雛菊

 カタカタとテンポよくキーボードを叩く音が暫く続いた後、数ミリずれた右手中指が、予定していたその隣のキーを叩いた。「あっ」と声が漏れるものの、緊急に停止させることが出来なかった左手がそのままスペースキーを押し、液晶画面に表示された変換ミスに彼は小さく舌打ちする。
 即座に手首を浮かせ、バックスペースを押して間違った部分を消し、改めて打ち込み直そうと構えたけれど、彼は数秒間動きを止めて、やがて胸の中に詰まっていた二酸化炭素を深々と吐き出した。
 視線を画面から手元へと落とし、その腕を持ち上げて頭上へ。左右の指を互いに絡め合わせて背筋を伸ばしながら椅子の背凭れごと後ろへ反らすと、同じ姿勢であり続けた分疲れを蓄積させていた各部位が、悲鳴を上げながら軋みをあげた。
「ん~~~」
 それを気持ちよさそうに受け止め、彼――ボンゴレ十代目に当たる沢田綱吉は、姿勢を戻しながら左手で己の眉間を指で挟み、数回揉み目の疲れを癒した。更に数回瞬きを繰り返し、最後の一回は瞼に力を込めて思いきり目を閉じ、もう一度深く息を吐いて肩から力を抜く。
 ぐったりと椅子に背中を預け、天井近くの中空を眺める。頭ごと首を傾けて向けた視線の先にあった時計は、間もなく日付が変わりそうな時間である事を綱吉に教えてくれた。
「もうこんな時間……」
 なかなか予定通りに進まない仕事と、追加に追加を重ねられる書類の確認作業とで、思いの外時間がかかってしまっている。いつもならもうシャワーも浴びて、一日の疲れを癒しながらゆっくりと自分の時間を楽しんでいる頃なのだが、今日ばかりはそうはいきそうにない。
 照明は必要最低限の明度まで落とされている為、室内はかなり薄暗い。窓の外は暗がりがどこまでも続き、闇の中に浮かぶ月と星が人工物に思えるくらいに輝きを放っている。静かに細波を刻む海は月明かりを受けて仄かに明るく、灯台が示す光が弧を描いて水面に余韻を残しながら消えては現れ、また消えていく。
 左肘を机について背面の窓から望む景色を一通り眺めた綱吉は、今度は胸の前で両手を交差させ、肩の筋肉の凝りをほぐしに掛かった。関節が段階的に音を響かせ、じんわりとした痺れが心地よく彼を包み込む。
 パソコンのバックライトばかりが明るい。最新式の静音タイプであっても綱吉のほか動くものもない室内では、ファンが回転する音はやけに大きく彼の耳に響いた。持ち運びに便利な小型のノートパソコンで、透明感のある黒のフォルムは綱吉も気に入っている。ロックを解除するのに三重のシステムが組み込まれており、使う度に逐一その作業を繰り返さなければならないのが少々骨であったが、綱吉の立場上それはもう、仕方の無いことだった。
 ネットワークには繋がっておらず、だから外部へ情報が流出する危険性は限定的で可能性は低い。仕事にしか使われないパソコンで、だからこそ少しくらい遊び心をと弄った結果、壁紙はまだ彼が日本に居た頃、中学生時代の集合写真に設定されていた。スクリーンセーバーは、矢張り最も楽しかったと思われる当時の、沢山のスナップ写真。
 ジジジ、という低い音を響かせた後、設定した時間を過ぎたパソコンが一瞬真っ黒に切り替わり、一枚ずつ写真が、入れ替わり立ち代り現れ始めた。どの写真に写っている綱吉も、仲間も、一部元から表情が乏しく仏頂面な人を除いては笑顔を振りまいている。
 楽しかった、あの頃は。
 無論今が楽しくないわけではないのだが、様々に束縛されている今と比べると、格段に当時は自由だった。街へ遊びに行くのも、海や山へ遊びに行くのも、誰かの許可を得る必要は無く、自分達で考え、行動できた。無邪気にはしゃぎまわって、多少の無茶もして、けれどいつだって笑いあったものだ。
 綱吉は椅子の上で居住まいを正し、肘掛に手を置いて、それから、左手の人差し指で次に現れた自分の写真を小突いた。恐らくキャンプに行った時にハル辺りが撮ったのだろう。焼き色の濃い焼きそばを口いっぱいに頬張っている姿が映し出されていた。
 獄寺、山本、小さなランボ、イーピン、京子、ハル……順々に現れる懐かしい顔、幼い友の姿。
 自分が設定したものだから、無論写真の出現する順番も綱吉は心得ている。更には繰り返し何度も見てきた画面だ、次に誰のスナップが出てくるのか、思い出すまでもなく覚えてしまっている。
 台所で食事の支度をしている奈々の後姿が現れて消え、ビール片手に夕食に舌鼓を打っている家光の姿と入れ替わる。そして次に出てくる写真は。
「っ」
 しかし綱吉は、一瞬息を詰まらせて奥歯を噛むと、持ち上げていた指で適当なキーを叩いた。途端、パッとバックライトに照らされた作業中の画面が現れ、スクリーンセーバーは掻き消える。
 唐突に眼前に突きつけられた眩さに目を閉じ、綱吉はそのまま再び椅子に全身の力を預けて頭を垂れた。前髪に指を差し入れて後ろへと流す、その仕草の途中で手も止めて片手で頭を抱え込む。俯いた視線は硬く閉ざされて闇だけが映し出され、苦悶に満ちた表情は何かを堪えているようでもある。
 綱吉はだが、中断させていた仕事に戻ろうと首を振り、顔を上げた。そのタイミングを計っていたかのように、静寂に包まれる空間にドアのノック音が響き渡る。
「はい?」
 こんな夜更けに、誰だろうか。
 現在作成中の資料は明後日の朝に提出すれば問題ないと聞いている。獄寺が受け取りに来るには速過ぎて、また逆に、別件で何か緊急事態が発生しているのであれば、城内自体がもっと浮き足立ってざわついているはず。ドアの向こうに立つ相手も、急く様子が感じられない。
「どうぞ、開いてる」
 綱吉の私室でもあるこの部屋を訪れることを許されている人間は、ごく僅かだ。指輪の守護者や、それ以外でも綱吉の側近中の側近しか侵入を許されない区画の最奥に位置するドアをノックする相手は、故に本当に限られていて、今更警戒心を抱く必要性は何処にも無い。綱吉は両肘を机に置き、絡ませた手の上に僅かな空間を作ってそこに顔の位置を設定すると、ノックをしたまま入ってこない相手に呼びかけた。
 応じて、ドアが静かに開かれる。最初に見えたのは来客者の顔ではなく、側面だった。
「……リボーン」
 僅かに綱吉が絶句する。現れたのは黒服に黒の帽子を上品に着こなす、綱吉のよく知る相手。彼は両手で不器用にこげ茶色の茶盆を抱え、ドアを左肩で押し開いたのだ。
「おっと。暗いな、此処は」
 廊下の方がまだ明るいと独り言を呟いて、彼は蹴り上げた踵で通り抜けたばかりのドアを閉める。やや乱暴な音が響いて、室内は再び闇に包まれた。それでも辛うじて足元だけは見えるくらいの明るさは残っているので、リボーンは部屋をぐるりと見回した後、そのまま綱吉の方へ真っ直ぐ歩み寄ってきた。
 彼の手が支える盆には、白い湯気を立てるカップがふたつ、ぶつかり合わない程度の距離を置いて並べられていた。
「まだ終わらないのか」
「ああ、うん」
 彼は綱吉が座る重厚な机の傍らで足を止めると、積み上げられた資料を肘で退かしそこに茶盆を置いた。湯気が彼の黒いスーツのお陰で一層白く立ち登って見える。ちらりとそちらに目を向けた後、綱吉は素早い動作で先程書き掛けて途中だった文章を打ち込んだ。
 リボーンが机に腰を落とし、上半身を捻って作業中の綱吉の手元を覗きこんでくる。集中力が途切れがちで、タイプミスがどうしても多くなってしまう綱吉は、その度に舌打ちして必要外のところまで消去してしまい、益々焦ってミスが増えていく。
 左手を机の何も無い空間に置いたリボーンが、右手を口元にやって小さく笑った。
「なんだよ」
「いや、相変わらずだな、と」
 膨れっ面で脇に在るリボーンを睨むと、彼は悪い、と言いながらも顔は笑ったまま、そんな事を口にする。相変わらず、というのは、何をやってもダメダメだった頃の綱吉を指しているのだろう。
 誰の所為だと思っているのか。憤懣やるかたない状態で、綱吉は間違えて消してしまった部分を打ち直し、リターンキーを指で弾いた。
 リボーンの手が机上のカップへと伸び、片方を取って去っていく。ふたつある、という事は、片方は自分のものであろうが、勝手に手を伸ばして良いものか判断がつかなくて綱吉は口をつける気分にもなれなかった。そもそも、こんな時間に彼が訪ねて来るなんて。
「今日は帰ってこないのかと思ってたけど」
 画面を見据えたまま、綱吉が呟く。コーヒーを啜っていたリボーンはその状態のまま動きを止め、瞳だけを動かし斜め下にいる彼を見た。しかしすぐにまた天井付近へと目線を飛ばし、飲み込んだコーヒーの苦さに眉根を寄せた。
 無機質な、キーボードを叩く音だけが響き渡る。
「帰って来ない方が良かったか」
「そうは言ってないだろ。ただ、ビアンキが、よく帰してくれたなって思っただけだよ」
 日本に居た頃から彼と恋仲だった女性は今でも彼にぞっこんであり、記念すべきリボーンのバースデーはローマにある高級ホテルのスイートを一年近く前から予約していたと聞いている。リボーンもその誘いを断らず、だからてっきり泊まってくるものだとばかり思っていた。
 やや語気を強めての発言に、リボーンは喉の奥でクッ、と笑う。
「なんだ、やきもちか?」
 瞬間、綱吉の手が僅かに痙攣を起こして止まった。押したままのキーが同じアルファベットを無数に画面に刻み込む。慌てて指を離した綱吉は、傍らで余裕ありありの顔をしているリボーンを睨みつけると、違う、と腹立たしげに呟いて今打ち込んでしまった部分をまとめて消去する。
 終わりの見えてこない作業に、溜息が零れた。
 実際のところ、リボーンの指摘は全く違っていなくて、綱吉が今日の仕事を失敗の繰り返しで終わらせようとしているもの全部、今日と言う日に傍に居ない相手をずっと思っていたからだ。
 今頃観光でどこそこへ出向いているのだろう、とか今頃はトレビの泉にコインを投げてオープンカフェで昼食だろうか、なんて考えて、無駄に時間を浪費してしまった。その都度首を振って考えを打ち消して、仕事に集中しようとするのだけれど、またすぐに楽しそうに腕を組んで歩いているふたりを想像して、自己嫌悪に陥って、堂々巡り。
 リボーンは何も言わない。明らかな動揺を示した綱吉の態度が、彼の台詞が図星だと教えたようなものだけれど、彼は黙ったまま再びコーヒーを口に運んで佇むだけ。
「冷めるぞ」
 左手で盆上からはみ出ぬまま押されたカップに目を移し、綱吉は諦めた顔で再度溜息をつくと、大人しく白無地のマグカップへと手を伸ばした。湯気の量は圧倒的に少なくなり、口で息を吹きかけずとも容易に飲み下せるまでに温度を下げたそれを唇に浸す。舌の上に滑り込んだそれは、甘い匂いと味を綱吉の中いっぱいに広げた。
 程よい温さが胸につっかえていたものを溶かしていく。
「……ココア」
「ずっと、部屋に篭りっきりだったらしいな」
 ぽつり水面を見詰めて呟いた綱吉の声に、リボーンの静かな問いかけが重なる。揺れるこげ茶色の液体をじっと見たまま、綱吉は曖昧に返事を濁した。舌の上で溶け損ねた粉がざらついている感じがする。
「だって、終わらないし」
「明日でも良いだろう」
「今日中に、終わらせたかった」
 明日は明日で予定がある。必要ないと言い張ったのに、お祭り好きの仲間が用意した綱吉の誕生日パーティーは、例年賑やかでむしろ騒々しく、何故そこまで身体を張るのかと主賓が首を傾げたくなるくらいに催し物も多彩だった。今年も恐らくは実施されるはずで、内容は極秘だといわれているものの、そろそろ無駄な予算は削らせるべきかと綱吉は本番前から頭が痛い。
 朝からどんちゃん騒ぎが展開されるのは目に見えていて、だから明日は恐らく仕事どころではない。今日中に終わらせられるものは終わらせてしまいたい、その心理は余計なことを考えたくないという今日という日の重さも手伝って、必要以上に綱吉の心を締め付けた。
 その結果が、これだ。
 正直、効率云々以前の問題だった。二日分の仕事のうち、一日分さえもまともに片付いていない。山積みの資料と書類へ視線を流した綱吉は、肩を落としたまま片手で髪を掻き毟った。
 指に絡みつく薄茶色の髪に、いっそ引き千切ってしまいたくなるくらいに苛立ちをぶつけていた綱吉だったが、咎めるように間に差し込まれたリボーンの手の体温に我に返り、彼を見ようとした寸前でまた顔を逸らす。真正面から彼を見返せない自分自身に対して嫌な気持ちを抱えながらも、どうしようもなくて彼は机の下で床を蹴った。
「ツナ」
 パソコンのスクリーンセーバーが起動しないように意味も無くカーソルを動かし、一緒に瞳も中空を漂わせている綱吉を、リボーンが淡々とした声で呼ぶ。舌の上のざらつきは治まらず、綱吉は何度も唾を飲み下しながら、やっとのことで「何」とだけ言葉を返した。
「ツナ、こっち、見ろ」
 話をする時は相手の目を見て、と教わらなかったか。そう茶化しながら、リボーンは綱吉に、顔を上げることを強要する。
「……」
 本当に、渋々という態度が現れていただろう。指はキーボードの上に添えたまま、綱吉は亀の動きで首を上向けた。
 リボーンの手が伸びる。綱吉の細い顎を撫で、動きを加速させる。
 存外に近い場所に、彼の顔はあった。吐息が鼻先を掠め、綱吉は瞬間的に彼の手を叩き落していた。
 あと数センチ、否、数ミリ。本当に誤差の範囲でしかない近さに、リボーンの唇があった。それを、椅子ごと後ろへ下がって逃げた綱吉は、右肩で全身を庇いながら彼との距離を広げようと足掻く。空回りする椅子と爪先、たった数秒にも満たない時間だったけれど、間近に感じた彼の呼気の熱さに綱吉は眩暈がする。
 十年近く、秘め続けた思いだ。そう簡単に消し去ることは出来ない。隠して、知られまいとして、気付かれていると分かっていても打ち明ける勇気さえなく、棺桶まで持っていくつもりでいた思いが。
 溢れ出て、それが却って悔しくて、涙が止まらない。
「なんで!」
 マグカップの向こう側、カチリと光を失ったパソコンのモニターに映し出される黒い背景と、次々現れて消える沢山のスナップ写真。刻まれた沢山の記憶、思い出、振り返りたくなる過去、置き去りにした無数の絆。
 本当に欲しかったのは、たったひとつだけ。
 リボーンの視線が僅かにそちらを向く。満面の笑みを浮かべる綱吉と、獄寺と、山本の三人の姿に笑みさえ浮かべ、彼は次に現れた写真の女性には皮肉な歯痒さを感じさせる表情を作った。獄寺の姉であり、彼の恋人の、美しい人。
「ビアンキとは、別れてきた」
 するりと彼の唇から零れ落ちた、そんなひとことに、綱吉は目を見張り息を呑み、思考回路が停止して頭の中が真っ白になった。
「今日はそのことを、あいつに伝えに行ったんだ」
「……なん、で……?」
 搾り出した声が喉の奥に突っかかって上手く舌が回らない。呆然と目を見張った綱吉の向こう側で、掻き消えるビアンキの写真を最後まで眺めたリボーンは小さく、肩を竦めた。
 意味が分からない。だってふたりは、ずっと、ずっと綱吉が見てきた限り、とても幸せそうだった。ビアンキはリボーンを心の底から愛していたし、リボーンも彼女の愛情を全身で受け止めていた。そこに入り込む余地は無いと最初から諦めてしまえるくらいに、彼らの関係は密なものだった。
 それを、今更、別れた? 何故? 
「ずっと考えてはいた。踏ん切りをつけておかないと、いけないと思っていた」
「冗談、悪い……」
「本当だ。そして本気だ、俺はいつだって」
「だったら尚更悪い冗談だ!」
 思わず声を張り上げ、綱吉は腕を振り一歩近づこうと踏み込んだリボーンを牽制する。
 ビアンキは大切な仲間だ。その彼女が幸せになれるのならば、自分の気持ちを押し殺してでも祝福できる自信が綱吉にはあった。その覚悟を持ってイタリアに渡ったのだ。永遠に振り返らぬ相手の背中を見詰めて、その苦しさに耐えられると、耐えてみせると誓った上での旅立ちだった。
 しかしこの男は、あろうことか目の前にいるこの男は、今何と言った。ビアンキを泣かせたばかりか、綱吉の悲壮な決意を踏みにじったのだ。
 今頃、今更。
 いったい、何の為に。
 リボーンが顔を上げる。真っ直ぐ、挑む目で綱吉を見据える。
「ツナ、俺はお前を選ぶ」
「――――!」
 思考どころではない、呼吸さえ止まって、綱吉は目尻から溢れる、最早何に起因しているのかも分からない涙を止められずにいた。
「ずっと、考えていた。そして選んだ答えだ」
 モニターの写真が、家光の背中を最後に一瞬だけ消えうせる。スクリーンセーバーは沈黙し、最初に巻き戻るかと思われた。しかし。
 ゆっくりと、闇の中から滲み出るように現れた映像、それは。
 十年間、ふたりが出会ってから今までを綴るように記憶された、リボーンの姿。
「見るな!」
 気付いた綱吉が大きく頭を振って悲鳴をあげる。しかし誰にも触れられぬまま、パソコンは無機質に、設定された通りの画像を展開させるのみ。
 眠っているリボーン、拳銃の手入れをしている姿、山本の肩に乗ってご満悦の表情、少しだけ成長した背中、そして今の彼。綱吉が追い続けて、追い求めて、けれど最後の最後で手を伸ばすのを躊躇し続けた男の姿が、無数に連なり、消えていく。
 綱吉の願い虚しく重なり合う己の過去を眺めたリボーンは、ややしてからゆるりと、再び腕を伸ばした。掌を広げ、差し出す。
「俺を選べ、ツナ」
 その声は甘く、心地よく、麻薬のように綱吉の心にしみこんで彼の感覚を奪っていく。冷静でいられないままに、涙ばかりが頬を伝い、綱吉は両手で頭を抱きこみながらそれでも、いやいやと首を横に振り続けた。
 彼のことは好きだ。大好きで、狂おしいくらいに好きでたまらない。
 だけれど、その手はつかめない。誰かを、ビアンキを、不幸せにしてまで、自分の幸福だけを突き詰めて考えられない。考えてはいけないのだ。彼女が笑っていて、リボーンがその隣に居て、一番近くにはいられなくてもふたりの傍にいる自分が、一番良いのだ。
 これまでずっとそうしてきたではないか、どうしてこれからもそのままでいられないのだろう。
 時計の針が午後十一時五十六分を刻み付ける。ゆっくりと、しかし確実に終わりに向かっている今日と言う日に、リボーンも、綱吉も複雑な思いを抱きながら相手の足元ばかりを見詰めていた。
 ゆっくりと、リボーンが首を横に振る。
「……どうしても、か?」
 それは嘗てないほどに、人間臭い、そして気弱な、力ない彼の声。
 傷つけた。反射的に顔を上げた綱吉の涙で滲んだ世界に、寂しげに微笑むリボーンの姿が映し出される。彼の、初めて見るそんな表情に、余計に涙が溢れてきて、綱吉は自分の考えが分からないままただ黙って首を縦に振った。
「ビアンキは、知っていたよ」
 リボーンが全てを語り終えた後、仕方のない男、と静かに、そして妖艶に微笑んで、彼女はシチリアまでの航空券を差し出したのだ。
 けれど、その真実がなんだと言おう。そんな風に言い訳をされたって、綱吉が苦しいだけだ。ここで彼を選ぶのは過去の自分が余計に惨めに感じられて、ここで拒絶すれば未来の自分が惨めだ。
 それでも、心は揺れ動く。ただ好きなだけなのに、感情に任せて走り出せないくらいに自分は、色々なものを背負って知りすぎた。
 時計の針が五十七分を刻む。
「ツナ、なら、せめて祝ってはくれないか」
 僅かに首を左に傾け、リボーンがどこまでも静かに穏やかに、切なる願いを口にする。下ろされた彼の指先を目で追いかけ、綱吉は漸く、最初に戻ったスクリーンセーバーをぼんやりと眺めていた。
「じき、終わってしまう」
 彼は呟き、机に片手を添えて天井を見上げた。その黒い瞳は何を映し出しているのだろう、何を思い浮かべているのだろう。彼が見詰める先に常に自分が在ればいい、そんな風に祈った時期は確かにあったのだ。
 十月十三日が終わり、十四日が来る。残りあと、二分もない。
 綱吉は返事をしない。リボーンは肩を竦め、机から手を離した。
「仕事の邪魔をした。早く寝ろよ」
 低い靴音を響かせ、彼が綱吉に背を向ける。息を呑んだ綱吉が、瞬きをして新しい涙を頬に落とし、喘いで唇を開閉させて瞼を伏せ奥歯を噛む。
 ふたつにひとつなんて、自分には選べない。皆が皆大好きで、大切で、愛おしい。
 けれど、もし、許されるのなら。いいや、違う。許して欲しいとは思わない、ただ自分が、自分に素直に、正直に、世界中の人々を敵に回したとしても、捕まえたい手に手を伸ばすのに、許しなんて必要ない。
 答えなんて最初から決まっている、ほかに選びようがない。
 君が、好きだ。
 この世でたったひとりの君が、好きだ。
「リボーン!」
 午後十一時五十九分。日付変更まで、あと三十秒。
 綱吉の両手が伸びる。声に振り返ったリボーンが足を止めて振り返る。その胸倉を、細く白い指が握り締める。驚いたリボーンが目を丸くして綱吉を凝視する。綱吉の肘が曲がり、力任せにリボーンを引き寄せる。リボーンの上半身が傾いで綱吉の側へと動く。綱吉の右足が踏み込まれて近づく。
 あと二十一秒。標準をあわせている余裕なんて、どこにもなかった。
「――――っ!」
 ガチン、という衝撃が前歯から歯茎に伝わって、リボーンは目を剥いた。
 それでも、確かに触れ合った唇の柔らかさが次の瞬間にはいっぱいに伝わって、僅かに残る甘いココアの匂いが鼻先を掠めて抜けていった。
 あと十三秒。リボーンの手が持ち上がり、綱吉の肩を抱く。胸倉を掴む手を緩めかけていた綱吉は追加された温もりに緊張したようで、指に力が戻り逆に今度は彼の首を締め付けた。
 間近で見詰め合った先、リボーンの瞳が楽しげに笑う。舌を伸ばして綱吉の唇を舐めると、サッと彼は離れて行ってしまった。
 あと、七秒。
「これで、文句ないだろ!」
 赤い顔のまま、綱吉が怒鳴る。ぶつけ合った前歯が痛いだろうに、それよりももっと心臓が落ち着かなくて気付いていないのだろうか。笑うリボーンを不満げに睨みつける彼を更に笑って、リボーンは濡れた唇を赤い舌で舐めた。
「へったくそ」
「五月蝿いな!」
 あと、三秒。
「しょうがねーな」
 教えてやるよ、と囁くリボーンの声。憤然としたままの綱吉の顎を彼の指が撫で、自ら半歩近づいて顔を寄せる。
「目くらい、閉じろ、馬鹿」
「馬鹿って言うな」
 不満そうに言い返しながらも、大人しく従って綱吉は目を閉じる。鼻先に感じる他者の気配に僅かな緊張は隠せなかったが、二度目に触れた唇は、溶けてしまいそうなくらいに温かく、優しくて。
「Buon Compleanno!」
 耳元で囁いた彼の向こう側で、午前零時の鐘が鳴る。
 明滅するパソコンモニター上では、幼いリボーンを抱きしめて笑う綱吉の姿が画面いっぱいに広がっていた。