愛玩

愛玩(Mi piace)

 朝寝坊をした日に限って、トラブルがつきまとう。
 急がば回れ、と昔のことわざにある。だけれど時間がない時にのんびりしていられる余裕など心にあるはずがなく、沢田綱吉は今日もまた朝食もろくに咀嚼せずに胃の中へと押し込むと、どんよりとした曇り空の下に飛び出した。
 後ろで母親が、傘を持っていきなさいと叫んでいるのさえも振り切る。雨が降りそうだというのは玄関を出た瞬間に分かったけれど、勢い良く飛び出した手前、引き返すのも面倒くさい。降って来たらきたで、駆け足で学校に飛び込めば良いだけのこと。もっと良いのは、学校に着くまで雨が降らないこと。
 しかし世の中そう上手く物事は回らない。
「うひゃ」
 冷たい水が首筋に当たったかと思うと、途端に足元を黒く濡らす雨が無情にも降り注がれる。綱吉は首から斜めに提げていた鞄を頭にかざすと、恨めしげに雨雲に覆われた空を睨みつけた。そんな事をしていても、雨が止んでくれるとは限らないのに。
 学校と自宅との中間地点、若干学校よりという地点が微妙すぎる。帰るのも、走り抜けるのも中途半端だ。どちらにせよ濡れてしまっていることに変わりはない。一度帰って着替えてからまた学校へ、が得策だろうか。もう遅刻は確定している。
 ふと脳裏に浮かんだ風紀委員長の顔。遅刻したと知られたら、またネチネチと嫌味を言われてしまう。彼と話をするのは好きだが、頭ごなしに説教されるのは苦手だ。遅刻するにしても、あまり遅れすぎない方が良いかもしれない。
 思わず溜息。悩んでいても仕方が無い。濡れた制服は気持ちが悪いが、諦めて学校へ通じる方角へ足を向け直した時、どこからか弱々しい声が聞こえた。
 赤ん坊の……いや、違う。
「猫?」
 思わず視線を巡らせ綱吉は首を傾がせる。この辺りで猫を飼っている家はあっただろうか、しかも複数。
 声はどこか頼りなく、元気が無い。胸を締め付けられるような痛みを覚え、綱吉は立ち止まって周囲を注意深く見回した。そして電信柱の影になる場所に置かれた、明らかにゴミとは違う段ボール箱を発見する。
 雨に濡れて水気を含み、表面が柔らかくなってしまっている箱の蓋をそっと持ち上げる。中には綱吉の想像通り、子猫が入れられていた。生まれて数日といったところだろうか、三匹。毛並みはそれぞれ違うけれど、恐らくは兄弟だろう。
 捨て猫だ。
「う……」
 時間のない時に下手な寄り道をすべきではないと、見つけた瞬間に後悔が走る。しかし人気を感じて顔を上げた猫の、薄闇の中に力なく輝く瞳と目が合ってしまい、このまま立ち去ることも出来ない。
 ふみゃあ、と口を大きく開けて鳴くその顔は、子猫特有の可愛らしさもあって、綱吉の心を締め上げる。
 だが自分はこれから学校に行かねばならず、家には子供達の他に居候も何人かいて、とてもではないが子猫を三匹も世話してやれる環境ではない。しかし、ああ、だがこのままでは。
「く……」
 見れば残る二匹は大分弱ってしまっているようで、一匹は顔を持ち上げるもののもう一匹は殆ど反応が無い。いつからここに放置されていたのだろう、通りがかる人は大勢居ただろうに皆薄情だ。そしてこのまま立ち去れば、自分もまた薄情な人間の仲間入り。
 葛藤が綱吉の中で蠢く。どうしよう、どうするのが一番良いだろう。誰か自分の代わりに飼ってくれる人がいたならば、そう、中学には人が沢山いる。中には飼っても良いと言ってくれる生徒がいるかもしれない。
 風紀委員に見付からなければ。
「ああ、もう!」
 迷っている間にどんどん時間は過ぎていく。雨で冷えた空気は、弱った猫にも宜しくない。綱吉は頭の中でぐるぐると回っている色々なものを振り切るように声を出すと、両手でダンボールを抱えて走り出した。
 振動に驚いたのか、蓋の隙間から猫がひっくり返るのが見える。雨が入らないように顎で蓋を閉め直すと、激しい揺れに小刻みに泣きじゃくる猫の声が途端に弱くなった。大丈夫だろうか、心配になるが今は一秒でも早く雨のかからない場所に逃げ込むしかない。
 綱吉は息咳切らしたまま半分閉まりかけている正門の隙間に身体を捻じ込み、既に一時間目の授業が開始されている校庭を走りぬけた。
 そして校舎入り口の庇下で雨を避けるのに成功し、一息ついたところで、はたと我に返る。
 自分はこの猫が入ったダンボールを持ったまま、教室に潜り込まなければならないのか、と。
 水を吸った制服が肌に張り付き、大きく跳ねていた髪の毛も湿って重くなって垂れ下がり気味。鞄もかなりの水分を吸って表面が濃く変色してしまっている。中に入れている教科書類は無事だろうか。
 吐く息が若干白く濁って見えて、綱吉はこの後どうすべきかで困惑する。とりあえず学校まで来て、雨は避けられるようになったけれど、休み時間まではまだかなり掛かる。その間ここでぼんやりしているわけにもいかない。
 保健室へ避難? いや、だがシャマルは嫌がるだろう。ならば何処へ行けば良いのか、自分に残されている選択肢が存外に少ない現実に、綱吉は打ちひしがれる。
 兎に角校舎内に。そして人の居ないところを探して、と視線を巡らせ周囲に誰もいないのを確認したところでみゃぁ、と箱の中から子猫が顔を出してひと鳴き。それまでの揺れが収まったので安心したのだろう。
「こら、中に戻って」
 ただでさえ怪しい格好をしているのだ。濡れ鼠でダンボールを抱えている状態というのは、平素の学校への通学風景とは大きく異なっている。誰かに見付かって、放り出されて困るのは子猫たちの方だ。
 綱吉が唇を窄めて小声で注意するものの、人の言葉を解せない子猫はまた可愛らしい顔をして綱吉を見詰めるばかり。茶色の毛並みが少しだけ湿り気を帯びている猫は、好奇心旺盛とばかりに綱吉を見上げ、見慣れない校舎の風景に興味津々だ。
「頼むから、大人しくしててくれよ」
 言っても分からないだろうけれど言わずにいられなくて、綱吉は頼み込む体勢で猫に語りかける。小首を傾げた風に猫が彼を見返し、鼻をクンクンと。それから小さくくしゃみ。
 矢張り雨に濡れて身体が冷えてしまっているようだ。タオルか何かで拭いてやりたいところだが、そんな都合の良いものが綱吉の鞄に入っているはずもなく。
 無論、濡れているのは猫だけではない。子猫を見下ろしている間に、綱吉の鼻もむずむずし始める。
「っくしゅ!」
 思わず箱を落としそうになりながらくしゃみをし、鼻を啜り上げながら息を吐く。
「風邪ひきそう」
「そんな格好で突っ立ってたら、誰だって風邪くらいひくだろう」
「ははは、ですよねー……えぇぇえ!」
 何気ない呟きに合いの手が挟まれ、思わず呑気に言葉を返したところで我に返る。つい笑ってしまったけれど、声の主に覚えのある綱吉は気付いた瞬間に硬直した。
 一番見付かりたくない相手、だ。並盛中学に通っている生徒であれば知らない者はない、泣く子も黙る風紀委員長。
「やあ、綱吉。もう一時間目が始まっているというのに、そんなところで何をしているんだい?」
 口調は至極丁寧で穏やか、けれど前方に佇む彼の背後には怒りに満ちたオーラが漂っている。ああ、怒られる、というより怒っている。いったいいつから彼は其処にいたのか、さっぱり気付けなかった自分が情けなくもあるが、よりによって彼に見付かってしまった不運を、何処にぶつけたらいいのだろう。
 思わず泣きそうになりながら後ずさりするが、背後の雨のカーテンを思い出して逃げ場がない。箱の隙間から顔を覗かせる子猫が、場違いなくらいにのんびりとした声で鳴く。どうしたの? とでも言いたげな顔をして。 
 流石にこの距離では雲雀も気付く。口元を引き締め、元から細い瞳を更に細めて怪訝気味に眉根を寄せた。
「なに、それ」
「え、っと……」
 答えに窮する。視線が宙に浮いて定まらず、その表情からだけで雲雀は綱吉の行動を大まかに悟ったらしい。盛大に溜息をついて肩を落とし、代わりに癖のない前髪を掻き揚げて二歩、近づく。
 怒られる。条件反射で肩を窄めて硬く目を閉じた綱吉の頭に、ふわりと雲雀の手が載った。湿った髪の毛をぐしゃぐしゃにかき乱し、濡れている額を指先で拭って遠ざかっていく。
 恐々と目を開けると視線がぶつかった。どちらかと言えば呆れている風体で、彼は綱吉だけを見詰めている。
「とりあえず、拭かないと本当に風邪を引く。おいで」
 怒るのはそれからだ、と言わんばかりに雲雀は告げさっさと踵を返して歩き出してしまった。呆気に取られた綱吉だけれど、ひとまず今は見逃して貰える、更には匿ってもらえるようで胸を撫で下ろし、良かったねと猫に向かって呟いた。
「綱吉?」
「今行きます」
 分かっていない猫がふみゃ、と鳴くのを聞いて微笑んでいると、既に校舎内の雲雀が振り返って名前を呼んだ。慌てて猫を箱に押し戻し、鞄を抱えなおして歩き出す。
 綱吉の通った後には点々と水の痕が辿り、やがて消えた。
 

 応接室前の廊下は相変わらず閑散としており、誰かと擦れ違うことはなかった。部屋に通されると暫く入り口で待つように言われ、大人しく従っていると戻ってきた雲雀の手には、どこから出したのか清潔なタオルが握られていた。しかも二枚。
 一枚は問答無用で頭に被せられ、もう一枚は身体を拭うようにと渡される。靴の中までぐしょぐしょに濡れていた綱吉は、暫く考え込むと持っていた箱と鞄を入り口に置いて先に靴と靴下を脱いだ。そして誰も通りがからないのを良いことに、廊下に上半身を乗り出して靴下を丸めて水気を絞る。
 雲雀は特に注意もしなかったので好意に甘え、素足のまま部屋の中央へと。靴下を干す場所に困っていると、顎で部屋の片隅にあるハンガーラックを示された。今は何も吊るされていないそれは、本来この部屋を使用する人がスーツやコートをかける為のものだ。今度もお言葉に甘えて従来の使用目的とは逸脱しているものの、靴下を引っ掛けさせてもらい、一緒に鞄も上段に吊るす。
「暖房でも入れようか」
「いいんですか?」
「構わないよ」
 それとも別のことをして温まりたい? 近づいてきて耳元で囁かれ、綱吉はサッと頬に朱を走らせてから大慌てで首を横に振った。残念、などと冗談とも本気ともつかない声で呟かないで欲しい。
 雲雀が壁のスイッチを入れに行ったのを見送り、本格的に身体が冷えて来たのでひとまず見えるところからタオルで身体を拭っていく。本当はシャツやズボンも脱いでしまいたかったのだが、雲雀の手前それは危険だというのが自らの判断。
 ズボンの上からもタオルを押し付けて水気を吸い取らせ、少し身体が軽くなったように感じられる頃、暖房も利いて来たらしい、寒気が遠のく。
 綱吉は持っていたタオルを一度テーブルに置き、頭に引っかかったままだったタオルをそのまま両手で押さえつけた。前後左右に揺らして髪の毛を拭く。雲雀は窓辺で黙ってその光景を眺めている。
 みゃー、という鳴き声。危うく存在を忘れかけた猫を思い出し、綱吉は頭を拭きながら入り口まで戻る。段ボールの中で動き回る猫を、蓋を開けて見つけ、少しは元気になったらしい残りの二匹に安堵の息を漏らした。
「ちょっと待ってくれな」
 蓋を全開にした状態で抱え持ち、応接セットのテーブルの上に。雲雀が視線を流して様子を見守るけれど、特に口出しをする気はないらしい。彼の珍しい寛容さに感謝しつつ、綱吉もまたソファに腰を下ろして先程置いたタオルを手に取った。頭に被せていた分は、下ろして肩に引っ掛ける。根元はまだ湿っているけれど、完全に乾くには拭き続けても暫く時間が掛かりそうだったので、すっぱりと諦めた。
 子猫は先にも言ったが、合計三匹。毛並みは似通っているものの、薄茶色いのが一番元気で、他の二匹には少し黒色が混じっている。箱の底には新聞紙が広げられ、使い古されたバスタオルが入れられていた。捨てた元の飼い主の、最後の心配りだったのだろう。
 当然だがその捨て主の住所などを割り出す材料は見付からなかった。生まれたけれど育てられないから捨てる、生き物なのに、とても簡単に。綱吉は一番元気が無い頭の黒い子猫を抱き上げて濡れた身体をタオルで拭ってやりながら、複雑な気持ちに駆られた。
 飼ってやれないのに拾ってここまで連れて来た自分も、結局は同罪なのだ。飼っても良いと言ってくれる相手がいなければ、自分はまたこの子猫たちを道端に置き去りにしなければならない。雲雀は飼ってくれないだろうか、ちらりと盗み見た相手は降り注ぐ雨に視線を流しており、綱吉の気持ちに気付かない。
 どの道何かと群れあうのが嫌いな彼だから、首を縦に振ってはくれないだろうけれど。
「好きなの?」
「え?」
「猫」
 力なくも、自分に構ってくれるからか、それとも体温が心地よいのか、綱吉に擦り寄ってくる頭の黒い猫を膝に置き、もう一匹を抱き上げて同じくタオルで包み込む。一番毛色の薄い猫は、綱吉が相手をしなくても自分から湿気っているバスタオルに身体を押し付けて転がって遊んでいる。自分達の置かれている環境を、理解していないのだ。
 手の中の猫は、こげ茶色の大きな瞳で綱吉を見上げている。この人は敵か、見方か、判断しようとしている目だ。また捨てられるのが怖いのか、それとも自分達を一度捨てた人間を信じられないのか、普段から動物とつきあいがあるわけでもない綱吉には、水晶球のような瞳が何を訴えかけているのか分からない。
 雲雀の問いかけに少し間を置いて考え込み、ゆるゆると首を横に振る。
「なんだか、放って置けなくて」
 だから甘いと言われるのかもしれないが、フウ太が来た時も子犬のような目に縋られて結局拒みきれなかったようなものだ。相手が言葉を語れる、語れないの、違いはあっても、綱吉は立場の弱い相手が皆同一と認識している。自分が誰からも守られたことがないからこそ、誰かを守りたいという意識は、本人が思っている以上に強い。
 タオルを取り外し、柔らかな毛並みが戻った猫を抱き上げて頬に寄せる。元気の足りない声であるけれど、その行為を少なからず歓迎しているらしい猫の様子に、嬉しくなった。
 段ボールの上辺に前足を乗せ立ち上がっている茶色の猫が、自分も、と言わんばかりに鳴く。箱から出してやると、透明な床となったテーブルが珍しいのか、下を見ながらうろうろと動き回りだした。
 雲雀が歩み寄り、反対側のソファに腰を下ろす。両膝に肘を置いて頬杖をつき、綱吉の膝から箱に戻された猫たちを何気なしに見下ろした。
 何の感情も無い、静かで冷たい瞳。上からものを見下ろす視線に、箱に戻された猫は警戒心を抱いたのか彼に対し牙を剥く。それが気に障ったのか益々雲雀の視線は険しいものになり、綱吉は苦笑しながら大丈夫、と呟いて左右の手で猫の頭を撫でてやった。
 途端にゴロゴロと喉を鳴らして甘えた顔を作る猫達。雲雀の眉間に皺が寄る。
 一方の机を徘徊している茶色の猫はというと、一通り見回り終えたのか箱の傍にまで戻ってくると腰を落とし、身体を丸めた。すっかり寛いだ体勢で、物珍しげに雲雀を見上げている。
 一時間目終了のチャイムが鳴った。どこか他人事のように響き渡るチャイムに顔を上げ、思索を巡らせた綱吉は何か思いついたのか、急にポンと手を打った。
「俺、ちょっと購買に行って来ます」
 休憩時間ならば生徒が出歩いていても誰も文句を言わず怪しまれない。購買へ行って猫の食事に牛乳を買って来ると言い放ち、綱吉は鞄から残額の少ない財布を抜き取ると雲雀が何か言うより早く応接室を飛び出していった。素足のまま出て行きそうになって、慌てて濡れた靴を爪先に引っ掛けて。
 服装の乱れは整えてからにした方が良い、とまでさすがに言えず、開け放たれたままのドアを見送った雲雀は仕方なしに一度立ち上がり、ドアを閉めてソファへと戻った。
 首を伸び上げた茶色の猫がみゃぁ、と小さな声で鳴く。見下ろすと目があった。
 その猫だけは綱吉が感じていた通り、どこか図々しく元気だ。雲雀の視線にも少しも臆する事無く、警戒する様子も無い。肩を竦めて息を吐いた雲雀は、元の位置に座りなおすと何気なしに左手をその猫に差し出した。
 指の腹で喉を撫でてやる。小動物を飼ったことは無いが、知識として猫はそこを撫でられるのが好き、というのは知っていたからの行動であるが、思いの外茶色い猫は喉を鳴らし、気持ちよさそうに目を細める。
 自分を怖がらないというのに素直な驚きを抱いていたのに、この警戒心の無さ。茶色の毛並みと良い、大きめのアンバーの瞳といい、誰かを想起させて止まない。頭を撫でてやれば嬉しそうに擦り寄ってきて、人差し指を近づけると戯れに口を開いて舐めたり、噛み付いたり。
 思わず口元に笑みが浮かび、雲雀は綱吉が戻って来ているのにすぐに気付かなかった。
「あれ、ヒバリさん。随分とその子に気に入られてますね」
 肩で息を整えながら入って来た綱吉は、今度こそきちんとドアを閉めると開口一番そう言った。胸には購買で売っている牛乳パック。雲雀がそれをどうやって飲ませるのかと聞くと、綱吉は考えていなかったようであ、と声を出した後に苦笑い。
 呆れた雲雀が奥へ行って白い小皿を手に戻ってきたので、綱吉は再びソファの上の人となり早速パックの口を開けて中身を小皿に、溢れない程度に注ぎ入れる。雲雀と戯れていた子猫も振り返り、興味津々に綱吉の手元を見詰めていた。
 まず先に弱っている方からと、箱の中に小皿を置く。零れないようにバランスを取ってから手を離すと、最初は警戒していた二匹も顔を近づけて小さな舌を伸ばし、皿を舐め始めた。お腹が空いていたのか、二匹が相手だと小皿はすぐに空っぽになってしまう。
 皿を取り出そうと手を伸ばすと、匂いがついたのか綱吉の手まで舐める始末。くすぐったがって逃げ回りながらどうにか注ぎ足し、彼が笑っている間、雲雀は茶色の猫が寝転がるのを撫で回していた。子猫の、楽しげな声が無機質な応接室に響き渡る。
 間もなく、二時間目の授業が始まるチャイムが。
「いいの?」
「良いです。なんか、もう、行きづらいし」
 子猫を放り出して授業に集中も出来そうにない。昼休みにでも顔を出して、貰い手を捜そうと思う。率直に気持ちを告げると、雲雀は否定もせずに「そう」とだけ呟いて返した。
 それにしても、と綱吉は目の前の光景を眺めていて思う。
 雲雀がこんなにも子猫に心を向けるなど、最初は想像もしなかった。猫が好きか聞かれたが、その質問をそっくり彼に返したい。目線で問いかけると、彼は両手で茶色い猫を抱き上げる。
「随分と、お気に入りですね」
「そうだね」
 だらんと両足を垂らし、抵抗もせずに雲雀の好きにされている子猫を見上げながら、綱吉の言葉を肯定した雲雀が小さく笑った。
「誰かに、そっくりだ」
「え?」
 親指で喉を擽り、猫を弄りながらの呟きに綱吉は目を丸くし、首を傾げる。ジッと真正面から雲雀に見据えられるが、彼の言う「誰か」が誰のことだか分からない。自分の知っている人だろうか、と本気で悩みだした様子に、雲雀はやれやれと首を振った。
 両手で猫を抱いたまま、腰を浮かせて立ち上がる。つられるままに雲雀の顔を見上げて座ったまま首の角度だけを変えていく綱吉の頭へ、彼は何を思ったのか、その子猫を。
「……あの」
「なに?」
「いえ……べつに」
 時々この人が何を考えているのか分からなくなる。雲雀の手を離れ、綱吉の頭を新たな居場所に定められた子猫は綱吉の髪の色に毛足を埋めながら、湾曲する足場をずるずるとずり滑り落ちていった。本気で転落する寸前で、綱吉が両手を伸ばし受け止める。
 膝に下ろしてやると、子猫は満足したのか実に楽しそうだ。
 抱き上げて、自分の顔の横に子猫を掲げ、聞き返す。
「……似てますか?」
 雲雀は「さあね」と目を細め笑うだけだった。