聖心

 訪れた保健室はがらんどうとしていた。
「いてて……」
 あの保険医はどこへ行ったのだろう。ドアに預けていた上半身を動かし、左足を半ば引きずるようにして綱吉は室内を見回す。
 白が基調となった室内は消毒薬の匂いがする。清潔感を感じさせるカーテンと、綺麗に整えられた無人のベッド、施錠された薬品の並ぶ棚。可動式のワゴンに左手を置き、右足とのバランスを保ちながら左足への負担を減らした綱吉は、残る右手で低い椅子を引き寄せ身体を反転させてそこに腰掛けた。
 やっと一安心できると息を吐き出す。
「何処行ったんだろ」
 先程心に浮かべた疑問を改めて口に出し、綱吉は主不在の机を眺める。様々な資料か紙が山積みにされ、万年筆が半分埋もれている。足元のゴミ箱には失敗作らしい丸めた紙が押し込められており、数個納まりきらなかったようで零れ落ちていた。
 保険医というものはそんなに忙しいものなのだろうか、ぼんやりと考えるが想像がつかない。シャマルは大抵暇そうにこの部屋で椅子に腰掛け、窓際を通り過ぎる女生徒に声をかける事にばかり執心している風に見える。自他共に認める女好き、私生活はだらしなく男にだけ厳しい。
 その実、裏社会では名の知れた殺し屋であり、その体内には無数の病原菌を飼っている。見た目で人を判断してはいけないと分かっているものの、裏家業の話を聞かされると、どうもうん臭さが付きまとって俄かには信じがたい。
 だが、どちらの顔も本当の彼には違いない。
 子供ばかりの自分達を影ながら、そして時に表に立って支えてくれている、数少ない大人の理解者のひとり。そういえば格好良いのだけれど。
「留守なら鍵くらいかけていけよな」
 痛みの無い右足で、シャマルがいつも座っている椅子を蹴り飛ばす。キャスター付きの椅子は反動で反対側へと動き、背凭れを回転させて机の縁に当たって止まった。椅子の動きを目で追っていた綱吉は、その椅子が当たった整理が出来ていない机の上に、今まで目にした事のないものがあるのに気付く。
 再び左足を庇って椅子から腰を浮かせ、近づく。上から覗き込み、右手の中指に引っ掛けられて山を成しているプリント類から抜き取られたのは、鉛色と言うのだろうか、落ち着いた色合いの数珠と十字架を組み合わせた鎖だった。
 ロザリオという呼び名があるのだけれど、綱吉はそれを知らない。何に使うのかも分からず、彼は両手で持ち直すと小さな数珠の間にほぼ等間隔で並んでいる少し大きめの数珠、そして一際大きな数珠の先に繋がる十字架をしげしげと見詰めた。
 十字架には磔に処されたキリストの像がついている。それだけは金属製なのか、掌に載せるとずっしりとした感覚が綱吉を襲った。指で下端をつまみ、裏返す。なにやら細かい文字が刻まれているものの、日本語ではないのは歴然、読めるはずが無い。
 改めて小さな数珠が鎖となっている部分を持ち、顔の前高くに広げてみる。輪の長さは直線にして一メートルはあるだろうか。構成する数珠自体は小指の先よりも小さいので、全体としてはそれほど重くは無い。十字架に感じた重みは錯覚だったようで、綱吉は何故か安堵しながら試しにそれを首にかけてみた。
 シャマルの持ち物だろうか、勝手に弄って怒られやしないか。深く考えないままに綱吉は胸元少し下の位置、臍に近い部分に来る十字架を触れることなく見下ろした。あの男が十字架を持ち歩くこと自体、不釣合いな気がする。似合わない。
 どちらかと言えば酒瓶を隠し持っていそうな感じで、そっちの方が似合うよなと想像した綱吉がくすくす笑っていると、背後で人の気配がした。した、というよりは。
「なーにやってんの、人の机で」
 いきなり現れて、後ろから羽交い絞めにされた。
「シャマル!」
 どうしてこうも、自分の周りには気配を殺して接近する人間が多いのだろう。心臓が口から飛び出しそうなくらいに驚いた綱吉が背後の人物の名前を叫ぶと、相手は正解、と笑いながら綱吉の首に下げられているロザリオを指で掬い上げた。
 綱吉としては一秒でも早く、その圧し掛かる体重を退けて欲しいのだけれど、相手は意に介する様子もなく、ロザリオの十字架を引っ張り上げている。良く見れば細かい傷が無数に残る、決して綺麗とは言い難い指で表面のキリスト像を撫で、
「これ、首に架けるもんじゃないよ?」
「え、そうなの?」
 綱吉の使い方は間違っているとあっさり指摘され、綱吉自身が驚く。反射的にずっと庇い続けていた左足に自分の体重を乗せてしまい、足首から競り上がってきた激痛に息を呑む。流石にこれにはシャマルも気付き、身体を引いて綱吉を解放した。
 支えを失い、綱吉が力なくその場にしゃがみこむ。辛うじて右手は机上に残ったが、痛みの所為で目尻に涙が浮かび声も出ない。シャマルの手を離れたロザリオの十字架が胸の前で数回跳ねた。
「足か?」
 シャマルもまた、白衣の裾を床につけて腰を落とす。視線の高さを揃えての彼の問いに、綱吉は喉を擦る息を吐きながら辛うじて頷いて返した。
「階段……落ちっ」
「ああ、いい、言わなくて。分かったから」
 保健室へ程近い階段で見事に躓いたのが、この左足の理由だ。右足がまず滑って、咄嗟に残る足で踏ん張ろうとしたら足首が変な方向に曲がり、そのまま尻餅。幸いにも右腕が手摺りに残っており、体全部が落下するのだけは回避されたが、左足の痛みは治まるどころか痛みを増すばかり。今や両足を揃えて立つのさえ困難な状態。
 シャマルは綱吉の脇に腕を差し入れると、強引な力技で彼を引き上げた。ここで姫抱きをしたら鉄拳が飛んで来そうだなと笑うものだから、綱吉はされる前に拳を繰り出した。当然避けられた。
 溜息までついて残念がったシャマルは、乱暴なお姫様の左足を気遣いながら綱吉を椅子へ座らせた。先程まで綱吉が座っていた背凭れの無い方ではなく、体が安定しやすいシャマルが使っている方の椅子へ。
 背凭れに身体を預けると少しだけ痛みが和らいだ気がして、綱吉は若干熱の篭った息を吐き出す。その間にシャマルは無人の椅子を引き寄せ、綱吉の左足をそこに載せた。靴を脱がせ、靴下も脱がせてズボンの裾を器用に捲り上げる。
 それから、思い出したように綱吉の首からロザリオを取り外した。
「腫れてるな」
 綱吉の左足首は右足の同じ箇所と比べてもかなり大きさが違ってしまっている。人間の身体は不思議だ、などと場違いなことを考えていると、いきなりシャマルの手が患部を触って綱吉の口から悲鳴が漏れた。腰の辺りから首の辺りへ、背中に悪寒が走り抜けていく。
「骨は折れてない、と」
 しかし綱吉が痛みに震えているのも構わず、淡々とした表情でシャマルは症状を確認していく。足の親指を摘まれたり、何をしているのかパッと見分からないことをしてから、息も絶え絶えの綱吉の前にいきなり先程回収したばかりのロザリオを突き出した。
 鎖部分は手の中へ、十字架だけが垂れ下がっている。あまりの唐突さに次の手が出せず、目を瞬かせていると、シャマルが頭を掻きながら持っていろ、と短く告げる。両手を差し出して受け取ると、微かな重みが綱吉に降りかかった。
「それ握って、マリア様にでも祈ってろ」
「キリストじゃなくて?」
「ああ、知らないんだったら良い」
 お前の信じるカミサマに祈れ、とぶっきらぼうに言い捨てられ、綱吉は釈然としないまま手の中に戻ってきたロザリオを眺めた。他に集中していないとすぐに意識が左足に向いてしまい、痛みを思い出すので、こう言っては何であるが気を紛らわせるのには丁度良かった。
 それにしても、やはりシャマルとロザリオとはあまりにアンバランスすぎて変な感じがする。彼は今綱吉に「祈れ」と言ったが、彼もまた神へ祈りを捧げたりするのだろうか。
 首を傾げつつシャマルの背中と交互に眺めていると、冷蔵庫のドアを閉じた彼が呆れた顔をしつつ戻ってきた。手には小さめの氷嚢が握られており、彼は水道の蛇口を捻って中に少しばかりの水を注ぐと、漏れないように口をしっかりと締める。そして真新しいタオルと一緒に綱吉の足元へ。
 氷嚢をタオルに包み、腫れている箇所に押し当てる。
「……っ」
 傷に触れられた痛み、そして急に皮膚を冷やされる痛み。両方が入り混じり、綱吉は身体を丸めながら息を呑んだ。ロザリオを強く握り締める。
「これで暫く冷やしとけ。温くなったら言えよ」
 氷嚢がずり落ちないようにバランスを取って手を放したシャマルが言う。痛みを堪えるのに必死の綱吉は殆ど聞いていない。彼は吐息をひとつ零し、強張っている綱吉の肩から背中にかけてをゆっくり、優しい手つきで撫でてやった。
 ゆっくり、緊張を解きほぐし息を吐き、吸い込む。堪え切れなかった涙がひとつ頬を伝うと、伸びてきたシャマルの太い指がそれを弾き飛ばす。大丈夫だと言わんばかりの彼の手が頭を撫で回し、たっぷり三分ほどかけて綱吉はどうにか呼吸を整えた。
「ったく。ヤローの治療はしねぇつってるのによ」
 珍しくサービス良くしちまった、とボヤキながらシャマルが離れる。彼の遠ざかる体温を名残惜しげに見上げ、綱吉は両手を中のロザリオごと額に押し当てた。
 信じる神が違うはずなのに、こうしていると不思議と気持ちが落ち着いた。
 足は相変わらず鈍い痛みを発している。氷の冷たさも加わってかなり痛い。しかしまるでその部分だけが体から切り離されたみたいに、感覚が遠い。吐く息は変わらず熱を持っているけれど、涙を堪えなければならない程ではなくなった。
「シャマルが優しい」
「うるせぇ」
 珍しい、と呟くと照れたのか即座に声が帰って来る。それに笑って、綱吉は腕を引いて膝に落とした手の平を開いた。
 鈍色のロザリオ、十字架に縛られたキリスト。
「これ、シャマルのだよね」
「おー」
 コーヒーを入れに行ったシャマルの背中に問いかけると、皺だらけの白衣を揺らし彼の右手が持ち上がった。そのまま電気ポットを持ち上げて、インスタントの粉を放り込んだカップに湯を注ぎ入れている。
「ほら」
 再び戻ってきた彼の手には白いマグカップがふたつ。誰の趣味か分かる露出度の高い女性のプリントがされたカップはシャマルに、無地のカップは綱吉に。中身はコーヒーかと思われたが、綱吉に渡されたのはココアだった。
 他にも、時々訪ねて来るリボーンの為にカプチーノも用意出来るらしい保健室は、意外にも飲み物に限って言えばそこいらのカフェより充実しているかもしれなかった。
 綱吉はロザリオを膝に置き、両手でカップを受け取って顔に寄せる。まだ熱いそれに息を吹きかけ少し冷ましてから、舌先で水面を突いて温度を確かめ、ひとくち。
「猫舌か?」
 既に音を立ててコーヒーを啜っていたシャマルが後ろで笑っている。五月蝿いな、と愚痴を言って綱吉は更にふたくち、喉に濃いココアを流し込んだ。
 横から腕が伸びてきて綱吉の膝に触れる。もとい、ロザリオを取り返していく。
 ココアを飲みながら目線だけで行方を追った綱吉は、腰を捻って机に凭れかかっている髭面の男を見上げる。本音を表に出す事も滅多にない男が、瞳を細め十字架を懐かしむように見詰めている。
「シャマル?」
「今は俺のだが、そうだな。形見ってところか」
「誰の?」
 反射的に聞き返してから、それが愚問だというのを綱吉は思い出す。幾多の戦場を駆り、闇の世界で暗躍を繰り返す彼にロザリオを託す相手など、彼と同じ穴の狢に決まっている。もしかしたら両親のものかもしれなかったが、シャマルが見詰める瞳の色からそれは考えにくい。
 しまった、という表情があからさまなまでに出てしまっている綱吉に、シャマルは肩を揺らして声を殺し笑った。
「その素直すぎる性格、直しておいた方がいいぞ?」
「……うるさいな」
 大人になってから苦労する、と頭を軽い力で叩かれた。唇を尖らせて拗ねる様はまだ綱吉が子供だと彼に思い出させる。狡賢いばかりのやり取りは、まだ学ばなくて良い年頃なのだ。
 たとえ彼が、将来マフィアという犯罪組織の頂点に立つ人物になるかもしれないとしても、だ。
「俺がロザリオなんて持ち歩くのはそんなに変か?」
「ロザリオ……ていうんだ」
「そんな事も知らなかったのか。カトリックの奴なら大抵持ってるぞ」
「シャマルがカトリックっていうのも、初耳かも」
「どこまでも失礼な奴だな、お前は」
 今度は若干本気気味に頭を叩かれてしまった。
 両手で大事に抱いたマグカップの中身が大きく揺れる。波立つ。中身がかなり減っていたので零れずに済んだが、黒々しい高波が壁に当たって崩れていく様はなかなか絶景だった。
 ふと思い出す足の怪我、先程までの痛みはほぼ薄れ、氷も溶けて来たのか氷嚢が生温く感じられる。
「シャマル」
 顔を上げて彼を見ると、綱吉の言いたいことがそれだけで分かったのか、マグカップを片手で持ってコーヒーを飲みつつ、ひとつ頷いた。
「んじゃ、痺れるくらいになったらまた教えてくれ」
「このまま?」
「ああ」
 外さないんだ、と左足の親指に力をこめて折り曲げたりしつつ、綱吉はココアを一気に飲み干した。額に薄く汗が浮いている、大分気持ちが落ち着いてきた。
 空になったカップはシャマルに回収され、一旦テーブルの上に。手持ち無沙汰になった綱吉へ、またしてもロザリオが戻ってきた。
「イタリアはバチカンのお膝元だぞ?」
 そう言われて渡されて、そういえばそうだったと社会科の授業を何気なく思い出す。ローマ法王がいる国、キリスト教の中心。
「じゃあ、シャマルも日曜日に礼拝とかしたりするの?」
「俺は不真面目なんでね」
「だよね」
 彼が膝を折り十字架の前で手を結んで祈りを捧げている姿、想像するだけでなんとも絵にならない風景なのだろう。声を立てて笑った綱吉の頬を小突き、シャマルは残っていたコーヒーを飲み干したようだ。カップを机に、綱吉が使っていたものと並べて置く。
 そしてやや腰を丸め、綱吉の左側後方に立ち肩越しに腕を伸ばしてロザリオの鎖部分を取る。
 一部だけが宙に浮いた鎖、彼はそれをゆっくりと、左の親指を立ててその下に人差し指を添え数珠ひとつひとつを爪繰っていく。なにやら言葉を紡いでいるようではあるが、綱吉にはその意味が理解できない。
 ただ、祈りの言葉だろうというのは想像できた。
 英語? イタリア語? ラテン語? 耳に馴染みのない、けれど心に染み入るような低い穏やかなリズムに、綱吉はいつの間にか目を閉じ聞き入っていた。背凭れに身を寄せたシャマルの体温が近い、彼のあいた右手が綱吉の右手に重なる。一緒に祈りを捧げているような気分になって、心が空に浮かんでいくようだ。
 長いようで短い祈りが終わる。耳元で安堵の息を吐く音と熱がして、目を開けると本当にシャマルが近い。心臓が跳ねて綱吉は飛びずさりそうになった。
 左足から氷嚢が落ちる。彼は何事もなかったかのように、綱吉の動揺などそ知らぬ顔をして床に落ちた氷嚢を拾いにいった。
 左足が痺れているような、そうでないような感覚。そこに本当に足が繋がっているのか分からなくて、つい綱吉は自分の身体を睨むように見た。大丈夫、ちゃんと繋がっている。視覚でしか認識できない状態に少なからず焦っていたら、氷嚢の中身の融け具合を触れて確かめていたシャマルが、ふむ、と頷く。
「じゃあ、暫くこのままな」
 氷嚢は足に戻されず、中身を捨てに彼は水道へ向かう。綱吉は手の中のロザリオを指でなぞった。彼がそうしていたように爪でひとつずつ数珠を繰ってみるが、先程までのような精神の高揚感は一切起こらない。
 日曜礼拝をしないシャマル。それでも誰かの形見だというロザリオを手放さない、神を信じる男。
 女の尻を追いかけ放蕩三昧、病弱でありながらそれを克服させる術を持つ男。人を生かす能力と、人を殺す能力と両方を兼ね備え、依頼があればそれに応じる。彼の手は確かに暖かいのに、彼の手は綱吉の知らない人間の血で濡れている。
 神は人に、人を殺すなと戒めた。だのに神の戒めは彼を縛れない。神に逆らいながら、神への祈りを口にする。
 矛盾している。
 それなのに、どこまでもこの男らしいと思えてしまう。
「踏ん張って歩くのは当分やめておいた方がいいな。あとでテーピングしてやる。帰りは、車で送ってやるよ」
「いいって、平気だから」
 もう痛みも大分引いた。まだ引きずらなければならない感じはするが、ひとりで立って歩いて帰るのには問題なさそうだ。軽く左足を持ち上げて踵から椅子に戻す。伝わる鈍い振動に神経が揺れた。
 綱吉の右頬が引き攣る。ほらな、としたり顔のシャマルが癇に障る。
「でも車は大袈裟だって」
「たまには大人の言う事を聞きなさい」
 ごん、と丸めた拳で頭を真上から殴られた。むしろこちらの方が痛い。
「え~~、こんな時だけ大人を持ち出すなよ」
 卑怯だぞ、と涙目で怒鳴れば、人が折角親切心で送っていってやると言っているのだから、甘んじて受け取れとシャマルも譲らない。
 そして、結局。
 中古車の助手席、シートベルトを忘れない綱吉がふと、未だ手の中にあるロザリオに視線を落として呟く。
「シャマルは、カミサマに何を祈るの?」
 運転席でエンジンを起動させるべくキーを回転させていた男が、小さなその声に眉根を寄せた。
「俺は、神様なんぞに祈ったりしねぇよ」
「じゃあ、なんで」
「俺が祈るのは、俺の可能性にだけだ」
 ロザリオも、十字架も、神への賛歌も、自分を高め自分を鼓舞し、閉ざされた可能性を強引に切り開くための儀式でしかない。
 神への祈りは心の糧だ。神の恩恵は其処に在る。彼の手に拾われようとは思わない。もし祈るのだとしたら、それは己が逝く時だ。
 ロザリオは鎖。先に逝った者との楔。エンジンが低く唸り声を上げる。振動が左足に伝わり鈍い痛みが綱吉の表情を険しくする。煙草に火をつけたシャマルが、だが、と前を見据えたまま言った。
 綱吉が彼の横顔を見詰める。夕日が差し込む車内に、濃い影が落ちる。彼はその先を告げず、綱吉はその先を求めることが出来なかった。

  嗚呼、神よ。
  天におわす神よ。
  貴方に祈ろう、魂を賭けて、この命を賭して。

 驚いた顔をする綱吉の瞳は、宝石箱の中に閉じ込めておきたいほどに綺麗で。
 だから、彼のこの綺麗な瞳がいつか自分のように、草臥れて輝きを失ってしまうことを恐れてしまう。
「シャマル?」
 己の口元を手で覆い隠した彼の赤い顔が、夕日の所為だなんて勝手に決め付けて、シャマルはハンドルを握りアクセルを踏みしめた。

  神よ。
  貴方に祈る。貴方に願う。どうか、聞き届け給え。
  彼の魂を。どこまでも純粋で穢れを知らぬ無垢なる魂を。
  彼が貴方の御許へ召されるその日まで、どうぞお守りください。
  彼の罪は、罰は私が背負いましょう。彼の罪を、罰を、故にどうか御赦しください。
  我が命は地獄の業火に焼かれようとも、この願いだけはお聞き届けください。
  千年の責め苦にも耐えましょう。万年の辛苦にも耐えましょう。
  神よ。
  天に坐す神よ。