摂氏

「ツッくーん」
 階下から奈々の声がする。夏の暑さに負けてベッドの上で寝転がっていた綱吉は、鬱陶しそうに額に張り付く髪の毛を押し上げ、左手に握っていた団扇を床に落とした。
 起き上がらなければならない、呼ばれているのだから。しかし冷房装置など子供には必要ない、というお達しから使用を禁じられているお陰で、うだるような暑さから逃れる術を持たない彼はだらしなく舌を出したまま、うーん、と一度唸って寝返りを打った。
「ツッくーん。いないのー?」
 奈々の声が続いている。綱吉はもぞもぞと身じろぎしながら、同じく足元で暑そうにしているランボを蹴り飛ばさないよう注意しつつ、膝を曲げて体を丸めた。
 夏休みも盛り、暑さも盛り。毎日続く真夏日に、じりじりと肌を焦がす太陽が恨めしい。そんなに地上を睨み付けなくてもいいではないか、と日々燦燦と輝く太陽を見上げながら元気溢れる子供たちの相手をするのは、綱吉にとって過酷な労働に等しかった。
 学校から出された宿題だって、半分も終わっていない。このままずっと終わらないのではないだろうか、と薄目を開けた綱吉はぼやける視界の中、部屋の中央に置かれた座卓に積み上げられたテキストを眺めた。半端なページで開きっぱなしのそれは、多分記憶が正しければおとといからあのままだ。
「あつ~~い」
 もうこんな気温が続くようであれば、いっそ北海道か、はたまた北極に移住してしまいたくなる。今度は仰向けに寝転がって着ているシャツの襟元をつまみ、パタパタと仰いで風を送ってみても、服と肌の隙間に潜り込んでくるのは、日本の夏特有の湿気を多量に含んだ粘つく空気ばかり。ちっとも涼しくなりやしない。
 足元のランボが魘されながら逆向きに転がる。昼寝の必要な子供だから彼の居眠りは咎められることがない、しかし着ている服からして暑そうで少し可愛そうになる。もうひとりの赤ん坊、リボーンはリラックスした夏服を着込み、レオンと一緒に部屋の天井からハンモックで矢張りお昼寝中だ。
 綱吉は落とした団扇を拾おうと、そちらに目を向けないままに手探りしてみたが、指先が触れるのは汗にまみれて着替えたシャツや机から転がり落ちたシャープペンシルや、そういった類のものばかり。目的の品とは程遠い。
「うー……」
 苦虫を噛み潰した顔をして唸るが、見つからないものは仕方が無い。体を起こしてちゃんとすればすぐに済むことなのに、今はそれさえもやりたくなくて、彼の手は結局ベッドの上に戻された。
 朝の天気予報、今日の最高気温は予想で三十六度と告げていた。ほぼ体温。そんな日に活発に活動しようとする方がおかしいのだ、と自分を正当化する言い訳を次々と頭に思い浮かべ、そういえばさっきの母の呼び出しはなんだったのだろうか、と首を傾げた。
 声は止んでいる、気配を読もうと息を殺してみても、廊下を歩く人は居なさそうだ。ランボの寝息が聞こえてくるが、リボーンは静かなことこの上ない。
「?」
 だけれど、なんだろう。胸の奥がむずがゆいような、何かが言葉にし辛いものがそこにある。
 綱吉は両腕を広げ天井を見上げた。何の変哲もない、至って代わり映えのしない日本の一般家庭の天井だ。端の方に蜘蛛の巣の残骸が見える。夏休みが終わる前に、少し涼しい曇りの日を選んで、窓掃除から全部やってしまおう。そんな事を考える。
 どうせ子供たちがはしゃぎまわって邪魔をして、掃除をする前よりも酷い状態になるのだろうけれど。
 ああ、毎年心待ちにしていた夏休みだというのに、幼子の相手をするだけで体力も時間も費やされてばかりとは、中学生の分際で自分はなんと損をしているのだろう。誰か変わってくれないか、もしくは一緒に子供たちのパワーに対抗してくれる心優しい頼もしい人はいないだろうか。
 そんな風に目の前が真っ暗になる気分で目を閉じる。ドタドタドタっ、とけたたましい足音が響き渡ってきたのはその直後。
 なんだ? と思う間もなく。
「十代目、ご無事ですか!?」
 換気用で少しだけ隙間を空けていたドアが、打ち破られんばかりの勢いで開かれた。バンッ、と超特大の効果音を背負って登場したのは、全身汗だくで派手な色合いのシャツを重ね着、やはり汗に濡れた銀髪の青年。イタリア育ちの彼でも日本の夏は暑いのか、グレーのスウェットパンツは膝が覗く七分丈。
 いつものように口に萎れ掛けの煙草を咥え、眼は至って真剣にベッド上で寝転がっている綱吉を見詰めている。この暑い最中に、暑苦しい男が登場したものだ。顎を引いて入って来た人物を見た綱吉は、そんな風に思いながらまた頭を枕に落とした。
「十代目、やはりどこか具合が悪いのですか!?」
「ええ?」
 いったいどこで何を聞けばそんな発想が出来るのだろう。怪訝に顔を歪めた綱吉は、どうにか両手をついて上半身を起こす。ノックもなく部屋に飛び込んできた獄寺は、手に持った袋を大事に扱いながらドアも閉めずに近づいてきた。
 その額には、どこから全力疾走してきたのか玉のような汗が浮かび、時折思い出したように肩を上下させて息を吐く。整ったラインの顎を、汗が伝い落ちた。
「具合が悪いって……そんなわけないよ」
 ただこの暑さに負けて、ベッドでごろごろしていただけ。顔を顰めながら近づいてくる獄寺に反論し、綱吉は唇を尖らせた。足元では、寝苦しそうにしながらも起きる様子が無いランボがコロン、と反対向きに転がる。もう少しで落ちそうな位置に来ていたので、綱吉は足を引っ込めながら手で彼を壁際に押し戻した。
 むしろ綱吉より、体温をまだ上手く調整できないランボの方がずっと、具合が悪そうだ。
「ですが……」
 獄寺は僅かに視線を泳がせ、綱吉がタンクトップとトランクスという下着姿なのに今頃気付いて頬を赤く染めた。今更照れる必要がどこにあるのだろう、男同士なのに、と綱吉は半分呆れつつ、仕方が無いので脱ぎ捨てていたハーフパンツを探して足を通した。
「先ほど、お電話したら十代目から返事がないといわれたので」
「へ?」
 もじもじと、それでも居心地悪そうにしている獄寺が言うのを聞いて、一瞬目を丸くした綱吉はややしてから、ああ、と頷いた。先ほどの奈々の呼びかけは、それだったのか。
 面倒だったから返事をしなかったけれど、電話がかかっていたのか。ならば納得がいく。しかしたったそれだけで、綱吉の具合が悪いと極端な方向へ思考が巡る獄寺はやはりちょっと、どうかしている。つい、綱吉は声を立てて笑ってしまった。
「なんでそうなるわけ?」
 咎めるわけでなく、茶化すように立ったままでいる獄寺を見上げる。すると彼は益々顔を赤くしながら、人差し指でしきりに頬や顎を掻きむしった。
「それで、なに。わざわざ電話かけてまで来るってことは、俺に用あったんでしょ?」
 その電話に出なかったから、今獄寺はこうして沢田家に押しかけてきているのだが。用件もなく電話を鳴らして、それにつきあっていられる程綱吉だって暇ではない。暇だが。
「え……と、どうせですから、一緒に宿題でもどうかと……決して、その、ただ十代目に会いに来たとかそういうわけでは」
 ほら、と彼は持っていた袋のうち片方を綱吉に示した。通学に使っているのとは若干異なる布鞄で、表面に四角形の線が浮き上がっている。恐らくは教科書かノートかが、或いはその両方が入っていると想像された。
 そして、もうひとつの袋。
 乳白色のビニル袋、表面は皺が沢山出来ているけれどその表面には見覚えのあるマークが描かれている。近所のコンビニエンスストアのマークだ。
 綱吉が見せられた鞄ではない方を注視しているのに遅れて気付き、獄寺ははにかんだ笑みを浮かべた。
「それから、これ。暑いですし、お土産にと買ってきました」
 好きですよね、と袋ごと差し出された中身はひんやりとした空気をまとっており、綱吉の喉が無意識に鳴った。ごくり、とまだ幼い喉が上下する。
「いいの?」
 受け取るのにちょっとだけ躊躇し、綱吉はベッドの上で両足を外向きに折り曲げて座りながら上目遣いに獄寺を見た。彼は照れ臭そうに頭を掻きつつ、どうぞ、と頷く。
「十代目の為に買ってきたので」
 そう言って渡されたのは、冷凍庫から取り出されて少し時間が経っているからか、表面に淡い粒を浮かせて白い煙を細くたなびかせているアイスクリーム。袋越しに触れてもそれはとても冷えていて、火照っていた綱吉の体をじんわりと冷ましてくれた。
 嬉しさに身震いしそうだ。
「ありがとう、獄寺君!」
 心底嬉しそうに花を咲かせて笑い、綱吉は獄寺を見上げた。アイスは二個しかない、どっちを食べようか今度は指を咥えて考える。そうして買ってきてくれた相手に、どちらが良いか聞こうと目を上げた瞬間。
 真っ黒い巨大な影が綱吉の前を飛び過ぎていった。
「あいす~~~!」
 え、と驚いて手元を見たときにはもう、アイスの入った袋ごとなくなっていた。変わりにいつ眼を覚ましたのか、ランボが袋を抱えてベッドの反対側に座っている。バリバリと何かを破る音が聞こえて、見る間に獄寺の顔が青ざめていった。
「てめぇ、この牛!」
 呆気に取られる綱吉に代わり、獄寺が拳を振り上げて怒鳴る。しかし、
「うるせーぞ、お前ら」
 リボーンの容赦ない冷徹な声の後、獄寺が「うっ」と呻いて前のめりに倒れこんだ。見れば彼の後頭部に、至近距離から発射されたゴム弾がめり込んでいる。
 その隙にランボは大口を開け、ソーダ味のアイスにかぶりついた。ひとくちで半分近くを含んで、その冷たさにキーンと来たのか、目尻に涙を浮かべさえして。
「獄寺君、獄寺くん、大丈夫?」
 肩に手を置いて揺さぶると、獄寺は唸りながらも目を開ける。それからハッとなったように体を起こし、アイスも残り半分食べ終えようとしているランボの首根っこをいきなりつかんで持ち上げた。
「てめぇ、それは十代目の為に買ってきた奴だ、今すぐ吐け、吐け!」
 幾らなんでも人が食べて吐いたものを食べたくはないが、綱吉は本気の勢いを獄寺に感じて冷や汗をかいた。大慌てでランボとの間に割り込み、袋に残っている一個を掴んで獄寺の前に差し出す。ほら、まだ
残っているから、と早口にまくし立てて、
「半分ずつにしよう、ね?」
 小さい子のやったことなんだから大目に見てあげて、と小首を傾げて言うと、獄寺はもう反論できない。渋々とランボを床におろし、はい、と小声で頷き返した。
 それに漸く安堵の表情を浮かべた綱吉は袋を破り、中身を取り出す。そしてちょっと困って肩を窄めた。
 ああは言ってみたけれど。
 イチゴ味の棒アイス、どうやってふたりで分けようか?