夏休みも残り僅かになった。
この時期になると、毎年の事で成長していないな、と思う宿題の山を前に溜息が漏れるのだけれど、今年は珍しくそれが無かった。
中学にあがり、思いもがけず色々なことが起きて、気がつけば自分にも親友と呼べる相手が複数人出来た。彼らと一日中、無条件に遊べるのが嬉しくて、だから毎年夏休みの終わり頃に必死にならざるを得ない宿題も、今年ばかりは違っていた。七月中に全部、終わらせた。
彼らが手伝ってくれた。山本は、自分同様にあまり勉強が得意ではないけれど、秀才の獄寺が茶々を入れつつなにかと世話を焼いてくれたお陰で、各自の個性が生きる自由研究(中学生にもなってそれは無いだろう、と思ったけれど)以外は全て片付いていた。
我ながら奇跡だと思う。そんな事を言ったら、山本に大袈裟だなと笑われた。
海に行き、花火をし、童心に帰って山に虫取りにも行った。電車に乗って少し遠くへも遊びに行った。映画に、カラオケに、買い物に、男同士でこんなにもあちこちに行って、色々な経験をしたのは生まれて初めてで、全てが新鮮で楽しかった。
その夏休みが終わる。
中学一年の夏は、実に呆気なく、あっという間だった。
ぼんやりと庭先で、眩しく日差しを地上に注いでいる太陽を見上げ、思う。
ああ、きっとこんなにも楽しい時間は二度と、永遠に来ないのではないか。カレンダーの×印が増えていくのを見て、そんな気分に陥る。二度と戻れないからこそ、今を楽しまなければならない。どこかの青春ソングにあったな、少年よ旅せよ、だったか。
旅はせずとも、冒険は向こう側から転がってくるらしい。海で高校生と喧嘩をしたり、風紀委員長まで巻き込んで夏祭りでの大立ち回り。大人しく、問題を起こさないで過ごしてくださいという、終業式で聞いた校長の言葉が実に空々しい記憶として蘇る。
こんな予定は無かったのにな、と思いつつも、楽しかったので後悔はしていない。来年も同じように、わいわいと騒がしく、驚きに溢れる日々を過ごせたらいいのに、そう考える。
と同時に、楽しみだと思っていると同じくらいに、不安を抱いている自分を意識させられる。これが最後、今年の夏は夢幻、そんな風に、自虐的に考えてしまっている自分がいる。
元々ひとりで過ごす夏に慣れすぎていた。泳げないから海に行っても楽しくなかったし、社交的でなかったからプールに誘ってくれる相手もいなかった。父親が居た頃は、何かと理由をつけて連れ出してくれたりもしたけれど、あの男の背中はもう家の中に面影すら残って居ない。年齢的に母親とお出かけ、を楽しめるほど子供でもなくて、足掻いても巡りくる夏を持て余しひとり過ごすのは、正直億劫だったのだ。
それが、今年からいきなり、目の前が輝いて開けた。今まで一度も経験したことのない出来事の連続、騒がしさ、慌しさ。不慣れなままに、乗り遅れまいと懸命に走り続け、自分はちゃんとやれているだろうか、不自然ではないだろうかと思い悩むのさえ忘れていた。
我ながら、卑屈な性格だとおかしくなる。
夏が終わる。不意にその現実を思い出し、立ち止まって振り返った先に、眩しいばかりの思い出と引き換えにした何かを見つけられなくて、困惑が止まない。
じりじりと庭先に照りつける日差し。日中は気温も上がりまだまだ蒸し暑いけれど、明け方や日が完全に暮れてしまうと、お盆を過ぎる前には無かった僅かな空気の涼みが感じられるようになっていた。相変わらず夕刻を過ぎても外は明るいけれど、それもほんの少しずつ、闇が押し迫る感じになっている気がする。
夏が、終わる。
「ツっくーん、ちょっとお願いー」
台所から母の呼ぶ声が聞こえ、顔を上げる。縁側から垂らしていた両足を引き上げ、膝をついて後ろに向き直りながら身体を起こした。
「なにー?」
彼女に負けぬ声で、用事の詳細を問う。どたばたと走り回る足音は、いつの間にか居付いてしまった子供達が遊びまわっているのだろう。彼らの相手を任せられるのだろうか、それはちょっと遠慮したいな、などと思考を巡らせて、返って来ない母の声に首を傾げつつ、素足で台所へ向かう。
日が差し込まないものの、外の熱波で温められたフローリングの床は冷たさと無縁。足の裏の汗で張り付く感覚に眉を顰め、母を捜して右往左往。漸く風呂場で見つけた時には裸にされたランボが、いやいやと彼女の腕に抱かれて必死の形相で暴れていた。
「ツッ君、ごめんね。ちょっとお遣い頼まれてくれないかな?」
どうやら泥だらけで外から帰って来たランボを風呂に入れようとして、抵抗されて梃子摺っているらしい。額に汗を浮かべている彼女に引きつった笑いを向けていると、息子の心情など察するのも面倒なのか、彼女はさっさとランボに向かってシャワーのコックを捻った。冷水が噴き出し、目に入ったらしいランボの可愛そうな悲鳴がこだまする。
「それで、なに?」
「えっとね、三丁目の石川さんに、町内会の会費持っていって欲しいの」
封筒に入れて台所の机の上に置いてあるから、と早口に用件を告げる。それっきり彼女は自分の息子よりずっと手のかかる五歳児にとっかかってしまった。
台所、封筒。そういえばさっき、歩き回っているときに見た気がする。分かった、とだけ返事をして他に用事もないので、そのまま踵を返した。背中に、お願いね、と声がかかる。返事はしないでおいた。
確かにテーブルには、作りかけの夕食の載った皿やらなにやらの間に紛れる格好で茶封筒が置かれていた。灯る照明に透かすと、中に入っている金額が読み取れた。頼まれた届け先の住所を思い出すのには苦労したけれど、過去に何度か訪ねた事があるのを思い出してからは道順も鮮やかに蘇った。
「行って来るよー」
封筒をズボンの後ろポケットに押し込み、玄関まで出てから一際大きな声で叫ぶ。しかし水音に邪魔されているのか、今度は彼女の返事が無かった。なんだかな、と溜息を吐いて履き慣れたサンダルに足を押し込み、鍵のかかっていないドアを開けて外に出る。
日差しは変わらずに頭上にあって、眩しい。
思わず掌を持ち上げて庇にして額に影を作り、直射日光を避ける。勝手に閉まっていくドアの音に背中を押され、じわりと噴き出した汗を拭いもせずに道に出た。
なんだ、まだ夏じゃないか。耳を澄ませばどこかで蝉の鳴く声も聞こえる。窓を開け放っている真向かいの家からは、テレビの音が大きく響いていた。軒先には、真っ白いタオルが幾つも並んで干されている。
大丈夫、まだ夏は終わっていない。だから、大丈夫。
何をそんなに、不安に思っているのか、自分自身ですらよく分からないままに、その単語を繰り返し心の中で呟く。心配ない、問題ない。平気、大丈夫。たまに自分にしか聞こえない音量で声にも出して呟き、照り返しのきついアスファルトの道を進む。サンダルからむき出しになっている親指が熱に近く、焦げそうだった。
町内会長の石川さんは不在で、代わりに奥さんに封筒を渡す。お手伝い偉いわねと褒められて、照れ臭さに頭を下げると返事もせずに飛び出してしまった。そんな事を言われるほど自分は頼りなく、幼く見えるのだろうか。確かに、同年代の男子に比べて背も低く、体重も軽く、肉付きも悪いのは否定できない現実であるけれど。
準備運動もなくいきなり走ったので、簡単に息が切れてしまう。角をいくつか曲がってもう後ろに誰も見えないと確信が持てるまでそれでも立ち止まらず、電信柱の向こうに大きな影を見つけてそこに至って、漸く足が止まった。前屈姿勢で膝に手を置き、乱れてしまった呼吸を整える。
胸を膨らませて息を吸い、思い切り吐き出して、額を手首で拭う。湿って肌同士が張り付くのは気持ち悪かったが、ハンカチすら持って出てこなかった自分が悪いので誰も恨めない。
時間をかけて心臓を落ち着かせて、なんとか身体を縦に真っ直ぐ伸ばした先、足元の影の主を確かめようと背後を振り返ると、そこにはこの夏、皆と祭りを楽しんだあの神社があった。とはいえ、数十段の石段を登らなければ、境内にさえ到達できないのだけれど。
ざらついた表面の鳥居が聳えている。電信柱かと思っていたのは間違いだった。
石段の両側を埋める深い木立の隙間から、涼しい風が吹き込んでくる。煽られる前髪を見上げ、身体の中から静まっていくのを感じ、目を閉じた。疲れているはずなのに、ふとした気まぐれが胸の奥から沸き起こってきて、気がつけば爪先は石段を、既に五段ほど登りだしていた。
引き返すには中途半端すぎて、結局舌なめずりをして唇を濡らし、頂上を目指す。両側を等間隔で並ぶ灯篭に火は灯らず、あの夜でも昼の如く明るかった夏祭りの記憶と風景は重ならない。すれ違う人の影もなく、あるのはこんもりと深い林と、そこに鳴く蝉の声。
浮き上がった汗を拭い、拭ってはまた噴き出す汗に辟易しつつ、徐々に苦しくなる呼吸に無理をしないよう注意深く、石段に足を乗せて上へ向かう。これはいったい何の苦行だろうか、と自分の行動を心の中で笑い飛ばし、ただ石段の切れ目を睨みつけた。
ゴール地点に着いたところで、何かが待ちうけているわけではない。しかも登った後は、降りなければならないのだ。本当、何をやっているのだろう。最早汗を拭うのさえ億劫になりながら、残り半分を切った石段をゆっくりと登り詰め、漸く最後の段に足を乗せたときは、全身の力が抜けて膝から崩れ落ちそうだった。
蝉の声が近い。
熱の篭った息を吐き出し、顔を上げる。目の細かい砂と砂利に覆われた境内に、道を成して敷き詰められた石がまるで川の様だ。行き着く先は古ぼけた社殿で、そこまでの距離もまた遠い。
こんなにも広い神社だっただろうか。
幼い頃から暮らしている町で、自分が生まれるよりずっと昔からここにあったのだから、いきなり狭くなったり広くなったりするわけないのだけれど、感覚的に、とても閑散として広大な敷地に見えてしまった。
膝を伸ばして、改めて境内を見詰める。人気の無い場所はとても静かで、空気が澄んでいた。思わずした深呼吸は心地よく、数回繰り返すとあっさり心臓の拍動は平常値に戻った。気温も、石段の下にある自分が暮らす世界より数度低い気がする。
別天地、そんな単語が頭を過ぎった。
足を踏み込みと、薄いサンダルの底に小石の感触が伝わって足裏が刺激される。敢えて石の道を行かず、指の間に細かい砂が潜り込むのを覚悟で砂利の上を進むことにした。進むたびに汗が引き、代わりに胸が高鳴っていく。
訪れるのは初めてでないのに、そう思えないのは何故だろう。ここが神域だからだろうか。竹が生い茂り、風が吹くたびに笹が揺れて頭上にざわめきが走る。地表より空が近いはずなのに、ここは日差しが遠い。遮られた光は木漏れ日となって柔らかく、優しく自分を包み込む。
奥社殿は祭りの時以外は立ち入りが禁止されていて入れそうになかったけれど、その手前の池には石橋がかかり、中を覗き込むと清水に泳ぐ鯉の背中が見えた。餌がもらえると思ったのだろうか、人の姿を認めたそれらは橋の袂に集まって水面に口を突き出しては去っていく。
ごめんね、と小さく呟いて謝り、苔むした岩肌を眺めていると、いつの間にか汗は完全に遠ざかっていた。
夏祭りの夜は、この辺りにまで出店が並び、非常に騒々しかった。しかしそういう世俗の喧騒が遠ざかった今、神社は本当の意味で神域に戻り、静謐に包まれている。穏やかに、安らかに、ただ流れ行く時を見守っている。
身近にこんなにも心鎮まれる場所があったなんて。周囲を眺めていると自然と口が開いてしまい、何度か労して閉じた。その都度、誰かに見られているわけでもないのに照れ臭さが先に立って鼻の下を指で擦って誤魔化す。石橋の赤い欄干に腰を凭れさせ、見上げた空は木立に遮られてとても遠かった。
手を伸ばす。届きそうな場所に緑が見えるのに、指先すら掠めずに風は通り過ぎていく。握り締めた手の中に残るのは、空虚。光の欠片さえ捕まえられずに、ただ中空を掻く指先が悲しい。
蝉の声が耳に張り付いて離れない。ジジジ、と近くを飛び過ぎる羽音が唐突に途切れた。
閉じかけた瞼を開き、頭上を見やる。そこに夏の風物詩たる生き物の姿はなく、しかしもがき足掻く音は休まらない。視線を巡らせていると、素足の指先に風が触れた。つられて落とした視線に、石の上で転がり、それでもなお再び飛ぼうとする蝉の姿があった。
じたばたと、悪あがきとしか言いようが無いほどに醜態を晒して。
「っ!」
思わず足を引いてしまい、腰が硬い欄干にぶつかる。それ以上下がれないと気付いても、無意識に後ろへと逃れようとしている自分に青ざめて、唇が震えた。
虫が怖いわけではない。少し前、皆と捕まえにいったではないか。平然と、木に止まる蝉を手掴みにしていたのに。
今更、どうして急に。
持ち上げた手の指が顎を、そして口元を覆い隠す。一瞬喉元を襲った吐き気に眩暈がして、じわっと目尻に涙が浮かぶ。蝉の鳴き声が頭の中で反響し、冷静な思考が隅に追いやられる。逃げ出したい気持ちが足を竦ませて、逆に動けない。
爪先を掠めようとした死にかけの蝉に怯え、反射的に右足を持ち上げて避ける。腹を上に向けたまま、なおも羽ばたこうと喘ぐ様はなんと惨めだろう。
七年の時を地中で過ごし、たった七日しか生きられない蝉。その最期の瞬間までも、もがき、苦しみ、醜態を晒してなお、何故そうまでして空に近づこうと願うのか。
明日は無い身と知っているからこそ、求めて。
切望して。
「十代目?」
息が苦しい。心が苦しい。泣き叫びたいのに声が出なくて、ただ苦しいばかりの今に絶望を抱きかけていた刹那。不意に聞こえた声に弾かれたように顔を挙げ、振り返る。木立並ぶ日陰からそっと姿を現す、まるで覡のような立ち姿。
日差しを受け一層鮮やかに輝く、白銀の。
「ごくでら……くっ」
声が、喉に詰まって上手く吐き出せない。息を喘がせ、欄干に身体を擦りつけながら蝉の声にともすれば紛れて消えてしまいそうな自分の心音を懸命に探す。
これは、幻か。
「十代目、どうかなされたのですか?」
駆け寄る彼はチャコールグレーのTシャツに白無地のシャツを重ね着して、いつものようにシルバーのリングやらチェーンで飾っている。Tシャツにはでかでかと何かのロゴが記されていたけれど、それを読み取る気力はもう残っていなかった。彼はスニーカーで砂利を蹴り飛ばし、大股に駆け寄ってくる。
彼が胸に抱いた白磁色の袋は、神社のある山を挟んで反対側の街で有名なパン屋のものだ。奈々も好きで、たまに遠出してまで買って来るので知っている。そういえば彼にあのパン屋を教えたのは自分だった、釜で焼いたパンが食べたいと彼が言っていたのを聞いて、だったら、と道案内も買って出て教えた日がとても遠い過去のように思える。
「十代目!」
蝉の、声が。
聞こえない。
無心に、彼に飛びついていた。欄干から飛び出すように、駆け寄ってくる彼に向かって身体を捻って、その胸に、折角買って来たであろうパンが袋から飛び出してしまうのも厭わず、ただ、彼の体温に安堵していた。呼吸が戻ってくる、新鮮な空気が肺に広がり、舌を噛みそうになりながら複数回に分けて吐きだす。しがみついた獄寺のシャツに、薄らと汗が浮かんでいた。
その匂いも、体温も、蒸し暑い晩夏にはそれなりに酷であるもののはずなのに、今の自分にはとても安心できる、確たるものに思えてならなかった。
「じゅ……うだ、いめ?」
間近で獄寺の声。僅かに震えて呂律が回っていない。呼ばれてやっと、頭から彼の胸に突進していた事実を思い出す。けれどすぐに離れるにはあまりにも名残惜しくて、苦しくて、そのまま彼の首を絞めない程度に、彼のシャツを握る力を緩めた。額を押し付けると、肌越しに彼の心音を感じ取れる。
とくん、とくん、とほんの少し早くなっている心臓の音。血が全身を巡り、生きているのだと教えてくれる、優しい音色。
息を吐く。涙はいつの間にか乾いていた。
揺れた肩に獄寺の手が触れる。やや緊張した仕草で一瞬だけ置かれた後、戸惑いを残したまま降りてきた指先が角張った骨を捕まえたようだ。彼が抱いていたパンは無事だろうか、今頃思い出して狭い視界で瞳を動かすと、辛うじて、反対側の手が大事そうに紙袋を持っている姿が見えた。
安堵が胸を支配する。
「どうか……しましたか?」
蝉の声が遠い。あの橋の上で暴れていた蝉はどうなっただろう。気になるのに、その行く末を確かめるのが怖かった。
控えめの獄寺の問いかけに、緩く首を振る。なんでもない、と言ったとしても彼はきっと信じてはくれないだろう。だから何も言わないまま、彼のシャツに刻む皺をただ増やす。
あの蝉のように、明日、明後日、来週、来月、来年――来る時を持たず、過ぎ行きる時の中で足掻くものが自分と重なって、恐かった。来年もまた来よう、海を見ながら誓った約束はなんに保障も無い。飽きられ、見捨てられ、置き去りにされる自分を後ろに見てしまって、そうなる現実がただひたすら、怖ろしかった。
「……っ」
夏の日差しに気持ちが揺らぐ。まだ暑さを忘れない太陽が容赦なく照りつける地上で、孤独に這いずり回る蟻を思う。
「…………」
獄寺は何も言わなかった。ただ感情の吐き出す場所を失った自分を受け止めて、静かに、神域を汚さぬよう、穏やかに。
互いの熱に酔いそうで、頭を振り彼のシャツを引く。自分はなんと小賢しく愚かなのだろう、分かっていながら、知っていながら、彼を利用する自分に目を閉じる。
「十代目?」
引き寄せた獄寺の声に吸い寄せられる。心の中でごめんね、と謝り、それでも求めてしまう熱に浮かされる。ひとりでいるのが恐くて、他人に甘える自分が嫌で、縋ってしまう手をこの瞬間、振り解かれても構わなかったのに。
彼の優しさを見越して、打算的に動いて。
肩に回されていた手が、背中に滑り落ちていく。腰に肘を回した彼に上半身を預けると、いとも簡単に彼の胸に収まってしまえる自分の小ささに、笑いがこみ上げてきた。
「変ですよ、十代目」
背中越しに聞こえる獄寺の声に、そうかな、と曖昧に返して空を見上げる。
抱きしめてくれる腕は温かく、力強く、少しだけ煙草の匂いがする。木漏れ日を受けてキラキラ輝く水面のように、彼の髪の毛もまた光を透かし眩しく見えた。
「日差しに酔ったのかもしれない」
だから。君の部屋で、少し、休ませて。
耳元で囁いた言葉に獄寺は硬直し、僅かに力の入った腕が、間をおいて苦しいまでに腰骨を押さえつけてきた。聞こえる心音が目に見えて速くなり、薄く浮かべた笑みは果たして彼に気付かれてしまっただろうか。
あざとい方法でしか君を繋ぎとめられない自分を、どうか嫌いにならないで。
蝉の声が頭の中を駆け巡る。それは夏の終わり、最後に空を求める断末魔。
君に、聞こえるだろうか。
首筋を玉になった汗が伝う。答えの代わりに与えられた口付けは、乾いていて何の味もしなかった。