夜も更けて、今日一日分の汗を風呂で流し終えた後、冷蔵庫を物色していたら鳴り響いた電話。こんな時間に誰だろう、といぶかしみながら牛乳をコップに注いでいたら奈々から手渡された受話器。首からかけたタオルで襟足に残る水滴を拭いながら、綱吉は首を傾げて綱吉はワイヤレスフォンを受け取った。
聞こえてきたのは、ここ数日姿を全く見せなくなっていた彼の親友の声だった。
「山本?」
どうしたのだろう、こんな遅くに。
彼の元気のよさに驚きつつ、綱吉は落としそうになったコップをテーブルに置く。それから見上げた時計の針は、もう九時を半分過ぎた頃を示していた。
『いやさー、結構苦労したよ、抜け出すの』
電話の向こう側では、山本が綱吉の驚き具合を笑っている。楽しげな彼の声には、いったいどこからかけているのか虫の音が混じっている。綱吉の記憶が正しければ、彼は今、郊外の山奥へ、野球部の合宿に出掛けているはずだ。
だから最近は顔も見ないし、声も聞いていない。いつ帰ってくるか正確な日取りは聞いていないが、出掛けるという数日前に一週間くらいは泊り込みで野球詰めだと楽しそうに言っていたから、きっとまだ合宿の最中なのだろう。抜け出してきた、というのはつまり、合宿所からということか。
「どうしたのさ、急に」
『んー、なんとなく。ツナ恋しいってやつ?』
「なにそれ」
いつも通りののんびりした山本の口調に和むが、綱吉は電話を握りながら赤くなった頬を掻いた。そうやってしれっといえるところが、益々彼らしい。と同時に、たった数日でも彼に会っていない現実に、急に胸がしんみりとした。
黙りこんでいると、山本が電話の向こうでひとつ咳払いをする。彼もまた、もしかしたら照れているのかもしれない。
「合宿、どう?」
だからわざとらしくはあるけれど、綱吉は話題を変えた。
『結構ハードだな、本当。朝から晩まで野球ばっかり』
流石にちょっと飽きてきたかもしれない、と笑いながら山本が言う。けれど綱吉は知っている、彼がどれくらい野球を好きで、その野球が一日中楽しめる今をとても喜んでいることを。
会えないのが寂しいなんて、口が裂けても言ってはいけない。ぐっと腹に力を込め、綱吉はでかかった台詞を飲み込んだ。
テーブルのコップが静かに汗をかいている。彼は天板に貯まった雫を指でなぞり、あてもなく線を書いた。それは伸びきる前に途切れ、点々としか残らない。
「じゃあ、真っ黒になってるんじゃない?」
『そーだな、他の連中もそうだけど。ぼろぼろ皮が捲れてきてる』
太陽の下でユニフォームに身を包み、元気いっぱいに駆け回っている山本を想像する。一時は野球が出来ないかもしれないと悩み、極論にまで至ろうとしていた彼からすれば天と地の差だ。その役に立てたことがなにより、綱吉には誇りに思える。
彼が生きていてくれてよかった、と。
「今、どこからかけてるの? 合宿所じゃないよね」
時折耳に聞こえる虫の音色。綱吉たちが暮らす住宅地では滅多に耳にすることもない、夏場の自然が演出する合唱団。目を閉じると風景が思い描かれて、綱吉の心は少しだけ遠くへ飛んでいった。
山本の元へ、心だけでも飛んでいけたらいいのに。
『そうそう。この辺携帯も通じなくって、あと合宿所の電話も使用禁止にされてっからさ』
顧問曰く、無用な煩悩は全て遮断すべし、という方針らしい。だから携帯電話の持ち込みはもちろん、携帯ゲームやテレビの持ち込みも一切禁止。外へ連絡をするのも顧問の許可が必要で、それが唯一、息が詰まると山本は愚痴を言った。
それでも彼はランニング途中にある、夜中の十時には閉店してしまうコンビニエンスストア前に電話ボックスがあるのを見つけ、そこまでこの暗い中走って来たらしい。街灯も無い道を危なくないのか、と心配の言葉を告げると、彼はからからと笑った。
『大丈夫だって。一応懐中電灯とかもあるし。山奥つったって、合宿所が整備されてるくらいだし、そんなに寂れてないって』
彼が言うなら本当だろう、誰かと違ってそうそう無茶はしないからとホッと胸を撫で下ろしつつ、綱吉はそこまでして自分に電話をしてくれたことを嬉しく感じた。胸の奥で、ぽっかり空いていた隙間がほんのりと淡い光に包まれる。
テーブルの水溜りが少し大きくなった。夕食の片づけをしていた奈々の姿も、いつの間にか見当たらない。暗くならない程度に灯る天井の照明が、床に幾つも重なる影を落としていた。
人の気配は途絶え、ただ電話から聞こえる山本だけが綱吉を現実に繋ぎ止めている。
綱吉は僅かに後ろへよろけ、それから思い出したように椅子を引き、腰を落とす。両肘をテーブルに置いて頬杖を着くと、受話器が一層耳に密着して、山本の声が真横から聞こえてくるようだった。目を閉じれば、尚の事。
山本の存在が、近い。
「本当に?」
『嘘言っても仕方ないだろ』
「そうだけど」
なんだか急に胸が詰まって、泣きそうになって綱吉は髪を掻き上げた。まだ湿った毛先が指に絡まり、解こうと動かすと余計にこんがらがる。こんな時に限って、と舌打ちしていると、不意に押し黙った山本が息を吐いた。
ぞくりと背筋が震える。湯冷めでもしただろうか。
『なあ、ツナ』
もったいぶった風の口調は、トーンが低い。
「なに?」
聞き返す綱吉の声も僅かに上ずり、裏返っている。どきどきする心臓が五月蝿くて、電話越しに聞こえやしないかと冷や冷やした。
ただ、山本はそれ以上何も言わずにまた黙り込む。綱吉は受話器を握り締めたまま、目の前のテーブルに点々と散らばる水滴をただ見ていた。
『今、窓から外、見れるか?』
「外?」
いったいなんだろう。まさか実は合宿所を抜け出してここまで走って帰ってきて、玄関先に実はいたりするなんてベタな展開ではなかろうか。
そんな風に淡い期待を胸に抱いても、台所の狭い窓から見える景色は限られている。背の低い庭木が、闇の中でこんもりと葉を茂らせていた。庭先にも、玄関先にも人の姿はない。そんなわけないよな、と落胆する自分を小さく笑いながら綱吉はシンクに凭れかかった。
「見えるけど、なに?」
『月、見えるか』
低く落ち着いた感のする山本の声。いつだって穏やかで、けれど締める時はいつだって真剣な彼の横顔を思い出す。今彼は、どんな顔をしているのだろう。
綱吉は言われてすぐ、受話器を持ったまま顔を上げた。網戸越しに見える空は暗く、身を乗り出さなければ殆ど見えない。綱吉は爪先立ちになり、窓に体を寄せた。辛うじて薄雲の隙間に、淡い光を放つ月が見える。
満月とまではいかないが、ふっくらとした表情をした月だ。
「見えるよ」
『そうか』
短く答えると、やはり短く山本が返した。
『俺も、見える』
何が、とは言わない。ただ綱吉は彼がきっと今、綱吉と同じように受話器を手に月を見上げているのだというのが分かって、嬉しくなる。
遠く離れていても、同じものを見上げている。
「綺麗だね」
『そうだな』
思わず呟くと、間髪いれずに山本の相槌が返って来る。綱吉は余っている片手に力を込めて体を浮かせ、行儀が悪いと知りつつも母に心の中で謝り、シンクに腰を置いた。ぐっと近くなった窓から、改めて外を見る。
雲が流れているのが分かる。月はその影に時折隠れながらも、静かに優しい光を放って地表を淡く照らしている。その光はこの街だけでなく、山本のいる場所にも、また。
『ツナ』
暫くそうやってふたりして同じ月を見上げていたけれど、不意に山本が綱吉を呼んだ。現実に引き戻され、綱吉は数回瞬きを繰り返す。
「なに?」
『合宿終わったら、お前に一番に会いに行く』
「え?」
『だから』
「……分かった」
待ってる、と呟いて綱吉は両手で受話器を抱きしめた。まるでそれが、山本の一部であるかのように、大切に、いとおしげに。
目を閉じて。
「会いに来て」
願いが叶うその日まで。月はきっと優しく見守ってくれる筈。