通り過ぎていく雲は洗濯されたシャツのように白く鮮やかで、水色の絵の具を更に水で薄めたような空が徐々に面積を広げつつあった。
 風に前髪と、袖を通したよれよれの白衣を揺らし、ライターで火をつける。鼻先を掠める特徴的な匂いを喉に通し、胸いっぱいに吸い込んでからゆっくりと吐き出す。指の隙間で煙る白煙は天井にも届かぬうちに風に煽られて掻き消えた。
「何やってんだろうなー、俺」
 本当に、と呟いて彼はまだ半分も残っている煙草を、無数に吸殻が沈む灰皿へと押し込んだ。
 相手は男で、貧弱でひ弱な中学生ではないか。まだ大人への階段も登りきらぬ、未熟な子供。だが後ろから急きたてられるように様々なものに押し上げられ、無理やりに階段を登らされようとしている、哀れな道化人形。
 本人の望む、望むまいに関わらず、環境が彼に戦うことを強要している。それがボンゴレを継ぐ上での通過儀礼だとしても、本意ではない望まざる戦いに身を投じて、それでもあの子は。
 笑うのだろうか。
 十字架が脳裏に蘇る。無意識に触れたポケットの上から、ジャラジャラとした鎖の感触が皮膚に伝わり、指を入れて取り出した傷だらけのロザリオに息を吐いた。
 視界がダブり、ふたつの顔がシャマルの瞳の中で重なり合う。全く似ていないのに、通じる笑顔で彼へ笑いかける姿が、やがて夕闇に沈もうとする地平にそそり立つ十字架と合わさった。
 頭を振る。嫌な想像は悪寒しか生まない。シャマルは椅子に腰掛けなおし、ポケットから取り出したロザリオを額に押し当てた。目を閉じ、生まれ故郷の言葉で小さく、短く、祈りの文言を捧げる。首筋を生温い汗が伝い、風がそれを攫う。
 信じもしない神へ、今更何を。自分自身さえ嘲笑いながら、シャマルはそれでも、胸の奥底に沸き起こる黒い感情を押し殺そうと懸命に、言葉を紡いだ。
 何処かで、鳥の声が聞こえた気がした。

 昼休みのチャイムが鳴るのをぼんやりと聞き届け、捗らぬ仕事をどうにか一区切りさせたシャマルは椅子の上で大きく伸びをした。廊下からは壁越しに、気の早い生徒が購買部へ急ぎ走る喧騒が聞こえてくる。
 どこまでも平和で穏やかな日常、この国で暮らす人間にとってはありふれた、当たり前の時間。しかしこれが仮初のものでしかない現実にシャマルは欠伸をかみ殺し、緊張感を失わせている自分を引き締めて椅子を引き立ち上がった。
 上着の胸ポケットに伸ばした手が、布越しに自分の胸板に触れて僅かに首を傾がせる。それから間をおいて、足元に置いた屑入れに潰した空箱を見出し、ああ、と頷いて腕を下ろした。
 明らかにここ数日増えている喫煙量、朝から既にひと箱を空にしてしまった彼は手持ちがもうないことにげんなりと天井を見上げ、頭を掻き毟ると今度はズボンのポケットの財布を確かめる。
 机の右端には吸殻が山盛りになっている灰皿。底が見えなくなってしまっている銀のプレートには、勿体無いくらいに吸い残しの白いフィルタが沢山見られた。最早味を楽しむのではなく、習慣として口に挟んでいないと落ち着かないだけと成り果てている煙草であるが、在庫がないと途端に不安になるもので、彼は首を回し、肩を鳴らすと、ざわめきが漂う廊下へと出た。
 擦れ違う生徒が数人挨拶をしてくれて、その度に小さく手を振り返す。スカートの裾を揺らして駆けていく女生徒の背中を見送り、彼は白衣のポケットに両手を入れて背中をやや丸めながら校庭を抜けて近くのコンビニエンスストアを目指した。
 レジで財布を広げ、カートンで買うのを諦めた彼はふた箱だけを購入し、会計を済ませて店を出る。その店先でついつい真新しい箱を開けようとして、脳裏に蘇った台詞に指が止まった。
『歩き煙草は、小さい子もいて危ないから、やめたほうが良いと思うけど?』
 いつだったか、どこでだったか、帰り道が偶然一緒になった彼が道すがら煙草に火をつけようとしたシャマルに向かって言い放った言葉だ。それはまったくその通りであり、大人しく聞き入れてその日は煙草を吸うのをやめた。
 それどころか、健康にも良くないからと自分よりもはるかに年下の子供に諭され、その通りに本数を減らす努力をしていたのだ、自分は。
「なんだよ、それ……」
 意識していなかった事実に思い当たり、シャマルは愕然としながら手の中の箱を見つめる。言われた時は「冗談じゃない」と跳ねつけていたはずなのに、思い返してみれば確かにその日を境に、灰皿は長い間綺麗さを保っていた。
 今の自分を見て、彼はなんと言うだろう。
 改めて振り返ると、存外に多い時間、シャマルは彼と過ごしてきた。友人らと遊びに行けば良いものを、頃合を見計らって保健室へ度々顔を覗かせていた彼。交わす会話の内容さえ思い出せないくらいなのに、驚くほどにシャマルは、彼の、笑ったり、怒ったり、呆れたりする顔を覚えていた。
 あんな風に辛い顔をさせる為に一緒の時間を過ごしてきたわけではない。
「くそっ」
 意味もない苛立ちが胸を突き上げてきて、彼は感情を吐き出すままに足元の石を蹴り飛ばした。危うく握りつぶしかけた煙草はポケットへと押し込み、大股に早足で彼は学校への道を急ぎ戻った。
 グラウンドではまだ昼休憩を楽しんでいる生徒が数人、サッカーボールを追いかけて駆け回っている。思い思いに時間を楽しむ生徒の隙間を抜けて校舎側へと戻り、ふと、シャマルは何処かで泣いている小さな声を聞いた。
 なんだろう、と思う間もなく彼は進路を変える。魂が引っ張られる、とでも言うのだろうか。保健室に戻ったところで、仕事もろくに片付かないだろうし、少しばかり気晴らしか、気分転換になるものが欲しかった。故にシャマルは本能に逆らわず、裏手の駐車場へ続く校舎の角を曲がり、そこで足を止めた。
 白い季節の花が、茶色のブロックで区切られた花壇で揺れている。園芸部が手入れをしているのか、綺麗に等間隔で並んでいる花々とは裏腹に、シャマルは薄汚い白衣を揺らして懸命に顔に出ようとする動揺を押し殺した。
 よりにもよって、このタイミングで。
 目を見開き、それからゆっくりと息を吐いて同時に瞬きをした彼は、巡り会わせが良いのか悪いのか、いまいち判断に困る目の前に転がった現実に首を振った。
 沢田綱吉が、そこにいた。
 彼はシャマルがいる校舎の角から大体十メートルほど先になるのだろうか、日陰になっている為にまだ水溜りが残る土の上で、灰色の校舎に向き合う格好で立っていた。その先に何か在るわけでもなし、何をしているのかシャマルの位置からでは分からない。だが俯いて、困惑気味に時々肩を揺らし、腕を交互にさすっている。落ち着きが無い仕草であり、周囲を窺う気配がある。
 そしてシャマルが次の挙動に出る前に、左右を見ていた綱吉が彼に気付いた。
「――――!」
 彼が、息を呑む。即座に腰が引けて、逃げ出そうという動きが上半身に見られた。シャマルもまた、それは仕方の無いことだと殆ど諦めかけていた。
 だが彼は、綱吉は、何かを決めた目をして思いとどまり、踏み止まった。傾いでいた姿勢を戻し、呼吸を整え、食い入るようにシャマルへと視線を向けると、案外あっさりと顔を逸らしてまた俯く。いったいなんなのだ、わけが分からないままシャマルは静かに、相手が逃げないのを確認してから歩を進めた。
 開かれていた距離が半分に縮まったところで、綱吉が膝を折りその場にしゃがみ込んだ。体調が悪いのか、一瞬そんな嫌な予測が胸を駆け抜けていったが、様子からしてどうも違う感じがする。冷や汗を拭い、シャマルはポケットに手を入れたまま彼の傍らで、立ち止まる。
 日の影、建物と地面の接点、角。味気ない色をしたコンクリートブロックが排水溝に被せられているその上に、綱吉の足元に、小さな黒っぽい影があった。
 小刻みに、弱々しく震えている水に濡れて黒ずんだ翼。喘ぐように開閉され、時折漏れる声ならぬ声。
 綱吉の手が小鳩の上に翳され、それから躊躇するように指が宙を掻く。痛ましい表情を浮かべて静かに瞼を下ろした彼は、ひとつ長い息を吐くと同じ時間だけ息を吸い、ブロックの上に横たわる死に瀕した鳥を抱き上げた。
 シャマルは上を見上げる。そそり立つ校舎と雨どいを持った屋根、そして澄み渡る空と雲に隠れ気味の太陽。鳥の巣はどこにも見当たらないが、昨晩の風雨でどこかから飛ばされたのなら話は別だろう。
「どうしたんだ、それ」
 今更問うのも愚かしい気がしたが、何かを言わずにいられなくてシャマルは首の向きを戻しながら敢えて聞いた。綱吉が両手で大事に傷ついた小鳩を抱え、すっかり冷え切ってしまっている身体をそっと撫でる。触れた場所から、濡れた羽毛が零れ落ちた。
「……なにかに、呼ばれた気がして」
 ここは、生徒は滅多に足を向けない場所だ。シャマルは今朝通ったが、他の事に気を取られていて小鳩が倒れているなんてちっとも気付かなかった。それとも、朝の段階ではいなかったのだろうか。飛び立とうとして力尽き、壁にぶつかって此処に落ちたのかもしれない。
 なんにせよ、小鳩は語り合う言葉を持たないので真実は不明。むしろ今こうして、綱吉の手の中で力なく喘いでいる姿をどうにかしてやるのが、先だろう。
 だが、とシャマルは簡単に小鳩の様子を目視して、心の中で首を振る。これはもう、助からない。動物は専門外だが、長時間濡れたまま屋外で放置されていたのが尾を引いている。体力も殆ど残っていないのだろう、命の火が見る見るうちにやせ衰えていくのが分かる。
 それでも、綱吉は縋るように、膝立ちのままシャマルを見上げた。浮かべた涙は本心からの、真実の願いだろう。彼だって両手に乗る小さな鳥がもう死に体であるのは分かっているはずだ、眺めるだけのシャマルより、直接肌を触れ合わせている綱吉の方が知りえる情報は多い。
「シャマル」
 必死の、出来る限り爆発しそうな感情を押し殺した声で名前を呼ばれる。うっかり崩れ落ちそうになりながら、シャマルはどうにか踏み止まり、数秒の深呼吸を経て緩く首を振った。
 横に。
「でも!」
 即座に綱吉の、矢よりも鋭い声が飛ばされる。悲痛な、聞いているこちらも心が裂けそうな声に、シャマルは奥歯を噛んだ。
「なんで……何も悪いこと、してないのに……」
 上を向いた時とはまるで逆に、非常にゆっくりとした動きで手元へ再び視線を戻した綱吉が呟く。それは自問のようであり、手を施す前から諦めてしまっているシャマルを咎める声でもあった。
 ぐさりと音を立てて胸に刺さる悪気はないだろう彼の言葉に、シャマルはしかし、無理だ、という結論は覆せなくて臍を噛んだ。
 自分だって出来るものならば助けてやりたい。綱吉の言う通り鳥は運が無かっただけで、罪は無いだろうに、こんな場所で朽ち果てなければならない無念さは、シャマルだって痛いくらいに理解できる。
 無数に積みあがる肉塊、探せばまだ息の在る暖かなものもあっただろうが、己の身を守るのが精一杯で楽に逝かせてやるくらいしか出来なかったこともある。それすら出来なかった夜もある。見捨てるか、否かで逡巡する時間さえ許されず、ただ背を向けるしかなかった朝もある。
 人の形さえ残さず、遺棄された十字架。血よりもなお赤く、炎よりもなお熱い夕焼けに照らされた地平線で。
 最期さえ見送ってやれなかった。
 お前は幸せだったか。苦しまずに逝けたか。最後に何を祈った、何を願った。誰に会いたかった? 伝えたい言葉は無かったのか? 遺すことばを汲み取ってもやれず、乾燥した風に曝された屍を拾ってやることも出来ず。
 お前は俺を呪うか、憎むか。貶すか、嘲笑うか。
 こいつと同じ目で俺を見るか。
「……悪い」
 これが搾り出すような、悲痛な声、という奴だろうか。
 唇から滑り落ちた謝罪が、果たして何に向けられたものであるのか自分自身でも分からぬまま、シャマルは視線を傍らへと落とした。
 生きているものを救えないで、何が医者であろう。自分は結局傷つけ、血を流させ、殺すしか能の無い人間なのだ。せめて苦しめることなく逝かせてやるのが当然の責務だと感じている、こんな人間に暖かな血が通っているわけがない。
 綱吉が視線を持ち上げて彼を見ていた。僅かに目を見開き、瞬きを繰り返して、手の中の温もりが少しずつ消えていくのに泣きそうになりながら、それでも何かを訴えようと懸命にシャマルを見詰めているのに。
 擦れ違わない視線が、暗がりに融けて消えていく。
 頭上遠くから、昼休憩が終了し午後の授業開始を告げるチャイムが響き渡る。甲高く、空を抜けて遠くまで響く音色に、シャマルはポケットの煙草の輪郭を指でなぞった。
 助けたい、でも助けられない。
 助けられた、けれど助けられなかった。
 生きられただろうに、死なせた。
 まだ生きているのに、死なせてしまう。
 胸ポケットのキリストが血の涙を流し、重みを増す。傷ついた十字架、ひび割れた鎖。もう届かないところにいる命、救えなかった魂。違う、真に救われたかったのは自分自身。大勢を死なせ大勢を見送ってなおまだ生きている自分自身が一番、赦されたくて。
 穢れない魂の傍に居れば、自分の薄汚れた魂が浄化されるような気がして。
 薄汚れた魂である自分が、純粋無垢な魂の傍に居続けて、綺麗なままの心を汚してしまうのが怖くて。
 いつだって、自分は、卑怯なまでに逃げ道ばかりを探している。
 キュィ、と微かな声が綱吉の掌をすり抜けた。
 二対四つの瞳が、ほぼ同時に綱吉の手元へと注がれる。それまで喘ぎながら苦しげにしていただけの小鳩が、僅かに首をもたげて意思ある目で彼らを見上げていた。丸い、灰色に濁った瞳が、それでも懸命に何かを訴えるように動き、擦り合わされた嘴から音が漏れ出る。
 綱吉が、腕を震わせて息を飲んだ。
 声が、もう一度か細く響く。そして急激に力を失った小鳩の首が、落ちた。指の隙間から抜け落ちた羽が舞い散る。綱吉は首を振り、落としてしまいそうになる小鳩をどうにか支えて何度も口で呼吸を繰り返した。溢れ出る涙を止める術もなく、今しがた失われた小さな命に声ならぬ悲鳴を上げ、綱吉は俯いた。
 そのまま頭を、目の前に立つシャマルの胸へと押し当てる。
「……すまない」
 ほかに言葉が思い浮かばなくて、シャマルは謝罪の言葉を刻むばかり。違うのだ、と綱吉が首を振っても、声を出す術を失ってしまっている唇は嗚咽だけしか零さない。
 綱吉には聞こえた。小鳩が最後に告げた言葉、その意味。
 ありがとう、と言ったのだ。看取ってくれて、傍に居てくれて、泣いてくれて、有難う、と。見送ってくれて、嬉しかったと。
 そう、聞こえたのだ。
 

 用務室で借りてきたスコップで、シャマルは校庭の片隅に穴を掘った。
 綱吉がその穴に、眠りに就いた小鳩を置いた。
 穴は、ふたりで手を使って土を掬い、埋めた。
 汚れた手を叩いて土を落としたシャマルが、真新しい煙草を取り出して一本口に咥えた。
 不謹慎だ、と怒ろうとした綱吉の前で彼は火をつけてひとつ息を吸い、赤く燻る先端を上に持って膝を折った。
「シャマル?」
「こんなもんしかなくて、悪いな」
 綱吉の問いかけには答えず、独白めいた口調で呟き、シャマルはじわじわと灰を積もらせていく煙草を、柔らかな土に突き立てた。日本で言えば線香代わりだろう、そして戦場で死んだ友人への手向けにも似た煙は、風の無い穏やかな日差しを受けて空へと静かに昇って行った。
 綱吉はゆっくりとした速度で流れていく雲を視線の彼方へと追いかけながら、未だ立ち上がろうとしないシャマルの名を呼んだ。
「なんだ?」
 今度は返事があって、首を真正面に戻すと、皺だらけの白衣姿の男を見下ろす。
 いつもは大きく、広く感じる背中が妙に小さくて、綱吉を拒絶しているように思えた。
「シャマルは、誰かを……その」
 聞いてよいのだろうか、と、いいかけたところで迷ってしまい、語尾が中途半端に途切れてしまった。しかし雰囲気で察したのだろう、シャマルは肩を揺らして少し笑いながら、「ああ」と頷いた。
「そっか……」
 その相槌だけで綱吉も続ける気力が失せて、右手で左腕を抱きながら視線を脇に逸らす。
「大切……だった、よね」
「そうだな」
 皆まで言わない綱吉の気持ちも痛いくらい分かって、シャマルは若干声が柔らかくなる努力をしながら、しかしそれ以上ことばを返すことが出来なかった。
 胸ポケットを上から指でなぞる。鎖の海に沈んだ十字架が布越しに感じられた。
 綱吉は胸の奥がざわざわと波立つのを感じ、左の心臓がある位置へと、腕を握ったまま手を重ねた。恐らく此処から先は、彼も立ち入って欲しいとは思わない領域になるのだろう。けれど、其処へ踏み込みたいと思っている自分と、戻れなくなると躊躇している自分がせめぎあい、綱吉は黙ったまま再び天を仰いだ。
 澄み渡る青空に、心が融けてしまいそうだ。
「今も……好き?」
 俺と、どっちがすき?
「さあ、どうだろうな」
 シャマルが身体を揺らし、立ち上がる。綱吉の声にならぬ問いかけに気付かず、彼は煙草を抜き取って慣れた動作で火をつけた。
 立ち上る煙、振り返った彼はいつもの飄々とした態度で心の内側を悟らせない。
 すぐに隠して、誤魔化して、無かったことにして、狡賢い大人の手本。悔しさを表に滲ませながら綱吉は彼を睨み、握りすぎて痺れた左腕を解放した。指を伸ばし、彼の緩んだネクタイを掴む。
「俺は、代わり?」
「……違う」
「じゃあ、なに?」
 紺色のネクタイを握る指が震えている。小刻みに、次第に大きくなろうとする震えを懸命に堪え、綱吉は喉が潰れそうなくらいに乾燥しているのも我慢して、問いかけを紡ぎだす。
「俺って、シャマルの……なに?」
 聞きたい、知りたい。
 聞きたくない、怖い。
「……知らなくていい」
 俯いた綱吉の項を見下ろし、彼は淡々と囁いて右肘を曲げ、綱吉の右手をゆっくりと解いていく。一本ずつ、凝り固まった関節が解されていく様を呆然と見詰め、綱吉は頭を振った。
 そんな答えを期待していたわけじゃない。だのに、どこかで安堵している自分がいる。裏切られたと彼を罵ろうとしている自分がいる。
 最初にことを投げたのは、彼なのに。
 逃げないで欲しい。でも、もしかしたら逃げているのは、自分自身?
「俺はやめとけ」
 ネクタイの解放を終えたシャマルが、握った綱吉の手を下ろしながら呟く。
「俺じゃ、お前を守ってやれない」
 明確な拒絶を。
 彼が第一歩を踏みだす。綱吉の右側を、白い布が流れていく。
 振り返れなかった。まだ僅かな温かみを残している手が、淡い痺れを発して綱吉を大地に釘付けにしている。
 土に突き刺していたスコップの長い柄を掴んだ彼はそれを背中に担ぎ、去っていった。彼もまた振り返らず、綱吉に言葉を投げかけず、俯いて、何かを堪えて奥歯を噛み締め、苦しげに表情を歪めながら。
「じゃあ……じゃあ、なんでだよっ」
 あの日のことも、今日のことも。傍に居てくれないのなら、近づいてこなければ良い。守れないというのなら、最後で突き放すくらいなら、優しさなんて欲しくない。
 新しい涙が溢れて、零れていく。しゃくりをあげて泣きじゃくる綱吉に、シャマルは一度だけ足を止めた。背中合わせのまま開いた距離が限りなく遠くて、足元を踵で抉った彼は不意に吹いた生温い風に視線を脇へと流した。
 園芸部が手入れをしている花壇が見える。間もなく梅雨入りを迎えようとしている季節、気の早い花が一輪、頭を重そうにしながら咲いていた。派手な色合いと不可思議な形状をした雄蕊に、嘗ての旅人は何故これを、聖者の受難に重ね合わせたのだろう。
「俺じゃ、荷が重いんだよ。お前の相手は」
 脳裏に浮かぶ笑顔が、掻き消える。
 馬鹿、と力いっぱい叫ばれた。
 大好き、という声は空耳だろうと受け流した。
 ただ、泣きじゃくる子供の声だけが、いつまでも耳に張り付いた。