蒼風

 ヴァリアーとの闘いも終わり、それも過去の話となった。
 その後様々に、ごたごたと、大変な目に遭ったりもしたけれど、どうにか落ち着いた生活を取り戻せるようになって、早数ヶ月。また夏が巡ってきた。
 出会い、助けの手を差し伸べてくれた人たちもそれぞれの生活へ戻っていった。その横顔を思い出さない日はないけれど、少しだけ記憶が色褪せ始めていた中学生活最後の夏休み。
 受験勉強に、最後の夏の大会や、宿題と、皆が皆忙しい日々を送っている。それを平和だと感じ、有り難いものだと思える自分を笑いながら、綱吉は水色のホースを手に蛇口を捻った。
 庭は青草が生い茂り、日の光を浴びて両手いっぱい広げている。奈々が手入れしている花壇では花が咲き乱れ、まだ沢田家に居座り続けている子供たちよりも背丈のある、綱吉とほぼ同じ身長のひまわりが南向きに聳え立っていた。
 彼はホースの先端を押しつぶすように親指を当てて持つと、蛇口を通して流れてくる水の圧力に負けないよう腕と腹に力を込めた。二つに割れた先端から勢い良く水が噴出して、庭に大きな滝を作り出す。
 いつもなら水浴びも一緒に出来ると、子供たちがはしゃいで外に出てくるのだけれど、今日に限って開け放った窓の向こう側は静かだ。ちらりと肩越しに振り返って確認すると、仲良くタオルケットに包まった子供たちの小さな足が並んでいる。どうやら昼寝の真っ最中らしい。
 そうやって静かにしていれば可愛いのにな、と肩を竦めて笑ってから、綱吉はまた花壇へ向き直って端から端へ水を撒いていく。午後一番の日差しは強く、どれだけ地面を湿らせてやっても夕方にはすぐに乾いてしまいそうだ。浮かんだ汗を拭い、綱吉は息を吐く。
 だからといって夕立は期待できないので、水をやらねば植物は乾いてしまう。
 自分から歩いて水場へ行くことも出来ないので、彼らはただじっと、雨を待つかこうやって綱吉がやっているように、誰かが水を与えてくれるのを待たなければならない。それはきっと、人に例えるならばとても辛抱のいる作業であり、飽きっぽい綱吉には到底真似できるものではない。
 強いな、と目の前で葉を生い茂らせる緑を眺め、表面に跳ねる水の眩しさに目を細める。そして漸く花壇の最後、簡素なハーブ園に水を与えたところで綱吉はホースの端を下向け、蛇口に戻ろうとした。しかし直前に動きを止め、一年ほど前に彼の前に現れた青年と同じ名前を冠した緑の植物を見詰める。
 彼は、元気だろうか。
 足元に水溜りが出来そうだったので、綱吉はやや早足でホースの根元へ戻った。銀色の蛇口を閉めて一息つく。胸いっぱいに吸い込んで吐き出した息はどこか青臭く、湿っぽい感じがする。
 長いホースをとぐろ巻く蛇のようにまとめ、再び庭へ向き直って縁側に腰を落とした。つま先を蹴り上げて見上げた空は真っ青で、時折吹く風は夏の暑さを一瞬だけ忘れさせてくれる。
 古びた記憶の引き出しから取り出された青年の控えめな笑顔は、この夏に吹く一陣の風を思い起こさせた。イタリアへ帰っていった彼は、今どうしているのだろう。
 時々国際電話がかかってきて、手短に互いの近況を報告しあったりすることはあっても、それは一ヶ月に一度あるかないかの頻度でしかなく、時差の関係もあってなかなか都合がつかないのも事実。それに既に彼は本来の職務に戻っており、綱吉ひとりにかまけていられない。
 綱吉の父親の下で働く彼は、なにかと多忙だ。綱吉がこうやって軒下でのんびりと時間を潰している間も、彼は危険な闇の中で息を潜め、姿の見えない敵と戦っているのかもしれない。
 それを思うと、自分の暢気さがある意味恨めしく思え、綱吉は溜息をついた。視界の先で自分の爪先がぶらぶらと揺れている。サンダルをひっかけただけの素足は、指先がちょっとだけ水を含んだ泥で汚れていた。
 と、家の前の道路をエンジン音響かせてバイクが走ってくる。直後にブレーキ音が聞こえて、顔を上げると辛うじて塀の向こう側に、郵便配達員がバイクにまたがったまま佇んでいるのが見えた。綱吉は反射的に立ち上がる、向こうも人の気配に気付いたらしい。
 白いヘルメットの、透明なカバーを持ち上げてにっこり微笑んだ、人好きのする笑顔の郵便局員は、どうぞ、と歩み寄る綱吉にはがきを一通差し出した。なんだろう、といぶかしみつつも綱吉が受け取るのを確認し、彼は上げたばかりのカバーを下ろしてバイクのエンジンを賑わせる。
「それではっ」
 短く言い残してエンジン音が鳴り響いた。見る間にその背中は遠ざかっていく。呆然と見送ってから、綱吉は手の中に残されたはがきを見詰めた。初めて見る絵柄の切手と、馴染みのないスタンプが押されている。上方には、エアメールと。
 宛名は確かに沢田家の住所だった。番地から記すスタイルで、下の方には赤文字でJapanとある。強調する為か、右肩上がりの下線が加えられていた。
 いったい誰からだろう、首を傾げ、やや厚みのある紙を裏返す。
 表面は簡素で味気ない、けれどインクからは異国の匂いがする。そして裏面はその香りが一層濃く、強く現れる。一面絵の具で塗りつぶしたような青空に、波飛沫を上げる海。手前側にはオレンジ屋根の民家が並ぶ鳥瞰図。色鮮やかな写真は、日本の風景ではない。
 綱吉は目を見張り、一秒遅れて息を呑んだ。
 ――イタリア……!
 撮影地の文言は見当たらなかったし、この景色に見覚えがあるわけではない。けれど直感的に、むしろ本能的に綱吉は知覚した。或いは彼の中に眠っている、遠いイタリアの血が、本人の与り知らぬ場所で騒いだのかもしれない。
 綱吉は胸の奥に溜まっていた息をいっぱいに吐き出した。忘れていた鼓動が耳に張り付いて、心臓が高鳴る。誰だろう、誰からだろう。こんな絵葉書を送ってくる相手なんて、そう多くない。
 綱吉はまた紙を表返し、そこに手がかりを探そうと懸命に文章を読み取る。しかしイタリア語で印刷された文字は彼の知力では理解できず、また人の手で書かれている内容もあて先である住所くらいしか見当たらない。ならば、と再度裏面に向き直り、彼は食らいつく勢いで端から端までを探った。
 あった。青空濃い色に紛れてすぐには気付けないところに、わざわざ青色のペンで書き記された文字。どこかで見覚えのある、綱吉に懐かしさを呼び起こす字。彼だ、沸き立つ逸る気持ちに背中を押され、綱吉は指を添えてそこに記されている文章を懸命に読み取った。
 文章と呼べるものではない、ただそれは分数のように斜め線で区切られた数字が2つ、波線で結ばれているだけの暗号めいたマーク。ひょっとして、と綱吉は顔をあげて背後を振り返り、その先に目的のものが見つけられなくて彼はじれったく地団太を踏んだ後、カレンダーを確かめようと縁側へ走った。
 見覚えのある数字、そこから想起されるもの。
「母さん、今日って何日?」
 子供たちの昼寝の様子を覗きに来た奈々を見つけ、綱吉は声高に叫んだ。しー、と唇に立てた人差し指をそのままに、奈々は綱吉の妙に嬉しそうな、そしてどこか焦っている様子に小首を傾げた。
「今日?」
「そう、今日って何日?」
 長期休暇中だと、毎日決まったことをしなければならないという規約から開放される為か、日付の感覚が鈍る。今日が何曜日かさえ時々忘れてしまって、カレンダーを眺め直す機会も多い。まさしく今の綱吉はその状態に陥っており、どうだったっけと頭の中を混乱させながら、暢気に構えている奈々を見上げた。
 彼女はえーっと、と呟いて視線を泳がせている。視線の先が暫く宙を漂った後、綱吉が息を切らしてぐったりする頃になってからやっと、「確か」と前置きをした上で日付を教えてくれた。
「でも、どうしたの急に」
「どうしたも、こうしたも!」
 相変わらず間延びした、おっとりした口調で尋ねて来る母親に、綱吉は両手を大きく振り回してから叫んだ。しかし続けようとしたら、またしても人差し指を唇に押し当てる仕草をされ、二の句が告げない。子供たちはまだ夢の中で、綱吉であってもそれを侵すことは許されない。
 彼は興奮したまま、しかしその行き先を見失って「ちぇっ」と置石をサンダルの裏で蹴り飛ばし庭へ戻った。
 空を見上げる。真っ青な色の中を旅客機だろうか、飛行機が遠く遥か頭上を通り過ぎていく。日差しはまだまだ強さを増して、見下ろした庭の花々は水を弾いて鮮やかに輝いていた。
 改めて絵葉書に目を落とす。両手でしっかりと大事に持って、この国ではない景色に見入っていると背後で、来客を知らせるベルが鳴り響いた。はーい、と奈々の返事が聞こえる。
 綱吉は顔を上げた。彼の立っている位置から左手、先ほど郵便配達の人から絵葉書を受け取った場所をゆっくりと振り返る。しかしそれよりも早く、奈々が玄関を開けるよりも早く、
「沢田殿!」
 堪えきれないといった風に音になった呼び声が、綱吉の胸を激しく揺り動かした。
 視界が薄茶色いもので一瞬埋まる、直後ふわりと両足が浮き上がって履いていたサンダルの片方が芝に落ちて沈んだ。頬に風を感じ、続いて力強く抱きしめる腕の温かさが綱吉を包み込む。
 記憶にある彼よりも、背が伸びた。腕が太く逞しくなった、声が少しだけ低くなっている、けれど、けれど。
 ああ、彼だ。根っこのところはちっとも変わっていない、彼だ。
「バジル!」
 綱吉は彼の名前を呼び、庭先で通行人の目もあるというのに思い切り彼を抱きしめ返した。手にしていた絵葉書が宙を踊り、木の葉のように揺れながら落ちていく。遠回りをして玄関を開けた奈々が、門柱前に形を崩して放置されているバジルの荷物を見て、あらぁと手で口元を覆い隠した。そして右方向の庭で繰り広げられている光景を見て、くすくす笑ってからお邪魔様、とひとり呟いて家の中に戻っていく。
「ああ。もう、吃驚した。いきなり来るなんて聞いてないよ!」
 一頻り彼の体温を感じ取った後、顔を上げて綱吉は赤い頬を誤魔化そうと怒鳴った。その爪先はまだ宙に浮いたままで、見下ろす先にいたバジルはあれ? と首を傾がせた。
「葉書を……送ったのですが」
「今日届いた!」
 そもそも彼は、日本とイタリアの時差や距離を念頭に入れていたのだろうか。下手をすればバジル本人の方が先に日本についていたかもしれない、その可能性を告げると彼は困ったように、それでも嬉しそうに笑って綱吉を一層強く抱きしめた。
「だって、仕方ないじゃないですか」
 どうしても気持ちが抑えられなくて、無理を言って長期休暇を貰ってきた。その日のうちに休暇の日程を記した絵葉書を出して、荷物を詰めてチケットの予約を取って。
「会いたかった……っ」
 感極まった声に胸が詰まる。言い返せなくて、綱吉は仕方なく彼の頭を抱えるように抱きしめる。彼の耳にだけ届くように囁いた言葉に、ふたり赤くなって、また声を立てて笑い合う。

――俺も、会いたかった。