杜鵑草

 暗い。意識を取り戻した瞬間、まずそう思った。
 ぼんやりとした意識、まだ半分閉じたままの瞼。薄く唇を開いて吸い込んだ息は生臭く、湿り気を大量に帯びてあまり心地よいものではなかった。数回瞬きを繰り返して緩く首を振り、覚醒を促すと同時に背中を壁に預け腰を下ろしている不自然な体勢を整えようと動く。
 じゃり、と耳に低く響いた金属音。
「……なんだ、これ」
 呟いた声は掠れていた。喉の奥がまだひりひりと痛みを、それでいて違和感を訴えている。毒ではないが一時的に意識を失うような薬品を飲まされた名残だろう。途切れる前の記憶で最も新しいものとして蘇る男の顔、にこやかに取り繕われた笑顔にすっかり騙されてしまった。
 視線を持ち上げる。音と右肩に広がる鈍い痛みのお陰ですっかり目が覚めた。こんなものを目覚まし代わりに使いたくはなかったと思う先には、年代を感じさせる重い色をした鎖。先端の片方は壁に埋められて固定され、もう片方には黒く太い金属製の手枷。その手枷の中に綺麗に納まっている、血色の悪い綱吉の右手首。
 心臓よりも高い位置に指がある。右腕は真っ直ぐに伸びてこそいないが、肘が緩やかに曲がる程度の余裕しかない。試しに肩を揺らすと鎖が重い音を静かに響かせた。ずっと片腕だけを頭上に掲げる体勢だったのもあって、関節が痛みを訴えている。
 悪趣味だ。心底思いながら注意深く自分が置かれた環境を確かめる。薄暗い場所、明かりは鎖の先よりもずっと上にある小さな格子窓から差し込んでいるだけのようだ。光が床に影を作っている。床は埃だらけで窓から吹き込んだらしい枯葉なんかも散らばっている。お世辞にも清潔な場所とは言い難い。水の気配はするが限りなく薄いので、排水溝から漂っているのかもしれない。床の光の具合から、半地下室といったところか。
 壁だけでなく床も石組み、こちらも年代を感じさせる。六方全てではなく、綱吉が置かれている壁の反対側は頑丈な鉄格子。それは刑務所の牢を想起させたが、現代の牢獄ならばもっと明るいし設備も整っているだろう。
 人の気配は無い。静かで、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いて返って来る。
「あの野郎……」
 毒づいても目の前に言うべき相手はいない。それが余計に腹立たしい。綱吉は着ている服を確かめ、その湿り具合などからどれくらいの間気を失っていたかを逆算する。腹は……空いていない。日が昇っているし、丸々一晩眠らされていたのでなければ二、三時間といったところか。
 ならば城からそんなに離れていない筈。もしかしたらその城の地下かもしれないが、跡継ぎとして相続した時にこんな場所があるとは聞いていない。ずっと隠されていたのだとしたら、分からないけれど。だがそうだとしても、あの男だけが知っているとは思えない。
「ダメだ」
 まだ意識が完全に覚醒しきれていない。考えがまとまらなくて、綱吉は自由な腕で額を押さえた。
 微かに、足音が。
「おや、思ったよりもお早いお目覚めですね」
 この場に限りなく似つかわしくない、少々脳天気で軽い調子の声。鉄格子の向こう側、綱吉が眉尻を持ち上げた厳しい目つきで睨み付けると、骸は恐い、恐い、とわざとらしく両腕で身体を抱きしめた。
「そんなに怒らないで下さいよ」
「これが怒らずに居られるか!」
 思わず張り上げた声、途端に咳き込んで呼吸が苦しくなり、綱吉は前のめりになりながら曲げた膝に胸を預けた。鉄格子を押し開けた骸がゆっくりと近付いてくる、涙目で見上げるとどこか愉快そうな目で見つめ返された。
 何を考えて、こんな事を。
「今すぐこれを外せ、骸」
 今夜の綱吉には、大事なファミリー同士の会合が待っている。互いの親交を深めるという建前で、本音は相手を牽制する役目が強い。そこにボンゴレのトップが不在となったら、どうなるか。数百の細かなファミリーを束ねる立場として、その状況が招きうる惨事を想像すると血の気が引く。
 しかし骸は、綱吉が言い放ちながら揺らした手枷に涼やかな目を向けるだけ。
「外しません」
 今頃地上では、綱吉を捜して大騒ぎになっている筈。まさか身内が彼を隠すとは誰も想像していないだろう、何も知らない仲間は、綱吉が雲隠れしたと誤解しているかもしれない。綱吉の焦りを察したのか、骸はああ、と小さく頷いた。
「皆さん、貴方を捜して大わらわでしたよ。僕も探すのを手伝っていたのですが、皆さんてんで方向違いを探しておられて」
 笑いを堪えるのが大変だったと、瞳を細めぞっとする笑みを浮かべ彼は綱吉の冷たくなった右手を掴んだ。血流が悪く、色も悪くなっている指を一本ずつ解きほぐしていく。重ねられた掌は、自分の熱の引き具合からか、とても熱く感じられた。
 吐き気がする程に。
「骸!」
「だって、外したら貴方は逃げるじゃないですか」
 当たり前だ。鎖の拘束さえなければ、一秒だってこんな湿っぽい場所にいたくない。
 重なり合った右手と左手、絡む指先。握りしめられる掌はとても温かくて、冷え切っていた身体に伝わってくるのに。
「お前、自分が何をやっているのか分かっているのか?」
 穏健派の九代目の跡を継ぎ、様々に血で血を洗う抗争を終わらせ手に入れた平穏。無為に相手を傷つける行為をなにより嫌う綱吉だからこそ、話し合いが出来る場を大切にする。例え狸の皮を被った奴らであっても、見せつけた力の差にそう簡単に反旗を翻したりはしない。
 骸だって、本当に求めたのは穏やかな日々ではなかったのか。それを自ら覆し、再び争いの種を呼び込むだなんて。綱吉は俄に信じ難かった。けれど、これが現実なのだ。
「ええ、分かっています」
「だったら!」
「でも、貴方を」
 顎を突き出して目の前に立ちはだかる男を見上げる綱吉。そこに影を落とす骸。片腕を繋いだまま、彼が身体を沈めて綱吉に重なる。
「ん……っ!」
 触れあった唇は、掌のそれよりも熱く、絡んでくる舌は神経を焦がす程で。反射的に目を閉じた綱吉に気をよくした彼が更なる深みを求めて動く。
 綱吉の喉を飲み下せない唾液が伝っていく。呼吸が苦しくて目尻に浮いた涙を、骸の右手が拾って投げ捨てる。白い柔肌を指先が辿り、急所たる喉仏に親指が押し当てられた時は綱吉に緊張が走った。
「は、ぁ……」
 漸く解放された唇、だらしなく開かれた隙間から互いの唾液に濡れた骸の舌が覗く。
 こんな事でぐらつく心ではないのに、乱れた呼吸とまだ残る薬の影響で彼を突き放せない。自由にならない右腕が痺れていく。
 完全に離れきらなかった骸が、綱吉の顎を支えて頬を寄せ、鼻筋に、こめかみに、額に、沢山のキスの雨を降らす。瞼に、睫に、口の端に、耳元に熱を呼び込んで。いつだったか、一度だけ許した夜を再び求めているように。
「むく、ろ……」
 熱病にかかったようだ。彼が触れた場所から毒が潜り込んでくる。一夜だって忘れた事のない一夜の巡り会いが甦る。互いのけじめの為に、二度と交わらぬと誓い合った上での契りは、けれど。
 重なり合った手の温もりが、ただ、ただ遠くて。
 綱吉は決して誰かのものになり得ず、誰かの為には動かない。彼はボンゴレの首魁として全体を見渡し、全体を統括し、全体に気を配り。彼の大勢の友は彼を支える為に居ても、綱吉がそのうちのひとりを選ぶ日は永遠に来ない。来てはならない。だから誰もが綱吉を大事に想いながらも、彼を求めない。
 埋まらない距離、触れる寸前で回避される手。許すべきではなかったという後悔は、深い海に沈んで静かに夜明けを待っている。
「時間が来れば、……夕暮れが迫れば外します。だから、今は」
 逃げないでください、そう呟く骸の瞳が揺れる。業に囚われ、柵から抜け出せずに居る彼の心が、ほんの少しだけ垣間見えて綱吉は唇を噛む。その仕草を止めたくて、骸は愛おしそうに彼の瞼へとキスを落とす。
 首を振った綱吉に笑って、上を向いた彼の顎を舐めて、唇を重ね合う。舌先で擽って、歯列を割って秘された箇所に潜り込んで柔らかな肉を淡く噛む。
「んぁ……ふっ、んん……」
 鼻から漏れる甘い息。骸からこぼれ落ちる汗、閉じられた瞳。端正な顔立ちを浮かされた熱のままに見つめ、綱吉もまた目を閉じた。
 きつく舌を吸われ、頭の中心が痺れる。ガシャガシャと頭上で鎖が擦れる音が響く。あまりに無粋な音色と、切り離せない肩の痛み、そこから繋がる腕全体の痺れ。溺れてしまいそうになる綱吉を引き留めている、彼を縛るもの。
 これがある限り、綱吉は現実を忘れない。
「骸、これ、……外せよ」
 彼の手をきつく握り返し、訴える。自由にならない右腕、まるで今の綱吉の立場そのもの。
「いいえ、これは外しません」
 時間が来たら鍵を持ってまた来ます、そう告げて彼は綱吉に触れるだけのキスを贈る。僅かに潤む、凪いだ湖面の水のように澄んだ彼の瞳が、胸に痛い。
「外せよ……だって、これじゃ」
 お前を。
 俺は、また、お前を。
「良いんです」
 与えられるだけの熱、与えられるだけの包容、与えられるだけの想い。何一つ返せないまま、再び彼を行かせなければならない現実。
 解かれない鎖、綱吉と骸を縛るもの。自分たちがまだイタリアの大地に馴染む前の子供に戻れたなら、こんなものなんて事は無いと簡単に引き千切れただろう枷は、もう鍵だけでは外せない。
「良いんですよ、ボンゴレ」
「それは俺の名前じゃない!」
 いやいやと子供のように首を振って骸を困らせる。彼はどうしようも無い程にはにかんで微笑んで、綱吉の身体を器用に片腕で抱きしめた。首筋に顔を埋めてその確かさを包み込んで、力を込めて綱吉の右手を握る。
「だって……今は、違うんだろう……?」
 ここはボンゴレの城ではなく、綱吉はマフィアのボスでもなく。ただ、ひとりの男を愛しいと思い、想われているだけの。
「ええ、そうですね……」
 それなのに彼はこの鎖を外してくれない。綱吉と現実を繋いでいる鎖を外してしまえば、自分たちが二度と戻れないと知っているから。綱吉を必要としている人が大勢居ると知っているから、こそ。
「まったく。貴方にはいつも、敵わない」
 そう笑って、甘いキスをして。左耳に囁かれた短いことばに、微笑む。右手首を抉る傷の痛み、赤い血の滴り。決して逃れられない現実に、今だけは目を逸らして。
「そうじゃないと、俺じゃないだろう?」
 悪巧みをしている子供の顔で笑いかけ、綱吉は目を閉じた。