硝子球

 掌の中でキラキラ輝く、親指大のガラス球。光を受けて眩しいくらいに輝くそれは、小さな中にまるで太陽を閉じ込めたように見えた。
「沢田殿、これは何ですか?」
 綱吉の部屋、その片隅で掃除の手伝いをしていたバジルの声に、洗濯したてのカーテンを吊るす作業をしていた綱吉は椅子の上に立った状態で首から上だけを振り返らせた。
「ん? なに?」
 ただでさえ不安定な足場、集中していなければバランスを崩して落ちてしまいかねない。頭上遥かのカーテンレールに腕を伸ばしていた彼は、だからバジルの声がしたのは気付いたものの、何を言われたのかまでは把握しきれて居なかった。白いプラスチックの器具にややくすんだ銀色のクリップを通しながら、綱吉は抱えたカーテンの重みに苦しみつつ、聞き返す。
 一方床に腰を下ろし、本棚の下の方に無理やり詰め込まれていた雑誌や、綱吉の小学校時代と思われるテストのプリント等を引っ張り出していたバジルは、大変そうにしている綱吉に気付いて慌てて立ち上がった。急ぎすぎた所為で膝の上に大量の紙類が積まれていたのを忘れる。
 ばさばさと音と埃を撒き散らし、バジルは盛大に、前のめりに転んだ。振動は椅子の上の綱吉にも僅かながら伝わって、「あ、あ」とみっともない声が彼から漏れる。片足立ちになりつつもどうにか落ちるのだけは回避した綱吉は、まだ半分近く残っているカーテンにしがみつく格好で苦笑した。
「大丈夫? バジル君」
「あ、はい……」
 すみません、と尻すぼみに声を小さくして謝って、バジルは頭の上に乗っかったプリントを取る。赤色の×印が圧倒的に多いプリントは端が黄ばんでいて、年代を感じさせた。
 綱吉を手伝おうとして起き上がろうとしたのに、逆に迷惑をかけてしまった。その事に落ち込んでしょぼくれているのが伝わり、綱吉は苦笑を崩さないまま大丈夫だったから、と優しい口調で告げる。しかしこの、妙に年代がかった喋り方をする義理人情に厚い人物は納得しない様子で、いそいそと散らかしてしまった紙類を手早くひとつの山にすると、分別は後にして立ち上がった。今度は慎重に、綱吉の側へ歩み寄る。
「持ちます」
「ありがと」
 足元で両手を差し出され、綱吉は素直に彼へ、まだレールに取り付けられていないカーテンの布地を預けた。彼はそれを胸に抱え、片手で落とさぬよう押さえながら、片手は端を持ち綱吉の作業がし易いように配慮してくれる。
 心遣いに感謝しながら、綱吉はひとりでやっていた時の倍の速度でカーテンの設置を完成させた。
 洗濯機に放り込んだ後、排出された水は泥のようだったと揶揄した奈々の言葉に従えば、窓に面して風を受けるカーテンは随分と汚れていたことになる。実際見違えるほど綺麗になったカーテンは、心持ち揺れる仕草も軽く、まだ僅かに残る洗剤と太陽の匂いが心地よい。
「そっち、続きやろうか」
 これでよし、と椅子から降りた綱吉も、満足げにひとつ頷く。
 大掃除を始めたのは気まぐれだった。あまりに部屋に物が溢れ、汚くなっていたのをリボーンに指摘されたというのもある。彼も綱吉の部屋にハンモックを吊って寝起きしているから、部屋が汚いのはやはり気になるようだ。
 しかし命令しておいた当の本人は、いざ掃除が開始されるとさっさと何処かへとんずらしてしまった。不公平だと綱吉は唇を尖らせたものの、怒ったところでリボーンが戻ってくるわけでもない。ならば彼の居ない間に、彼に見つかって困るものも一度に処分してしまおうと画策していたところに手助けを申し出たのが、他ならぬバジルだった。
 彼もまた、沢田家に厄介になっている現状に少々心苦しさを感じていただけに、綱吉の手伝いをすることでそれが多少なりとも解消されるなら、という心理が働いてのこと。それに純粋に、綱吉を助けたいという思いがあったのも否めない。
 最初こそ渋ったものの、ひとりでやると途中で飽きてしまいかねない自分の性格を思い出し、綱吉は彼の申し出をありがたく受け取った。そして邪魔になる子供達を追い出し、奈々にも協力してもらって、カーテンに始まりベッドのシーツも全てひっくり返す勢いで掃除を始めたのだった。
 廊下には既にゴミとして分別された袋が二つほど、大きく膨らんで放置されている。更に増えそうな勢いに、綱吉は新しいゴミ袋を広げながら先ほどまでバジルが座っていた場所に足を向ける。張り付いてなかなか開かない袋の口に悪戦苦闘していると、間近で控えめな笑い声が響いた。
「やりましょうか?」
「え……と、大丈夫」
 年齢はそう大差ないはずなのに、落ち着いているからか自分よりも大人っぽいバジルの横顔に、僅かながら頬を染めた綱吉は彼の手を避けて意地になりつつ、袋の口を開こうと躍起になる。唾を指先につければ簡単なのにな、と強張った彼の肩を眺め、バジルはまあいいか、と嘆息した。
 綱吉の機嫌を損ねるつもりはない。それに彼が大丈夫だと言ったのだから、それを信じるのも自分の務めだと言い聞かせる。
 そして先ほどまでと同じように膝を折って、シャツの裾を踏まないように整えて床に腰を落ち着けたところで彼はふと、あることを思い出した。綱吉も漸く目的を果たせたようで、上下に揺らしてゴミ袋に空気を含ませて膨らませながら、「あ」と短く声をあげる。
「そういえば、さっき何か言ってなかったっけ?」
 言い放った途端、踵がバジルの積み上げたプリントの山に突っ込んで、足の裏が滑った。そのままドサッとベッドに倒れこんだ綱吉に、拍子抜けた顔のバジルがまたしても「大丈夫ですか」と声をかける。上から覗き込まれ、顔に影を落とした綱吉は最早笑う他無い。
 幸いにもベッドは、さっきまでスプリングごとベランダで干していたものをセットし直したばかり。まだカバーをかぶせていなかったものの、頭を硬い板にぶつけて怪我、とならなかったのは助かったと言える。自分の幸運さに感謝しつつ、綱吉はバジルに手を引かれて身体を起こした。
 足で、自分を転ばせた紙を蹴り上げる。空気抵抗を受けてそれは逆に床に張り付いた。
「ちぇ」
 唇を尖らせて舌打ちし、綱吉は照れ臭さを隠す意味も込めて頭を乱暴に掻き毟った。バジルがクスリと笑い、それから雑多にもので溢れかえっている本棚を振り返る。腰を屈めて手を伸ばした彼の後ろに迫って覗き込んだ綱吉は、引っ張り出されようとしている、棚の奥底に仕舞われていた瓶に気付いた。
 キラキラと、眩しいくらいに光を受けて輝くものが沢山、口の部分ぎりぎりまで詰め込まれている。ジャムか何かが入っていただろう瓶は大きめで、持つには両手を使う必要があった。バジルはそれを大事そうに抱え、綱吉に向き直る。
 ずっしりと重みを感じさせるそれは、長い年月見向きもされなかった影響で瓶の上部には埃が薄らと積もっている。だが中に収められているものの輝きまではくすんでいないようで、色とりどりの粒がぎっしりと、存在をアピールしていた。
「これ……へえ、こんなところにあったんだ」
 渡されたものを受け取り、綱吉はやや感極まった表情で頬を高潮させた。興奮した様子の瞳が瓶に吸い寄せられ、離れない。彼の心はどこか、バジルの知らない遠い過去へ飛んでいってしまったようだ。嬉しそうに綻んでいる彼の口元を見詰め、バジルは少しだけ寂しさを覚える。
 くるりと両手に掲げた瓶を回し、蓋に貼られたシールを小突いて綱吉は更に目を細めた。既に色褪せて霞んでしまっている図柄は判別不能だけれど、彼の目には貼られた当初の色鮮やかなものとして映っているに違いない。
「沢田殿……」
 折角懐かしい過去の気持ちをトリップさせている彼に声をかけるのは申し訳ない気もしたが、バジルとしても無視され続けるのは不満が募る。自分もまだまだ子供だと痛感しながら、彼は気弱に綱吉の肩を小突いた。
 意識が完全に飛んでいた綱吉が、ビクッと大袈裟なまでに身体を震わせて振り向く。その先にあるバジルの顔を見詰めて、僅かに間をおき、止まっていた息を吐き出した。
「あー……そっか。ごめん」
 いったい今、彼は自分に誰を重ねたのだろう。数回瞬きをする綱吉を間近に見て、バジルは複雑な気分になる。数年前から家光に話こそ聞いていたものの、直接顔を合わせるようになってからまだ一ヶ月と経たない綱吉の過去を、当然バジルは知る由も無い。
 その事実が、彼の胸をチクリと刺す。
 聞いても、良いのだろうか。
 胸に蟠りを抱えたまま逡巡している彼の顔を見て、大体の考えを察したのだろう。綱吉は重い瓶を床に下ろし、またしても蓋を小突いた。しっかりと封がされたそれは、ちょっとやそっとでは開きそうに無い。太目の針金で固定されたコルク栓は、そのまま綱吉が封じ込めた過去を示している。
「これ、さ。小学校……じゃないか。幼稚園の頃に仲が良かった子がくれたんだ」
 仲が良かったというよりも、綱吉が一方的に慕って付いて回っていただけなのだと、照れ臭そうに彼は笑った。相手は綱吉よりひとつかふたつ年上で、家も近所ではなかったし親同士が親しかったわけでもないから、どういう理由で知り合ったのかも今となっては定かではない。
 なにせ、全ての記憶がセピア色に染まるような、曖昧な記憶だ。相手の顔ももう思い出せない。名前も、声も。
 あんなにも大好きだったのに、浅薄な奴だといわれそうだけれど、幼少期の記憶など余程でない限り鮮明に覚えていられない。けれど確かにそんな人が居たのだと、それだけは自信を持って言えた。綱吉の手が、また愛おしげに瓶の表面を撫でる。指が積もった埃を拭い取った。
「その人が卒園する時、俺、寂しさからだろうな。すっごい泣いて大変だったんだって」
 家が近所ではなかった為、小学校の校区は別だった。もう会えないのかと思うとただ悲しくて、寂しくて、泣きじゃくる彼の声は卒園式の邪魔になるほどだったらしい。これは奈々の感想なので、やや大袈裟に脚色されてしまっている可能性もある。綱吉自身は、恥かしさから記憶を封印したのか、覚えていない。
 その際に渡されたのが、この瓶だった。
「あの人、こういうの大好きだったんだ。で、俺も少し分けてもらったりしてて。そしたら卒園式の時に全部あげるって」
 宝物だっただろうに。
 もしかしたら綱吉を泣き止ませるためだったかもしれない。今となっては真実を確かめる術もないが、綱吉は兎に角嬉しくてならなかったのだ。
 その後は接点もなく、日々過ぎ行く時間に追われいつの間にか瓶の存在自体も記憶から薄れていった。捨てるには思い出が詰まりすぎていたものは、棚の奥にしまいこんで目に付かない場所に隠され、切なさを伴う甘酸っぱさが脳裏に蘇る機会も減った。
 なにより友人を作るのが下手だった綱吉は、小学校にあがっても大量のビー玉を扱う機会すらなく、ただ眺めるばかり。そうこうしているうちに役に立たないものとして片付けられて、数年に一度の大掃除の際に取り出しては淡い過去に思いを馳せるだけに留まっていた。
 今も、また。
「大切なものなのですね」
「そうだね。でも、今思うとなんでこんなもの集めてたんだろう、って思う」
 実生活への必要性を持たず、飾っておくにも場所をとる。転がして、弾いて遊ぶにも綱吉は少し大きくなりすぎた。まだ小学生で、無邪気に草原を走り回れる年代だったなら別だろうが、今の綱吉には自制が働きすぎる。
 それになにより、思い出に囚われた品物を今更好き勝手に扱うのは気が引けた。
「でも、綺麗です」
 バジルが率直な感想を述べ、彼もまた手を伸ばして瓶に触れた。硝子の壁に阻まれて直接触れるのは叶わないが、指先で色とりどりの球体をなぞるように動かす。やがてそれは、動き止んでいた綱吉の手に落ちた。
 俯いていた綱吉が顔を上げる。バジルは穏やかに、己と綱吉の手を見詰めていた。
「沢田殿の思い出が、ここに、沢山詰まっているのが分かります」
 キラキラと輝く、硝子球。隙間無いくらいにみっちりと詰め込まれているそれは、きっと綱吉の楽しかった記憶を封じ込めている。この国で、両親に愛され、幸せに生きてきた彼の記憶がそのまま、詰まっている。
 羨ましいとさえ思うほどに、眩しい。
「だから、とても、綺麗、で……」
「バジル君?」
「え?」
 綱吉の声が近い。視線を伏していたバジルは、いつの間にか顔を寄せて自分を心配そうに覗き込んでいる綱吉に気付いて反射的に身構えた。しかし身体を引く前に、目尻から溢れ出て頬に零れたものに愕然と、呆然としてしまう。
 そんなつもりは全くなかったのに、何故、と。
 自分には無い輝きに満ちた過去を持つ綱吉が羨ましかったのか。
 思い出すだけで笑みが浮かぶ過去を持たない自分が悲しかったのか。
 綱吉に笑顔をもたらす、姿も見えない形さえ分からない誰かが妬ましかったのか。
 綱吉の中でまだ思い出にすら昇華されず、ただ今目の前にいるだけの存在である自分が悔しかったのか。
 或いは全てであり、或いはどれも違う。入り組んだ感情の袋小路の中で、彼は我知らず涙を流し感情を殺した。
 声を立てて泣いた記憶は、この数年、残されていない。
 綱吉が息を呑み、そして長い時間をかけてゆっくりと吐き出した。呆れられてしまう、嫌われてしまう。軽蔑されたに違いない、バジルは奥歯を噛んで右袖で頬に零れた涙、そしてまだ目尻に残る水を拭い取ろうと動く。けれどそれより早く、綱吉の腕が彼の両側に伸ばされた。
 触れる、空の色。優しく包み込む、陽だまりのような体温。
 首から背に回された両腕が、バジルを引き寄せて抱きしめる。決して乱暴でなく、強引でもなく、どこまでも深く広い温もりがバジルを包み込む。彼の右肩に顎を預けた綱吉が、瞳を細め、少し困った風にはにかんだ。
 呆然としたバジルが、綱吉の背中越しに自分の両手を見下ろす。広げられた白い掌には何も無い。それが悔しくて、彼はきつく瞼を閉ざして拳を握り締める。薄い皮膚に爪が食い込むのも構わずに。
「あのさ、バジル君」
 腕の中の存在が緊張で強張ったのを悟ったのだろう、綱吉が僅かに身じろいで呟いた。
「俺さ、こう見えて結構我が儘なんだよね。出会った人たちみんな、好きにならないと気がすまないっていうか、うん、みんな、大事。みんな、大好き」
 もちろん今一緒に戦ってくれている仲間も、友人も、そして出来るならば敵として立ちはだかっている者たちとも、いつか、機会があれば、許されるなら。語らいあう時間を、場所を持って、互いがいがみ合う意味の無いことを伝えたい。
 甘いと言われるのは分かっている。けれど綱吉は誰も憎みたくないし、誰も嫌いになりたくない。幼い頃は本気で友達百人を目指していたのだ、これでも。
 だからどんなに酷い目に遭おうと、遭わされようと、きっと綱吉は誰も恨まない。
「沢田殿……?」
「もちろん、君も。大事な友達、俺の」
 照れ隠しなのだろうか、綱吉はバジルの背中をバンバンと二回、広げた手で叩いた。
 慰められている。そうだと分かるのだけれど、バジルは即座に頭を切り替えることが出来なかった。ただ触れる体温が心地よく、意識しなくても染み込んで来る優しさに胸が熱くなる。
 風が吹いた。静かに、洗い立てのカーテンと戯れて去っていく。どこかで街頭宣伝の車が走っているのだろう、拡声器を通して処理された聞き取りにくい男性の声が響いて遠ざかっていった。
 そうして、どれくらいの間そうしていたのだろう。バジルが、甘えるように綱吉の首筋に頬を寄せて動いた。
 以前、バジルの師である家光がボンゴレ九代目の危機に際し、命を顧みないほどの特攻を仕掛け無事に脱出を果たしたという出来事があった。下手をすれば死んでいたかもしれない危険な状況に屈せず、諦めもせず突進していった背中と、戻ってきた傷だらけの姿に、バジルは強い疑問を強いられた。
 家光には家族があり、彼の帰りを待っているだろう事は知っていたから、ならば尚更、何故命を捨てるような真似が平然と出来るのか、と。
 真正面からぶつけられた疑問に、手当てを受けながら家光は少しだけ考え、綱吉と良く似た笑顔を彼に向けてこう言った。守ると決めたから、と。
 九代目も、奈々も、綱吉も、全部守る。だから死なない、死ぬつもりはない。誰かを命がけで守ったとしても、それが自分の死に直結すると決まったわけではない。むしろ死んででも、と思うことが間違いであり、死ぬ気で、けれど必ず生きて戻ると心に強く念じているからこそ、勝ち残り、生き残れるのだと。
 命を捨てるつもりはない。その上で、命懸けでも守りたいものが自分にはある。だから生きていけるし、生き残る道を探し出せる。
 そんなものは屁理屈だ、とこの時バジルは思った。そのまま言い返すと、家光は大きな手でバジルの頭を撫で回し、いつかそんな相手がお前にも見付かる、その時に分かれば良い、とだけ言った。
 見付かるだろうか、ずっと疑問だった。そのわだかまりが、ゆっくりと融けていく。
 見つけた。自分だけの太陽を。
 この人を守りたい。心の底から気持ちが溢れてくる。守りたい、命を賭してもなお、この人の輝きを失わせたくない。失いたくない。
 大切なものなど何も無かった。自分には、歩んできた道程を振り返るほどの余裕もなく、また振り返ったところでそこに広がるのは一面黒に塗りたくられた壁ばかりだと思っていた。協力し合える仲間はいても、背中を預け預けられる相手ではなかった。命を、心を、守りたいと真に願う相手はひとりもいなかった。
 けれど今は違う。見つけた、気付いた。
 解った、あの時家光の言ったことばの意味が。
 この腕を、ぬくもりを、優しさを。どこまでも広く深い、空を名乗るに相応しい人を。
 瓶の中に閉じ込められた小さな輝きなどではなく、空に輝き地上を照らす太陽の人を。
「沢田殿」
「ん、なに?」
 勢い任せにバジルを抱きしめはしたものの、そろそろこの体勢は恥かしいな、と思い始めていた綱吉は、彼の呼びかけにやや半端に裏返った声で返した。首筋に彼の吐く息が降りかかるからか、少しだけ緊張している。
 背中に回されたバジルの手が、ぎゅっと彼を抱きしめた。息が詰まるほどではないけれど、今誰かが入ってきたら誤解を受けそうな状態に綱吉の顔は益々赤くなる。
「有難う、御座います」
 果たしてその礼がどの部分にかかるのか、自分でも分からない。綱吉も若干きょとんとした顔でゆっくり離れていくバジルを見詰める。けれど礼を言われるのは誰だって悪い気はしない。間が開いてしまったけれど、すぐに綱吉は破顔した。
 その笑顔が嬉しくて、バジルも自然と顔が綻ぶ。瞳を細め、今にも泣き出しそうな心のままに。
「あ、そうだ。ねえ、何色がいい?」
 紙ごみが散らばる床を手で掃いて場所を広げ、綱吉が座ったまま少し後ろへ下がった。表情を引き締めたバジルが、何のことか解らずに首を捻るのを他所に、綱吉は十年来封がされたままの瓶を開けようと腕に力を込めた。
 錆び付きこそしていないが、コルク栓と接している部分が若干溶けて張り付いてしまっている。それを強引に、力任せに剥いで蓋を外そうとする綱吉は、奥歯を噛み締めてこめかみに血管まで浮き上がっている。突然の彼の行動に驚きが隠せないバジルは、手助けをしようにも瓶の底近くを抑える他できることがなく、ただおろおろと正座のまま綱吉を見守る。
 やがて、太めの針金が歪んで、固定していた金具が弾ける音がした。
 瞬間、勢い余った瓶が横倒しになる。バジルが口と目を大きく開けて、しまったという顔をするが既に遅い。綱吉の手の中には金具ごと外された蓋が残り、勢い余って綱吉の膝元に倒れこんだバジルの手には、中身が半分以下になった瓶が残された。
 コロコロと、無数のビー玉が床を転がっていく。
「あちゃー」
 失敗したと綱吉も手で顔を覆ったが全て後の祭り。仕方なしにふたりの間に残っている分だけを先に瓶に戻し、後は掃除をするついでに見つけたものから瓶に戻す、ということになった。
 中身が三分の二程度に減ったガラス瓶は綱吉の机の上に。カーテン越しに差し込む光を受けて、鮮やかな色の影を飛ばしている。
「ところで、沢田殿。さっきは」
「うん、あのさ。バジル君は、何色がいい?」
 不要な紙を集めて端を揃え、ひとまとめにして紐で縛りつける作業に入っていた綱吉が、中断していた会話を取り戻して明るい声を出した。やはり意味が分からないバジルが首を傾げるので、鋏で結んだ紐の端を切った後、机を指差して笑う。
 あれ、と示されたのは先ほどの瓶、もしくは中身のビー玉。
 赤、青、緑、黄色、他にも模様が入ったりした様々な硝子球。色とはそれのことだろうか。
「え、と……」
 ただそれが分かったところで、綱吉の意図は掴みきれない。察しの悪い彼を咎めることはせず、綱吉は作業を続けながらうーん、と小さく唸った。
「だから、さ。あげる、君の好きな色」
「ですが、あれは大事なものでは」
 あのビー玉にまつわる思い出は先ほど聞かされたばかりだ。だから咄嗟に綱吉の真意が汲み取れず、バジルは拒否の体勢に入ろうとする。
 綱吉は仕方が無いな、と肩を竦めた。
「うん。だから、君にあげる」
 もちろん全部ではない、一部だけではあるけれど、と釘を刺して。綱吉は自分の思い出を、バジルに贈ると言い続ける。
 きっと最初にこれを綱吉に贈ってくれた相手も、ずっと棚の奥に隠されているよりは、喜んでくれるに違いない。綱吉と誰かの記憶を共有するものとして、少しずつ散らばっていく、硝子球。
 太陽を閉じ込めて、淡く、甘く、輝く。
「良いのですか?」
「もう、しつこい!」
 最終的にはまだ渋るバジルに痺れを切らした綱吉が、ずかずかと机まで戻って瓶を手に彼の前に詰め寄った。呆気に取られた彼は、じゃあ、と遠慮がちに瓶を受け取り、少しの間悩んでからガラス瓶の口に指を入れた。
 ひとつ、吟味して抜き取り掌に転がす。
 光を受けてオレンジに霞んだ影が指先を包んだ。
「それだけでいいの?」
「はい。十分すぎるくらいです」
 心の底から微笑んで、バジルはそれを両手で大事に包み込んだ。
 キラキラ光る硝子球、太陽を閉じ込めた小さなビー玉。
 心に宿る炎。貴方の炎。
「大切にします」
「ありがとう」
 胸に引き寄せ、目を閉じる。綱吉の嬉しそうな声に、気持ちが軽くなる。
 掌に閉じ込めた太陽は、ほんの少し、暖かかった。