茜色(Animali carnivoli)
中学に入学する、少し前だったと思う。偶然の産物で、一度だけ綱吉は彼を見たことがあった。
当時の記憶は実に曖昧模糊としており、果たして本当に綱吉が見た人物が彼であるのかは、確証を持ちがたいのだけれど、部分的ながらあまりにも鮮烈な記憶として脳裏に焼き付けられた光景は、未だ夕闇迫る空の色と相俟って綱吉の根深い部分にどっかりと腰を下ろしていた。
綱吉の住む町には幾つかの地区があり、また近隣の町とも複雑に交じり合って、学区内にはみっつの小学校があったものの、中学校はひとつきりだった。私立の中学を受験する生徒ならば話は別なのだが、そんな知恵もない綱吉は義務教育というシステムの上に胡坐をかく格好で、公立の中学校への進学を決めた。記念受験、なんていうものも一切、頭の中には無かった。
塾へ行ったり、家庭教師を雇ったりと勉学に勤しむ同級生を遠巻きに眺め、自分には到底真似できるものではない、と早々に諦めたのもある。母親が今時の教育ママでもなく、好きにしたら良いという放任主義だったのもある。父親は怒りもせず、また呆れもしない人だった。他人に優しくあればいいと、そういいながら大きな手で頭を撫でてくれたのを覚えている。
彼のことを思い出すと同時に、そんな記憶も一緒に道連れに蘇ってくるのだから、季節は冬を迎える頃か、終わりに近い時期だったのだろう。綱吉はオフホワイトのダッフルコートを着て家路に急いでいた。ランドセルは背負っていないから、母親に言いつけられた買い物の帰りだった可能性が高い。コートは当時の綱吉のお気に入りで、どうしてもこれが欲しいと一緒に買いに行った母親相手にかなりごねた。彼がそこまで自己主張するのも珍しいので、母親はふたつ返事で、予算オーバーになるのも構わずにコートを買ってくれた。
お陰で買い物に行った日の夕食は、デパートで惣菜を買う予算も乏しく、自宅で寂しく冷凍食品の出来合いだった。
どういう事情か細かいことは忘れたが、この日の綱吉はとても上機嫌で、買い物袋にしていた小さなリュックを上下に揺らしながら道を急いでいた。擦れ違う人も段々と少なくなる町中の裏道、細く心細い通り。街灯は並ぶものの間隔は広く、電灯が切れてしまっているものもある。そろそろ点灯を開始する時間だというのに、チカチカと明滅を繰り返している蜘蛛の巣が張られた骸骨のような街灯。
十字路の手前で一度足を止め、上半身を前に突き出して左右を確認する。更に頭上の電信柱に据え付けられた、オレンジのミラーを見て接近する車が無いのを用心深く確認して、綱吉は信号の無い道を渡った。
直後、エンジン音を唸らせて銀色の乗用車が駆け抜けて行く。明らかに規定速度をオーバーし、一旦停止のマークも無視しての乱暴な運転。巻き起こった煙臭い風に肩を竦めて息を止めた綱吉は、跳ね上がった髪の毛を片手で抑えながら背後を振り返った。
余韻を残すエンジン音が聞こえなくなる頃に、やっと我に返った綱吉は腕を下ろして汚れてもいないのにコートの裾を両手で払った。そして何気なく顔を上げ、周囲を見回す。
頻度は少ないけれど、通い慣れた道だ。両側に並ぶブロック塀と、その向こう側に並ぶ住宅には、何人か、同じ学校に通う生徒も住んでいる。今は時間帯的に夕食の準備中だから、換気扇を通っておいしそうな匂いがそこかしこから漂ってきている。鼻をヒクつかせた綱吉の腹がぐぅ、と一度だけ小さく鳴った。
帰らなければ。
見上げた空は東から徐々に闇が迫りつつある。地平線に片足を突っ込んでいる太陽と、それに照らされた西の空が鮮やかな朱色に染まり、棚引く雲がところどころに紛れ込んで色合いにアクセントを添えている。だが、それもじきに藍色に変わり、天頂の色は紫紺に包まれるだろう。
綱吉は顎を引いて真っ直ぐに前を見た。僅かな上り坂になっているその道は、中腹にある公園を横切れば自宅へのショートカットコースだった。
昼間は子供連れの母親が井戸端会議に花を咲かせる空間であるけれど、日が暮れるころからは人の姿も見られなくなり、更には照明も殆どない為薄暗い。最近はガラの悪い連中が深夜遅くまでたむろして騒ぎを起こしているとかで、出来るだけひとりでは近づかないようにという通達が、学校からも出されていた。
しかし道を急ぐ綱吉は、そのことをすっかり忘れていた。大丈夫、通り過ぎるだけだから。そんな安易な考えも若干あったかもしれない。根拠の無い自信が、綱吉の背中を押す。
けれど、綱吉の甘い考えはいとも容易く打ち砕かれた。
明るくも薄暗く、薄暗いけれど足元まではっきりと目で見て取れる、夕暮れの僅かな時間帯。常緑樹の垣根を抜けて公園の入り口に差し掛かったところで、綱吉は内部で繰り広げられている惨劇に息を呑み、足を止めた。
白いコートの裾が大きく揺れる。吐き出す息が妙に白く濁って見えた。
「ぐあぁ!」
「ひぎゃ!!」
未だ嘗てテレビや映画館くらいでしか聞いた事のない、人が発するにはあまりにも聞き苦しい声が複数、立て続けに綱吉の耳に届けられる。ゼロコンマ数秒の間をおいて、重いものが崩れ落ちる音。
夕日を受けて眩く、それでいて物悲しく照らされた公園が目の前に広がっている。最近は遊具の一部も危険だからと使用を禁じられていて、立ち入り禁止のロープが一画に伸びていた。幼い頃に遊んだ遊具も、今は指切断の可能性があるからと一律に使ってはいけないという通達が出されてしまい、思い出の中に沈んでいる。緑色に塗られたペンキが剥げ、無残な鉄のフレームを晒しているその手前に、小さな人垣が出来ていた。
どこかの中学か、高校か。だらしなく着崩されたブレザーと、今にもずり落ちそうなくらいになっているスラックス。それがおしゃれだと勘違いしている彼らのうち数人が地面に伏し、身悶えて小刻みに身体の一部を震わせている。
喧嘩?
綱吉は硬直したまま動けず、両手を胸の前に結んで右肩を僅かに引く。こんな状況に出くわすとは思ってもいなくて、咄嗟に進むか戻るかの選択が出来ない。その上興味本気からか視線は公園の片隅で展開されている喧騒を見据えて動かず、だから余計にこの場を立ち去る選択肢を選び取れない。
綱吉が逡巡しているうちに、またひとり、みっともない悲鳴を上げて身体を宙に浮かせた。後頭部から落ちた青年とも呼べない中途半端な年代の少年は、蛙が踏み潰されたみたいに呻いて、首を珍妙な角度に曲げてそのまま動かなくなった。まさか、死んではいないだろうか。嫌な予感が背中をゾッと駆け抜けて行く。
どうしよう、止めるべきか。しかし、どうやって。
自分は非力である。それは痛いくらいに分かっている。仲裁に飛び込んだところで、巻き込まれて自分が大怪我をするだけに終わるに決まっている。だったら逃げるか。見て見ぬ振りをしてこの場所に背を向けるのか。
そうすればいいのか。分からなくて綱吉はおろおろしたまま、左右に視線を巡らせる。だが元から人通りの無い道に新たな人影は生まれてこない。右往左往する間にもまた悲鳴が響き、先程とは違う鈍い音が微かに響いた。
綱吉の心臓が大きく跳ね上がる。
「う……あぁぁぁ!」
誰か、が叫んだ。顔を上げた綱吉の目に、彼の方に向かって一目散に駆け出すブレザー姿の少年が映し出された。
情けないくらいに顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、恐怖に怯えきった顔は尋常ではない。両手を我武者羅に掻き回して、しかし追いつかない脚がもつれて彼は数メートルも行かないうちに自分から勝手に転んだ。
ぐしゃ、と痛そうな音が綱吉の前に落ちてきて、反射的に肩を丸めて小さくなる。一瞬だけ閉じた片眼を開いて前を向くと、少年が飛び出して来た方向からゆっくりと歩み寄る人物が居た。
両手にそれぞれ、見慣れない武器を握っている。鉄の棒を繋いだ風に見える武器だ。それがトンファーというものだと綱吉が知るのは、もっと先の事。
黒髪を夕方の冷たい風に揺らし、背筋をピンと伸ばしながら威風堂々と近づいてくる人物。転んだ少年が起きあがって、背後を振り返り「ひっ」と上擦った声を出した。尻をついたまま手で地面を掻き、どうにか後退しようとするものの、普通に歩いてくる彼との速度は歴然としている。
綱吉は声を失ったまま、事の成り行きを見守る。
黒髪の青年――少年は、綱吉の知らない制服姿だった。この地域では見かけない詰め襟の学生服を羽織り、黒のスラックス姿。学生服の袖には腕章が留められていて、かろうじて『風紀』と読み取れた。返り血なのか本人の血なのか、赤色を白い肌のあちこちに飛ばし、白の開襟シャツにも血のシミが散っていた。
不遜に笑む姿、唇を舐める赤い舌。
目があった。
ゾッと、綱吉の背筋に悪寒が駆け抜ける。瞬間的に膝が抜けそうになって、その場に崩れてしまいそうだった。心臓の拍動が止まった錯覚に、冷や汗が全身の汗腺から一斉に吹き出した。喉が渇き、生きている心地がしない。
野生の獣の瞳だった。サバンナを駆けめぐる百獣の王、例えるならばそう、肉食獣のそれ。
膝が震えている。動く事も出来ず、綱吉は奥歯ががちがちと痛いくらいにぶつかり合うのを堪えなければならなかった。
だが彼は綱吉にはほとんど興味がなかったようで、一瞥を加えただけで即座に目線を逸らした。彼が見据える先には先ほど派手に転がった少年がいる。じりじりと詰まる距離に怯えを隠さず、泣きじゃくる声は綱吉にも聞こえた。
「た、たすけてぇ!」
命乞いをする人も、初めて目にした。彼は横に転げるようにして身体を反転させると、四つんばいに近い状態から膝立ち、そして二足歩行へと進化しながら走り出した。一路、綱吉の立つ公園の入り口に向けて。
背後に迫るのは黒髪の、獣の目をした少年。元から細い目が更に細められ、状況を楽しんでいるように見えた。更にその向こう側には、彼が打ち倒した大勢の中学生の背中。ゲームで見た事のある、折り重なり、山積みにされた死骸の画像が重なり合った。
綱吉は背景となっているそちらに意識が向いていた。だから、接近しつつある少年の、必死なまでの姿に反応が遅れた。
「どけぇ!」
怒号が轟き、綱吉はハッと我に返る。瞳だけを動かして、それから首を回して少年に視線を移す。もうすぐそこまで来ていた彼は、逃げるのに道を塞いでいる綱吉が邪魔な障害物として映っていたらしい。振り上げられた右の拳は堅く握られ、それだけで十分な凶器と化す。
「え?」
どこまでも反応は、鈍い。自分が殴られようとしているのだと、左のこめかみに激しい衝撃を受けた時にやっと、彼は理解した。
勢いをつけて斜め上から振り回された少年の拳は、避ける事も、構える事もしなかった綱吉の左耳上を直撃した。小柄で体重も平均値以下の綱吉は簡単に真横に弾き飛ばされた。白いコートが影を残し、風を含んで大きく膨らんで揺れた。
そこがまだ、固められているものの、土の公園だったから、良かったのか。綱吉の身体は土埃をまき散らしながら、右肩から地を滑る。地面に接触した右耳が擦られ、摩擦熱から熱い上に引きずられて千切れそうな痛みを発する。分厚いコートを羽織っているからか、露出している箇所以外に大きな痛みはなかった。しかし殴られた衝撃、殴られたという事実に対する衝撃に綱吉は混乱し、脳髄が揺れたこともあって意識が混濁し、一瞬だけ途切れた。
「ぐがぁ!」
遠くから男の悲鳴が聞こえた。
「う……」
綱吉はじくじくと響く痛みを堪え、両手を顔の前に置いて肘に力を込める。息を吸って止め、吐き出す勢いに乗せて上半身を強引に起こす。茶色に汚れたコートの袖が、涙で滲んだ視界に真っ先に映し出されて、それだけで更に泣きたくなった。
膝を寄せて横に広げ、座る。ぺたんと落とした腰に土は冷たい。コートだけでなくズボンも、そして顔や髪の毛にまで土がこびりついていた。それらを、傷に触らぬように慎重に払い落とすけれど、毛足の間に潜り込んだ細かな粒子までは落としきれず、どうやっても真っ白には戻らない。
「うぅ……」
いいつけを守ってさっさと家に帰れば良かった、近道なんてしようと考えるんじゃなかった。今更後悔しても遅いのに、涙が止まらない。
右の耳も痛い。頬も擦り切れて赤く腫れ上がっているのだが、鏡もないので自分の顔がどうなっているのかも分からない。ただ肌から肉、神経に響く痛みは気弱な彼に涙を引き寄せるばかり。ぐずった鼻をすすり上げ、丸めた手の甲で涙を拭いた。
奈々にどう言い訳をしよう。いや、それよりも。
もっと大きな何かを、忘れてはいないだろうか?
「…………」
じゃり、と砂を踏む音。綱吉はハッと手をそのまま置き去りに顔を上げた。振り返る。ゆっくりと。
丸い形のほとんどが地平線の下に沈み、名残を残す西の空が朱と紺の混ざり合う穏やかながら不気味な色を醸し出している。公園の中央に設置された唯一の光源となる照明が、チカリと輝き広い公園全体としては物足りなく、あまりにも心細い明かりを放っていた。
薄く長い影が綱吉の足下に伸びている。真っ先に地に走るその細長い線に目が向いて、そこから綱吉は目線を揺らし影の主へと目を向ける。
息を呑み言葉を失うほどに、凶悪で凶暴で、しかし気高く誇り高く、絶壁の上から世界を見下ろすのに相応しい姿。血に濡れた頬、腕、それらを隠そうともせず今まさに息絶える寸前の敗者の息の根を止めようとしている、肉食獣の瞳。
哀れみも情けも一切関係なく、ただ強いものが弱いものを駆逐する世界。綱吉の知らない世界。僅かにかいま見たその世界は、綱吉に恐怖しか与えない。彼は先ほどまでの少年と同じ動きで、前を見たまま後ろに下がった。
だが。
「あっ」
最初から自分に敵対心を抱かない相手には興味がないのか、戦い終えてひとりになった黒髪の青年はくるりと綱吉から視線を外し、背中を向けた。その時の瞳には、何の感情も読み取れない。しかし綱吉は背を見せられた瞬間、短い声を上げて大あわてで自分のポケットをまさぐり出した。
「ま、待って!」
右のポケットに手を入れて、それからすぐに左のポケットへ。しゃがみ込んでいる所為で奥にまで指がなかなか届かず、気ばかりが焦ってうまくいかない。その間も遠離る背中に、綱吉は声を飛ばす事で立ち止まらせた。
両手に武器を構えたままの青年が、ゆっくりと振り返る。
生気がどことなく遠い、ぼんやりとした表情。先ほどまで感じさせた獣の迫力は形を潜め、それが逆に静かすぎて不気味だった。
「…………?」
「あった!」
確か家を出る前に奈々に持たされた筈、と再度右のポケットを探って、やっとの事見つけ出したもの。指になじむ布は、折り目正しくアイロンが当てられて綺麗な四角形を形成していたのだろうけれど、ポケットに入れられていたおかげで角が折れ曲がり、だいぶ形が崩れてしまっていた。
綱吉はそれを引っ張り出し、握りしめると立ち上がった。土も払わず、身体半分だけを振り返らせている青年に駆けだした。
「あ、あの。これ、使って……血が」
自分だって怪我をしているくせに、綱吉はそんな事を言って全く使っていないハンカチを青年に差し出した。
青年の目が綱吉の顔と、それから差し伸べられている手のひらのハンカチを交互に見る。
彼からは、血の臭いがした。自分が怪我をして血を流す事はしょっちゅうある綱吉だけれど、こんなにも他人の傷に近い場所にいるのは初めてだった。綱吉は傷の痛みを知っている、だから目の前に傷を負っている人がいたら、その痛みを想像してしまう。
取り除いてあげたい、痛みを和らげてあげたい。それは綱吉が常々周囲に期待して、望んでいる事。そして常に裏切られ続けている願い。
けれど、それがなんだっていうのだろう。目の前で血を流している人がいて、自分が他人に優しくされないからって放っておけるほど綱吉は冷徹になれない。例え相手が、手追いの獣だったとしても。
喧嘩の理由は綱吉には分からない。けれど大勢でひとりを取り囲むという状況は、卑怯だという思いしか呼び起こさない。それを易々と打ち破り、相手をねじ伏せる彼の強さに、少なからず羨望の気持ちはあったようにも思う。彼の強さに近づいて、知りたいとも思った。
手は、払い除けられた。
「え……あのっ」
パシン、と軽い音を立てて綱吉の手が横に払われる。叩かれ、拒絶されたのだと即座には理解出来ず、綱吉は自分の腕が与えられた力によって逸れていくのを目で追いかけ、それから青年を見上げ直す。
冷たい、水底よりももっと深く暗い瞳。
恐怖は、なかった。ただ静かすぎる瞳の色が、やけに悲しくて。切なくて。
それだけで、泣きたくなった。
「でも、血がいっぱい、出てるのに」
「要らない」
初めて青年が口を開いた。
「だけどっ」
「必要ない。それとも、咬み殺されたいの?」
青年が段々と苛立っていくのが空気を通して伝わってくる。皮膚が泡立ち、背中がむず痒い。喉が渇いてやたらとさっきから唾を飲み込む回数が増えている。剣呑な輝きを取り戻した青年の目つきに、身体が怯えて腰が引けた。
それでも綱吉は挫けない。なおもしつこく食い下がり、青年に向けてハンカチを、最早強引に口元に押しつけようと腕を伸ばした。そこが一番、殴られたのか切れて血が出て、痛々しそうに見えたから。
青年もまた綱吉を拒絶する。払っても押し退けても、繰り返し向かってくる小さな手に舌打ちし、彼は獣の目で小柄な子供を睨み付けた。が、綱吉は。
奥歯を噛んで恐怖を飲み込み、意地になって青年を睨み返した。どういう理由があろうと、綱吉にとって青年は怪我人である事に変わりない。傷は手当てされなければならない。綱吉の頭の中では、善意は拒否されるものではないのだ。
その視線を、彼はどう受け止めたのだろう。腹立たしげに眉根を寄せて深く皺を刻ませた彼が、口角を持ち上げて表情を歪ませた。綱吉は構わず、再度腕を伸ばして彼の傷に触れようとする。
腕を、今度は。
囚われた。
「っ?」
たたき落とすのではなく、手首を捕まれる。そのまま前に――つまりは青年が掴んだ綱吉の腕を肩越しに後ろへと引っ張った――身体が傾いて、左足の爪先が宙に浮いた。右足も土踏まずよりも前の部分しか地面に接していない。伸ばされた膝、抵抗する暇もない。
驚きに見開く目の前に、漆黒の闇が迫る。至近距離で重なった視線、逸らすのも瞼を閉ざす事も出来ぬまま、綱吉は闇に映る自分の姿を見ていた。
痛み、が。
「――――!」
噛まれた。否、咬まれた。
唇の端に強い、鋭い一瞬の痛み。首を逸らして頭を引く、肩が丸まって身体全体が縮こまった。
捕まれていた腕から力が抜けていく。自分から、ほぼ無意識に彼の手を弾き飛ばしていた。乾いた音がいやに大きく日の暮れた公園に響き、綱吉はその音に驚いて大きく目を見開き、立ち尽くす。
不敵に笑う黒髪が、綱吉の視界で揺れている。赤い牙、赤い舌、赤い唇。目が離せない。だのに青年は、ふん、と一度鼻で息を吐くともう綱吉を見ずに踵を返し、歩き出した。立ち止まることも、振り返ることもない。最早綱吉に一切の興味も関心も抱かない、明らかなる拒絶。
呆然と見送る他、ない。綱吉は訳も分からぬまま、震える手の甲で赤くなった口元を隠すと、ハンカチを握り締め直して駆けだした。青年が去ったのとは逆の、自分が最初に立っていた公園の入り口へと。
「う……っ」
理由なんか分からない。ドラマや映画でやっているのとは、全然違った。今のがそうだ、とは限らないけれど、少なくとも。
生まれて初めて感じた他人の体温。寒気とかそんなものは、一切なかった。逆に暖かみも感じなかった。
ただ、痛い。噛み切られた部分から発せられる痛みなのか、それとももっと別の、胸の奥底にある何かが痛むのか、それすらも分からなくて。
無性に悲しくて悔しくて、綱吉は走りながら声をあげて泣いた。