蛋白石

蛋白石(Chiudere)

 ノックをせずに潜り込んだ室内は、薄闇に閉ざされてシンと静まり返っていた。
 夜の空に冷やされた空気が僅かに肌に突き刺さり、知れず左手で右腕をさする。そのまま己の体温を残す手でドアを再び音もなく閉ざすと、部屋の内部は更に闇の濃さを増し、海底に沈んでしまった錯覚を胸に抱かせる。
 吐き出した息の暖かさを唇に感じ、ドアノブに添えたままだった手に力を込めて身体を前に傾ける。自然と出た左足を地面に置いて、交代に右の足を前に伸ばす。その繰り返しで柔らかな絨毯に足音を吸わせながら、彼は部屋の右手、方角で言えば南側に位置する壁を目指した。
 部屋の主の性格が知れる、完全には閉まりきっていないカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。床に伸びる薄い光に瞳を細め、獣の身のこなしで彼は、絨毯の切れ目で足を止めた。その先は板張りで、足音が響く。靴底を絨毯の毛並み含ませて左右に揺らした彼は、そっと音にならない息を吐くと視線を上向け、進行方向に据えられた寝具で横になっている人物を見詰めた。
 彼に脚を向ける格好で、上質でかつ清潔なシーツにくるまれた膨らみがひとつ。月明かりに照らされているそのシーツからはみ出た爪先部分は、白い陶器を思わせた。完全に気配を消している彼に気付く様子もなく、部屋の主は幼い顔をして気持ちよさそうに眠っている。
 枕元近くに置かれている重そうな時計の文字盤は、現在時刻が明け方まであと少しという真夜中を指し示している。薄ぼんやりと浮き上がる数字と黒い分針へと一瞬視線を逸らした彼は、やがて疲れたように首を横に振った。
 額に置いた手に、吐息が掛かる。
「綱吉……」
 低く呼びかける声は微かで、眠る綱吉の耳には届かない。しかし何か察するものがあったのか、もとより感覚が鋭い彼は小さな呻き声を唇から漏らし、寝返りを打った。
 滑らかなシーツの皺が増え、また部分的に減る。波立った布に視線を走らせ、雲雀恭弥は吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、緩やかに右足を前方へと伸ばした。
 予想していたほど足音は大きく響かない。その現実に安堵した彼は、左足も絨毯から抜き取って前へと運んだ。
 途中で窓辺へと逸らした目線の先に、窓から辛うじて覗く月があった。高台に聳え立つ古城の景色は絶景であり、嘗てこの地に栄えた文明の優雅さを思い知らされる。夜の空と同じ色をした海が淡く輝き、こんな夜はどこかでセイレーンが謳っているような気がしてならない。
 ベッドの頭上を飾る天蓋を支える柱に片手を添え、漸く見えた眠る人の姿に雲雀は僅かに表情を綻ばせた。先程寝返りを打ったお陰で彼が立つベッドの左手に顔を向け、身体の右側を下にした綱吉は、しどけなく両腕を前方へ投げ出し、僅かに顔を胸元に向けて肩を丸めている。長く伸びた後ろ髪の毛先が乱れ、白く細い首に絡み付いていた。
 あどけなさの残る横顔には、日々険しい表情を浮かべ、マフィアのボスであろうとする綱吉の厳しさがまるで感じられない。強い自分を演じることへの疲れがあるのか、眠っている彼はどこまでも日本に居た頃の幼さが漂い、頼りなさがそれに付きまとう。
 雲雀は浮き彫り細工がされた柱から手を離し、更に歩を進めた。踵から床に足を下ろし、ゆっくりと爪先に向けて足の裏全体を床に沈める。頬に落ちてきた黒髪を指で追い払い、そのまま腕を振って彼は眠る綱吉の胸の上へと振りかざした。
 距離にして、約五十センチ。彼はその、何も無い空間をいとおしむように撫でるだけで肘を戻した。軽く握った拳を口元に沿え、暖めようと息を吐きつける。
 綱吉は目覚めない。人の気配に気付いていないのか、或いは。
 雲雀恭弥という存在に、完全なる安心感を抱いているのか。
「綱吉」
 今度ははっきりと空気が震えるほどの強さで彼を呼ぶ。僅かに眉根を寄せた綱吉が、重ね合わせていた両手を乱し、左手を顔に被せる格好で肩を引いた。枕の上でゆっくりと横に転がった綱吉の頬が月明かりに晒されて、ほんのりと朱色づいた柔肌を雲雀の視線に曝け出す。
 規則正しくシーツの下に隠れた胸が上下している。薄く開かれた唇からは胸の動きに合わせて静かな息が漏れ、時折むずがってか隙間は閉ざされて鼻呼吸に切り替わる。
「ん……」
 ちょうどタイミング的に鼻での呼吸に変わった直後で、喉から漏れた彼の声は鼻腔を通り抜けて外へ流れ出た。それが微妙な色香を感じさせ、雲雀の表情が一瞬だけ絞まる。
 再び安堵の表情で寝息を立てる綱吉にホッとしたような、残念に思っているような、複雑な表情を作った雲雀は、先程からやけに顔に落ちてくる自分の黒髪を鬱陶しそうに何度も払いのけ、左手を腰に置いた。
 この数ヶ月、ろくに綱吉に触れていない。嫌がらせのように仕事が次から次へと彼の元へ届けられ、ひとつ片付いたかと思うと新しい仕事が諸手を挙げて彼を待ち構えている。いい加減キレそうなのだけれど、綱吉の為だとその度に宥めすかされ、挙句綱吉にまで「仕事が辛いのなら少し減らすように言いましょうか」と心配される始末。そう言われてしまうと逆に、手ごたえが無くてつまらないくらいだ、と要らぬ意地を張ってしまい、状況は改善どころか悪化の一途。
 休みも乏しく、世界各地へ飛ばされては時差が合わぬために電話で綱吉の声を聞くことすらままならず、顔を突き合わせてゆっくりと会話をしたのは、もう遠い昔の出来事だ。その綱吉も、大分疲れが溜まっている様子。この世界はあくまでも実力主義であり、足元から常に這い上がろうともがいてくる連中で溢れかえってくる。隙を見せればそこを突かれ、地盤が緩めば呆気なく城は崩れる。
 人の上に立つことに慣れていない綱吉にとっては、息をつく暇も無い毎日。彼の苦労を少しでも和らげてやれたらと思って、今の今まで随分と我慢を重ねてきたけれど、いっそ出来るものなら彼を連れ出して、誰の目にも触れぬ場所に閉じ込めてしまいたい。
 自分だけの彼で居てくれたあの頃に、戻れるものなら。
 綱吉はこの国へきてから、少し痩せた。元から細身だったのが益々細くなり、食べ慣れぬ食事にも苦労しているとか。寿司屋の息子があれこれ食材を調達しては、色々と提供しているらしいが、食は細くなる一方らしい。
 腰から離れた指が綱吉の顔の上を漂う。数秒間迷った挙句に宙を虚しく掻いた指先が、ややしてから遠慮がちに彼の頬に落ちる。ふっくらとした膨らみは昔のままで、雲雀のざわついた胸を少しだけ落ち着かせた。
「……?」
 直接肌に触れるものがあると気付いたのか、綱吉の呼吸が僅かに乱れた。吸い込んだ息を吐くまでの間隔が長くなり、やがて短くなる。撫でる指先に意識を向けていた雲雀は、いっそこのまま抱きしめてしまいたい気持ちを押しとどめながら、綱吉の目元に掛かる薄茶色の前髪を払ってから肘を引いた。
 薄く瞼を持ち上げた綱吉の瞳が、その動きをぼんやりと追いかける。
「綱吉」
「……り……さ……?」
 焦点も定まらず、意識も夢と現との境界線を漂っている感のある綱吉の、呂律が回りきらない声。久しぶりに聞いた寝起き声に、雲雀は表情を緩めたまま引き戻した腕を再び真っ直ぐに伸ばした。中空で一度だけ空気を握り締め、開いた掌を綱吉の枕元、彼の左耳外に添えた。自然上半身も傾き、上から彼に被さる格好になる。
 ぐっと狭まった距離と、薄暗さを増した視界いっぱいに、綱吉の幼い表情が広がった。
「……ひばり、さん……だぁ……」
 まだ半分眠ったままの綱吉が、嬉しそうに子供の顔で笑った。しまりの無いだらしない表情に雲雀が僅かに目尻を下げていると、シーツに縫い付けられていた彼の両手がゆるゆると登ってきて、雲雀の頬を挟み持つ。
 肌に直接感じる、暖かさ。紛れもない綱吉の体温に、彼は負担にならぬ程度に肩から力を抜いて彼の両腕に身体を預けた。目を閉じると、綱吉がケラケラと声を立てて笑う。
「あれー、俺……まだ夢、見てる……?」
「夢じゃないよ」
 囁きかけても、彼は笑うだけ。
 当然だろう、雲雀の本来のタイムスケジュールでは、彼は今北アメリカ大陸の東海岸にいるはずだった。そして翌日は飛行機でモナコへ。イタリアの、地中海に浮かぶ島に立ち寄る暇は、寸分の欠片も残されていない。
 しかし雲雀は、ほぼ強引と言わざるを得ない手段を使って東海岸での商談を成功のうちに完了させ、即座に飛行場へと向かい、フランス経由でローマへ戻り、休憩無しに更に乗り継ぎパレルモへ。この時既に時刻は日付が変わる直前。ろくに睡眠も食事も取っていない強行軍は、傲慢な取引先とのやりとりも手伝って雲雀の身体を大分酷使したが、それも、この一瞬の邂逅で全てが帳消しとなる。
 こうして会えたのだから、それだけでいい。
「折角戻ってきたのに、綱吉は僕を、夢だけに終わらせてしまうのかい」
 けれど彼がいつまでも自分を夢の中にいるのだと思っているのは悔しくて、左手で彼の頬に落ちる髪を退けてやり、その指で綱吉の唇を小突く。薄く開かれた隙間に吸い込まれ、雲雀の指は綱吉の柔らかく暖かなそれに包み込まれた。
「ん……」
 鼻にかかる甘い吐息。綱吉は眠そうに瞼を下ろしたものの、顎を仰け反らせて頭全体を使って雲雀の指に吸い付いてきた。細い人差し指を舌で第二間接まで飲み込んで、包み込み、彼の指の腹が擽る感触に背筋を奮わせる。
 引き抜こうと雲雀が手首に力をこめると、追い縋る綱吉が唇を貝の様に開いて中から赤く濡れた舌を露にした。雲雀が、笑む。
「指を吸いたがるなんて、赤ん坊かい? 君は」
 枕元に添えた腕を持ち上げ、綱吉の細く長い髪を梳く。まだ名残惜しげに去って行った雲雀の指に目を向けていた彼は、気持ちよさそうに喉を鳴らして今度はそちらへ頬を摺り寄せた。僅かに頭を浮かせ、雲雀の掌にキスをしたがる。
 嬉しそうに目を細め、甘えてくる綱吉を、雲雀はそのまま抱きしめたくなる。会いたかったのが自分だけではなかったのだと、会えて嬉しいのが自分ひとりではなかったのだと態度で示されて、どうしようもなく胸が高鳴った。
 許されるならば、連れて行きたい。ひとり旅先のホテルで眠る夜は、もうこりごりだった。
 それでも、すべては彼の為だと言い聞かせて。
「綱吉」
 呼びかけると、小さく唸りながら彼は雲雀の顔を見る。ちゃんと目覚めているのか少々疑問の残る、とろんとした目で見詰めて、目尻を大きく下げて微笑む。
「ヒバリさんだ~」
 ……まだ半分眠ったままらしい。
 それもそうだろう、時計の針はまだ夜明けを示さない。だが雲雀に残された時間も僅かだ。夜明けとほぼ同時に飛ぶ飛行機に乗らなければ、苦労の末に部下が取り付けた商談の席に間に合わない。非常に気難しいとして名が知れ渡る老婦人の相手は正直、山本辺りにやらせておきたいところだが、何故かあちらが雲雀を指定したのだから仕方が無い。
 誰よりも綱吉の力になるといっておきながら、いざという時の為に常に彼の隣に居てやれないことへのもどかしさ。もう子供の頃のように、つかず離れずの距離で、振り返ればそこに姿を見つけ出せるような状況ではないのは分かっているけれど。
 高い塔に閉じ込めて、自分だけの彼を取り戻したい。そう思わずにいられない。
「綱吉」
 優しく微笑みながら頬を撫でる。猫のように喉を鳴らして掌に擦り寄ってくる彼の反対の頬に、触れるだけのキスを落とすと、彼は嫌々と首を振って持ち上げていた腕を空中で交差させた。顔を寄せていた雲雀の首に絡ませ、重力が導くままに腕を下ろす。
 自分から抱きしめたいと思っていたのに、綱吉に先を越されてしまった。
「綱吉?」
「ヒバリさんだ」
 今度こそはっきりとした発音で、彼が呟く。
「本物の、ヒバリさんだ」
 泣き出しそうな、そんな声で囁いて、彼は雲雀の首に回した腕に力をこめた。もうこれでは綱吉の頬や枕元に腕を置いておくことも出来なくて、彼もまた綱吉の身体とシーツとの間に腕を回し、彼の細い身体を抱きしめる。
 腰が曲がってやや苦しい体勢ではあるが、文句を言う気にもなれない。ただ、ぐっと近く、暖かくなった自分の片割れに心が揺れて、満たされて、気持ちが溢れていく。
「夢じゃない、よね?」
「ああ」
 確かめるように問いかけてくる綱吉の声に、しっかりとした声で返す。
「時間は?」
「まだ、少しならある」
「そっかぁ……。でも、もう、今日なんだよね?」
「ああ」
 十月十四日。それは遠く海を隔て、日の昇る国で綱吉が生まれた日。
 するりと綱吉の腕が解かれる。力を失った彼の両腕が、ゆっくりと雲雀の視界の端をすり抜けて行った。同時に雲雀も綱吉の拘束を緩め、互いの間に僅かな距離を作り出す。闇の中であるというのに、驚くほどに相手の顔が、表情が見て取れた。
「ヒバリさん、少し……疲れてるでしょ」
 もう一度伸びた綱吉の左手が、雲雀の前髪を払い狭い額を指でなぞる。眉間に浮かんだ皺を擽るように上下に動くので、雲雀は首を数回横に振ってそれを追い払った。綱吉の笑い声が小さく余韻を残して消えていく。
 一緒に綱吉の指も離れて行って、雲雀はやや釈然としないままに更にもう一度、首を横に振った。
「疲れてないよ」
「ウソ」
 即座に否定の声。じろりと睨みつけると、綱吉は気にした様子も無く、声を押し殺して笑っている。
「ウソじゃない」
「それもウソ」
「だから」
 押し問答が続きそうな予感がして、雲雀は若干の苛立ちを隠さぬまま声を荒立てる。肘を綱吉の顔を囲む形で置いて鼻先三センチのところまで顔を寄せ、真上から綱吉の瞳を覗きこむ。
 笑い声が止んだ。
「君に会いに来るのに、疲れることなんてひとつもないんだ」
 僅かに息を呑む気配。暗闇の中、それでも煌々と輝く彼の瞳に吸い込まれそうになりながら、雲雀はみぞおちに力と思いを込め、言い切る。
 綱吉の表情が一瞬険しく、そして即座にほんのりと朱色の満ちた笑顔に入れ替わった。
「……本当に?」
 静かに波立つ声が、雲雀の胸をくすぐる。
「ああ」
 短く、けれどはっきりと伝わる声で告げれば、綱吉は枕に埋めた頭を左右に揺らした後、どうしようもなく赤く染まった顔と思いを持て余し、視線を揺らして闇へ流す。それを雲雀の手は容赦なく押しとどめ、自分の真正面へと向けさせた。
 逃げる事を許さない瞳が、真上から真下へ、綱吉を射抜く。
「会いたかった。どうしても」
 はっきりと、喉を震わす事なく吐き出された呼気に、胸の奥底から震える気持ちを懸命に押しとどめながらも、雲雀はこれが一寸の狂いもなく己の真実であると教える為に、綱吉から視線を逸らさない。頬に添えた手をゆるりと動かし、彼のややくたびれた感じがする柔肌を撫でると、綱吉は瞳を細めピクリと肩を揺らす。
 固く閉ざされた瞼が再び開かれた時、彼の瞳には確実に、明らかとなる色が含まれていた。雲雀はそれを、口元を緩め口角を歪めて笑みながら、しっとりと見下ろす。
 困った風の綱吉が、瞳を揺らしながら右側に添えられた雲雀の手首へと目線を流した。
「それは、俺も……です」
 耳の先端までもが朱色に染まった綱吉の首筋に吐息を零し、雲雀はうっすらと笑むとその赤い唇から白く鋭い牙を覗かせた。無防備に目の前に晒されている白い肌に、引き寄せられるままにすり寄って、小さな喉仏よりも左の肉が薄い部分に吸い付く。
 ひくり、と綱吉の全身がシーツの下で僅かに跳ね上がった。
「……ぁ」
 こぼれ落ちる息が闇に溶けていく。
 吸い付き、そして浅く咬んだ箇所が、虫さされよりもはっきりと赤く小さな痕になるのを見下ろして元から細い瞳を更に細め、雲雀は満足した風に濡れた舌で唇を舐めた。
 両腕の間では、林檎のように赤く頬を染めた綱吉が、咎める顔で雲雀を睨んでいる。だが微かに涙で潤んだ瞳に迫力の欠片もなく、雲雀は喉を鳴らして笑った後、彼の機嫌を取り戻そうと前髪を梳きあげてやりながらそこへもキスを落とした。
 綱吉が喉を逸らし、顎を持ち上げる。そこは嫌だ、と言わんばかりに首を左右に振って、枕元に添えられたままでいる雲雀の手を握った。浅く爪を立て、自己主張も厭わない。
 雲雀は下唇を浮かせて笑い、右手を持ち上げると自分の手首を掴んでいる指を払い落とした。そして綱吉の手の甲がシーツに新しい皺を刻んだ直後に、間を置かず自分もまた広げた右手で上から押さえ込む。指の間に指を絡め、深くベッドへと縫いつける。
 綱吉は空気と唾とを一緒に飲み込んだ。喉仏が上下して、吐き出す息が熱い。
「綱吉」
「……はい」
「触れても、良いか」
 ギシ、と年代物の頑丈なベッドが軋んだ。左膝を曲げてベッドに乗り上げた雲雀の姿が、迫りくる獣のように綱吉の瞳に映し出される。
 食われると、本能が警告を発していた。しかし綱吉は安堵しきった表情で笑みさえ浮かべ、警鐘を無視した。
「…………はい」
 絡み合った左手に力を込め、綱吉は頷く。握られた掌にもうひとつの心臓があるみたいで、ドキドキが止まらない。雲雀もまた、右手に感じる綱吉の体温の心地よさに酔いしれながら、沈黙の中で首肯を返した。
 雲雀の右足から、革製の靴が滑り落ちる。綱吉は自由を保っている右腕を伸ばし、彼の頸に絡めて引き寄せる。鼻先が触れる距離で見つめ合った後、どちらが先となく目を閉じた。
 柔らかく、熱を含んだ唇が数回、戯れのままに触れあって、そして求め合うままに深く、重なり合う。
「……ん……」
 鼻にかかる甘い吐息。それすれも飲み込んで、開かれた歯列を割って雲雀は綱吉の内側へも、貪欲に彼を求めて潜り込んでいく。濡れた音が耳殻に直接響き、呼吸の苦しさから動こうとする綱吉の左手は、上から圧倒的に傲慢な力加減で雲雀に押さえられたまま。
 しかも涙に潤んだ瞼を持ち上げて狭い視界で見た先では、雲雀はしっかりと目を見開き、一瞬たりとも綱吉の姿を見逃すまいと彼を見つめているのだ。
 狡い、と綱吉は思いながらも恥ずかしさが先に立ち、どうしても彼の目を間近に見返せない。
「ぁ、はっ……んっ」
 見られている。そう意識すると余計に身体が反応を示し、心臓が破れそうなくらいに拍動を速める。前の前の獣が笑っている、自分ばかりが余裕がない気がして、綱吉は悔しくてならない。
「余裕なんて、ないよ」
「ん……嘘」
 ちゅ、と音を残して唇を吸い、いったん顔を離した雲雀が闇の中で意地悪く笑った。
「嘘じゃない」
 綱吉の目尻に、鼻筋に、額に、のど元に、指に、顎に、次々とキスを落としながら雲雀が静かな声で告げる。
 綱吉は彼の声が好きだ、こういう時の雲雀の声は特に好きだ。綱吉は耳に心地よい音色と受け止めて、彼のキスに嬉しそうに自分も返していく。
「ほんとう?」
「……ああ」
 雲雀もまた綱吉の声が好きだ。殊に自分だけに聞かされる、甘えた子供のままの声が好きだ。首を伸ばして雲雀が与えたキスを逐一返そうとする綱吉に笑いかけ、彼の頭を抱きながら細い身体を引き寄せる。
 力任せに抱けば折れそうな身体だけれど、案外芯が強く頑丈で、雲雀ひとりくらいなんて事なく受け入れて、受け止めきってしまえる彼が、どうしようもなく愛おしい。
 この腕の中で閉じこめてしまいたい。けれどそれが出来るほど、彼は小さくないのも知っているから。
 それでも、今だけは。
「君を愛してる」
 いつだって必死に、懸命に、狂いそうなくらいに、求めている。
「ウソ」
「綱吉」
「ウソですよ」
 それを咄嗟に否定されて、剣呑な表情を浮かべた雲雀へ舌を出して幼い表情で笑いながら、綱吉は雲雀の眉間を指で小突く。
 怖い顔をしないで、と今更怯える必要もないのに、告げて。
「俺も、です」
 この感情がいつ生まれたものか、どうして彼だったのかも、今となっては思い出せない過去の記憶。けれど知らず、互いが持たなかったものを持っている相手として意識してからは、瞳が逸らせなかった。
「俺も、ヒバリさん」
 目を細め、全身で甘えてくる綱吉の背に腕を回す。強引に引っ張り上げ、両腕に閉じこめて、力任せに抱きしめて。けれど綱吉は非難の声もあげず、逆に全身で表現する他ない雲雀を嬉しそうに受け止めて、頬を寄せて自分からも彼を抱きしめて返す。
 触れあった場所から、相手の体温が、血液が流れ込んでくる。このまま一つになってしまえたらいいのに、そう願わずにいられなくて。
 このまま、永遠に、闇の中でふたり解け合っていられたらいいのに、なんて。
 出来ないと知っていても、祈りだけは。
「大好き」
 囁かれた睦言に、額で額を小突き合って。中学時代、夜中の学校でも似たような事をしたな、と思い返して呟くと、同じ事を相手も思い出していたのが嬉しくて。
 あの頃から様々な事が起こり、年月が過ぎて自分たちはもう大人になったけれど、本質的なものはあの頃と何も変わっていないのだろう。君が好きで、大事で、たったひとり、この世界に生きていて側に居て欲しいと思った相手が、こうやって目の前に変わらずに居てくれる現実に。
 目眩が起こりそうな幸福を思う。
「ヒバリさん」
 呼ぶ声は優しく、どこまでも甘い。
「大好き」
「知ってるよ」
 耳元で囁いて、乾きかけた唇へ潤いを。
 これからも、ずっと一緒に居よう。優しい誓いを綱吉へ。来年の今日も、再来年の今日も、十年後も二十年後も、ずっと、ずっと。
 ずっと、君の隣に――――――