退廃

 その屋敷は、綱吉が生まれるよりずっと前からそこに建っていた。
 そして綱吉が生まれる頃には、もう誰も住んでいなかった。
 綱吉が小学生低学年の頃には立派な外観を覆い隠すように庭木が茂り、蔦が屋根と壁にはまるで緑色をした血管が這い回っているようにびっしりと絡みついていた。人の手が加えられないお屋敷は、見た目が立派な分一層不気味さが増して、近隣の小学校や中学校では、格好の肝試し会場にされてしまっていた。
 噂話も沢山あった。
 何故そこにお屋敷が建てられたのか。誰が住んでいて、何故放棄されたのか。どうして取り壊されずに荒れるままになっているのか。
 年老いた資産家が人生の最期を迎える場所として建てたものの、相続権争いに巻き込まれて屋敷で殺されたのだとか。その資産家が死ぬ間際に呪いをかけ、遺産を狙う連中を取り殺したのだとか。または遺産を巡り騒動が発生し、殺人事件までもが起きてしまったのだとか。
 どれも噂の域を出ない根拠のない妄言ではあるが、そこに最初年老いた男性がひとりで住んでいたのだけは、どうやら間違いないらしい。彼は広大な土地を所有していたそうで、それが絡んで何らかのトラブルがあったというのも本当なんだとか。ただ、屋敷内部で人が死んだり、殺されたりとかいう話はまったくのデマ、というのがここ数年の並盛町での一般常識。
 ただし好奇心旺盛な小学生なんかは、自分達で噂の真相を確かめるのだとか言いながら、探検家気取りで立ち入りが禁止されている屋敷内部へ潜り込むのは日常茶飯事だった。屋敷を取り囲む高い柵には、代々受け継がれてきた秘密の隠し通路があって、身体の小さい小学生ならばひとり通り抜けられた。嫌な伝統と言うものは後々まで残るもので、通過儀礼のようにある年代になると年上の生徒から、度胸試しだと言って屋敷を訪れるように言い渡されたりもする。
 綱吉も御多分に洩れず小学校三、四年生の頃であったか。当時から既にダメダメぶりを発揮していた彼を虐めるつもりもあったのだろう、数人が彼を取り囲み、無理やりにその屋敷の隠し通路前までつれて行かされた。
 後は、ご想像通り。
 たった一人、暗闇の中に放り出された綱吉は、図らずも泣き叫びその場から動けず、また時間を過ぎても戻らない彼を心配した両親が学校に連絡を入れ、ひと悶着。捜索願まで出されて警察が出動する騒ぎとなり、怖くなった子供達が白状して、綱吉は無事に保護されたといういわれがある。
 以後は立ち入り禁止も強化されて、噂は闇の中に消えていったのだけれど。
「そんな事があったのですか」
 何故数年も前の、綱吉自身あまり思い出したくない記憶を掘り返したのかといえば、修行の場への往復途中にある古ぼけた廃屋に、バジルが興味を持ったからだ。立派な門構え、アーチを形成する正面玄関に誰かが住んでいた頃は見事に咲き乱れていただろうバラ園。日本の平屋建ての建築や、特徴に乏しい建売住宅が立ち並ぶ一画にあって異様さを醸し出している屋敷は、どうやらバジルになじみがある西欧建築を模しているものらしい。
 珍しい、と立ち止まって呟いた彼の横で、同じく夕暮れに染まる緑の屋敷を見上げた綱吉は、つい苦々しい表情をしてしまった。そのまま気にせずに歩きすぎていたならばバジルも深く知ろうとしなかっただろうに、ついつい根が正直な部分が表に出てしまった綱吉は、嫌々ながらも屋敷にまつわる自分が知っている情報を彼へと提供した。
「そう。……まだあったんだ」
 バジルの素直なまでの感想に頷き、最後は独白になった綱吉は改めて目の前に聳える屋敷を見上げる。
 幼い記憶に残っている屋敷より、少し小さくなっているように感じる。それは自分が大きくなっているからであるが、今こうしていても胸の奥底から湧き上がってくるのは微かな不安だ。
 ただひとり、一歩進めば奈落の底が待っていると錯覚できる闇に取り残され、出口も塞がれ、孤独に震える。前にも後ろにも行けず、不安と恐怖とが入り混じった感情に心が圧迫され、涙が止まらなかった。恥ずかしながら失禁も経験し、それが余計に綱吉に苦々しい記憶として刻み込まれている。
 だから父親が探しに来てくれた時は本当に嬉しくて、彼がこの上なく頼もしく思えた。あの事件のちょっと後に彼の行方が知れなくなりさえしなければ、綱吉はもっと違う風に育っていたかもしれない。
 それをバジルに言ったところで、どうしようもないのだけれど。
 綱吉はあれ以後、この屋敷どころか地区にも足を踏み入れることはなかった。だから屋敷が現在も維持されているのか、取り壊されたのかなんていうのは興味の無い話だった。こうやって改めて、数年のときを隔てて対峙するとも思っていなくて、妙に感慨深いような、複雑な気持ちにさせられる。
 幾らか小さく見えるとはいえ、それは感覚的なものでしかなく、屋敷は以前と変わらずそこに聳えている。綱吉の家が丸々三軒は入ってしまえそうな敷地に、どんと構えた立派な門柱にも蔦がびっしりと絡み付いて、関西にある某野球場の外観を匂わせていた。
「もったいないですね、こんなに立派な邸宅を」
 まじまじと視線を巡らせて観察してバジルが呟く。手入れがされていないとはいえ、立派な外観は少しも損ねられていない。不法投棄のゴミが散見しているものの、庭を荒らす下草を取り払い、外見を整えればすぐにでもまた住めそうな印象を抱かせる。
 だが綱吉の記憶が大袈裟に脚色されていなければ、内部は外からだとわからないけれど、床の腐敗が進み、壁も一部が崩れてしまっている。窓は板が打ち付けられているが、硝子は全部割れていたように思う。そのギャップがあったからこそ、噂に聞かされた殺人事件が現実味を帯びて感じられ、尚更綱吉は強い恐怖を抱いたのだ。
「秘密の通路というのは、何処にあるんですか?」
「えっと、あっち……だったかな」
 けれどバジルの問いかけがあまりに自然すぎて、綱吉はついつい当たり前のように記憶にある方角を指差してしまった。あ、と思った頃にはもうバジルはそちらへ歩き出していて、慌てて背中を追いかける。
 屋敷の正面から離れ、角を曲がり裏手に向かう途中に、子供時代の思い出そのままの光景があった。誰かが自動車でぶつけたのだろうか、頑丈そうな柵が大きく拉げている場所があり、斜め上に向かって押し上げられている為に下部分が土から外れ、浮き上がってしまっていた。そこが、人為的なのか内側に捻じ込まれている。身体を腹這いにすれば人ひとり、なるほど、確かに通れそうではある。
 バジルも見た瞬間に理解したようで、綱吉が止めようと手を伸ばすのをすり抜け、柵の根元で膝を折った。
「バジル君?」
「すみません、ちょっとだけ」
 彼にしては珍しく、綱吉に舌を出して笑って、素早い身のこなしであっという間に柵の内側へと潜り込んでしまった。小さいと思われた隙間だったけれど、長い歳月を風雨に晒されたのか、それとも誰かが意図的に広げたのか、細身のバジルを遮ることは出来なかった。
 まるで鉄格子に阻まれている気分で、向こう側に立つバジルを綱吉は複雑な気持ちで見詰める。彼は服に着いた砂と草を手で払い落とし、長い髪に見え隠れする瞳をせわしなく動かして妙に楽しそうだ。
「バジル君」
「すみません、本当にちょっとだけですから」
 困惑を隠せない綱吉の声に、はにかんだ笑みを浮かべてバジルは屋敷の方を指差す。どうして彼がそこまで、あの古い洋館に固執するのかが分からなくて、綱吉は思いきり表情に不満の色を表した。けれどそれですら彼を止めるのに効果なく、バジルは唐突に踵を返し日暮れにぼんやりと浮かび上がる屋敷に向かって歩き出した。
 生い茂る立ち木が、彼の背中を少しずつ隠してしまう。
「あ、待って!」
 本当は、出来るならば、もう二度と足を踏み入れることが無ければ良いと思っていた。けれどバジルはそもそもこの町に不慣れで、綱吉がいなければ家まで帰り着けない。リボーンは用事があるとかで勝手に何処かへ行ってしまっていて、だからもしここで綱吉が待っていなければ、バジルは道に迷ってしまうことになる。
 周囲は大きな住宅が多く、交通量は少ない。人気はまばらでとても静か。電信柱の頂上に止まっていたカラスが、黒い翼を広げて甲高い声を掻き鳴らした。
「ひっ」
 元からこの場所に恐怖心を抱いている綱吉だから、それくらいの音でさえ身体が震え、身が縮こまる。両手を胸の前で交差させて肩を持ち、警戒する瞳で周囲を見回してから再度柵の内側へ。バジルは気付く気配も無く、落ち着いた足取りで綱吉から離れていく。
 間近で羽ばたく音が聞こえた。風の唸りが綱吉の項を撫で、なんとも言い表しようのない悪寒が彼の全身を駆け巡る。遠ざかるカラスの鳴き声に奥歯がカチカチと不揃いにかみ合わさり、乾いた舌を潤そうと飲み込んだ唾は生温い。
「待って」
 明らかにトラウマになっている過去を払拭出来ず、綱吉は縋るようにバジルの背を見詰めた。だが気付かない少年の背中は遠ざかるばかりで、綱吉はたたらを踏んだ。吐き出す息さえも震えていて、この場にひとり取り残される恐怖と、二度と立ち入りたくない場所に近づくという恐怖とで板挟み。バジルを置いて逃げ帰る、という選択肢は最初から頭に無い綱吉は、耳鳴りに似た高音に奥歯を噛み締めると、目を閉じて視界を閉ざす。そしてどうにか手探りでバジルが通り抜けたばかりの隙間に身体を捻じ込ませ、息を吐ききる前に敷地内へと滑り込んだ。
 緑の草の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
「待って、バジル!」
 咄嗟に呼び捨てにしてしまったが、今更敬称をつけて呼び直す気も起こらない。ズボンの裾に絡まった青草を取り除くのさえ億劫で、綱吉は即座に片手をついて起き上がると、前を行く背中に向かって叫ぶ。そして伸ばしていた膝を引き寄せて曲げる反動を利用し、一気に立ち上がって駆け出した。
「沢田殿?」
 恐らく人生でも最高速度を誇れるスピードが出ていたに違いない。瞬間的にバジルの驚いた顔が目の前に来ていて、ぶつかるとブレーキをかけるけれど間に合わない。綱吉は彼の胸に頭から突進してしまって、バジルは片足を半歩引いて衝撃を後方へと受け流した。両肩に手が添えられ、首筋に息が降りかかる。
「どうしたのですか?」
 当時の綱吉の恐怖など、想像することが出来ても体感するのは不可能。はっきりとふたりの間にある温度差、バジルは震えている綱吉に戸惑いを隠せない。
「ね、……もう遅いし、今日は帰ろう?」
 太陽はもう地平線に半分近く顔を沈め、ふたりの足元に伸びる影は長く薄い。天頂にはまだ明るさが残るものの、東からは濃紺の闇が押し迫る。雲の隙間から覗く夕焼けはどこかぼんやりとしていて、カラスの鳴き声は遠くから今も断続的に耳に届く。人の気配は一層弱まり、広い空間に閉じ込められている、そんな錯覚が綱吉を捕らえて離さない。
 震える声で辛うじて提案を試みても、バジルは首を傾げたまま綱吉の顔を見下ろすばかり。
「え、でも」
「嫌なんだよ、此処」
「ならば、ここで待っていてくだされば」
「だから」
 それが、一番嫌なのだ。
 ひとりで屋敷に入らなければならないのと同じくらい、綱吉は屋敷の前でひとり取り残されるのが怖い。かと言ってバジルに気持ちは上手く伝わらず、彼もどこか意固地になっているようで屋敷への興味は全く薄れてくれない。
 せめてもっと明るい時間帯であればよかったのに。恨めしいものを見る目でバジルを睨むと、彼は隻眼を細めて綱吉の額に触れるだけのキスを落とした。
「大丈夫ですよ」
 どこに根拠があるのか、ニコリと微笑んだ彼がそう告げる。なんだか誤魔化されてしまった気分に陥るが、唇を尖らせて頬を膨らませていると、そこにもキスが降ってきて、結局綱吉は投げやりに深々と溜息を吐いた。
 一緒に肩を怒らせていた力も抜け落ちていき、崩れ落ちそうなところをバジルに支えられる。そのまま右手を握られて、軽く引っ張られた状態で綱吉はバジルの半歩後ろを進んだ。
 正面玄関の見事なアーチを潜り抜け、テラスを抜けて重厚な作りのドアを押す。鍵は、かかっていなかった。金具が錆び付いているのか重い音を響かせ僅かしか開かない扉を、肩からぶつかって強引に押し開けたバジルの行動力に辟易しつつ、以前はしっかりと見ることが無かった見事な造りの屋敷を綱吉は改めて眺めた。
 屋敷の中は自然光さえまばらで、足元も覚束ない。だが闇夜に慣れているのかバジルは綱吉を導きながら、崩れている床を避けて歩を進めた。扉を抜けた先はホールになっていて、二階へ続く階段が半アーチを描き左右に広がっている。ここだけは頭上の窓から夕日が入り込んで僅かに明るく、屋敷が遺棄されるまでは多くの客人を迎え入れたであろうと予想できた。
 きっと、昔は、ドラマや何かで出てくるような洋風のお屋敷だったのだろう。バジルの手はしっかりと握って離さず、綱吉は考える。バジルも似たようなことを思い浮かべていたらしい、しかも何故か懐かしい、と口ずさむ。
「懐かしい?」
 彼は過去に、こんな屋敷に住んでいたのであろうか。問いかけると、笑いながら首を横に振られた。
「そうじゃないですけれど、拙者が生まれた街にもこういう造りの、古い住宅が多かったので」
 イタリアは、世界遺産の多さが示すように、古い町並みがそこかしこに見受けられる。数百年前の住居に今も暮らす人は多く、また彼の地は日本とは違って住宅の材質は主に石だ。この屋敷も外観からして石膏で塗り固められ、欧風の住居を模したらしくその傾向はあちらこちらから感じ取れた。
 綱吉の家は世間一般的な一戸建てで、並盛町の住宅事情も概ね似たようなもの。だから彼にとって、故郷を思い起こさせるこの屋敷は、初めて訪れたとしても郷愁を感じさせるものだったらしい。
「ふうん……」
 分ったような、分からないような相槌を返し、綱吉は足元に光を届けている窓を見上げる。破られて、今にも崩れ落ちそうな窓枠から覗く空はとても小さい。
 要するに、訪れた地方が自分の生まれ故郷ではなかったとしても、原風景ともいえる農村部を見ていると懐かしさにも似た感情が沸き起こってくる、そんな感覚だろうか。
 この屋敷はどう考えても築百年も経過していないが、バジルの住んでいた町にはもっと古くからある住宅が沢山残っていたらしい。奥の、光が届かない闇に閉ざされた部屋へ向かう道中、綱吉の気を少しでも紛らわせようとしているのか、バジルはそんな話をしてくれた。
「町ひとつが丸ごと世界遺産だったりもします。観光は北イタリアが中心で、人はどうしても華やかなローマやベネチアや、ミラノに目を向けてしまいがちみたいですけれど」
 彼が育ったのは、そういうイタリア統一以前から栄えていた北部ではなく、貧しく、今現在も北部イタリアからは足かせのような扱いを受けている、どちらかと言えば貧しいといわれている南部イタリア。だがそこにこそ、本来のイタリアの古き良き伝統が残っているのだと、彼は頑なに信じている。
 握られる手が痛い。無意識に力を込めてしまっているバジルの横顔に苦笑し、綱吉は自分の手から力を抜いた。曲げていた指を自然のままに伸ばし、背筋も併せてまっすぐに立てる。踏みしめた床は雨漏りの影響か部分が腐っており、爪先を置いた先から怪しい音を立てている。不用意に触れれば踏み抜いてしまいそうで、どうしても彼らの足取りはゆっくりだった。
 外はどうなっているのだろう、外部から完全に遮断された空間は湿っぽく、また埃っぽい。最近別の誰かが潜り込んだのか、スナック菓子の空袋が床に散乱している。ペットボトルが転がり、お世辞にも清潔だとは言い難い。
 綱吉が幼い頃に聞かされた、殺人事件があったような証拠は、どこにもありはしない。だからだろうか、ほっと息を吐いて安堵し、全身から力が抜けると同時に、ちょうど緩んでいたバジルの指から手が離れてしまった。
 あ、と思った時にはもう遅い。
「バジル君?」
 振り返れば、そこは深淵の闇。
 窓は外側から板が打ち付けられて固定され、中からは開かない。固定されている板の隙間から差し込む光はとても弱く、とてもではないが室内全体を照らすには足りない。天井の照明器具には電気は通らず、割れたシャンデリアがいっそう不気味さを増長させている。
 静まりかえった空間、気づくまでに歩いてしまった数歩の距離が、綱吉に重くのしかかる。
 バジルの気配が消えた。振り返り、また前を見て、左右を確認するけれど、そのどこにも動く存在が感じ取れない。生ぬるい風がどこからか吹き込み、綱吉の襟足を撫でて通り過ぎていく。
「っ」
 反射的に息をのみ、肩を窄めて全身を硬直させる。
 蘇る記憶、生々しいまでの恐怖。ひとりきり、闇の中。見えない何かが迫り来て綱吉を押し潰す、そんな錯覚。嫌な汗が額を、こめかみを、喉を伝う。どんなに息を吸っても足りなくて、綱吉はあえぐように口を開いて懸命に舌を動かした。
 膝が小刻みに震えている。吐き気にも似た衝動が胃を直撃し、気持ちが悪い。助けて、という声は音にならずに指の隙間を転がり落ちていった。
 その部屋はどうやらリビングだったようで、端の方には生地が破れて中身のスプリングが飛び出したソファが残っていた。壁に飾られている絵画も左側を下にして傾いてしまっている。誰かの肖像画、だろうか。描かれている人物の目がぎょろりと剥いて綱吉を睨んだ、気がした。
 此処は昔、富豪の老人が一人で住んでいて。
 跡継ぎを巡って争いが起きて、資産を狙う輩が集まり、よからぬ相談事をしていた。
 そのうちの誰かが老人を殺し、しかし遺言状が発見されて殺した人間には一切遺産が入らないようにかかれていた。
 逆恨みした殺人鬼が、今度は遺言状に名前のあった人間を次々と血祭りに上げて、やがてこの屋敷は呪われていると言われるようになった。
 屋敷が未だに取り壊されずに残っているのは、ここを壊そうとした建設業者が次々に呪いを受けて倒れて行ったから。
 だから今でも、この屋敷に無断で立ち入ったら、呪いが降りかかる。
 嘘だと思うなら、試してみるがいい。
 けれど、もし本当だったら。
 次々と浮かんでは消える、消せない記憶。汗が全身から吹き出して、息が上がりうまく酸素が肺に届かない。麻痺した感覚、急速に脈拍を乱す心臓、頭を切り裂きそうな耳鳴り、震える身体。無意識に綱吉は両手で顔をひっかき、指を噛んでその痛みでどうにか自分を保とうとしていた。しかし呼吸はどんどん荒くなり、極度の緊張から尿意まで催して立っているのもやっとの状態。
 どうして、誰も側に居てくれないのだろう。
 どうして、自分はここにひとりきりなのだろう。
 自分は、見捨てられたのだ。呪いの館に置いてけぼりで、誰も助けに来ない。一生ここから出られない。誰も居ない、誰も来ない。あの時は家光が探し出してくれたけれど、彼は今、綱吉の側にいない。居てくれない。
「いや、だ……」
 息が上がる。見開いた瞼、瞬きさえも忘れて虚空の闇を呆然と見送る。浮かんだ涙は流れ落ちる前に乾燥して消え去る。乾ききった喉がひゅうひゅうと嫌な音を立てていた。
 怖い。怖い、怖い、怖い。
 此処は、怖い。
「いや……」
 子供のように嫌々と首を横に振ってみても、助けがくるわけはない。靴の裏で床をこするように後ずさるが、パキっと鳴った床で破片が跳ね、瞬間的に身体が硬直する。下手に動き回ると、本当に奈落の底に引き寄せられてしまう。
 ひゅっ、と風が吹く。どこかからか、隙間を通り抜けて来た夜を感じさせる冷たい風に全身が戦慄いた。叫びそうになった声を寸前で飲み込み、必死の形相で綱吉は振り返る。
 虚空、一面の闇。
 怖い。それしか頭の中に浮かび上がって来ない。心臓は破裂寸前まで拍動を繰り返し、呼吸の間隔も徐々に短くなりつつある。見開いた目が映し出す闇はどれも同じであるはずなのに、綱吉には目に見えない何かが、自分に差し迫り鎌首をもたげているように思えてならなかった。
 パキ、と床板の跳ねる音。
「ひっ」
 沈む床、ひたひたと迫る足音。最早綱吉は十四歳の中学生ではなく、いじめっ子によってこの屋敷に押し込められた当時に戻ってしまっていた。思考も何もかもが停止し、機能を失い、涙と鼻水とで顔をぐしゃぐしゃにして、あと少し気が緩めばその場にしゃがみ込んでしまいそうなくらいに、恐怖に震えた幼い子供。
 闇から、白い腕が。
「いや……」
 後ずさる。逃げようとして、全身で拒否を表明するのに、身体がそれに追いつかない。
「いや。いや……いやぁぁぁぁ!」
「沢田殿!?」
 バジルの、驚愕に満ちた声が綱吉の悲鳴にかき消される。闇の中見失ってしまった綱吉を捜していた彼をようやく見つけたと思ったら、この有様だ。綱吉はバジルが伸ばした手をはね除け、引っ掻き、腕を振り回して滅茶苦茶に暴れ出す。顔を背け目は閉じたまま、現実を直視せずに現状の全てを拒絶しようとして、自分自身が傷つく事さえ厭わない。
 これは尋常ではないと息をのんだバジルが、必死に綱吉を呼びながら彼の肩を掴み前後に揺さぶりをかける。だが綱吉はまるで反応を示さず、逆にバジルの顔に拳を向けた。爪が彼の頬を掠め、皮膚が一枚切り裂かれ薄く朱が走る。
 鈍い痛みに顔を顰めさせ、バジルは我知らず舌打ちしていた。ともかく落ち着かせなければならない、綱吉は一時的なショック状態に陥ってしまっており、自分がそのトリガーを引いてしまったのは間違いない。だが、どうすれば。
「沢田殿!」
 懸命に呼びかけても一向に芳しい反応は返って来ず、ついに膝から力が抜けた綱吉が体勢を崩すのに引きずられ、バジルもまた腰を屈めた。薄明かり、かろうじて見える綱吉の顔は涙でぐちゃぐちゃになってしまっている。なにやら叫んでもいるがまともな言葉を成しておらず、聞き取り理解するのも不可能に近い。だがこのままではいずれ舌を噛む恐れもある。
 綱吉の腕がバジルを押しのけようと振りかざされる。真上から落とされた手首の一撃を肩の骨にまともに受け、ぐっと息を詰まらせた彼は最早手加減不要と腹を括った。このままでは自分も危うい、本能が悟った危険に再び舌打ちし、バジルは痛みを堪えて片眼を閉ざした状態のまま綱吉の右上腕を強くつかんだ。
 動きを封じ込め、強引なまでに自分に引き寄せる。
「いやぁぁぁぁ!」
 無論綱吉の抵抗がその程度で完全に消え去るわけがない。しかし目的は綱吉を押さえ込むのではない、あくまでも冷静さを取り戻させる事。
「沢田殿、御免!」
 パニックを起こしている相手に果たして、謝罪が届くのかどうか。後でいつもの綱吉に戻ったらもう一度謝ろう、脳裏を掠めた笑顔の綱吉に目を細め、バジルは泣きわめく綱吉の顎をもう片手で乱暴に捕まえた。
 突然の事に綱吉の動きが一瞬だけ止まる。バジルはそこを逃さず、ふっと息を吐くとごめんなさい、さらに呟いて彼の小さな身体を抱き寄せた。
 唇に、食らいつく。
「んんっっ!!?」
 それまで口からの呼吸がほとんどを占めていた綱吉が、急にその出口を塞がれて鼻からかすれた息を漏らした。生ぬるいねっとりとしたものが自分に覆い被さっている、その現実は理解出来てもその何かまでは把握出来ない。
 戯れとは違う、深いつながり。暖かい、と感じた瞬間に閉じるのを忘れていた歯列を縫って更に熱いものが綱吉の内側に紛れ込んで来た。
「っん……、ぁ、は……あ、あ……っ」
 身体の震えが止まる。右肩を固定され、彼の左手は顎から綱吉の頬に居場所を移していた。宥め賺すように何度も上下に動き、柔らかな肌に肌を重ねてそこからバジルの体温が染みこんでくるみたいだった。
 目尻から溢れた涙が彼の指を濡らす。薄く瞼を持ち上げ、触れあう唇の隙間から息を吸い込む。察したバジルが僅かに首を引くが、綱吉の口腔内部に残る舌はそのままに、透明な糸が両者の間に引っ張られ、そしてはじけた。
 それを冷たいと感じる間もなく、顔を寄せてきたバジルが僅かに首を傾がせる。再び繋がりを深めた唇が互いを貪り、相手が吐く息さえも飲み下して絡め合った舌先からこぼれた唾液が喉を伝って襟を濡らした。
 綱吉の腕が動く。捕まるものを求めたそれが爪をむき出しに、バジルの肩と腕を掴んで容赦なく牙を剥いた。陶器にも似て白い肌に、いくつものミミズ腫れに似た傷痕が浮かび上がる。しかしその全てを余すことなく受け止め、バジルは瞳を細め未だ混乱の縁にある綱吉を懸命に呼び戻す。
 喉の奥まで差し入れた舌を、けれど綱吉は容赦なく噛んだ。そのまま引きちぎられるのではないかと危惧するまでに強く、遠慮のない力が加えられて彼は噎せて咳き込む。間近から顔めがけて吐き出された息に、ハッと目を見開いた綱吉は、今し方自分が噛みしめたものの柔らかさを思い出して息を止める。
 ようやく見えなかった目の前が戻ってきて、そこは依然として漆黒に近い闇に包まれていたけれど、肌を通して感じる暖かさは人のそれに違いなく、鼓膜を揺らす吐息も生身のものだとはっきりと理解できる。
 こぼれ落ちた涙の熱さに自身が一番驚き、綱吉はあえぐように呼吸を繰り返した。
「え……あ、ぁ……?」
 爪が肉に食い込む感触を感じ取る。
「沢田、どの……」
 額に浮かせた汗を流し、すぐ間近からバジルの声を聞く。途切れ途切れに響く呼び声、細い体躯を受け止める力強さとその熱さに目眩がする。呼びかけられて上向けば顎をなぞるように彼の唇が降りてきて、為すがままその柔らかさに目を閉じる。
 顎骨をなぞった舌がまっすぐに上を向き、柔らかな肉を食む。啄むように表層を舐められ、熱がこもる身体を少しでも楽にしようと呼吸を繰り返すその隙間をつき、再びくちづけが落とされた。
「むぅ……ん、ぅ……」
 全身の血液が逆流している錯覚、目の前が闇の中に浮かぶ更なる闇に包まれる。目の前で自分を食らい尽くそうとしている存在が、確かに自分が知っている相手かどうかが分からなくて、綱吉が無我夢中のまま相手の頭へと腕を伸ばした。長い髪に指を滑り込ませ、掻き乱す。鋭い爪が彼を傷つけるのも厭わず、ただ必死だった。そしてバジルもまた、綱吉の放つ痛みの全てを、声を殺し全て受け入れた。
 互いが互いに貪り合い、食らいあう。乱れた呼吸だけが闇に響き、怠惰な空間に溶けていく。
「あぁ、はっ……ぁんっ」
 柔らかな舌を刺激され、甘く噛みつかれてまた宥めすかすように舐めとられ、どちらの唾液かも分からぬまま生暖かなそれを飲み下す。途切れ途切れになる呼吸の最中で、相手の頬を両手で挟みじっと見据えれば薄明かりの下でもかろうじて、瞳の色だけは捕らえられた。
 優しい、そして色を含む視線に、胸が疼く。
「沢田殿……」
 絶え絶えに響く声が、こぼれた涙を掬って離れて行った。両頬から肩、そして背中へと回された腕の強さに震え、綱吉は緩慢に頷く。
「ぅん……」
 ごめん、と呟くと空気が揺れた。バジルは静かに首を横に振り、謝るのは自分の方だと微かに笑う。
「後で、殴ってください」
「でも、これは」
「いえ、良いのです」
 抱きしめられて、頬が彼の肩に沈んだ。手探りで探し当てた彼の手首には、綱吉が引っ掻いたと思われる傷が無数に浮かんでいて、皮膚が裂けて血も滲んでいる。それなのに彼は、綱吉は悪くないと言い張った。
 差し出がましい真似をしたと、綱吉の涙を舌先ですくい取りながら、苦笑う。
 それに、と。
「不安がっていると知っていたのに、拙者は沢田殿をひとりにしてしまった」
 自身の好奇心と郷愁から、綱吉の心的ストレスを一切考慮しなかった。ちょっとでも考える時間があったなら、分かった事なのに、バジルは構おうともしなかった。靴紐がほどけたのに気づき、蹲って直している間に綱吉がひとり、先に進んでしまうのも予想しなかった。
 孤独に震える綱吉を、守りきれなかった。
「……そんなこと」
「やっぱり拙者は、親方様にはまだまだ、届きませんね」
 綱吉はくぐもった声で返そうとするものの、それより先にバジルが、若干自虐気味に呟いた。違う、と言ってあげたかったのに、言葉が続かなくて、綱吉は彼の肩口により深く額を預け俯いた。
 背中をさする手が優しい。触れられた場所から、ぬくもりが溶けてくる。早鐘のように鳴り響いていた心臓も、ゆっくりとだが平静さを取り戻し、脈拍も平常値に落ち着きつつある。と同時に、バジルに触れられている場所から別の心臓が生まれて来ているようで、どきどきと言う拍動が一向に収まる気配がない。体中を巡る熱が、綱吉の思考回路を緩やかに、確実に融かしていく。
 父親とバジルとを一緒くたにするつもりは、綱吉にはない。それだけは知らせたくて、吐く息を整えながら綱吉は彼の腕を掴む手に力を込める。ともすれば爪を立ててしまいそうになるのをぐっと堪え、綱吉は自分から、目を閉じて彼の下唇に顔を寄せた。
 目の前で息をのむ気配だけが伝わってくる。困った風に笑うバジルの表情が、手に取るように分かった。
「沢田殿」
「でも、今、此処にいるのは、君、だからっ」
 確かに綱吉はこの屋敷が怖い。幼少時に刻まれた記憶はそう容易く消え去るものではなく、痼りとなって未だ彼の胸の奥底にこびりついている。けれど、だからと言っていつまでもそこから目をそらしているわけにもいかない。
 それになにより、今の自分は、ひとりきりではない。
 自分に言い聞かせるように繰り返し、更に手に力を加える。そろそろ痛みを覚えだしたバジルはそっとその強ばっている手を交互に解きながら、ひと呼吸置き、改めて綱吉を闇の中で見つめた。
 漆黒に光る瞳に、偽りを語る色はない。
 それが、なによりも嬉しくてならない。
「ならば、拙者は」
「……うん」
「次は、……二度と、見失いません」
「うん」
 綱吉の背に回した腕を交差させ、より近くまで綱吉を抱きしめて、耳元に囁く。甘く、そして強い言葉に、静かに頷いて綱吉は目を閉じた。
 闇よりも濃い暗闇は変わらず彼の前にたたずんでいるけれど、不思議ともう、怖いとは思わない。
「捕まえてて」
 離さないで。
 腕を持ち上げ、バジルの首に絡ませる。一瞬だけ離れた彼の手が再び広げられ、背中に添えられた。重なり合った心臓から伝わる拍動がとても心地よく、気持ちが良い。
「離しません」
 耳から脳髄を伝い、全身に響き渡る声に意識を傾ける。
 朽ち果てた廃墟を照らす光りはいつしか星月に彩られ、淡く輝く。例え一瞬のまやかしであったとしても、この肌を通して感じるぬくもりは偽りではないのだと信じて。
 綱吉は目を閉じ、世界を塞いだ。

2006/9/29 脱稿
2008/8/23 一部修正